三郎兼続の日記

趣味の写真で山登り・旅行を主体にした日記
最近は山登りが少なく、城郭・巨木へ

日光戦場ヶ原・小田代ヶ原に行って来ました(少し追加)。

2020-06-18 11:45:57 | 山関係
2020年6月17日(水)久しぶり(約3ケ月)に外出し日光戦場ヶ原(海抜1390-1400m)の高原を散策しました、カッコウの鳴き声も聴きましたよ・・・でも普段散歩をしていますが疲れましたね。

JR日光駅です・・大正元年(1912)現在の駅が落成(2代目)ネオ・ルネサンス様式の木造洋風建築2階建の見ごたえのある駅舎。

JR日光駅前から見た日光連山(左側の男体山は入っていませんが、女峰山・赤薙山・小真名子山・大真名子山)ですが雲がかかっています。

日光イロハ坂・中禅寺湖を過ぎて赤沼から戦場ヶ原を散策しますが、昨年の台風19号の水害で木道が数か所通れません、特に戦場ヶ原脇を流れる湯川脇が被害にあいまだ駄目ですね・・・、小田代ヶ原方面へ回り込み、泉門池から光徳方面へ抜けました、クリンソウの千手が浜の方が良かったかな?・・・でもこちらも良かったですよ。

赤沼から戦場ヶ原へ・・・見てください、美しい新緑が・・・いきなりカッコウの鳴き声が・・コロナなんてどこ!!(でも油断は出来ないね)。

途中からは通行止めですが、戦場ヶ原のワタスゲを見に取り合えず行けるとこまで行きました、白いのはワタスゲの花です、ここ戦場が原は男体山の神大蛇と赤城山の神大ムカデが中禅寺湖の取り合いで争ったのでこの名があるのです。

同じ戦場ヶ原ですが、バックの山を入れて・・・多分温泉が岳2333mと思いますが。

もう一枚・・・これは太郎山2368m、遠い昔上りましたね、山頂近辺鹿の足跡が沢山思い出しますね。

★追加★今回は通行止めで行けませんでしたが、少し先の湯川に架かる青木橋です、数年前の6月10日グミの木の花が満開でしたね。

これも青木橋ですが、2月・・・辺りは雪の世界でしたね。

レンゲツツジです、木には毒性があるみたいですね、牛や馬も残すので牧場でも群生したりするそうですね、戦場ヶ原を戻り湯川を渡り少し上り、小田代ヶ原に近づきました。

ここは小田代ヶ原です、海抜1400-1430mですが盆地なので昨年の台風19号の時もしばらく湖水になっていたみたいですね。ラムサール条約湿地に登録・・・湿地から草原への遷移期、後ろの山は外山ですね(日光白根山を隠している山)、湯元温泉脇に大きく立ち上がっている山。


小田代ヶ原を角度を変えて、手前にレンゲツツジ、奥左側の山、太郎山2368m、真ん中小さい山?(女峰山か赤薙山)、小真名子山2323m、大真名子山2375mですね。

これが・・・・小田代ヶ原の貴婦人と呼ばれるシラカバです・・・・。

美しい指??・・・イエイエ、セミですね、ジーツ・ジーツ?と無く春セミです、マツ林だけに生息するセミで余り姿を見せないのですが(別名松セミ・・・俳句の季語とか?)。

小田代ヶ原(左側)から湯滝ー赤沼の散策路へ出てきました、通行止めで赤沼方面は駄目ですね。

外山からの湧水による、泉門池・・・奇麗な湧き水がこんこんと出ています、これも大分依然ですが雪があるころ、少し下流で黄金の?キツネに会いましたね・・・湯川の中で鹿が水草を食べていたのも見ましたね・・・自然が豊富で癒されます。

泉門池と男体山2486m・・・日光二荒山神社の御神体の山ですね。

もう一枚奇麗な泉門池(いずみやどいけ)と水面に出る木骨を芸術的?に。

★追加★冬の泉門池と男体山。

湯川沿いに湯の滝へ上がる路が通行止めの為、戦場が原へ出て光徳方面へ、男体山を目の前に・・・白はカヤの枯れた茎です。

此処でも芸術的?に新緑のカラマツの中に佇むレンゲツツジを(ボケッとしていますかね)。

もう一枚、戦場ヶ原とバックの大真名子山・小真名子山。

★追加★やはり雪の戦場ヶ原を。

あわせて・・・今は貴婦人とは行きませんが・・・・・・。

★追加★この時期の千手が浜のクリンソウです、華やかに。

如何ですか・・・・結構日光には来ていますね、前回は半月山でしたが。


城郭の縄張り図と本丸10.

