昨晩の第44回北海道2歳優駿。
好発を決めたディーエスソアラーがそのまま逃げました。1馬身差の2番手にサザンヴィグラス。ここから概ね半馬身くらいの間隔でヤマノファイト,ハッピーグリン,マイネルアンファン,ムルシェラゴの順で追走。ここから1馬身半くらいでドンフォルティス。1馬身差でそれをマークするようにフィールシュパース。半馬身差の最後尾がナナヒカリという隊列に。スローペースでした。
3コーナーを回るとディーエスソアラーは一杯でサザンヴィグラスが先頭に。その外にヤマノファイトで追い上げてきたドンフォルティスがコーナーでは3番手。さらにこれをマークしていたフィールシュパースも大外から追い上げ開始。直線に入るとヤマノファイトは脱落して残る3頭の争いに。ドンフォルティスがサザンヴィグラスを交わして先頭に立つとそのまま抜け出して快勝。大外のフィールシュパースもサザンヴィグラスを捕えて1馬身半差で2着。力尽きたサザンヴィグラスが1馬身半差で3着。
優勝したドンフォルティスは新馬は3着でしたが2戦目で未勝利を勝ちあがると前走の特別も連勝。いずれも3馬身の差をつけていましたので能力は高く,優勝候補の1頭。このレースもそうでしたが後方に控えて末脚を生かすのが現状は合っているようです。ただ,ダートの競馬は自らレースを作れないタイプの馬がどこかで壁に当たるというケースはままあることなので,今後に向けての課題ということになるとそういう部分になってくるのではないかという気がします。母の父にフジキセキで祖母の父にエルコンドルパサー。Fortisはラテン語で勇敢な。『エチカ』では精神の強さと訳されているラテン語がfortitudoです。
騎乗した武豊騎手は第29回,30回,35回に続く9年ぶりの北海道2歳優駿4勝目。管理している牧浦充徳調教師は開業から約8年4ヶ月で重賞初勝利。
第二部定理七系は,神Deiの本性naturaの必然性necessitasから知性intellectusの外に形相的にformaliter生じる事柄のすべてが,神のうちに客観的にobjectiveすなわち観念idemとして生じるということを述べています。したがって神が存在するのであれば,神自身のうちに神の観念Dei ideaが存在することになります。なおかつこの系の意味は,神のうちにある観念はすべて十全adaequatumであるということなのですから,それは十全な観念idea adaequataです。したがって神が神自身の本性の必然性を知らないということはあり得ないことになります。いい換えれば,神は神自身が何をなし得るのかということを知らないということはあり得ないことになります。
このようにして,どちらのパターンで考えても,神が全能であるなら神は全知でなければなりません。ただし,スピノザの哲学の範疇でこのことを考える場合には,次の点に注意しておかなければなりません。
第一部定理三四は,神の力potentiaと神の本性essentiaが同一であるということを示しています。実はスピノザは神が全能であるといういい方はあまりしません。おそらくそれは,全能が神の代名詞として用いられる場合には,キリスト教的な意味合いが滲み出てしまうからではないかと思います。しかしもしもスピノザの哲学において神が全能であるということがどういうことであるのかを示す定理Propositioがあるなら,僕はこの定理であると考えています。そしてその考え方に従って解するなら,神が全能であるということは,神の本性に属していることになります。これは神の力が神の本性と同一視されているのですから自明でしょう。
一方,第二部定義三は,観念は思惟するcogitansものであるがゆえに形成されるものであるといっています。したがってそれは思惟するということのうちに,いい換えれば思惟の属性Cogitationis attributumのうちにあるものでなければなりません。このことは第二部定理五からも明らかです。したがって観念は思惟の属性そのものではなくて,思惟の属性の様態modiでなければなりません。観念が思惟の様態cogitandi modiであるということをスピノザが認めているということについては,たとえば第二部公理三などからも明らかだといえます。
第一部定理一では,実体substantiaは様態に対して本性naturaの上で先立つとされています。
