goo blog サービス終了のお知らせ 

三郎兼続の日記

趣味の写真で山登り・旅行を主体にした日記
最近は山登りが少なく、城郭・巨木へ

城郭の縄張り図と本丸15(古代)。

2025-04-26 07:04:15 | 城郭縄張図1

2025年4月25日(金)訪問した城郭の内で古代(古い)ものをまとめました。

01dsc00633

秋田城・・・秋田秋田市・・・奈良時代天平5年(733)出羽の国の国府・・・城柵として設置。

02dsc00599

秋田城・・・天平宝字4年(760)城柵から秋田城。

03dsc00600

秋田城・・・説明版。

04dsc00625

秋田城・・・復元門。

05dsc00619

秋田城・・・政庁を復元。

12dsc02980

志波城・・・岩手盛岡市・・・古代城柵、延暦22年(803)坂上田村麻呂築城。

13dsc03016

志波城・・・陸奥の国府、鎮守府。

14dsc02989

志波城・・・大手門・・・復元。

15dsc02986

志波城・・・塀上の矢倉・・・復元。

16dsc02995

志波城・・・城内奥の・・・政庁門・・・復元。

21dsc05655

多賀城・・・宮城多賀城市・・・古代城柵・・・神亀元年(724)大野東人築城。

24dsc05635

多賀城・・・南大門・・・復元。

25dsc05691

多賀城・・・政庁・・・復元模型。

30dsc02399

大宰府・・・・残念ながら大宰府政庁跡には行きませんでした・・・天満宮には行ったのですが。

31dsc06691

鞠智(きくち)城・・・熊本山鹿市・・・7世紀後半(文武天皇2年(698))に大和朝廷が築いた古代山城。

32dsc06697

鞠智城・・・縄張り図・・・広く幾つかの丘を連携。

33dsc06641

鞠智城・・・灰塚・・・見晴らし台。

34dsc06635

麴智城・・・館。

35dsc06688

鞠智城・・・復元・・・食料の備蓄拠点で大宰府が管轄とか?、他に大野城・水木城・・・対朝鮮国対策に作られた城の一つ・・・・対馬の金田城が国防の最前線ですね。

 

 


城郭の縄張り図と本丸14(幕末築城)。

2025-04-25 07:18:33 | 城郭縄張図1

2025年4月25日(金)幕末築城わずかな建築となった城郭を・・・。

福江城・・・長崎五島市・・・幕末の文久3年(1863)五島盛徳が築城・・・新選組が立ち上がった年ですね・・・尊王攘夷・・・攘夷の方ですね、四方を海に囲まれた海城、異国船に対する海防の為許可され14年の歳月をかけて完成した五島氏の居城。

常灯鼻(常夜灯・導水堤)・・・城を築くために波除ブロックとして作ったみたいですね・・・当然海の中。

福江城の石垣と門。

福江城・・・本丸は現在長崎建立五島高等学校・・・天守は無く、二の丸は庭園、城内には台場が儲けられていたそうです。

お台場・・・・東京港区・・・老中首座阿部正弘の命で伊豆韮山の代官江川英竜が建設・・・当時8か所・・・現2か所の第三台場。

御台場・・・・第三台場・・・黒船対策で急いで・・・嘉永6年(1853)。

第三台場の縄張り図。

台場・・・各方面を向いた砲台を設けて見たいですね・・・・レインボー・ブリッジが横に見えますよ。

第三台場の全景・・・・どこかのテレビ局も見えますね・・・江戸を守ったのです・・・いきなり此れだけのものを構築したのですからネ。

龍岡城五稜郭・・・長野佐久市の山中に近代的な城郭が。

龍岡城五稜郭・・・・1・2万石の為、正確には城でなく陣屋として許可された・・・日本に二つしかない星形要塞・・・慶応3年(1867)築城者は後の陸軍総裁松平のりかた・・・西洋軍学に関わり試したかったのでしょうね?。

龍岡城五稜郭・・・稜堡式城郭(星形要塞)。

龍岡城五稜郭・・・堀・石垣とも小さく実践的ではありませんネ、砲台は1基のみ。

龍岡城五稜郭・・・裏山の田口城脇から見た所・・・お城の中現在は田口小学校。

函館五稜郭・・・北海道函館市・・・函館山山麓。

五稜郭・・・・箱館奉行所・・・日本で最初の稜堡式星形要塞、慶応2年(1866)完成、戊辰戦争の箱館戦争の舞台となった。

五稜郭・・・箱館奉行所。

五稜郭・・・全景・・・五稜郭タワーより・・・手前は半月堡(馬出)。

 


城郭の縄張り図と本丸13(佐竹家関連)。

2025-04-24 06:25:02 | 城郭縄張図1

2025年4月25日(木)今回は常陸の国54万石から秋田20万石へ転封の佐竹氏の関連、源義家の弟・・・森羅三郎義光の孫を祖とする名門ですね・・・武田家も同様ですね。

太田城(別名舞鶴城)・・・茨城常陸太田市・・・現太田小学校が本郭。

舞鶴城の碑・・・・佐竹家約470年の居城・・・特に縄張り図は無いですね、この辺り一帯の広大な地域・・・慶長7年(1602)秋田転封で廃城。

久米城・・茨城常陸太田市・・・佐竹北氏の居城、文明10年(1478)山入氏が襲撃落城その後奪還、佐竹義信を城主として備えた佐竹北家。

久米城・・・104mの丘陵に東西南北の曲輪を備えた城・・・東郭が本郭。

久米城本郭・・・・東の城・・・他に西の城・北の出城・南の出城で構成。

水戸城・・・茨城水戸市・・・此れは江戸期徳川・・・天正18年(1590)太田城の佐竹義宣が江戸氏を討ってこの地に移転・・・当時は本丸・二の丸のみ。

水戸城・・・説明・・・佐竹氏の説明も・・・慶長7年(1602)秋田転封までの13年。

水戸城 本丸・・・これも江戸期。

水戸城は土の城ですね・・・・丘陵地帯を堀切で分割。

水戸城・・・本丸の説明。

水戸城本丸脇にある・・・・佐竹氏時代と言われる医薬門。

茂木城・・・栃木芳賀郡茂木町・・・宇都宮氏の支族・・・弘治2年(1556)佐竹氏に攻められ佐竹氏の影響かに・・・天正13年北条・結城氏の連合軍により落城・佐竹氏の援軍による奪還。

茂木城・・・縄張り図。

茂木城本丸・・・虎口から本丸を見る。

小田城・・・茨城つくば市・・・常陸の守護・小田氏の居城。

小田城・・・・縄張り図・・・筑波鉄道(廃線)が本丸を分断。

小田城・・・本丸の縄張り図・・・天正元年(1573)佐竹氏との合戦に敗れ佐竹氏の城となる・・・慶長7年(1602)秋田転封で廃城。

小田城・・・本丸。

久保田城・・・秋田秋田市・・・佐竹氏の居城・・・土塁と堀の城。

久保田城・・・縄張り図・・・慶長7年(1602)転封から築城開始全体完成は寛永8年(1631)。

久保田城・・・天守は無し。

久保田城・・・本丸表門(一の門)。

久保田城・・・本丸御隅櫓。

横手城・・・秋田横手市・・・秋田転封により佐竹氏のものに・・・。

横手城縄張り図。

横手城・・・元和6年(1620)一国一城令が出されたが幕府に働きかけて破却を免れた・・・本来は天守無・・・現模擬天守は二の丸に立つ。

 

 

 

 


城郭の縄張り図と本丸12(海城)。

2025-04-22 09:44:56 | 城郭縄張図1

2025年4月22日(火)訪問した城郭での海城関連をまとめました。

瀬戸内海村上水軍の能島城 村上水軍(海賊)は三つの家に分かれていますね、能島村上水軍の居城、他に因島村上水軍・来島村上水軍。

広島ー愛媛間のしまなみ海道沿いの各島を根拠に活動、因島・来島は広島毛利の小早川水軍に吸収されますが、最後まで秀吉に抗っていましたね。

能島城・・・村上水軍の本拠地、正面高台が本丸。

東南出丸から見た・・・二の丸・本丸・三の丸。

次が因島の村上水軍城・・・・今は山中みたいですが?、広島尾道市。

当時は町中迄海とか・・・・片苅山に因島水軍城が・・・実際とは異なるみたいですが?。

因島村上水軍城・・・・金連寺の境内の片苅山24m。入り江の中にある岬、凝んな立派なお城ではないでしょが。

広島三原市、三原城小早川隆景が永禄10年(1567)築城、新高山城から移りました・・・毛利一族の水軍を束ねましたね、因島村上水軍は一翼を担っていましたね。

新幹線で分断されていますが、三原城天守石垣、城郭と軍港の機能を兼ねた備えです智将ですからね。

静岡下田市・・・下田城 小田原北条氏の水軍の拠点、天正16年(1588)北条氏直築城・・・対豊臣軍対策。

天正18年(1590)豊臣側の水軍1万が来襲、約50日の籠城戦後開城。

下田城腰曲輪から見た・・・正面が本丸。

長浜城・・・静岡沼津市、伊豆における北条水軍の根拠地の一つ、天正18年(1590)豊臣軍来襲の折には小田原へ・・・・その後は廃城。

長浜城本丸からの景色・・・・富士の下は沼津。

長浜城二の丸から本丸を見る。

赤穂城・・・兵庫赤穂市・・・忠臣蔵で有名な播州赤穂城・・・変形輪郭式海岸平城。

現在は周りは海ではありませんが(この手は多いですね)、慶長5年(1600)池田長政築城、浅野長直慶安元年(1648)改修。

赤穂城本丸大手門。

本丸・・・奥が天守台・・・天守閣は無かったみたいですね・・・元和偃武(1615年豊臣氏滅亡)の後ですからね。

唐津城・・・佐賀唐津市・・・松浦川が唐津湾にそそぐ河口。

唐津城・・・寺沢広高が慶長7ー13年(1602-08)の7年をかけて築城。

満島山山上に本丸・・・複合式望楼型5重5階地下1階の天守・・・別名舞鶴城。

唐津城。

高松城・・・香川高松市、生駒親正が天正18年(1590)築城、日本3大海城の一つ・・・・他は今治城・宇和島城、・・・縄張り図がありませんが?、北の丸月見櫓と水手御門・・・・堀の水は海水。

高松城本丸天守石垣上から見た内堀・・・本丸からの虎口は此れのみ・・・木造の鞘橋(廊下橋)・・・右側が二の丸。

宇和島城・・・愛媛宇和島市・・・慶長元ー6年(1596ー1601)藤堂高虎が築城

当時は三方が海とか現在はすべて陸地に・・・・。

宇和島城・・・水の手曲輪方面から見上げる。

今治城・・・愛媛今治市・・・慶長7ー9年(1602-1604)藤堂高虎が築城。

今治城・・・5重6階の天守。

大村城・・・長崎大村市玖島・・・大村湾に突き出した半島に大村喜前が慶長4年(1599)築城。

大村城縄張り図。

大村城・・・本丸は神社に二の丸端の板敷櫓・・・右側は南堀?・・・・すぐ海辺ですが。

 

 

 

 

 

 


城郭の縄張り図と本丸11(明智光秀関連)。

2025-04-20 09:57:00 | 城郭縄張図1

2025年4月20日(日)明智光秀との関連がある城郭をまとめてみました。

織田信長の丹波攻略の命を受けての、総指揮官の明智光秀が関連したお城を求めて見ました、丹波はJR嵯峨野線沿線ですね・・・京都丹波口が有りますからネ・・・八木駅から始まりますね。

京都南丹市八木町の城山330m・・・・丹波守護代内藤氏の山城・・・山麓から山頂まで・・・戦国期丹波地区の三大山城の一つ①八木城・内藤氏②兵庫丹波市黒井城・赤井氏③兵庫篠山市八上城・波多野氏です。

山頂の本丸を中心に各尾根筋に曲輪が広がりますね、明智光秀丹波攻略開始・・・天正3年(1575)落城しました・・・内藤氏にはキリシタン大名の内藤ジョアンゆかりの地でもありますね。

兵庫丹波市黒井の北に聳える城山356m、天正7年(1579)城主の赤井直義の時落城、明智光秀は天正3年(1575)丹波攻略で黒井城城主赤井直正を包囲・・・順調だったのですが、背後から当時味方だった波多野氏が寝返り・・・敗れました、天正5年(1577)再度攻めます包囲策・・・城主赤井直正病死、その後波多野氏の八上城が陥落した2か月後黒井城も落城。

黒井城は山麓部と山頂の山城。

黒井城山頂部の縄張り図。

山頂部三の丸。

黒井城本丸・・・二の丸から見上げる。

明智光秀は波多野氏の裏切りに会い、丹波攻略の拠点として、天正5年(1577)京都亀岡市に亀山城を築城。

此れは慶長15年(1610)天下普請として亀山城を大改修・・・当時築城名人の藤堂高虎が縄張り・・・・。

亀山城本丸の石垣 上の図の⑤の石垣と⑥の奥の石垣・・・現在本丸天守部分には入れませんね。

八上城兵庫丹波篠山の波多野氏の居城、高城山460m比高240m、明智光秀軍は再び丹波攻略へ八上城を攻めますね・・・天正5年9月から翌々年6月にかけて八上城を包囲落城。

八上城 三の丸・・・奥が二の丸。

八上城二の丸・・・奥が本丸・・・・山の峰を削平した典型的山城の各曲輪が続きますね。

八上城本丸・・・包囲網の前に戦わず開城ですね。

周山城京都京北周山町・・・丹波平定後若狭の抑えとして設けて山城、470m比高220m・・・天正8年(1580)築城・・・・この山奥に如何して?・・・。

周山城 本丸。

周山城北側の曲輪・・・東側に残る石垣・・・・若狭の抑えに此処まで?。

時を同じくして・・・福知山城を改修。

京都福知山、福知山城本丸・・・天正7年(1579)築城。

福知山城本丸。

天正10年(1582)本能寺の変により、主君織田信長を討った明智光秀はこの勝竜寺城を拠点として、羽柴秀吉を迎えうつ、圧倒的な秀吉軍を前に”山崎の戦い”で敗れ最後の夜をこの城で過ごした。

勝竜寺城は細川藤孝(幽斎)が信長の命で改修した城で、光秀の娘たま(ガラシャ)が細川家に輿入れした城ですね。

勝竜寺城本丸。

明智光秀が坂本城へ落ち延びるために脱出した・・・北門。

 


城郭の縄張り図と本丸10.

2020-06-15 14:14:18 | 城郭縄張図1

2020年6月15日(月)今日は暑いですね、そろそろ山に行きたくなりましたね、山城はもう虫が多くて散策するのも大変ですからね。

石戸城 埼玉県北本市、荒川と周りの湿地帯を利用した、梯郭式平城、永禄6年(1563)武州松山城を武田信玄・北条氏康による連合軍が攻撃、山内上杉の太田資正(岩槻城)配下が籠城戦で上杉謙信に救援、謙信の救援軍が石戸城まで来た時にわずかな差で落城・・・その石戸城です、その前年鉢形城北条氏邦が石戸城を攻撃・・・何度か撃退されるが、夜陰に乗じての土堤を作り沼地を渡り攻め落とした一夜堤は今に残る。

石戸城 荒川の河川敷より見る。

騎西城 埼玉県加須市、平城(沼城)現在も畑・田んぼに囲まれていますが湿地帯ではありませんが、当時は湿地帯に浮かぶ小島を有機的に連結した縄張り図になっていますね、永禄6年(1563)上杉謙信が武州松山城の救援に駆け付け、近くの石戸城(埼玉県北本市)まで来た時に城は開城、悔しく・・腹いせにこの城や菖蒲城を落としたのです、この地は忍城の成田氏の傘下であり、上杉・北条との戦乱に巻き込まれ大変な地なのです。

騎西城 層塔型3重3階の模擬天守・・・天守は当時実在しない。

川越城 埼玉県川越市、長禄元年(1457)扇谷上杉持朝の命で太田道真・道灌が築城、北条時代大道寺政繁・江戸期知恵伊豆と言われた松平信綱が改修、老中の居城と言われ柳沢吉保も一時城主。

川越城 北に新河岸川さらに北に入間川、南に遊女川と湿地帯に囲まれた地。

川越城 寛永元年(1848)建築の本丸御殿・・・現存、天守は無かった。

赤山城(赤山陣屋) 埼玉県川口市、寛永6年(1629)関東郡代伊奈忠治7千石が築城、広大なお城、土木技術の専門家らしく豊かな湿地帯と土塁空堀で曲輪を構築・・・幕府完成後によくこのような城郭が許されたのかも?。

赤山城 寛政4年(1729)改易廃城。

赤山城 本丸虎口。

前橋城 群馬県前橋市,古くは厩橋城と言われ関東の名城、利根川と広瀬川を外堀にした渦郭式の平城、再三による利根川の水害により流失、幕末期に再築したが半年ご大政奉還。

前橋城 旧城三の丸東隅の土塁。

荒砥城 長野県千曲市上山田、村上氏一族の山田氏の山城、千曲川を挟み村上氏の葛尾城の支城。

荒砥城 本丸から見た二の丸・・・左側奥に葛尾城があります・・・良く見えますね、武田信玄と争い一時は勝ったのです・・・村上義清の城。

荒砥城 櫓台の上から見た本丸です、・・・ここは詰めの城ですね、山の中腹に居住拠点があり戦いのときに登のです・・・・復元されるとわかりやすいですね。

本佐倉城 千葉県洒酒井町、享徳3年(1454)下総守護千葉輔胤が千葉城から本佐倉へ移り、太田道灌と同時期・・・、文明年間(1469-1486)に築城、三方が湿地帯の要害地、元和元年(1615)土井利勝は佐倉城へ移城し廃城。

本佐倉城 連格式平山城、、幾つかの曲輪から、城山・・・本丸、奥の山・・・二の丸。

本佐倉城 城外より東山虎口を見る。

本佐倉城 東山虎口を入りⅣ郭の虎口、正面奥左側が本丸城山。

福知山城 京都府福知山市、連格式平山城、天正7年明智光秀築城(安土城が完成)、元禄期有馬氏8万石が改修、東西へ由良川、東北西は断崖の要地。

福知山城 昔の風景図

福知山城 崖下より城門天守を見上げる。

福知山城 天守、複合連結式望楼型3重4階・渡櫓・小天守2重2階。

福知山城 天守、左天守石垣の中央の亀裂は築城後の追加石垣分・・・この部分は張り出した小さな出櫓だったのですね。











城郭の縄張り図(徳川関連の城)。

2020-06-09 16:51:20 | 城郭縄張図1

2020年6月8日(月)今回は徳川一門の城郭に絞りました、徳川15代将軍

徳川家康ー2秀忠ー3家光ー4家綱(実子なし)-5綱吉(館林)-6家宣(甲府)-7家継(実子なし)-8吉宗(紀州)-9家重ー10家治ー11家斉(一橋)-12家慶ー13家定(実子なし)-14家茂(紀州・実子なし)-15慶喜(水戸ー一橋)、

徳川家康の子供男子ー信康(20歳、信長により死)-結城秀康ー徳川秀忠ー松平忠吉(27)-武田信吉(21)-六男松平忠輝(92・改易)-松平松千代(6)-平岩仙千代(6)-9男徳川義直(尾張)-10男徳川頼宜(紀州)-11男徳川頼房(水戸)・・・・甲府・館林(遺構があまりありませんね)は入れませんでしたね。

岡崎城 愛知県岡崎市、梯郭式平山城、乙川を背後に松平清康(徳川家康の祖父)の居城、天文11年(1542)家康誕生の城、永禄3年(1560)桶狭間の戦いで今川義元が敗死、岡崎城を取り戻す、元亀元年(1570)浜松城へ移る、城は嫡男信康へ(後に信長により自刃)、天正18年(1590)田中吉政により近世城郭に改修、元和3年本多忠利により天守が建つ。

岡崎城 江戸期の模型図・・・今は本丸中央に神社があります。

岡崎城 天守複合式望楼型3重3階、上の図の右側方面より見上げる。


浜松城 静岡県浜松市、梯郭式平山城、元亀元年(1570)徳川家康が岡崎城(嫡男信康に譲る)から移る改修、元亀3年(18573)武田信玄の上洛時、城より打って出、三方ヶ原の戦いで破れる・・・・城門を開いたままの話が有名ですね。

浜松城 櫓門と天守。

浜松城城内からの櫓門と天守。

浜松城天守 望楼型3重4階。


江戸城 東京都千代田区、輪郭式平城もしくは平山城、康正3年(1457)扇谷上杉持朝の家臣太田道灌築城、その後北条氏綱・徳川へ、慶長期天下普請(1603-)、元和期天下普請(1618-)、寛永期天下普請(1628-)、万治3年(1660)神田川お茶の水の拡張工事で約60年の城郭工事が終了、神田川の外堀、見事ですね天守は3度建て替え、3度目は明暦の大火(1657)で炎上焼失以後天守は無し

江戸城 現皇居・・・中央下皇居東御苑が三の丸・二の丸・本丸。

江戸城本丸 皇居東御苑・・・三の丸・二の丸・本丸。

江戸城西の丸伏見櫓 二重橋の石橋上から鉄橋を見る・・・皇居参賀で西の丸へ入りました。

江戸城本丸内濠白鳥濠。

江戸城本丸内濠蓮池濠・・・ここも普段は入れませんね、右側石垣上に富士見櫓。


駿府城 静岡県静岡市、輪郭式平城、今川氏全盛期9代義元の時天文18年(1549)松平竹千代(徳川家康)は7-19歳(12年間)人質で駿府に、その後武田信玄・徳川家康の戦場となり中世の城郭は壊滅。

駿府城 天正13年(1585)家康は居城として現二の丸を築城、その後関東へ移封。

駿府城 慶長10年(1605)将軍を2代秀忠に譲り、翌年隠居城として駿府城を改修、寛永元年(1619)には徳川秀忠の第2子忠長が城主に、その後改易、城は城番制となる(大阪城・二条城)、現在は本丸・二の丸が一つ、元はこの図の前の図三重の堀が当時。

駿府城本丸徳川家康像、天守は7層・・・焼失。

駿府城 二の丸巽櫓・東御門。


大阪城 大阪府、輪郭式平城、石山本願寺跡に豊臣秀吉が天正11年(1583)から7年の歳月をかけ築城、北に淀川が流れる要害地、慶長20年(1615)大阪夏の陣で落城し豊臣家滅亡。

