スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

水都大垣杯&内的法則

2017-11-14 19:07:20 | 競輪
 大垣記念の決勝。並びは小松崎‐佐藤の福島,三谷‐稲垣‐村上の近畿A,石塚‐東口‐高間の近畿Bで成清は単騎。
 佐藤がスタートを取って小松崎の前受け。3番手が三谷,6番手が石塚,最後尾に成清で周回。残り3周のバックの出口手前から石塚が動いていくと三谷も発進。一時的にハイスピードでの争いになりましたがホームに入って三谷が引き,石塚が前に。ここで成清が追い上げて4番手に入り,5番手に三谷,8番手に小松崎の一列棒状に。前に出た石塚は一旦はペースを落とし,この一列棒状でバックを通過して打鐘。すぐに三谷が踏み込んでいったので石塚も発進してホームからは先行争いに。この争いはバックに入っても決着がつきませんでしたが,後ろから小松崎が発進してきたので三谷の番手から稲垣が発進。村上を連れて両者の争いに。直線で差し切った村上が優勝。稲垣が半車身差の2着で京都のワンツー。両者を追うような形になった小松崎が半車身差で3着。
                                    
 優勝した京都の村上博幸選手は4月に当地のFⅠで優勝して以来の優勝。グレードレースは2014年2月に全日本選抜競輪を優勝して以来。記念競輪となると2012年1月の向日町記念以来の優勝で通算5勝目。大垣記念は2007年に優勝していて10年ぶりの2勝目。このレースは石塚が先行するであろうことは予想できました。三谷の脚質的にも同じ地区であることからしても,激しい先行争いはないだろうと考えていたのですが,そう思っていたよりはるかに激しいレースとなりました。結果的に稲垣がハイスピードの争いをバックの入口から出ていくことになったために,最後は後ろの村上が恵まれることになったということでしょう。三谷が石塚を叩ききることができなかった上に小松崎も来ていましたので,稲垣があそこから発進するというのは仕方がなかったのではないかと思います。

 大槻が指摘している箇所は,いくつかの観点からスピノザの哲学に親和的な要素を有していると僕には思えます。その第一の点は,自然が原型とメタモルフォーゼという内的法則に従うことによって無限に多くの形象を産出していくというときの,内的法則です。これは自然法則とは内的なものであるといっているのにほかなりません。原型とかメタモルフォーゼということでゲーテが何をいおうとしているのかということとは無関係に,自然法則が内的なものであるということは,それだけを抽出したらスピノザの哲学の考え方と完全に一致しているといえるでしょう。
 スピノザの哲学における汎神論の意味は,すでにみたように,自然のうちに存在するものは,神Deusとその属性attributumを別にすれば,神が変状した様態modiあるいは様態的変状modificatioに様態化した神であるということでした。この意味を保ったまま,この汎神論の真正な意味を神即自然と解する限りで,ゲーテJohann Wolfgang von Goetheの解する自然がスピノザ主義を根底とする神即自然としての自然であるという大槻の指摘は妥当なものであると思います。ただ,大槻はなぜそういえるのかという説明は何もしていません。ここでの僕の目的は,それを説明することによって,その大槻の主張の妥当性を補強するということにあるというように解しておいてください。
 スピノザの哲学では自然法則というのは神の本性naturaの必然性necessitasと同じことです。これは第一部定理一六から明らかで,神の本性の必然性necessitate divinae naturaeに従っていることなら自然のうちには無限に多くのinfinitaことが生じますが,それに反していることは何も生じないからです。したがって自然のうちに何か法則があり得るとしたらそれは神の本性の必然性以外にはないのであって,それが諸々の現象に対して自然法則といわれることになるからです。したがって諸々の現象および形象に対して神は,第一部定理二八備考にあるように絶対的な最近原因causa proximaであることになります。
 その絶対的な最近原因である神は,第一部定理一八にあるように内在的原因causa immanensであって超越的原因ではありません。したがってスピノザの哲学では神の本性の必然性は内的法則であり,外的法則あるいは超越的法則ではあり得ないのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする