スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

周防国府杯争奪戦&神による創造

2017-11-06 19:05:53 | 競輪
 昨日の防府記念の決勝。並びは和田真久留‐和田健太郎の南関東,稲毛‐松岡‐村上の近畿,太田‐松浦の四国中国で新山と猪俣は単騎。
 猪俣がスタートを取って前受け。2番手に新山,3番手に太田,5番手に和田真久留,7番手に稲毛で周回。残り3周のホームで後方の稲毛を警戒していた和田真久留が先に動き,猪俣を叩いて前に。これを追っていった稲毛がホームで叩くとそのまま全開で駆けていきました。4番手に和田真久留,6番手に猪俣,7番手が太田,最後尾に新山という一列棒状で残り2周のホームからバックを通過し打鐘。途中で太田が猪俣の内を掬おうとしたものの猪俣が阻止したので隊列に変化はなし。ホームに入る手前から新山が発進。バックに入って松岡が番手捲りを敢行したものの新山のスピードが上回って先頭に。新山の動きを追った和田真久留が直線で新山を差して優勝。松岡の後ろから直線は和田真久留の外を伸びた村上も新山を差して4分の3車身差で2着。新山は8分の1車輪差で3着。
 優勝した神奈川の和田真久留選手は4月の伊東温泉のFⅠ以来の優勝。デビューから4年11ヵ月,S級昇級からは2年11ヵ月で記念競輪は初優勝。9月の青森記念で落車して鎖骨を折り,今回が復帰初戦でした。このレースは稲毛の先行は予想されたところ。どういう先行になるかは分からなかったのですが,残り2周半で前に出ての捨て身の先行になりました。これもあり得る展開ではあり,早めに動いて4番手を確保できたのが勝因に。新山の動きを引き付けてから捲って出ようとする松岡の意図は分かりますが,結果的にいえば出ていくタイミングが遅すぎたのが,展開的には有利だった近畿勢から優勝者を出せなかった一因になったと思います。

 神Deusの本性naturaの必然性necessitasによって人間をはじめとするすべてのものおよびその観念ideaが生起するということを,神による創造といってもいいのですが,神自身が神の本性の必然性によって自己原因causa suiとして存在するのですから,この場合には神は神自身を創造するcreareともいわなければならないことになります。こうした理由から,僕は神が万物を創造するといういい方を,スピノザの哲学に対しては好みませんし,適切性を欠くと考えています。いい換えれば神は何かを創造するのではなく,神も含めたすべてのものは,神の本性の必然性によって必然的にnecessario存在すると解する方が適切であると考えます。第一部定理二九とか第一部定理三三,また第一部定理三五などは,こうした解釈の下に理解した方が,スピノザの哲学の真意を正しく汲み取れるだろうと考えるからです。それでも神が神自身を含めたすべてのものを創造するといいたいのであれば,そういういい方を許容しないというわけではないですが,少なくとも神はあれを創造しこれを創造しないということを神自身の意志voluntasによっては決定するdeterminareことができないということは踏まえておかなければなりません。すべてのものは必然的に存在するかそうでなければ存在することが不可能であるかのどちらかなのであって,神の決意decretumによって存在したり存在しなかったりするということは,スピノザの哲学でははっきりと否定されなければならないからです。
                                 
 ウェルテルが模していると思われる神による天地創造は,これとは違っています。
 旧約聖書の創世記における神の天地創造は,僕の解釈だとふたつのパターンに分類できます。ひとつは神が無から有esseを創造するというパターンで,もうひとつは神が混沌から秩序ordoを創造するというパターンです。創世記の天地創造のテクストは単一ではないので,どちらのパターンとして読解することも誤りではないと僕には思えます。ただ,いずれの場合にも,そこには神の決意が必要となっているのであり,そうした決意が神の本性に属するということが前提されていると考えます。後者の場合だと神が決意したような秩序が構成されます。前者の場合には決意の介在はそれ自体で不可欠でしょう。
コメント
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