三郎兼続の日記

趣味の写真で山登り・旅行を主体にした日記
最近は山登りが少なく、城郭・巨木へ

唐沢山城跡(唐沢山神社)に行って来ました。

2020-01-13 11:17:41 | 城郭栃木

2020年1月9日(木)にハイキングをかねて唐沢山城跡に行って来ました、戦国時代に佐野氏が居城し、何度も戦いの場になりましたが防御性の高い山城です、江戸時代初期に山城禁止令で廃城・・・・佐野市市内に佐野城を築城移りました、現在は本丸跡に唐沢山神社ですね。

田沼駅から上り唐沢山城の搦め手(裏側)の尾根に出ました、此処から北城へ向かいます。

唐沢山城の全体図です、唐沢山山頂241mの本丸を中心に大規模な山城関東七名城ですね、右上から来ましたが、一度城内を抜け左側の方から順次説明しま。

城内大手道前にある鏡石です、上杉謙信も攻めあぐんだ・・・・謙信が援軍で入城とか・・・地方の豪族は大変なのです。

かっては櫓があったとか、大手門の喰い違い枡形虎口ですね。

此処が喰い違い虎口・・・。

喰い違い門虎口に入りましたね、正面が北側の天狗岩です、左側に曲がると枡形の広場大手道。

喰い違い虎口を入ると、天狗岩の登り口が有ります、大きな岩場で見晴らしがよいのです。

天狗岩の山頂です、物見櫓があったとか。

山頂からの眺望です。

此れも・・・日光連山・・左側が男体山ですね。

喰い違い虎口の中から見た大手道・・・ここは枡形の広場、鳥居の左側手前が、大炊(おおい)の井です。

大炊の井です、この城は本丸横にも車井戸がありますね。

四つ目の堀(堀切で分断)に架かる神橋(昔は曳橋)ですね、大手道、左側が帯曲輪・三の丸・二の丸・本丸で大手道は回り込むようになります。

大手道です、左側が帯曲輪・三の丸へ。

大手道をそれて帯曲輪へ右側が三の丸へ上がる路です。

三の丸です、正面が二の丸ですね、二の丸には右側から回り込みます。

三の丸から回り込みます、左側が二の丸、右側が大手道・・・上からの横矢がかりですね、正面が本丸の高石垣8m。

本丸下から見た高石垣、低い石垣辺りは南局、右側の先は現在の神社参道の登り口で向こう側が南城です、左側奥が二の丸ですね。

まず神社正面の参道の階段ですね、途中の踊り場が前の道ですね、右側に南城、左側二二の丸方面が有ります、昔は上の階段は此処には無かった?。

唐沢山神社正面です、此処は南局です、奥の一段高い場所が本丸です。

本丸跡にある、唐沢山神社ですね、祭神は藤原秀郷ですね、あの平将門を成敗した人です、左側(西側)は二の丸へ。

二の丸です、その後ろ下が三の丸です、二の丸には土塁が奇麗に残っていますね。

二の丸から見た本丸です、右側が高石垣側です。

本丸脇の高石垣ですね。

神社参道の階段上より、左側が南城です・・・この階段は昔は無い?。

南城から見た富士山・・・・昔江戸が火事の時急いで駆け付けた話がありますね・・・・江戸を監視するのはけしからんで廃城になったとか?。

南城西側石垣低いが趣がありますね。

南城南側の石垣です、この石垣下は堀切で一つ目堀・・・四つの堀切が神橋まであります。

搦め手側の本丸を取り囲む長門丸と金の丸の虎口・・・東側の尾根です。

金の丸・杉曲輪・北城の右側(東)の尾根に架かる堀切による分断場所ですね、低山ですが、両サイドは急な崖に守られ本丸には石垣がある立派なお城でしたが、慶長12年1607年廃城、佐野城に移ったのです・・・・明治になり神社を建てたのですが遺構の保存状態は良いですね。

佐野城跡に行って来ました。

2020-01-12 07:34:28 | 城郭栃木
2020年1月9日(木)に佐野城跡に行って来ました、唐沢山城跡の帰りに佐野駅に下車し駅前の高台の城山公園を散策。

此れが佐野城の全体です、別名春日岡城で東西に長い独立丘陵を利用した連格式平山城ですが佐野氏が慶長7年1602年・・・唐沢山城からの移築を命ぜられこの地に築城、慶長12年1607年に時の藩主佐野信義が唐沢山城を廃城し移ったのですが、慶長19年1614年領地を没収改易、お城は壊されたとか、その後御留山となり、高台は遺構が残りました、図の水堀はありません。

駅から直接、三の丸跡の城山公園です正面奥が二の丸です。
二の丸への虎口です、三の丸の脇を回り込むように上がります、右側奥に記念館があり資料を頂きました。

二の丸です。

二の丸を進むと本丸との境に大きな空堀で仕切られ、現在橋が架けられていますね、此れを見るとお城の遺構が色濃く残っていますね。

橋を渡り本丸へ・・・・当時は木橋でしょうね。

橋中央から空堀を見ました、大きな空堀で当時はより深かったのでしょう、正面奥が町で結構な高台が解りますね。

橋を渡ると本丸です。

本丸脇から見た現在の街並み、その外側に水堀で囲まれたお城なのです。

本丸です、本丸の先に北出丸が有ります。

此処も空堀で分断されていますが、規模はヤヤ小さいですね。

本丸から見た北出丸の端と空堀です。

北出丸の空堀への虎口が見られますね、回り込むように作られた馬出でしょうか、ワクワクしますね。

北出丸から見た城下町と左側の山並みは唐沢山に続く山でしょうか?、奥は冠雪した男体山をはじめ日光連山が目の前に見えましたね。

東側を望むと奇妙な山が見えました、多分岩舟山だと思いますが?如何でしょうか、次回は唐沢山城をまとめますネ、佐野城跡は初めてでしたが良かったですね、丘陵の下に降りて少し離れて見たかったですね。




