スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

リコー杯女流王座戦&無の有意味性

2017-11-22 19:32:23 | 将棋
 静岡で指された第7期女流王座戦五番勝負第三局。
 里見香奈女流王座の先手で5筋位取り中飛車。加藤桃子女王は超速銀で対応。6筋で銀が向かい合う形から先手が新しい仕掛けを敢行。この成否は僕には分かりませんが,その後で後手が一方的に受けに回らなければならない対応をし,駒得にはなったものの勝ちにくい展開になったという印象です。
                                     
 先手が桂馬を打った局面。ここで4四の地点が受からなくなってしまったので☖3五歩と催促しました。もっともこれには☗4四桂と跳ねることになりますから,攻め方を限定したという意味はありそうです。
 ここでは受けに回る手もあったかと思いますが☖4八歩☗同金☖2四桂で攻め合いを目指しました。ただ☗4七銀と受けておくのが冷静な対応で,先手は桂馬を渡すことができます。
 そこで☖7五角と打ちましたが構わず☗3二桂成☖同金☗4四銀打と攻め込まれ,角を打ったからには☖同角☗同銀☖6六角でなければいけないのですがそれは無理とみて☖4二歩と受けることになりました。
                                     
 ここから先手は☗6七金と上がって7五の角を取ることに成功。安全に勝つことを最大の目標にするような指し回しになったので手数は長引きましたが,後手にはあまりいいところがありませんでした。
 里見王座が勝って1勝2敗。第四局は来月8日です。

 おそらくゲーテJohann Wolfgang von Goetheはある実体substantiaと別の実体が存在するなら,それらは実在的に区別distinguereされなければならないということを理解しています。ただ,スピノザの哲学ではこれは実在的な意味を有しているわけではありません。第一部定理一四に示されているように,存在する実体はDeusだけなので,実在的な意味においてある実体と別の実体が区別されるというケースは生じ得ないからです。ただ,第一部定義六から分かるように,神Deumの本性essentiamは無限に多くの属性infinitis attributisによって構成されます。したがって,実在的区別という区別自体が実在的な意味を有さないわけではありません。ある属性と別の属性,たとえば延長の属性Extensionis attributumと思惟の属性Cogitationis attributumは実在的に区別されるからです。
 なので,動物実体とか植物実体というのは形而上学的な意味しか有し得ませんが,動物属性とか植物属性というなら,スピノザの哲学に照合する限りではこれを実在的に解し得るということはできます。ただし,実際にゲーテがそう解しているとは僕は考えません。原型とメタモルフォーゼの内的法則というのは,あくまでも全自然,といっても延長の属性にのみ妥当する全自然のことではないかと僕は推測しますが,その限りにおいて無限に多くのものすなわち物体corpusを生成するというのが,この点についてゲーテが実在的に解しているところでしょう。象徴的植物という原型とそのメタモルフォーゼによって無限に多くの植物が生起するということを,実在的に考えているわけではないと思います。
 ではこのような考え方が,自然学全般においては有意味ではあるけれども,植物学に限定した場合には無意味に帰してしまうのかといえば,僕は必ずしもそうは考えないのです。植物実体あるいは植物の原型としての象徴的植物というのは,実在的にいえば有ではありません。すなわち無です。いい換えれば実在性realitasを有し得る何かではありません。しかし僕たちが何事かを論証していくために,実在的には無であるものを概念notioとして利用していくということは,有意味であると僕は考えます。そしてこの場合には,ゲーテが植物学を探求していくために,それが大いに有意味であった,あるいは大きな役割を果たし得たと思うのです。
コメント
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