スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

リコー杯女流王座戦&ゲーテの内在論

2017-11-15 19:23:59 | 将棋
 11日に大阪で指された第7期女流王座戦五番勝負第二局。
 加藤桃子女王の先手で変則的手順でしたが里見香奈女流王座のごきげん中飛車①-Aから4筋で銀が向かい合う形に合流。先手が穴熊,後手が銀冠に。戦いの中で少しずつ先手がリードを広げていたのではないかと思います。
                                     
 先手が角を打ち込んだ局面。この直前に6筋と7筋で応酬があったのですが,そこでも後手が少し損をしてしまったように僕には思えました。
 ここでは☖6四金と引くのが最善で,それなら後手が飛車を使えるような展開になっていたようです。ですが後手はその手順が見えなかったために,別の方法で飛車を使いにいきました。
 ☖8六歩☗同歩と突き捨てておいて☖3五歩で角道を遮断。先手が☗2三角成と馬を作ったところで☖6四歩と突きました。ただしこの手は展開的には緩手であった可能性もあります。
 先手が☗3五歩と取ったところで☖2一飛と回り☗3四馬と逃げたのに対して☖9二香と上がりました。これで後手の狙いは分かりましたが先手は☗4八角☖9一飛に☗2四歩と突き後手が☖7五金と角道を止めつつ金も使いにいったところで☗5六馬と引きつけました。
                                     
 第2図から端を攻める展開になれば後手の構想も顔が立つのですが,ここで☖8四歩と受ける必要があったために☗7五角以下の強襲を浴び,あとは一方的に先手が押し切っています。第1図はすでに後手が劣勢だと思いますが,その後の手順で飛車が使えるとみた後手の大局観が悪く,その結果として決定的な差がついてしまった将棋というように感じられました。
 加藤女王が連勝。第三局は22日です。

 ゲーテJohann Wolfgang von Goetheが自然は原型とメタモルフォーゼという内的法則によって無限に多くのinfinitaものを産出するという意味のことをいうとき,ゲーテは自然の外ということを考えていないと僕は思います。考えていないというより,自然には外部というものが存在しないというように考えているといった方がいいかもしれません。つまり自然というのは内在的なものであって,自然を超越するものは何も存在しないとゲーテは考えているのだと思います。大槻が物理学的にゲーテは自然を考察するということの意味が僕には分からないといいましたが,もしかしたら大槻は,自然が内在的なものであり,それを超越するものはないということを指して,それを物理学的にと形容したのかもしれないとは思います。
 ゲーテは無神論者であったわけではありません。それがキリスト教的にいって正統なものであるかどうかは別として,ゲーテ自身は自分が確かに信仰心を有しているということ,キリスト教を信仰しているということを自覚していました。ただ一方で,ゲーテが自然を超越するものは何もないと考えていたのであるとすれば,ゲーテは神Deusも自然を超越する存在existentiaではないと解していたのだろうと僕は思います。つまりゲーテが信仰fidesの対象として神まで自覚していたとしたら,その神は内在の神であって超越の神ではなかったと僕は解します。そしてこのような神は,まさにスピノザが哲学において示した神と一致しているといえるでしょう。ですからこの点においても,ゲーテの自然学に対するこの考え方が,スピノザ主義的な汎神論の影響の下にあったのだとする大槻の指摘は,大槻が汎神論ということで何をいおうとしているのかということを考慮の外に置くなら,的確なものであると僕には思えます。ただ,これをスピノザの哲学との関係でより明確に示すなら,それはスピノザ主義的な汎神論の影響下にあったというよりは,スピノザが示した神の概念conceptusの影響の下にあったという方がいいのではないだろうかとも思うのです。
 この部分は,単に内在あるいは内的法則という観点からのみスピノザとの関連性を指摘できるにはとどまりません。原型とメタモルフォーゼ自体も同様です。
コメント
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