三郎兼続の日記

趣味の写真で山登り・旅行を主体にした日記
最近は山登りが少なく、城郭・巨木へ

城郭の縄張り図と本丸跡2

2020-05-17 09:51:01 | 城郭縄張図

2020年5月17日(日)訪問した城郭の縄張り図を中心に本丸を説明、上杉謙信との関連があるお城を並べました。

春日山城 新潟県上越市 古い縄張り図、春日山の長尾氏(越後守護代)の居城、天然の要害を利用した難攻不落とされました。

春日山城縄張り図、中世城郭ですね、本丸裏側には井戸曲輪もあります。

春日山城本丸、長尾為景・晴景・景虎(上杉謙信)・上杉景勝四代です、謙信は天文17年(1548)-天正6年(1578)の無くなるまで過ごしました、戦国期を走り抜けたのです。

七尾城 石川県七尾市です、七尾湾を一望に見渡せる山城です、石動山山系の七つの尾根の松尾に築いた能登の守護畠山氏の居城。

七尾城本丸 天正4年(1576)上杉謙信は能登の国(石川県)に侵攻、城は1年間の籠城戦に耐えたが家臣重臣同士の対立で孤立開城(織田軍の援軍が途中)、漢詩9月13夜陣中の作は有名ですね、・・・霜は軍営に満ちて、秋気きよし、数行の過雁・・・・。

七尾城本丸の石垣です・・・後に前田利家が入るが、天正17年(1589)廃城、上杉謙信は翌年に死にますね。

白井城 群馬県渋川市です、利根川と吾妻川の合流地点に突き出した舌状台地(中世城郭の理想的条件)に作られた白井長尾氏の居城、主君山内上杉氏が越後に逃れると上杉謙信の勢力下にはいる。

白井城本丸、永禄年間に入ると甲斐武田信玄が西上野侵攻、真田幸隆・信綱により永禄3年(1576)落城、以後目まぐるしく城主が変わるが元和元年(1623)廃城。

唐沢山 栃木県佐野市 藤原秀郷を祖とする、佐野氏の居城、戦国期当初は上杉方の勢力下北条氏政3・5万の兵に攻められるが上杉謙信の援軍で耐える、後に上杉方と対抗、10度にわたる上杉謙信との戦いにたえた、関東の名城とうたわれた。

唐沢山本丸、関東では珍しい本丸石垣の城、天正15年北条方へ、天正18年(1590)豊臣秀吉方へ、慶長5年(1600)関ケ原の戦いでは徳川家康に着き3・5万石の佐野藩となる、慶長7年(1602)佐野城へ移城、廃城となる、現在唐沢山神社。

飯山城 長野県飯山市、千曲川、縄張り図上と斑尾山地に挟まれた越後・信州の軍事交通の要地、上杉謙信の属城。

飯山城本丸 永禄7年(1564)武田信玄の侵攻に備え、信濃出陣の拠点として改修、なお城下には寺町(沢山のお寺)が街道脇山腹にならぶ・・・出陣時の宿泊施設。

武州松山城 松山城の名前は幾つかありますね、埼玉県吉見町、応永6年(1399)上田友直(扇谷上杉家臣)が、対山内上杉・古河公方様に築城、後に後北条との戦いに移る、天文6年(1537)河越城が北条氏綱にせめられ落城、松山城は時の城主難波田憲重らの活躍で撃退・・・・河越城から落ち延びた上杉朝定の居城となるが、天文14年(1545)河越野戦で敗れ扇谷上杉は滅亡・・・北条方へ、永禄4年(1561)上杉謙信の力で取り返すが、永禄6年(1563)北条氏康・武田信玄連合軍が攻撃、籠城戦の末上杉謙信援軍(埼玉県北本まで来たが)を目前に開城・・・・謙信は頭にきて近場の北条方の城に火をかけたとか。

武州松山城本丸 市野川を天然の堀に幾多の戦場になった城。

武州松山城空堀・・・各曲輪は深い空堀で構成されたお城、やはり関東は武田氏・北条氏とのかかわり深い城が多数で、それ以前の山内上杉・扇谷上杉・古河公方関連のお城はその後永禄・元亀・天正の戦いに飲み込まれ城郭も改修されましたからね。



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