三郎兼続の日記

趣味の写真で山登り・旅行を主体にした日記
最近は山登りが少なく、城郭・巨木へ

城郭の縄張り図と本丸跡3

2020-05-18 16:16:55 | 城郭縄張図

2020年5月18日(月)今回は甲斐武田とかかわった城郭をならべました。

要害山城 山梨県甲府市、躑躅が崎館武田氏の居城(現武田神社)後方の丸山770mの中腹の傾斜地に築かれた中世城郭の詰めの城、永正17年(1520)武田信虎築城、慶長5年(1600)廃城。

要害山城本丸・・・甲府側のみ土塁が見られますね、本丸の先の尾根筋にも奇麗な防御の遺構があります、武田晴信(信玄)が産まれたお城。

新府城 山梨県韮崎市、天正9年(1581)築城、武田勝頼が躑躅が崎館より移城、織田・徳川連合軍に攻められ、人心が離れ、わずか数か月にて城に火をかけました、真田昌幸縄張りとか?、勝頼の落ち行く先も、真田昌幸の岩櫃城と小山田信茂の岩殿城に分かれましたが、岩殿城を選択、裏切られ、武田家滅亡となりました。

新府城本丸 西側に釜無川七里が岩の浸食崖、東側に塩川のお城ですが戦わず・・・。

勝山城 山梨県都留市、小山田信茂の詰めの城(岩殿城も同じ詰めの城)、二の丸横虎口から本丸を仰ぐ、小山田信茂は武田勝頼より途中で離反するが許されず小山田氏も滅亡。

勝山城本丸 豊臣期に改修、江戸初期幕府の治めることとなり廃城。

岩櫃城 群馬県、奇岩の岩櫃山802mの山城、永禄6年(1563)武田信玄は上州侵略の為家臣真田幸隆に岩櫃城攻略を命じた時の城主我妻氏、以後真田幸隆・昌幸。信幸、元和元年(1615)1国1城令で廃城。

岩櫃城本丸 天正10年(1582)武田勝頼が新府城より落ち行く先として、昌幸が挙げた城。

名胡桃城 群馬県、天正7年(1579)武田勝頼の命で真田昌幸が信濃から吾妻・利根に侵攻沼田城を攻略する前進基地として名胡桃城を築城、天正10年(1582)武田氏滅亡、織田信長本能寺の変で倒れ、北条・徳川が進出。

名胡桃城本丸 豊臣秀吉の関東奥惣無事令(天正17年(1589))発令、この時北条の沼田城から名胡桃城攻略が行われ、小田原征伐の口実となった城。

真田氏管轄の城と中山城との位置図、沼田城・岩櫃城・名胡桃城の楔の位置がこの中山城で攻略に必要。

中山城 群馬県中山、永禄・天正年間(1558-1592)にこの地は真田・上杉・北条が拮抗し争う、天正10年(1582)北条方のものになり、北条氏邦(鉢形城主)が改修。

中山城本丸 北条方の境目の城の役割。

磯部城 群馬県安中市、永禄4年(1561)、武田信玄が上州攻略拠点?として改修。

磯部城本丸

上州根古屋城 群馬県高崎、永禄11年(1569)武田信玄築城、箕輪城を攻略し、上杉謙信・北条氏康に対する境目の城・牽制の役目の城。

上州根古屋城本丸 戦には一度も使用されないとか、城主は佐久の望月氏(真田ゆかり?)。

箕輪城 群馬県高崎市、関東管領山内上杉の家臣、名君長野業政の居城、ここ西上州は甲斐の武田・越後の上杉・相模の北条の三つ巴の戦場の舞台となるが、永禄9年(1566)、業政が死亡し、17歳の業盛にて落城・・・信玄が業政の死を聞いて喜んだとか。

箕輪城本丸 深い空堀に囲まれた名城、慶長3年(1598)高崎城へ移城、廃城。

箕輪城に伝わる、詠み人ひらずの歌・・・激戦が、長野業盛の辞世の句
 春風にうめもさくらもちりはてて
 名のみぞ残る箕輪の山里。

金鑚御嶽城 埼玉県神川町、金鑚神社背後の御岳山343mに築かれた城、天文21年(1552)山内上杉方安保氏は北条氏康に攻められ降伏、元亀元年(1570)北条対立し武田軍が攻略、翌年甲相同盟が成立し、北条へ返還・・・武田信玄上洛前です。

金鑚御嶽城本丸。

金鑚御嶽城 金鑚神社と関係が修験者祈祷所が山頂に。

岩村城 岐阜県恵那市、中世の山城、江戸期は岩村藩、城山717mに本丸、最も高い、日本三大山城、織田・徳川・武田の抗争地区、遠山家の居城、元亀3年(1572)武田信玄は大軍を率いて遠江の徳川家康を攻撃、武田方は秋山虎繁に岩村城攻略を命じる、岩村城包囲により条件で助命開城・・・前年死亡の遠山景任の妻(女城主おつや・・織田信長の叔母)を妻に迎える、天正3年(1575)長篠の戦で武田勝頼敗北後、信長は織田信忠を総大将に攻撃籠城5ケ月で陥落開城、助命を約束しながら、夫婦を長良川川敷で逆さ磔で処刑。

岩村城本丸

岩村城本丸の六段石垣。

高天神城 静岡県掛川市、海抜132mながら堅固な山城、山が急斜面で登り口の無い中世の山城、戦国末期武田勝頼・徳川家康との激戦の城、今川氏の支城、永禄3年(1560)桶狭間の戦いで今川義元が討死、永禄12年(1569)武田信玄・徳川家康駿河に侵攻今川氏滅亡、天正2年(1574)武田勝頼高天神城を攻撃奪う、天正3年(1575)長篠の戦で武田軍敗れる、天正8年(1580)徳川軍の攻撃、翌年援軍なしで陥落(援軍を送れなかった勝頼の声望が致命的に低下・・・滅亡を速めた、籠城戦長期化は織田信長の戦略とカ。

高天神城本丸 両サイドの丘に本丸・二の丸が別々に存在。

高天神城井戸曲輪 二つの丘を繋ぐ中央に井戸郭。

高天神城二の丸 二つの本丸・・・しかし、織田信長は緩急をつけた戦ですね、此れで武田関連の城は終わり・・・ヤハリ関東は上杉・御北条の城ですね。








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