スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

大垣記念&悪を認識しない場合

2007-05-07 22:25:16 | 競輪
 ゴールデンウイーク記念競輪の第三弾,大垣記念の決勝(動画)。出渋り気味の発走だったようですが,石橋選手の前受け,中団に井上選手,後方から永井選手での周回となりました。
 残り2周のホームから永井選手が上昇開始。井上選手はこのラインを追走し,永井選手がバックで石橋選手を抑えると石橋選手は引いて7番手。そこから即座に石橋選手が踏み出しましたが,これを受けて永井選手も発進。永井選手の先行で,4番手を確保した井上選手の後ろが離れたので石橋選手は5番手。バックから捲って出たのは石橋選手の番手の萩原選手。スピードはよかったのですが永井選手の掛かりもよく不発。結局は前での争いになり,3番手で脚を溜めていた村上選手が直線では突き抜けて優勝。2着は接戦でしたが,番手の山口選手が永井選手を交わしています。
 優勝した京都の村上博幸選手はこれが記念競輪初優勝。一歩ずつ着実に強くなっているという印象。兄は村上義弘選手で,その域まで達してほしいところです。
 番手絶好だっただけに2着の山口選手には残念な結果だったのではないでしょうか。ただ,あれだけ離されては今日のところは村上選手を誉めるほかないかもしれません。
 3着の永井選手はいいレースをしたと思いますが,結果的には少しだけ仕掛けが早かったようです。ただ,あれ以上待てば石橋選手に出られた可能性もありますので,展開の綾といったところでしょうか,
 井上選手はせっかく絶好の位置を取ったのですから,どこかで動くべきでした。やや悔やまれるレース内容であったと思います。

 人間が能動的である場合の責任という概念のあり方について,ここまでは能動的である場合にも悲しみの認識があるという前提で考察を進めてきましたが,悲しみを認識しない,すなわち第四部定理八により人間が悪というものを認識しないと仮定した場合にはどうなるのかということを一応はみておくことにします。
 この場合,前提となるのは,この定理八からして,人間にとって善悪というのは認識の問題であるということです。すなわち善悪というのは事物の性質を示しているのではなく,人間がある事物とほかの事物をともに認識し,それらを比較した上ではじめて思惟の様態として人間の精神のうちに生じてくる概念であるということです。したがって,人間は,単一のものについてそれを善とか悪とかみなすことはなく,その事物をほかの何らかの事物と比較することによって,初めてその事物を善といい,一方の事物を悪ということができるようになるのです。つまり,善悪は認識の問題ですが,それは複数の事物間の比較の認識です。よって,もしも人間が善を認識しないなら悪を認識することもないでしょうし,逆に一切の悪を認識しないなら,それと比較の上で認識される善を認識することもないでしょう。
 このことから,人間が悪を認識しないという仮定は,善悪を認識しないという意味になると思われます。ですので,善悪という価値をその基準とする責任という概念は,この仮定の場合でも発生しないということになると思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする