スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

穂の国金メダル争奪戦&オランダ語とラテン語

2015-11-16 19:15:51 | 競輪
 豊橋競輪場で行われた昨日の国際自転車トラック競技支援競輪の決勝。並びは吉沢-芦沢の茨城,深谷-浅井の中部に柏野,小川-大塚-渡部の西国で小埜が単騎。
 迷わずスタートを取った深谷の前受け。4番手に小川,7番手に吉沢,最後尾に小埜の隊列になり,小埜は茨城を追走するレースになりました。残り3周のホームから吉沢が上昇開始。深谷はなかなか下げず,残り2周になってから引き,吉沢が叩くと小川が小埜の後ろに入り,深谷が7番手の一列棒状で打鐘。小川が一旦は動く構えを見せたもののまた4番手に収まり,深谷は残り1周のホームから発進。しかしまったくといっていいほど進まず,小川の横までいけないうちに浮いてしまい圏外。前の争いとなり,絶好の番手から抜け出した芦沢が優勝。最終コーナーでインから小埜を掬い,吉沢と芦沢の間に進路を取った大塚が4分の3車輪差で2着。逃げ粘った吉沢が4分の3車身差で3着。
 優勝した茨城の芦沢大輔選手は9月の青森記念以来の優勝。これは協賛競輪ではなく記念競輪の扱いのようなので,記念競輪3勝目と表記しておきます。ここは深谷と浅井が強いと思われましたが,吉沢がうまく駆けたこともあり不発に。結果的に番手を回った芦沢にチャンスが回ってくることになりました。本人が何もしていないという主旨のコメントを残しているように,吉沢の頑張りが称えられるべきでしょう。逃げて深谷の捲りを封じたのですから,吉沢にも自信がつく競走だったのではないかと思います。

 『神学・政治論』がオランダ語に訳されて出版されない限り,発売禁止の処分を受けることはないという見立てをスピノザがしていた理由は何だったのでしょうか。その推測のひとつとして,アドリアン・クールバッハの著書をあげることができます。アドリアンの『百花繚乱の園』はオランダ語で書かれていました。また『暗闇で輝く光』についても,オランダ語での出版を企てていたからです。
                      
 当時のオランダの識字率がどの程度のものであったのかは僕には分かりません。ですがオランダ人が読むことができるとすればまずオランダ語であったことは疑い得ないでしょう。したがってオランダ語で出版された書物に関しては,一般大衆の中にもそれを読むことができた人びとが存在したことは間違いないといえると思います。これに対してラテン語というのは別に習得が必要な言語でした。これはファン・デン・エンデンがラテン語学校を開校し,おそらく一時的にはスピノザも助手を務めていたことからも明白です。日常的に使用されていた言語というよりは,教養のために必要な言語であったとみるのが妥当でしょうから,ラテン語で出版された書物を読むことができたのは,限られた一部の知識人だけであったと推測されます。
 つまり一般的にいえば,オランダ語で書くということは大衆に向けて書くということを意味し,ラテン語で書くという行為は知識人に向けた行為であったことになります。アドリアンは単にラテン語の教養に乏しかったという可能性も排除はできませんが,少なくとも保守的な支配者層やプロテスタントの牧師たちからみれば,大衆に向けて自説を展開しているとみられても不自然ではなかったことになります。また,取り調べへの供述内容からすると,アドリアンにはオランダの一般大衆を啓蒙しようという意図があったように僕には思えるのです。
 アドリアンは書物が発禁になっただけでなく,罪に問われ獄死しました。その理由のひとつにオランダ語で書いたことが影響していたとするなら,スピノザが『神学・政治論』の蘭訳を望まなかった理由のひとつになり得るでしょう。ナドラーもこれに似た見解を示しています。
コメント
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