大阪城 元和6年(1620)-寛永6年(1629)2代目将軍徳川秀忠が築城、城主は置かず城番制ですね、幕末期14代家茂(この城で病死)、15代慶喜は大政奉還後この城に入りましたがね。

大阪城 極楽橋方面からの天守、独立式層塔型5重5階地下1階。

大阪城 曲折屛風石垣と天守。


二条城 京都府京都市、輪郭式平城、13代足利義輝の居城、15代足利義昭(織田信長が築城)、慶長3年(1603)徳川家康が征夷大将軍就任で築城、城番制、2代秀忠・3代家光までが使用、天守は落雷で炎上・・本丸御殿も火災で焼失、二の丸御殿が国宝・世界遺産、慶応3年(1869)大政奉還・・・15代慶喜・・・この時二条城に直属の兵5000・会津兵3000・桑名兵1500が集合待機・・・軍事衝突を恐れ大阪城へ・・・翌月に鳥羽伏見の戦いとなる・・・(歴史にもしもはありませんが)。

二条城 二の丸御殿・・・歴史の舞台です。


名古屋城 愛知県名古屋市、梯郭式平山城、慶長14年(1609)徳川家康が豊臣家の抑えに天下普請で築く、本丸の石垣は加藤清正、徳川家康9男義直尾張藩47万石の居城、本丸はほぼ正方形、織田信長誕生の那古屋城(二の丸)、昭和20年(1945)の空襲で焼失。

名古屋城大手門 西南隅櫓方面より大手門と櫓門。

名古屋城天守 同じく西南隅櫓方面から手前石垣は小天守(木で見えず)との渡廊下。

名古屋城 小天守への虎口・・・小天守より大天守へ渡る仕組み。

名古屋城 天守(小天守ー大天守)、手前は本殿の一部、連結式層塔型5重5階地下1階。


和歌山城 和歌山県和歌山市,梯郭式平山城虎伏山49m北に紀の川を天然の堀、天正13年(1585)豊臣秀長の築城、元和5年(1619)より大改修徳川家康10男頼宜の紀州藩55・5万石の居城。

和歌山城 天守は火災・落雷・戦災と三度焼失。

和歌山城 三の丸側から見た一の橋大手門。

和歌山城天守 連立式層塔型3重3階。

和歌山城 天守二の門(楠門)、隅櫓から多門櫓で繋がる連立式天守ですね(姫路城・伊予松山城)。

和歌山城 二の丸と西の丸に架かる御廊下橋・・・屋根付き橋ですね・・・府内城・福井城でも見ましたね(高松城は名前だけ))、如何でしょうかネ。


水戸城 茨城県水戸市、御三家水戸徳川、徳川頼房(家康11男)25万石の居城、北に那珂川、南に千波湖を天然の堀とした連格式平山城、土塁・空堀の関東式。

水戸城 三の丸・二の丸・本丸(連郭)・・・本丸は武器庫とか?。

水戸城本丸に現存の高麗門 佐竹時代の門とか、二の丸に御三階櫓の独立式層塔型3重5階があり、空襲で焼失。

水戸城 二の丸と三の丸の空堀にはJR水郡線が走る、大手門が復元されたみたいです。


福井城 福井県福井市、輪郭式平城、柴田勝家の北ノ庄近辺に越前松平、結城秀康(徳川家康次男)68万石が慶長6年(1601)に築城。

福井城本丸 現在二の丸・三の丸はない、秀康は豊臣秀吉の養子となったが、秀頼が生まれ、結城家に養子として出された、嫡男信康はすでに死んでいたが養子に出ているため・・・2代将軍は三男秀忠となる。

福井城 本丸石垣、望楼型4重5階の天守は焼失、以後本丸は立たず。

福井城 水堀。


高田城 新潟県上越市、越後少将松平忠輝(徳川家康六男)高田藩60万石の居城、輪郭式平城(本丸を二の丸が囲む)、あの伊達政宗の縄張り(娘婿)。

高田城 本丸です石垣でなく土塁が主体の城郭ですね、川に挟まれ湿地帯の平城・・・天守は無かったみたいですね、・・大阪城に憧れました。

高田城 御三階櫓、独立式層塔型3重3階。

高田城 東側から見た所です。


鶴ヶ城(会津若松城) 福島県会津若松市、保科正之(会津松平・・徳川家光の異母弟)23万石会津藩の居城、梯郭式平山城、黒川城・・伊達政宗、若松城・・蒲生氏郷・上杉景勝・加藤嘉明、文禄元年(1592)蒲生氏郷(92万石)が近世城郭に改造、慶長3年(1598)上杉景勝(120万石)が越後春日山より入封、寛永4年(1627)加藤嘉明(43・55万石)伊予松山より入封、寛永20年(1643)保科正之(23万石)が会津藩創設、慶応4年(1868)戊辰戦争の戦闘で1カ月の籠城戦の末開城。

鶴ヶ城 廊下橋、本丸と二の丸を繋ぐ橋。

鶴ヶ城本丸 層塔型5重5階。

お疲れ様でした、結構まとめるのに疲れますね。


城郭の縄張り図と本丸9.

