スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

大山名人杯倉敷藤花戦&スピノザの依頼

2015-11-14 19:53:26 | 将棋
 10日の第23期倉敷藤花戦三番勝負第一局。対戦成績は甲斐智美倉敷藤花が8勝,里見香奈女流名人が17勝。公式サイトの記録と異なっているのは,NHK杯の女流予選の結果を含めているからです。
 倉敷市文化振興財団理事長の振駒で里見女流名人の先手となり,甲斐倉敷藤花のごきげん中飛車①-A。先手の2枚銀に後手も2枚の銀で対抗する構えを見せたところで受けられる前に先手から仕掛けて戦いに突入しました。
                         
 ここで後手が△5六歩と突いたのは▲4五銀を嫌ったからではないかと思います。
 ▲同歩△同飛は必然で,次の▲4五桂もここではこう指すところでしょう。次の△4二角も必然で▲6六銀は当初からの狙いの手。そこで△5一飛と引いたのは▲5五歩を嫌ったためでしょうが▲5四歩と垂らされました。
 ▲5三歩成を受けなくてはなりませんがまさか△5ニ歩とは打てないでしょうから△同飛。ここで▲5五銀左と決戦に来られ△同飛▲同銀△4五銀▲4六銀△同銀▲同歩で先手が飛車,後手が銀と桂馬を入手することになりました。
                         
 第2図は後手の駒得でも先手が指せているようなのです。ここで▲1一角成を受けなかったのは疑問かもしれませんが,この手順はそのまま定跡化する可能性がありそうです。
 里見女流名人が先勝。第二局は23日です。

 1671年2月17日付の『スピノザ往復書簡集』書簡四十四で,スピノザはイエレスにある依頼をしています。
 この手紙が書かれる少し前に,スピノザの家をある大学教授が訪問しました。畠中の解説では,ライデン大学のクラーネンという人物であるとされているそうです。後にアルベルトがスピノザに送った手紙の中で,自分がローマカトリックに改宗した経緯についてはクラーネンに送った手紙で承知しているだろうと書いています。スピノザと親しい交際があった人物なのでしょう。
 スピノザは1669年の暮れか1670年の初めにフォールブルフからデン・ハーグに居を移しました。ハーグではまずファン・デル・ウェルフェという未亡人の家に寄宿しました。後にここにコレルスが住むことになり,スピノザに関心を抱いて伝記を書くことになります。ただ,この家はスピノザには家賃の負担が大きすぎたようで,同じハーグ市内のスペイクの家へと引越し,スピノザはそこで生涯を終えることになります。『ある哲学者の人生』では,スペイクの家に移ったのが1671年5月初旬とされていますので,クラーネンが訪ねたのはウェルフェの家であったことになります。
 スピノザとクラーネンとのおそらくは雑談の中で,クラーネンがスピノザにある噂を伝えました。それは前年に匿名で刊行された『神学・政治論』を,オランダ語に翻訳しようという動きがあるらしいというものでした。ただしだれが翻訳しようとしているのかはクラーネンは知らなかったようです。そこでスピノザはイエレスに対して,この噂が本当であるのかを調査して,もしも事実であったなら,それを中止させてほしいと依頼したのです。すでにこの手紙の中で,スピノザは『神学・政治論』の著者が自分であることを言明しています。
 『神学・政治論』がオランダ語に訳出されて出版されたのは,ずっと後の1693年になってからです。訳者はフラゼマケルという人物で,訳自体はすでにこの頃には完成していたらしく,クラーネンの話した噂は事実だったようです。印刷および出版にまで至らなかったのに,イエレスの尽力があった可能性は排除できないでしょう。
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