2020-06-15 14:14:18 | 城郭縄張図1

2020年6月15日(月)今日は暑いですね、そろそろ山に行きたくなりましたね、山城はもう虫が多くて散策するのも大変ですからね。

石戸城 埼玉県北本市、荒川と周りの湿地帯を利用した、梯郭式平城、永禄6年(1563)武州松山城を武田信玄・北条氏康による連合軍が攻撃、山内上杉の太田資正(岩槻城)配下が籠城戦で上杉謙信に救援、謙信の救援軍が石戸城まで来た時にわずかな差で落城・・・その石戸城です、その前年鉢形城北条氏邦が石戸城を攻撃・・・何度か撃退されるが、夜陰に乗じての土堤を作り沼地を渡り攻め落とした一夜堤は今に残る。

石戸城 荒川の河川敷より見る。

騎西城 埼玉県加須市、平城(沼城)現在も畑・田んぼに囲まれていますが湿地帯ではありませんが、当時は湿地帯に浮かぶ小島を有機的に連結した縄張り図になっていますね、永禄6年(1563)上杉謙信が武州松山城の救援に駆け付け、近くの石戸城(埼玉県北本市)まで来た時に城は開城、悔しく・・腹いせにこの城や菖蒲城を落としたのです、この地は忍城の成田氏の傘下であり、上杉・北条との戦乱に巻き込まれ大変な地なのです。

騎西城 層塔型3重3階の模擬天守・・・天守は当時実在しない。

川越城 埼玉県川越市、長禄元年(1457)扇谷上杉持朝の命で太田道真・道灌が築城、北条時代大道寺政繁・江戸期知恵伊豆と言われた松平信綱が改修、老中の居城と言われ柳沢吉保も一時城主。

川越城 北に新河岸川さらに北に入間川、南に遊女川と湿地帯に囲まれた地。

川越城 寛永元年(1848)建築の本丸御殿・・・現存、天守は無かった。

赤山城(赤山陣屋) 埼玉県川口市、寛永6年(1629)関東郡代伊奈忠治7千石が築城、広大なお城、土木技術の専門家らしく豊かな湿地帯と土塁空堀で曲輪を構築・・・幕府完成後によくこのような城郭が許されたのかも?。

赤山城 寛政4年(1729)改易廃城。

赤山城 本丸虎口。

前橋城 群馬県前橋市,古くは厩橋城と言われ関東の名城、利根川と広瀬川を外堀にした渦郭式の平城、再三による利根川の水害により流失、幕末期に再築したが半年ご大政奉還。

前橋城 旧城三の丸東隅の土塁。

荒砥城 長野県千曲市上山田、村上氏一族の山田氏の山城、千曲川を挟み村上氏の葛尾城の支城。

荒砥城 本丸から見た二の丸・・・左側奥に葛尾城があります・・・良く見えますね、武田信玄と争い一時は勝ったのです・・・村上義清の城。

荒砥城 櫓台の上から見た本丸です、・・・ここは詰めの城ですね、山の中腹に居住拠点があり戦いのときに登のです・・・・復元されるとわかりやすいですね。

本佐倉城 千葉県洒酒井町、享徳3年(1454)下総守護千葉輔胤が千葉城から本佐倉へ移り、太田道灌と同時期・・・、文明年間(1469-1486)に築城、三方が湿地帯の要害地、元和元年(1615)土井利勝は佐倉城へ移城し廃城。

