連休中は競輪もグレード競走が連続開催。そのうち別府記念は2日に決勝が争われました。並びは松坂-白戸-中村の南関東,深谷-山口の中部,松岡-小野-安東の九州で藤木は単騎。
藤木が一目散に飛び出して誘導の後ろへ。それ以外の選手は若干の牽制があり,一旦は水が開きましたが,2番手に深谷,4番手に松岡,7番手から松坂という周回に。残り2周に入るあたりから松坂が上昇開始。打鐘前のバックで前に出るとペースダウン。藤木が4番手,松岡が5番手,深谷が8番手という隊列に。チャンスはあったと思いますが後ろは動かず,このままホームから松坂の先行に。自力のふたりはやはり動けず,小野がインから上昇を企てましたがこれも前まではいけず。結果的に南関東勢の直線勝負となり,1着は神奈川勢で接戦の写真判定。微差で残った松坂が優勝で白戸は2着。中割の中村もかなり詰め寄っての3着。
優勝した神奈川の松坂洋平選手はこれが記念競輪初の決勝進出。いきなりの大仕事をやってのけました。日程の関係でS級S班が不在の開催,レースの展開にもかなり恵まれ,番手の白戸にもやや油断があったような印象が残ったのも事実。ただ,28歳という年齢からはまだ伸びる余地もあると思われ,いずれは上位に定着してほしい選手です。
第二部定理一と二に関しては,第一部定義四と第一部定義六の内容をよく精査すればそれだけで証明が可能であると思いますし,実際にスピノザ自身が第二部定理一の備考ではそうした方法に訴えていますので,詳しい証明についてはここでは省略します。そもそも現在の考察において重要なことは,これらの定理がいかにして証明されるのかということではありません。むしろ今はこれを単に思惟の属性と延長の属性のみを認識し得ると考えられる人間の精神を対象にして示したわけですが,このことはどんな有限な知性,僕が想定するのは人間が認識し得るのとは別の属性を認識するような有限知性ですが,そうした有限知性の場合にも,同様に妥当するであろうということの方です。そうした観点からいうならば,無限に多くある神の属性のすべてについて,第二部定理一と第二部定理二のような仕方でそれらの属性が実在するということがいえる筈で,第一部定義四は,思惟と延長のふたつの属性のみに限らず,無限に多くあるすべての属性に関して,認識論的にではなく,実在論的に理解することができるということになるのです。そしてこのゆえに,僕は第一部定義四は実在論的な意味を含有すると考えるのです。これは『エチカ』について『エチカ』に訴えることによって得られる結論であるといえると思います。
僕の考えは以上の通りですので,ここからは人間の精神による事物の表象の方に話を戻します。基本は第二部定理一七でしょう。これは人間の身体の外部にある物体のみを対象にしているのであり,人間の精神は現実にはこれら以外の様ざまなもの,たとえば物体でいうなら自分自身の身体とか,あるいは物体以外でいうなら自分自身の精神といった思惟の様態も表象しますが,そうしたものについて逐一考察していてはきりがありませんし,現在は表象そのものについて探求しているというわけではありませんから,その必要もないでしょう。ただ,やはりひとつだけ留意しておかなければならないのは,表象の種類というものがどのようなものであるとした場合でも,表象というのはあくまでも人間の精神による認識のひとつですから,その対象となるのは第二部公理五により,思惟の属性に含まれるものか,そうでなければ延長の属性に含まれるもののどちらかであるということです。
藤木が一目散に飛び出して誘導の後ろへ。それ以外の選手は若干の牽制があり,一旦は水が開きましたが,2番手に深谷,4番手に松岡,7番手から松坂という周回に。残り2周に入るあたりから松坂が上昇開始。打鐘前のバックで前に出るとペースダウン。藤木が4番手,松岡が5番手,深谷が8番手という隊列に。チャンスはあったと思いますが後ろは動かず,このままホームから松坂の先行に。自力のふたりはやはり動けず,小野がインから上昇を企てましたがこれも前まではいけず。結果的に南関東勢の直線勝負となり,1着は神奈川勢で接戦の写真判定。微差で残った松坂が優勝で白戸は2着。中割の中村もかなり詰め寄っての3着。
優勝した神奈川の松坂洋平選手はこれが記念競輪初の決勝進出。いきなりの大仕事をやってのけました。日程の関係でS級S班が不在の開催,レースの展開にもかなり恵まれ,番手の白戸にもやや油断があったような印象が残ったのも事実。ただ,28歳という年齢からはまだ伸びる余地もあると思われ,いずれは上位に定着してほしい選手です。
第二部定理一と二に関しては,第一部定義四と第一部定義六の内容をよく精査すればそれだけで証明が可能であると思いますし,実際にスピノザ自身が第二部定理一の備考ではそうした方法に訴えていますので,詳しい証明についてはここでは省略します。そもそも現在の考察において重要なことは,これらの定理がいかにして証明されるのかということではありません。むしろ今はこれを単に思惟の属性と延長の属性のみを認識し得ると考えられる人間の精神を対象にして示したわけですが,このことはどんな有限な知性,僕が想定するのは人間が認識し得るのとは別の属性を認識するような有限知性ですが,そうした有限知性の場合にも,同様に妥当するであろうということの方です。そうした観点からいうならば,無限に多くある神の属性のすべてについて,第二部定理一と第二部定理二のような仕方でそれらの属性が実在するということがいえる筈で,第一部定義四は,思惟と延長のふたつの属性のみに限らず,無限に多くあるすべての属性に関して,認識論的にではなく,実在論的に理解することができるということになるのです。そしてこのゆえに,僕は第一部定義四は実在論的な意味を含有すると考えるのです。これは『エチカ』について『エチカ』に訴えることによって得られる結論であるといえると思います。
僕の考えは以上の通りですので,ここからは人間の精神による事物の表象の方に話を戻します。基本は第二部定理一七でしょう。これは人間の身体の外部にある物体のみを対象にしているのであり,人間の精神は現実にはこれら以外の様ざまなもの,たとえば物体でいうなら自分自身の身体とか,あるいは物体以外でいうなら自分自身の精神といった思惟の様態も表象しますが,そうしたものについて逐一考察していてはきりがありませんし,現在は表象そのものについて探求しているというわけではありませんから,その必要もないでしょう。ただ,やはりひとつだけ留意しておかなければならないのは,表象の種類というものがどのようなものであるとした場合でも,表象というのはあくまでも人間の精神による認識のひとつですから,その対象となるのは第二部公理五により,思惟の属性に含まれるものか,そうでなければ延長の属性に含まれるもののどちらかであるということです。