唐沢山ハイキングに行って来ました。

2020-01-11 10:37:08 | 山関係
2020年1月9日(木)に唐沢山城跡に行って来ました、東武佐野線の田沼駅から多田駅間の標高200-300mの低山ですが、ハイキングですが結構アップダウンもあり唐沢山城跡散策と合わせると歩きでが有りますね、諏訪岳324mには行かずに下山しました。

唐沢山城跡には2度目ですが以前は堀米駅から行きました、今回は近場の駅田沼駅からです、駅前に案内板があり、駅横の道を真っ直ぐに進みます。

秋田川に架かる橋から見た唐沢山です、左側と勘違いしましたが、右側ですね標高241mで山頂に唐沢山城跡があり今は唐沢山神社です。

秋田川です、台風19号で流された木が残っていました・・・神社の参道も一部崩れたりしていましたね。

大まかな地図です、下の田沼駅から山中の神社を散策し山尾根を左側に進み左下側の多田駅に下ります、10時スタートで14時に下山ですね。

橋を渡り直進で鳥居があり、私は此処から上りました、・・・右側の道路を進み途中から山道に進めば、唐沢城跡の大手道に出れるみたいですね(鏡岩)。

この道は東京農大の林業試験林の寮に繋がる路でした。

寮の脇を進み登りつめると、唐沢山神社と京路戸峠方面の分岐路へ出ました、此処から600mで唐沢山です・・・・・城跡を散策し再び此処へ・・・12時20分、大福をかじり休憩し12時35分、関東ふれあいの道へ。

此方がわから山中へ。

しばらくすると又林道へ出ましたね、休憩所ありの標識で登りましたが。

低山ですが・・・漸く一つのピークへ南見明岳の木彫りの標識が・・・標高は?・・・向こうに見えるのが諏訪岳324mですね・・・多分登れば日光連山が目の前かな?、此処は300m位でしょうかネ。

此処が北見明岳?かな、左側が急な階段でしたね。

しばらく回り込むように下ると、此処が京路戸峠です、諏訪岳と多田駅との分岐ですね、此処から1・6kで駅で山を下ると田沼工業団地に出ます、後は真っ直ぐに道なりに進めば多田駅です、14時9分に間に合いましたね、佐野城跡に今回は拠ります・・・諏訪岳はそのうち行きたいですね。


世田谷城跡に行って来ました(豪徳寺・松陰神社)。

2020-01-03 08:21:48 | 城郭東京

2020年1月2日(木)に世田谷城跡に行って来ました、小田急線で豪徳寺駅、豪徳寺・世田谷城跡・松陰神社と歩き世田谷線で松陰神社前駅から下高井戸駅へ。

豪徳寺駅から世田谷線脇を豪徳寺へ。

豪徳寺です、此処は彦根井伊家の所有地で歴代藩主六名の墓がある菩提寺なのです、招き猫でも有名ですね、世田谷を代表する古刹なのですね。

大勢の方がお参りに来ていました、井伊家の墓は左側奥、招き猫の招福殿は正面の仏殿左側。

仏殿です、三重塔もありました、このお寺も世田谷城のお城の一部とか?・・・・今でも広大な敷地のお寺で世田谷城跡も隣り合わせですから。

豪徳寺をでて少し先に世田谷城跡公園があります、少しの高台に位置しますね。

石積で覆われた公園です、土が流れない様土塁が覆われていますが、元の形状雰囲気が伝わる城跡です。

世田谷城跡の端です、この奥に細長くあるのですが、奥の台地には入れません・・・多分豪徳寺方面に繋がっているのでしょう?。

細かな丘(曲輪?)空堀で区切られていますね。

上から見れば少し高い台地が解りますね、昔は川があり防御に適した台地なのでしょう。

空堀が見えますね、此処は吉良氏のお城で清和源氏・足利氏の士族ですから鎌倉時代から勢力があり、上杉・太田道灌の与力で後に後北条に属していたのですね。

今見ると空堀と物見櫓跡みたいに見えますね?。

此処は空堀跡でしょうね、東京の世田谷に城跡が・・・・・うれしいですね。

世田谷城跡から道を聞きながら歩いてきました、松陰神社です、祭神は長州藩士吉田寅次郎藤原矩方の命・・・吉田松陰です。

沢山の方がお参りに、松陰は幕末の思想家教育者で私塾松下村塾を主宰安政の大獄に連座し刑死30歳でした。

神社横手にあるお墓です、刑死四年後、文久三年1863年(京都で新選組がデビュー)に門下生高杉晋作・伊藤博文等により当時長州藩の所領のこの地に改葬。

幕末の志士の名が見られますね。

萩で見た?、松下村塾が再現されて神社横にありました、”身はたとひ武蔵の野辺にくちぬとも留め置かまし大和魂”・・・。