来年からはS級S班が9名に減少するため,今年でラストとなるSSシリーズ風光るは,震災の影響で開催の目途が立たない取手競輪場から松戸競輪場へと舞台を変更し,こどもの日に決勝が争われました。並びは山崎-伏見-成田の福島,武田-平原-神山-兵藤の関東,海老根に大塚。
大塚も出ていきましたが武田の前受けに。中団が海老根で後方から山崎という周回に。残り3周というあたりから山崎が上昇。武田を叩くと4番手を海老根と武田で取り合う形。山崎は残り2周から早くもスピードを上げて先行。4番手は海老根が確保して関東勢は後方に。打鐘過ぎに武田が発進するもホーム過ぎに伏見が番手発進。成田の牽制を受けた武田はここで失速。大塚が成田の後ろにスイッチしたため海老根も不発。平原も自力に転じて仕掛けましたが前には届かず。直線は粘る伏見に成田が迫ってゴール。かなりきわどくなりましたが,わずかに交わして成田が優勝。伏見が2着で3着に大塚。
優勝した福島の成田和也選手は昨年のサマーナイトフェスティバル以来のビッグ2勝目。ここはどう考えても関東勢に有利なメンバー構成。その中で山崎が頑張りました。福島勢の結束が関東勢に一矢を報いたといったところ。競輪というのは個人戦であると同時に団体戦という面も大きいですが,このレースはその特徴が最もよく出たケースであったと思います。
この齟齬を修復するための最も簡単な方法として,第一部定理一〇というのを属性の認識に関する記述として解釈する場合には,あくまでもこの定理の内容は,属性の十全な観念についての記述だから,属性の混乱した観念については含まれていないとする考え方があると思います。実際に,スピノザの哲学において十全な観念と混乱した観念とが分かたれるとき,重要であるのは,十全な観念の場合には観念の対象ideatumが実在し,これに反して混乱した観念の場合にはそれが実在しないということであるというよりは,各々の観念というのを単に観念それ自体,いい換えれば思惟の様態として考えたときに,十全な観念は実在的であるのに対して混乱した観念は非実在的であるということ,すなわち十全な観念はそれ自体で有であるのに対し,混乱した観念は無であるということだと考えられますので,確かにこれは有力な方法であるとは思います。そこでまず,こうした考え方をした場合に,人間の精神による属性の認識,あるいはこの場合にはとくに人間の精神には限定せず,有限であるすべての知性にとっての属性の認識といってもいいかと思いますが,どんなことがいえるのかということを考えてみることにします。
まず単純なことですが,人間の知性,あるいはすべての知性一般に関して同様ですが,ある知性が何らかの十全な観念を獲得した場合,これは属性の観念ではなくどんな観念であってもいいのですが,その観念の十全性,いい換えればその観念が真理であることについては,この知性はそれを疑うことが不可能です。これは第二部定理四三でスピノザが示していることと同じです。よって,たとえば人間がある属性,といってもこの場合には延長の属性か思惟の属性のどちらかということにはなりますが,その十全な観念を有するなら,その観念が真理であるということをこの人間はもはや疑いません。
ただし,第四部定理一が示すように,一般的には十全な観念はただそれだけで,観念の対象を同じくするような混乱した観念を排除できるわけではありません。ですから,ただこの条件だけをもって,属性の混乱した認識を現実的な意味において除去できるというわけではありません。いい換えれば,属性の十全な観念と混乱した観念は,同一の知性のうちに同時にあることができると仮定しておかなければならないのです。
大塚も出ていきましたが武田の前受けに。中団が海老根で後方から山崎という周回に。残り3周というあたりから山崎が上昇。武田を叩くと4番手を海老根と武田で取り合う形。山崎は残り2周から早くもスピードを上げて先行。4番手は海老根が確保して関東勢は後方に。打鐘過ぎに武田が発進するもホーム過ぎに伏見が番手発進。成田の牽制を受けた武田はここで失速。大塚が成田の後ろにスイッチしたため海老根も不発。平原も自力に転じて仕掛けましたが前には届かず。直線は粘る伏見に成田が迫ってゴール。かなりきわどくなりましたが,わずかに交わして成田が優勝。伏見が2着で3着に大塚。
優勝した福島の成田和也選手は昨年のサマーナイトフェスティバル以来のビッグ2勝目。ここはどう考えても関東勢に有利なメンバー構成。その中で山崎が頑張りました。福島勢の結束が関東勢に一矢を報いたといったところ。競輪というのは個人戦であると同時に団体戦という面も大きいですが,このレースはその特徴が最もよく出たケースであったと思います。
この齟齬を修復するための最も簡単な方法として,第一部定理一〇というのを属性の認識に関する記述として解釈する場合には,あくまでもこの定理の内容は,属性の十全な観念についての記述だから,属性の混乱した観念については含まれていないとする考え方があると思います。実際に,スピノザの哲学において十全な観念と混乱した観念とが分かたれるとき,重要であるのは,十全な観念の場合には観念の対象ideatumが実在し,これに反して混乱した観念の場合にはそれが実在しないということであるというよりは,各々の観念というのを単に観念それ自体,いい換えれば思惟の様態として考えたときに,十全な観念は実在的であるのに対して混乱した観念は非実在的であるということ,すなわち十全な観念はそれ自体で有であるのに対し,混乱した観念は無であるということだと考えられますので,確かにこれは有力な方法であるとは思います。そこでまず,こうした考え方をした場合に,人間の精神による属性の認識,あるいはこの場合にはとくに人間の精神には限定せず,有限であるすべての知性にとっての属性の認識といってもいいかと思いますが,どんなことがいえるのかということを考えてみることにします。
まず単純なことですが,人間の知性,あるいはすべての知性一般に関して同様ですが,ある知性が何らかの十全な観念を獲得した場合,これは属性の観念ではなくどんな観念であってもいいのですが,その観念の十全性,いい換えればその観念が真理であることについては,この知性はそれを疑うことが不可能です。これは第二部定理四三でスピノザが示していることと同じです。よって,たとえば人間がある属性,といってもこの場合には延長の属性か思惟の属性のどちらかということにはなりますが,その十全な観念を有するなら,その観念が真理であるということをこの人間はもはや疑いません。
ただし,第四部定理一が示すように,一般的には十全な観念はただそれだけで,観念の対象を同じくするような混乱した観念を排除できるわけではありません。ですから,ただこの条件だけをもって,属性の混乱した認識を現実的な意味において除去できるというわけではありません。いい換えれば,属性の十全な観念と混乱した観念は,同一の知性のうちに同時にあることができると仮定しておかなければならないのです。