スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

女流王位戦&帰結

2011-05-18 20:09:15 | 将棋
 白鷺城の城下町,姫路での対局となった第22期女流王位戦五番勝負第二局。
 先手は甲斐智美女流王位。中飛車から美濃囲い。清水市代女流六段は左美濃。先手から角交換して5筋を交換。そこで一段落となり,その後は後手から仕掛ける形で熱戦が繰り広げられました。観戦は最終盤のところのみ。
                         
 先手玉も怖い形ですが,後手は駒がないので,正しく指し進められれば先手が勝つのではないだろうかというのが第一感。▲4六桂が有力だったようですが▲3六銀と歩を払いました。ただ,これもそんなに悪い手とは思えませんでした。後手の指し手は難しく,△1五歩かなと思っていたら△4八馬。取るのはまずそうに思えたので▲2九金は予想通り。ここから△3八馬▲同金と進むと思っていたら単に△1五歩(第2図)。
                         
 すぐに▲3九金寄とはできないので角筋を遮断する必要があり,▲7五歩でした。△1六歩は詰めろで▲3九金寄はこの一手。歩が成ってもすぐには攻めきれないので△7五馬も予想通り。今度は△3九馬があるので▲2九玉と早逃げしました。△1七歩成はこれしかないように思えます。攻め合う手もあったみたいですが▲5七歩はこうやるのではないかと思っていた手。ただこれなら第2図のところで▲5七歩と打っておけばよかったかもしれません。△1八歩もこれしかないように思える攻めで▲4八金寄とこちらに脱出路を作りました。△1九歩成▲3八玉。ここで△4六香を考えていましたが△6六香でした。一旦▲2六桂と反撃し△3三歩と打たせて▲7七龍。すぐに金を取るかと思ったら△6四馬▲5六飛としてから△6八香成。▲同龍△6七歩▲同龍△6六歩までは予想通り。下に逃げると考えていたら▲7七龍(第3図)でした。
                         
 ここで△5五歩。▲4六飛なのかと思ったら▲6六飛。△同角▲同龍△6五歩までは予想通りで,今度こそ下に逃げると思いきや▲7六龍。△5九飛はまあ打ちたいところ。そこで▲1二歩というまったく考えていなかった手が出ました。挨拶はしないだろうと△1八と引を考えていましたが△5六歩。この手はいい手のように感じました。放置はできないので▲同龍は仕方なさそう。△4六金(第4図)と打ちました。
                         
 ここで▲3四桂△同歩。あるいは▲5五角かとも思いましたが▲7七角の方が自然ではあると感じます。△4四桂はこれしかありません。▲同歩は読み切れそうもなく,すぐに飛車を取ると思いましたが▲1四桂△2三玉としてから▲5九角。△5六桂は当然。▲同歩は仕方ないように思いました。△1八飛▲4九玉△2八と(第5図)はこう進むところではないでしょうか。
                         
 ここから▲2八同金△同龍と龍の筋を変えて▲1五桂△1四玉▲2二飛となり先手玉が詰むかどうか。しかしこの玉は詰まず,後手玉の詰めろが一旦は解けることにはなりましたがあまり問題なく,先手の勝ちになりました。
 甲斐女流王位が連勝で防衛に王手。第三局は来月15日です。

 第二部定理四二の意味がこのようなものであるとするなら,一般的に次のことが帰結します。すなわち,もしも現実的に存在するある人間の精神の一部が,十全な観念によって組織されているならば,そのことによってこの人間は,この人間の精神を構成する混乱した観念については,ことごとくそれを虚偽であると認識できることになるでしょう。つまり,ある人間にとって,一般的に真理と虚偽とを分つ力というものは,その人間の精神のうちに,たったひとつでも構わないから十全な観念があるのかどうかということにかかってくるということです。
 もちろん,これはあくまでもこの人間がそうした力を有しているという意味であって,必ず真理と虚偽とを実際に分かつということではありません。実際には,ある人間の精神のうちに十全な観念があるという場合でも,この人間が何らかの混乱した観念について,それを真理であると思いこんでしまうということはあるでしょう。というのは,僕たちは自分の精神を現実的に構成する観念について,逐一それらを真理ないしは虚偽として意識するというものではないからです。というよりも,第二部定理一四にあるように,人間の精神というのはきわめて多くのものを認識するわけですから,そのすべてについて真理であるか虚偽であるかを判断するような作業というのは,現実的には不可能なのだといっていいかもしれません。ただし,もしも人間の精神のうちに十全な観念がひとつでもあれば,この人間は真理の規範を有しているということは間違いなく,したがってもしもある観念について,それを反省的に判断する作業というのを行った場合には,それが真理であるか虚偽であるかは正確に判断できるということになります。
 こうしたことがあらゆる観念について妥当します。したがって,もしも人間が神の属性,といってもこれは思惟の属性か延長の属性のどちらかということになるのですが,それを混乱して認識するということがあるのだとしても,その人間の精神のうちに,何らかの十全な観念さえあるのならば,少なくともその人間は,それがまさに混乱した認識,すなわち虚偽であるということについてはこれを理解することができるということになります。
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