スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

東日本大震災被災地支援宇都宮記念&混乱した認識

2011-05-09 18:37:43 | 競輪
 競輪の連休開催の結びは宇都宮記念で今日が決勝。並びは矢口-稲村-諸橋の上越,神山-真崎の栃木,東口-山口の近畿中部で園田に渡辺。
 山口がSを取り東口の前受け。3番手が園田,5番手が神山,7番手に矢口で周回。動きがないまま打鐘。ようやく神山から動いて東口を叩いて前に。さらに外から矢口が抑え,このラインの先行に。バックで6番手から東口が発進。山口を連れて捲りきると矢口の番手から稲村が3番手にスイッチ。直線はこの3人での勝負。並ぶようなゴールとなりましたが,外を伸びた稲村が僅かに交わして優勝。2着は中の山口で,微差の3着が東口。
 優勝した群馬の稲村成浩選手は2001年の熊本記念以来となる記念競輪11勝目。この年のダービーを勝った選手で,この前後は捲りを主武器に大活躍していました。そんなに年齢がいっていたわけではないのにその後は停滞。当時の輝きを取り戻せといってもさすがに無理かとは思いますが,ビッグを勝ったような選手というのは衰えを感じさせても侮れない面はあり,それが今日は発揮されたといったところではないかと思います。

 この十全な観念における本性の認識の様式というのが,属性の認識と実体の認識という関係においては,混乱した観念の場合にも同じように妥当するのではないかと僕は考えています。これまで考察の対象としてきた人間の精神による事物の表象というのは,あくまでも人間の知性の一部を構成する混乱した観念の代表者という意味でしたが,ここから先の探求においては,必ずしも表象のみにこだわる必要はありませんので,もちろんそこに回帰するということはあるでしょうが,もっと広く一般に混乱した観念というのをその考察の対象とします。
 ある知性が属性の混乱した観念を有するというとき,これはある実体の本性を構成するようなものについて,それを混乱して認識するということを意味します。これは第一部定義四から明らかだといえるでしょう。ただし,この知性を人間の精神と限定するなら,このことの現実的な意味は,ある人間の精神が,思惟の実体か,そうでなければ延長の実体に関して,その本性を構成しているところのものを混乱して認識するということです。こちらの方は第二部公理五によって明らかです。
 ところで,別に思惟ないしは延長の実体に限らず,もっと一般的な意味である事物を知性が十全に認識するということのうちには,知性がその事物の本性を十全に認識するということが含まれています。つまり知性がAを十全に認識する,つまりAの十全な観念を有するということは,Aの本性を十全に認識するということを,少なくとも含んでいなくてはなりません。これは,十全な観念とは内的特徴からみられた場合の真の観念であるという第二部定義四と,真の観念がその対象ideatumと一致するということを示した第一部公理六により明白です。
 したがって,これらのことから,一般的に次のことが帰結します。もしもある知性が,Aの本性に関して,それを混乱して認識するならば,その同じ知性は単にAの本性の混乱した観念を有しているということだけを意味するのではなく,Aそのものに関してもそれを混乱して認識しているということになるでしょう。なぜなら,たとえそれが混乱した観念であったとしても,知性はAなしにAの本性といわれるようなものを認識するということはあり得ないであろうからです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする