三郎兼続の日記

趣味の写真で山登り・旅行を主体にした日記
最近は山登りが少なく、城郭・巨木へ

長野県佐久市・田口城に行って来ました。

2021-04-29 07:34:51 | 城郭長野1
2021年4月18日(日)に長野県佐久市の田口城に行って来ました、武田信玄の北信濃侵攻にあい地元の田口氏の城も落城・・・天文年間(1532ー1555)の頃の・・・その後一時期は武田方の城、中世城郭ですね、麓の館蕃松院の後にある山城です、今は龍岡城五稜郭の見晴らし台として知られていますかネ?。

龍岡城五稜郭のであいの館で地図を頂き入り口の説明を受けて田口城へ・・・白い家の脇を入りますね。

次の道路に出た所でちょっとした案内が此処から家の脇を山側に入りますね、以前は蕃松院の裏山から登れたのですが崖崩れで今はこちらだけですね。

此処から本格的な山へ龍岡城五稜郭の北側の城山881m・・・比高140m。

山に入るとお墓がありますが、所々に五稜郭見晴らし台の案内板が。

結構急なジグザグな道です。

来てみてわかりましたが、城山南面は岩の壁でした。

この垂直な岩場は完璧な防御帯ですね。

この岩場の一部が裂けており急さなれど上に上がる個所になりますね。

岩場の裂け目を過ぎて尾根筋に・・・・今は城山に道路がありますが主郭部は回り込んでいますね・・・良かったです、正面が田口城です(この場所もそうですが)。

少し進むと見晴らし台への案内板がありますが、この辺りは段々に削平された地形が解りますね。

土塁下を斜めに方向に・・・見晴らし台案内板が・・・・右側です。

今回は山城田口城ですから、上側を見れば、段々の削平地による曲輪らしき見えますね。

現在の見晴らし台へ・・・・龍岡城五稜郭が眼下に見えますよ、昔もどこかに見晴らし台を作り見ていたはずですね、此処も削平地で向こう泡は先程の垂直な岩場ですからね。

折角ですから龍岡城五稜郭を。

見晴らし台から奥方面をみます、帯曲輪みたいに主郭部分を回り込んでいますね・・・脇に石垣が?・・・。

主郭へ少し近づきました。

主郭脇の帯曲輪を回り込むように進みますね、右側が岩場で下の町が見えます。

廻込東側へ城山観察園の建物がいきなり出てきました・・・結構人手が入っていますね?、削平地ですが?。

東側に出て見ました・・・・この後側は?。

道路側から主郭部分を・・・ここでも石垣が?、・・・いつのものかは?。

此処にも石の階段が主郭の虎口らしきはありますが・・・。

折角ですから、石垣を奇麗に撮りましたよ・・・虎口と言えば虎口ですね。

主郭部分には石の社が一つ、この脇にも虎口があります西側・・見晴らし台方面です。

西側の主郭脇の曲輪。

主郭脇の石垣(石積)何時のものかは?、結構を削平地(曲輪?)があり山城は大きく感じましたね、武田軍の前には簡単に敗れたみたいですが詳細は解りませんね?。

無事に下城しました、後ろの山が城山です、蕃松院のに行かず帰ったのが残念でしたね。

龍岡城五稜郭を再び見て回り、連日の山城歩きで疲れが出て来たので帰りました、この佐久市田口には見るものがまだありましたね、出来ればまた来ますね。


龍岡城五稜郭に行って来ました(長野県佐久市)。

2021-04-27 07:51:02 | 城郭長野1
2021年4月18日(日)に長野県佐久市の龍岡城五稜郭に行って来ました、五稜郭とは星形のお城で日本に二つしかない西洋式城郭です、有名なのが函館の五稜郭ですが、こちらは大分小さく未完成ですが立派な五稜郭なのです、文久3年(1863)着工です(新選組と同じ年)一応慶応3年(1867)には建物が完成・・・一部堀石垣が未完で明治になりましたとか。

JR小梅線の龍岡城駅と臼田駅の間ですが、臼田駅から歩きました。

臼田駅から右え線路を渡り・・・・右方面の今は学校を目指します・・・・私は田口城の山城にも行きました・・・見晴らし台のある所でした。

途中奇麗に冠雪した山が・・・浅間山ですね。

川に出ればもう少しです、左の山が田口城です、下の桜の木が見えるのが田岡城五稜郭です。

五稜郭公園側から見た五稜郭です、公園には五稜郭の形が見られますね、今桜が満開。

近づきますね、こちら側が堀が無い場所ですね。

石垣が奇麗ですが、やはり堀が無いと単なる塀みたいで迫力ありませんね、石垣には刎ね出しがついていますね。

五稜郭の説明版・・・築城者は大給松平乗かた、代々陣屋格なので天守は持てなかったので当初からありませんね、もともと稜堡の洋式では目印の建物とか近くに山がある場所は禁句ですがね。

此れが五稜郭の星形稜堡の洋式城郭です・・・一部水堀が未完で終わってますね函館五稜郭と大きさは違いますがお城に憧れたのでしょうね、半月堡は構築されていませんね・・・虎口の前の馬出みたいな半月堡。

龍岡城大手門前です、右脇は龍岡城であいの館です・・・資料地図とかお世話になりました。

大手門へ近づいて見ます。

城内の土塁上から大手門の橋方向を・・・・堀の幅が7m位(函館五稜郭は30m位)。

大手門橋うえからのお堀です・・・桜の花と会いますね。

やはり城内土塁の上から曲がりくねったお堀と桜風情がありますね。

やはり大手門の橋。

此方も大手門橋とお堀。

城外からお堀端を見て回りますね。

近場では星形の石垣もわかりませんが、何故か幅が狭いのでお堀に風情が・・・・桜の時期と重なったのも!!。

花弁が花筏ですよ。

もうひとつお堀端を・・・こちらは別の虎口ですね、中は学校なのですが今日は日曜日なのか?出入りが自由なので助かりますね。

城内へ少し先に虎口らしき石垣が・・・奥はグランドと校舎が見えます・・・直径が187m(函館は500m)とか。

グランド・・・学校です。

今は行った虎口を振り返りますね内側の土塁ですね。

横には招魂社が・・・後城内には御台所がありますが入りませんでした。

此れから田口城へ・・・・であいの館で説明と地図を頂き、立派な家の脇を曲がりますね、昔は蕃松院より登れたのですが崖崩れとか、此方のルートよりに・・・・おかげで蕃松院へ寄らなかったですね・・・失敗しました。

脇を突き抜けてその先の細い道に案内が在りました感謝です。

此処から城山への登り口です、この左側150mに蕃松院があるみたいです、山登りです。

急な坂を上り・・・・細かな所は田口城で・・・・取り合えず龍岡城五稜郭見晴らし台へ。

龍岡城五稜郭を上から見ました、如何ですか桜の花でお堀が見ずらいですが星形が解りますか、私は右側奥の道から来ました、正面ヤヤ左側が大手門です。

この写真では如何でしょうかネ・・・わかりますよね!。

念のためにもう一枚見晴らし台は一か所なので同じ角度ですが、此処は田口城の一角です、この後城内を見て回ります。


上田城に行って来ました。

2021-04-25 10:54:40 | 城郭長野1
2021年4月16日(金)に長野県上田市の真田一族ゆかりの里・・・砥石・米山城に行き、帰りに上田城に行って来ました、上田城は何度か行きましたね、天正11年(1583)真田昌幸によって築城です・・・砥石城は1550年ですから、戦国の時代を勝ち残ってきましたね。

見ずらいですが、長野県上田市の駅前(地図の左下)、中央が上田城です、上田盆地のほぼ中央です、砥石・米山城等の山城に囲まれた平城です、昔は千曲川が脇を流れている河岸段丘に建てられたのです、城の右側後方面は湿地帯だったのです。

現在の上田城周辺です下側に千曲川の河岸段丘の壁がそそり立ています、上側のグランド左側は沼地で前後に大きな外堀と内堀での防御ですね、この城は徳川軍と二度の合戦を行って負けなかったのです・・・防御性が高いしろですね・・・単に立てこもるだけでなく周りの山城との連携で頑張ったのでしょうね?。

此れが当時?のお城の縄張り図です、川と沼地と河岸段丘の壁と堀で守られているのが解りますね。

外堀に架かる二の丸橋です、奥が二の丸。

此れが二の丸を囲む外堀・・・深く大きいですね。

二の丸に入り本丸方面をみました、左側から南櫓・東虎口櫓門・北櫓です。

南櫓と東虎口櫓門、手前は内堀に架かる橋。

東虎口櫓門と北櫓。

内堀です、今後本丸の隅櫓二つを復元する計画があるみたいですね・・・復元すればこの位置から見えますね。

本丸の内側から見た東虎口櫓門と南櫓。

北櫓ですね。

真田神社です。

真田神社から見た西櫓。

西側の虎口側から見た西櫓。

西側の内堀。

河岸段丘を降りて尼が淵(元は千曲川)から見上げた西櫓・・・一部の壁はそのまま使用しています。

此れも尼が淵から見た南櫓。

少し角度をかえての西櫓。

南櫓。

少し離れてふたつの櫓を入れました・・・・途中雨が降ったりしていましたが、その後止んで良かったです、明日は雨なので休養です。


砥石城に行って来ました(真田一族ゆかりの地・・砥石本城・桝形城)。

2021-04-24 15:56:43 | 城郭長野
2021年4月16日(金)に真田一族ゆかりの地長野県上田の砥石城に行って来ました、米山城・砥石城・砥石本城・桝形城と一連の山城から構成された砥石城です、今回は砥石本城・桝形城です。

今回は真ん中緑の濃い部分と山から下り水の手を見て戻ってきます。

砥石城の一の曲輪を降りて振り返ります、ここから砥石本城の尾根筋へ。

尾根筋です。

砥石本城が見えてきました。

砥石本城の虎口ですね、桝形城へ行った後に此処まで戻り下城します、取り合えず本城へ進みますね。

尾根筋ですが結構横幅がありますね。

段々に削平された曲輪が続きますね、米山城・砥石城には沢山の軍勢を養う場所ではありませんからネ。

土塁に混ざり石垣?(石積)が見受けられますね。

一の曲輪の土塁と石垣。

砥石本城の一の曲輪です、奥に見えるのが桝形城です。

砥石本城の一の曲輪。

枡形城へ向かいます。

枡形城への上り路。

枡形城虎口ですね。

枡形城です・・・今までのお城の中で一番小さい曲輪ですね。

枡形城の隣に二の曲輪?・・・出城・・・堀切で分断土橋で連結が見えます・・・見晴らし場所です。

下に見えるのが、真田の里で真田本城・・・複数の山城が点在質ますね。

この図のように複数の山城に囲まれた真田の里。

上の図を見ながら如何ですかネ?。

先程の本城入り口まで戻り下りました、途中でもう一本別の降り口と合流しました。

少し下るとやはり削平地が木々の間から見えますね。

水の手曲輪の標識がありました、大手門方向と水の手方向の分岐がありましたが・・・・水の手を見に来ました。

横に少し入るとありましたね。

水の手です、山肌から水が湧き出ていました・・・今も水が出ていますね。

なおも下ると、松代道へ合流しました、あの佐久間像山が勉学の為通った道とか。

砥石城大手門への道です・・・水の手の為この道は通らず。

大手門を少し下れば陽泰寺へ伊勢山のバス停はもう近いですね・・・・でもこの後雨が降り出しましたね・・・でも・・上田城へ見参です。


砥石城に行って来ました(真田一族ゆかりの城)。

2021-04-24 07:29:22 | 城郭長野
2021年4月16日(金)に長野県上田市の砥石城に行って来ました、砥石城は米山城・砥石城・砥石本城・枡形城の4つの山城からなり、近辺にも沢山(70近くの山城)この真田一族ゆかりの地には山城があるのです、隣の坂城には村上義清が支配しこの砥石城も築城したものです。

砥石城は米山城を前に後ろを枡形城を背景にした山城ですね、天文19年(1550)武田信玄が信濃攻略で村上義清に2度も大敗した戸石崩れで有名な所ですね、その翌年真田幸隆が調略して奪い取りましたね・・・・真田はこの地方の小さな豪族なのですが一族も多くいたのでですその後武田信玄の元で活躍、長篠の戦で長男・次男が討死、三男の昌幸が真田性に復帰・・・上田城築城は天正11年(1583)ですからね。