好発を決めたディーエスソアラーがそのまま逃げました。1馬身差の2番手にサザンヴィグラス。ここから概ね半馬身くらいの間隔でヤマノファイト,ハッピーグリン,マイネルアンファン,ムルシェラゴの順で追走。ここから1馬身半くらいでドンフォルティス。1馬身差でそれをマークするようにフィールシュパース。半馬身差の最後尾がナナヒカリという隊列に。スローペースでした。
3コーナーを回るとディーエスソアラーは一杯でサザンヴィグラスが先頭に。その外にヤマノファイトで追い上げてきたドンフォルティスがコーナーでは3番手。さらにこれをマークしていたフィールシュパースも大外から追い上げ開始。直線に入るとヤマノファイトは脱落して残る3頭の争いに。ドンフォルティスがサザンヴィグラスを交わして先頭に立つとそのまま抜け出して快勝。大外のフィールシュパースもサザンヴィグラスを捕えて1馬身半差で2着。力尽きたサザンヴィグラスが1馬身半差で3着。
優勝したドンフォルティスは新馬は3着でしたが2戦目で未勝利を勝ちあがると前走の特別も連勝。いずれも3馬身の差をつけていましたので能力は高く,優勝候補の1頭。このレースもそうでしたが後方に控えて末脚を生かすのが現状は合っているようです。ただ,ダートの競馬は自らレースを作れないタイプの馬がどこかで壁に当たるというケースはままあることなので,今後に向けての課題ということになるとそういう部分になってくるのではないかという気がします。母の父にフジキセキで祖母の父にエルコンドルパサー。Fortisはラテン語で勇敢な。『エチカ』では精神の強さと訳されているラテン語がfortitudoです。
騎乗した武豊騎手は第29回,30回,35回に続く9年ぶりの北海道2歳優駿4勝目。管理している牧浦充徳調教師は開業から約8年4ヶ月で重賞初勝利。
第二部定理七系は,神Deiの本性naturaの必然性necessitasから知性intellectusの外に形相的にformaliter生じる事柄のすべてが,神のうちに客観的にobjectiveすなわち観念idemとして生じるということを述べています。したがって神が存在するのであれば,神自身のうちに神の観念Dei ideaが存在することになります。なおかつこの系の意味は,神のうちにある観念はすべて十全adaequatumであるということなのですから,それは十全な観念idea adaequataです。したがって神が神自身の本性の必然性を知らないということはあり得ないことになります。いい換えれば,神は神自身が何をなし得るのかということを知らないということはあり得ないことになります。
このようにして,どちらのパターンで考えても,神が全能であるなら神は全知でなければなりません。ただし,スピノザの哲学の範疇でこのことを考える場合には,次の点に注意しておかなければなりません。
第一部定理三四は,神の力potentiaと神の本性essentiaが同一であるということを示しています。実はスピノザは神が全能であるといういい方はあまりしません。おそらくそれは,全能が神の代名詞として用いられる場合には,キリスト教的な意味合いが滲み出てしまうからではないかと思います。しかしもしもスピノザの哲学において神が全能であるということがどういうことであるのかを示す定理Propositioがあるなら,僕はこの定理であると考えています。そしてその考え方に従って解するなら,神が全能であるということは,神の本性に属していることになります。これは神の力が神の本性と同一視されているのですから自明でしょう。
一方,第二部定義三は,観念は思惟するcogitansものであるがゆえに形成されるものであるといっています。したがってそれは思惟するということのうちに,いい換えれば思惟の属性Cogitationis attributumのうちにあるものでなければなりません。このことは第二部定理五からも明らかです。したがって観念は思惟の属性そのものではなくて,思惟の属性の様態modiでなければなりません。観念が思惟の様態cogitandi modiであるということをスピノザが認めているということについては,たとえば第二部公理三などからも明らかだといえます。
第一部定理一では,実体substantiaは様態に対して本性naturaの上で先立つとされています。