2020-06-08 06:46:21 | 城郭縄張図1

2020年6月8日(月)昨日は寝冷えか・・・鼻水が・・・大変でした今日は治まっていますが、しかし振り返ってみると下手な写真が多いですね、反省点が出てきました。

伊賀上野城 三重県伊賀市、梯郭式平山城、天正13年(1585)筒井定次・・・慶長16年(1611)豊臣対策の為、徳川家康の命で藤堂高虎が改修し高石垣で有名ですね、台風の為天守が倒壊、元和元年(1615)大阪夏の陣で豊臣家滅亡で築城も中止、藤堂高虎は津城が本城です・・・(津城はまだ行ってませんね)。

伊賀上野城 左側のお城・・・奥にも石垣(古城跡が在りますね)。

伊賀上野城 西側の対豊臣対策で構築した高石垣と堀・・・確か高い所で23m・・大阪城は30mとか。

伊賀上野城 層塔型3重3階ですが、当初は5層の予定が3層となり天守台石垣とのしっくり感が・・・。

岡山城 岡山県岡山市、梯郭式平山城、旭川を背後に川向うの後楽園を曲輪に、宇喜多直家が入城、天正18年(1590)から子の秀家57・4万石が大改修、後にあの小早川秀秋も入っていますね、残念ですが昭和の空襲で炎上焼失。

岡山城 後楽園より見える城。

岡山城 旭川を背景に、複合式望楼型4重6階の大天守。

岡山城 本丸大手門側・・・後楽園の反対側です、下側が三の丸方面です。

掛川城 静岡県掛川市、梯郭式平山城、永禄12年(1569)今川氏より徳川が奪う・・・その後の武田氏との戦いにも持ちこたえましたが、天正18年(1590)山内一豊5・1万石で移封し改修(関ケ原以降高知へ)。

掛川城 本丸と天守丸・・・三日月堀。

掛川城 本丸・・・・四足門・荒和布櫓・・・・天守丸・天守。

掛川城 天守丸に聳える、複合式望楼型3重4階天守。

関宿城 千葉県野田市、利根川水系で船運の要地、関東の水運を抑える拠点で戦国末期北条と上杉の間で激しい争奪戦の地となった、梁田晴助(古河公方の家臣)が守り上杉謙信・佐竹義重の援助で頑張ったが、3度目の北条氏康・氏照父子の侵攻で陥落・・・北条は北関東へ進出、小田原征伐後は松平康元(徳川家康の異父弟)が治める・・・河川の中で現在は脇にお城が・・・・古河城も川の中ですね。

関宿城 天守

関宿城 この場所から少し下流の土手脇が元の城跡。

広島城 広島県広島市、輪郭式平城、太田川河口のデルタ地帯に築いた平城、毛利輝元112万石が天正17年から築城、高田郡山城より移築・・・黒田官兵衛(如水)が縄張りとか。

広島城 二の丸・本丸、慶長5年(1600)福島正則が大改修、元和5年(1619)からは広島藩42・6万石浅野家の居城、戦災の原爆で倒壊。

広島城 本丸内部から、複合式連結望楼型5重5階。

広島城 内堀外三の丸より。

広島城 水堀に浮かぶ天守・・・右側奥の方に原爆ドームです。

高田(吉田)郡山城 広島県高田市吉田、毛利家の居城、毛利元就・輝元 改修、江の川と多治比川に挟まれた、吉田盆地の北側の郡山全山の山城。

高田郡山城 拡張により全山の尾根筋に各曲輪が広がる、毛利輝元が広島城を築城し移城、江戸初期に廃城。

高田郡山城 二の丸。

高田郡山城 本丸、毛利家は 広島・・萩城へと。







城郭の縄張り図と本丸8.

2020-06-05 10:23:12 | 城郭縄張図1

2020年6月5日(金)、今日は暑い、写真整理と文章の入力・・。

熊本城 熊本県熊本市、御存じ加藤清正築城、慶長5年(1600)関ケ原の戦いの行賞で肥後一国52万石、梯郭式平山城舌状台地の尖端、南東を流れる白川、高石垣、寛永9年(1632)加藤忠広の時改易、肥後小倉城より細川忠利が54万石入封、明治4年(1871)熊本鎮台指令の桐野利秋(中村半次郎)は老朽化した櫓を破棄、特に西出丸は石垣を取り壊した?、明治10年(1877)の西南戦争では鎮台兵4000人で1・4万人の薩摩軍の攻撃に耐えましたね。

熊本城本丸から見た連結式望楼型3重6階地下1階の大天守と3重4階地下1階の小天守。

熊本城 戌亥櫓・宇土櫓・大天守。

熊本城 宇土櫓(3重5階・・・第三の天守)・小天守・大天守。

熊本城 数寄屋丸から本丸御殿方面の高い石垣、左側奥が天守・・・。

高岡古城 富山県高岡市、梯郭式平城、前田利長築城、キリシタン大名の高山右近縄張り築城、慶長14年(1609)富山城の大火にあい、この高岡城へ・・・5年後死去、元和元年(1615)一国一城令で廃城。

高岡古城 各曲輪が水堀で分かれ有機的に橋で連結された城。

高岡古城 本丸にある前田利長像。

今治城 愛媛県今治市、輪郭式平城(海城)、慶長7年(1602)藤堂高虎が伊予半国20万石となり築城、三重の水堀に海水を引き込んだ海城、内堀と石垣はほぼ当時のまま。

今治城 二の丸から見た藤堂高虎の像と天守望楼型5重6階、藤堂高虎は羽柴秀長に仕え土木技術にたけ城造りの名人と言われましたね・・・徳川家康にも関わり深いし江戸城にも関係していますね。

今治城本丸 鉄御門・武具櫓・・・奥が天守。

今治城 上の堀を右側に回り込みました、左側が武具櫓・多門櫓・山里櫓・天守と美しい城郭ですね。

三戸城 青森県三戸郡、連格式山城、馬淵川と熊原川の浸食で出来た河岸段丘の上を削平、三戸南部氏の居城、天文8年(1539)南部晴政の時築城、天正18年(1590)九戸政実の乱の時の南部信直の居城、後に盛岡城に移る。

三戸城 三重三階櫓が天正19年(1591)に築城との事。

三戸城 大手櫓門。

小田原城 神奈川県小田原市、大森・北条・大久保忠世・稲葉正勝・・、特に北条氏康の時代には難攻不落無敵の城と言われ、上杉謙信・武田信玄の攻撃にも耐えました、江戸期には居館部が近世城郭へ改修、奥の詰めの城(八幡山)も中世城郭の遺構が残る、又延長9kmの土塁と空堀の総構えの外郭も一部・・・慶長19年(1614)徳川家康自らが撤去。

小田原城 総石垣の城の改修は寛永9年(1632)頃、元禄の地震では天守が倒壊。

小田原城本丸 天守、複合式層塔型3重4階。

小田原城 馬出門を入り馬場曲輪から・銅門(二の丸虎口)。

小田原城 常盤門・・・二の丸から本丸の虎口。

足助城 愛知県豊田市、戦国時代の山城、真弓山301mの山頂を中心とした、三河鈴木氏の居城。

足助城 三河松平に属す、天正18年(1590)徳川家康関東へ入国、城は廃城となった。

足助城 下側の図を右側に廻込本丸方向に・・・横矢掛かりの防御です、右側は崖の為隠れられず。

足助城本丸の虎口。

足助城本丸脇からは今登って来た道が左側に、尾根を段々に削平し、矢倉(見晴らし)台、・・・昔のイメージを復元した山城です。

中津城 大分県中津市、梯郭式平城(海城)、天正16年(1588)豊臣秀吉から豊前国6郡12・3万石をもらい黒田考高(官兵衛)が築城、その後細川忠興が監視、中津川河口の地を利用し堀は海水を引き込んだ、慶長5年(1600)細川忠興が豊前・豊後39万石で入封、寛永9年(1632)細川家は熊本城へ転封、以後奥平家。

中津城 本丸より独立式望楼型5重5階。

中津城 内堀側より天守を見る。

土浦城 茨木県土浦城、輪郭式平城、城主は時代ごとに入れ替わる松平信一・信吉の代に改修ほぼ現在の形に。

土浦城 本丸二の丸。

土浦城大手門の櫓門。
土浦城 搦め手側東矢倉。
しかし、今日は暑いですね、夕方にならないと散歩が出来ませんね。