さて、砥石城へ米山城から女坂を戻り分岐へ、正面が砥石城です直進します。

結構な急な階段を上りますね。

振り返りますね、右側はガケですね。

上ると虎口でしょうか岩に囲まれた隙間が・・・。

中側はなをも上りでしたね。

漸く上が見えてきました虎口らしく見えますね。

岩壁を回り込むように上りますね。

此処でも振り返りました、上からの攻撃に耐えられませんね。

最後の階段を上りますね。

砥石城一の曲輪ですね。

砥石城からの景色です上田市内が眼下に・・・富士山も見えるみたいです。

上の看板の景色です、上田城?は。

右側が富士山の見える位置ですね、多分櫓門のあった方角かな・・・。

脇に腰曲輪?かな。

砥石本城への虎口です・・・・こちら側に山尾根が続きます、砥石城もまた小さな砦ですね。

砥石城虎口を外下から・・・・。

砥石城を少し離れて、此れから尾根筋を砥石本城・桝形城へ見て回りますね。


砥石・米山城に行って来ました(真田家ゆかりの山城)。

2021-04-23 11:39:38 | 城郭長野
2021年4月16日(金)砥石・米山城に行って来ました、上田駅から伊勢山バス停へ砥石城の山城(米山城・砥石城・砥石本城・枡形城)を見て回りました、真田幸村で有名な真田家のお城です。

真田丸で一躍有名に・・・・砥石城は上田駅の北北東の低山にあり米山城・砥石城・砥石本城・枡形城の四城から出来ていますね、元々は北信濃の戦国大名村上義清(坂城の葛尾城本拠)が築城、天文19年(1550)上田の合戦(1548)で敗れた武田信玄は村上義清に属する砥石城へ再び攻撃したが失敗した”砥石くずれ”は有名ですね、翌年、真田幸隆調略で砥石城を落とし、その後真田のお城となったのです、この奥の方には真田氏本城をはじめ幾つかの山城がありますね。

上田駅から右下の伊勢山バス停へそこから山城を見て回り本城より水の手・陽泰寺を経由し戻りました・・・軽い山登りです。

コースをもう一度、今回は下の方の米山城のみです。

バス停から案内版を頼りに砥石城出てきました・・・この辺はすでに裾野で岡状態ですね、左が米山城です。

砥石・米山城の虎口です。

虎口から振り返ると上田市が見えますね、武田信玄は多分左手の山殿城山へ陣を張ったのでしょう?。

模擬の櫓門が出迎えてくれました。

低く張り出したしばらく上りますね、

右側に見えるのが米山城です。

尾根筋に出ましたね、右側が砥石城方面です、左側が米山城。

振り返ります、砥石城ですね、後程此処まで戻りますよ。

砥石城の虎口でしょうか?。

虎口?、男坂と女坂に分かれていました、男坂を上ります・・帰りは下側に出てきましたね。

急坂を上りました。

いきなり一の曲輪ですね。

振り返りますね、厳しいのです、向こうの山が砥石城です。

上れば一の曲輪です。

一の曲輪には村上義清の碑がありました。

上田の町が見えますね。

一の曲輪下側に二の曲輪が見えますね。

二の曲輪の下に三の曲輪?と段々に削平地が見られますね。

虎口ですね、右側が金剛寺ロート側、左側が先程の女坂方面への出口ですね、此処までが米山城です、見た感じは此処だけでは砦(出城)ですね単独での機能は難しく感じましたね。


向羽黒山城に行って来ました(一の曲輪)。

2021-04-22 06:23:23 | 城郭福島
2021年4月15日(木)に会津本郷の向羽黒山城に行って来ました、今回は本城の岩崎山山頂付近の一の曲輪です。

一の曲輪側と二の曲輪の間を現在は舗装道路で分断されています、昔は堀切で分断。

たびたび出ますが、上の部分です。

道路わきにある説明版。

見ずらいですが地図。

道路脇の虎口から入ります。

虎口内の広場奥に竪堀が山頂目指し掘られています。

逆側にも竪堀・・・規模が小さいですがあり。

少し上ると見えますが、その向こう側にも段々の削平地が見られます一の北曲輪ですね・・・二の曲輪から堀切わかれていますがこちら側の第一陣の防御の場所ですね。

一の曲輪(本丸・本城)の虎口ですね、正面に切岸で回り込むように階段。

一の曲輪脇の空堀と土塁。

虎口です脇の階段を回り込むように上に上りますね、正面は急な斜面です(切岸)。

上に上ります。

上りきると平地になりました、突き当りは尾根ですね。

尾根の左側も広場になっていますが、特別な防御は見られませんね?。

右側は奥に高台が見えます。

少し進みます、道なりに行けば上からの横矢掛かりですね。

上に上がればその先も曲輪が・・・・山城の特徴ですね、尾根筋を段々に削平し防御を高めていますね。

その先に上がれば、まだまだ先の曲輪がみえます。

どうやら最後の曲輪でしょうかネ。

上りましたよ、向羽黒山城一の曲輪です。

一の曲輪からの眺望です・・・・飯豊連峰が又奇麗に見えました・・・此処からは会津若松城・磐梯山は見えませんね・・・弁天曲輪からは一望できる。

脇に腰曲輪が・・・西側の曲輪が右下の方にもありますね。

一の曲輪です。

一の曲輪脇の阿賀川が眼下に・・・・、慶長6年(1601)上杉景勝が会津(100万石)から米沢(30万石)へ移封となり廃城、これで向羽黒山城散策は終わります。







向羽黒山城に行って来ました(水の手曲輪・二の曲輪)。

2021-04-21 14:00:48 | 城郭福島
2021年4月15日(木)に会津本郷の向羽黒山城に行って来ました、前回は三の曲輪でしたが、今回は水の手曲輪・二の曲輪(中城)です、次回は一の郭(本城)の三部となりますネ。

前回も出ましたが、左下から城内へ”お茶屋場曲輪”まで今回はほぼ中央の水の手曲輪と二の曲輪です。

お茶屋場曲輪からすこし戻る感じの左側に”みかえり坂”より上りますね。

路は階段をのぼりますよ。

急坂を上ると二の曲輪の切岸でしょうか?。

回り込むように上り階段があります・・・横矢かかりでしょう・・・此処からは上らず右横方面へ回り込みますね。

回り込むと削平地が段々又は土塁が見えました。

此処も水の手曲輪?・・・二の曲輪脇下に当たりますからネ、空堀と石が転がっていますし土塁が積み上がっていますし?。

なおも回り込むと段々の削平地竪堀が広がりますね。

左側は水の手でしょう・・・土塁が高く積み上がっています。

今の写真の続きです・・・・この空堀が水の手で右側に沢山の削平地・・・水の手曲輪なのでしょうね。

土塁の上から下がわを見ました・・・沢山の人工的構築が見られますからネ。

本当に沢山扇方に広がっていますからネ。

二の曲輪方面を見上げますね・・・虎口らしき切通が。

解りずらいですが、虎口ですね、左側が二の曲輪。

虎口ですね、左側手前下が水の手曲輪、正面突き当りは切岸で止まれ、右側に回り込むと、一の曲輪方面へ
突き当たり左側に階段があり二の曲輪へ。

少し近づくとわかりますね、二の曲輪の空堀と階段が。

階段を上ると下が解りやすく見て取れますね、結構な高さがあり上からの攻撃がしやすそうですね。

階段を上がれば二の曲輪です。

二の曲輪の説明版。

結構な高さの二の曲輪ですね周りに腰曲輪。

二の曲輪からも会津若松城方面が見えます・・・会津若松城と連携した防御の城ですからネ、徳川家康が関ケ原の戦いを始める前に上杉景勝征伐を、その時にはこの城を改修し強化したそうです。

こちら側も虎口ですね、一の曲輪側です道路向こう側が岩崎山山頂部で一の曲輪側です今は道路ですが、昔は堀切でやはり尾根を分断してたのです二の曲輪(中城)なのです、次回は本城でです。


会津・向羽黒山城に行って来ました(三の曲輪)。

2021-04-20 14:12:28 | 城郭福島
2021年4月15日(木)に会津本郷の向羽黒山城に行って来ました、郡山ー会津若松ー南会津からは歩きで阿賀川に架かる本郷大橋を渡りました。

途中で見た会津磐梯山です電車内から・・・・この磐梯山を軸に回り込むよう進みますね。

凄いですね、何の山かな?・・・飯豊連峰です・・・まだ真っ白です。

南会津駅から会津本郷方面へ阿賀川に架かる本郷大橋から見た磐梯山。

同じく飯豊連峰と素晴らしい景色です・・・肝心の向羽黒山城は?。

丁度磐梯山の逆側、阿賀川の向こう側に見える低い山左が岩崎山408m・隣が羽黒山・観音山(写っていない)・・・白鳳三山の岩崎山が向羽黒山城です。

向羽黒山城入口の案内板・・・岩崎山全山がこれ城郭ですね。

シンプルな縄張り図に置き換えます、図の左下の観音山(282m)・羽黒山(344m)は素通りします、岩崎山(408m)の城内へ・・・舗装道路が城内を貫いていますね、三の曲輪・御茶屋場曲輪・水の手曲輪・二の郭・一の郭と見ていきますね。

此処が城内への入り口です、後がインフォメーションセンターです・・・資料を頂きました。

観音山入口ですが、舗装道路を進みますね。

羽黒山も回り込みますネ。

漸く羽黒山と岩崎山の間に来ました・・・三の曲輪の案内板が、このお城は蘆名盛氏(蘆名氏16代)が永禄4年(1561)から11年(1568)8年の歳月をかけて築城、その後伊達政宗・蒲生氏郷・上杉景勝が改修したのです・・・黒川城(会津若松城)の詰めの城。

三の丸下。

三の丸から羽黒山方面を見る。

三の丸下から見上げる・・・段々の削平地が見えます。

三の曲輪です、この左側方面に北の曲輪があります(今回は行かず)。

舗装道路へ降りて奥に進みました、御茶屋場曲輪です。

景色が良いですよ、此処で景色を見ながら茶のをしみたいです。

飯豊連峰が・・・・。

少し右側にずらすと会津若松城(当時は黒川城が見え)その先に磐梯山が見えますね、此れからですが・・・。

勝竜寺城に行って来ました。

2021-04-19 12:17:48 | 城郭京都
2021年4月7日(水)に京都府長岡京市の勝竜寺城に行って来ました、豊臣秀吉と明智光秀が争った山崎の合戦の古戦場で光秀が過ごした最後の城です。

天正10年(1582)本能寺の変後、山崎の合戦の戦場、左側が豊臣秀吉軍・・山崎城を後ろに、右側が京都側の明智光秀軍・・勝竜寺城を後ろに決戦。

勝竜寺城の位置です地図少し上が長岡京駅です、京都盆地の南西部に位置し京都ー大阪間への要所、山崎の合戦で敗れた明智光秀がこのお城に戻り一夜を過ごし北門から坂本城を目指して落ち延びたのです・・・・歴史的なお城・・・他にもいろいろあります。

JR長岡京駅前に勝竜寺城への案内が・・・・大河ドラマ麒麟がくるで有名になったからでしょうか?。

今に残る遺構?は駅に近い堀と土塁・・・少し先に復元整備されたお城(本丸)ですね。

神足神社脇に残る土塁と堀が復元されていました。

勝竜寺城です水堀に囲まれた近世城郭の原点です元亀2年(1571)織田信長の命で細川藤孝が築城、その後寛永10年(1633)には廃城。

北側です・・・今の北門?、その奥が北門みたいです・・・・後で。

復元北門?。

此方が北門で明智光秀が脱出したと説明版にありましたね、枡形の虎口石垣が遺構として存在。

土塁のうえから見た北門です。

土塁上から見た本丸?。

やはり土塁上から見た南側です、説明の推測ではこの位置に天守が建てられていた?みたいですね。

このお城は細川忠興に結婚した明智光秀の娘お玉が輿入れした場所で・・・後のガラシャです、信長の命令での結婚でしたね。

内側から見た隅櫓・・・・城内桜が。

本丸大手門の枡形虎口。

勝竜寺城表から。

もう一枚復元された勝竜寺城・・・これで今回の京都方面の城郭巡りも・・・・疲れました。