本佐倉城 連格式平山城、、幾つかの曲輪から、城山・・・本丸、奥の山・・・二の丸。

本佐倉城 城外より東山虎口を見る。

本佐倉城 東山虎口を入りⅣ郭の虎口、正面奥左側が本丸城山。

福知山城 京都府福知山市、連格式平山城、天正7年明智光秀築城(安土城が完成)、元禄期有馬氏8万石が改修、東西へ由良川、東北西は断崖の要地。

福知山城 昔の風景図

福知山城 崖下より城門天守を見上げる。

福知山城 天守、複合連結式望楼型3重4階・渡櫓・小天守2重2階。

福知山城 天守、左天守石垣の中央の亀裂は築城後の追加石垣分・・・この部分は張り出した小さな出櫓だったのですね。











城郭の縄張り図(徳川関連の城)。

2020-06-09 16:51:20 | 城郭縄張図1

2020年6月8日(月)今回は徳川一門の城郭に絞りました、徳川15代将軍

徳川家康ー2秀忠ー3家光ー4家綱(実子なし)-5綱吉(館林)-6家宣(甲府)-7家継(実子なし)-8吉宗(紀州)-9家重ー10家治ー11家斉(一橋)-12家慶ー13家定(実子なし)-14家茂(紀州・実子なし)-15慶喜(水戸ー一橋)、

徳川家康の子供男子ー信康(20歳、信長により死)-結城秀康ー徳川秀忠ー松平忠吉(27)-武田信吉(21)-六男松平忠輝(92・改易)-松平松千代(6)-平岩仙千代(6)-9男徳川義直(尾張)-10男徳川頼宜(紀州)-11男徳川頼房(水戸)・・・・甲府・館林(遺構があまりありませんね)は入れませんでしたね。

岡崎城 愛知県岡崎市、梯郭式平山城、乙川を背後に松平清康(徳川家康の祖父)の居城、天文11年(1542)家康誕生の城、永禄3年(1560)桶狭間の戦いで今川義元が敗死、岡崎城を取り戻す、元亀元年(1570)浜松城へ移る、城は嫡男信康へ(後に信長により自刃)、天正18年(1590)田中吉政により近世城郭に改修、元和3年本多忠利により天守が建つ。

岡崎城 江戸期の模型図・・・今は本丸中央に神社があります。

岡崎城 天守複合式望楼型3重3階、上の図の右側方面より見上げる。


浜松城 静岡県浜松市、梯郭式平山城、元亀元年(1570)徳川家康が岡崎城(嫡男信康に譲る)から移る改修、元亀3年(18573)武田信玄の上洛時、城より打って出、三方ヶ原の戦いで破れる・・・・城門を開いたままの話が有名ですね。

浜松城 櫓門と天守。

浜松城城内からの櫓門と天守。

浜松城天守 望楼型3重4階。


江戸城 東京都千代田区、輪郭式平城もしくは平山城、康正3年(1457)扇谷上杉持朝の家臣太田道灌築城、その後北条氏綱・徳川へ、慶長期天下普請(1603-)、元和期天下普請(1618-)、寛永期天下普請(1628-)、万治3年(1660)神田川お茶の水の拡張工事で約60年の城郭工事が終了、神田川の外堀、見事ですね天守は3度建て替え、3度目は明暦の大火(1657)で炎上焼失以後天守は無し

江戸城 現皇居・・・中央下皇居東御苑が三の丸・二の丸・本丸。

江戸城本丸 皇居東御苑・・・三の丸・二の丸・本丸。

江戸城西の丸伏見櫓 二重橋の石橋上から鉄橋を見る・・・皇居参賀で西の丸へ入りました。

江戸城本丸内濠白鳥濠。

江戸城本丸内濠蓮池濠・・・ここも普段は入れませんね、右側石垣上に富士見櫓。


駿府城 静岡県静岡市、輪郭式平城、今川氏全盛期9代義元の時天文18年(1549)松平竹千代(徳川家康)は7-19歳(12年間)人質で駿府に、その後武田信玄・徳川家康の戦場となり中世の城郭は壊滅。

駿府城 天正13年(1585)家康は居城として現二の丸を築城、その後関東へ移封。

駿府城 慶長10年(1605)将軍を2代秀忠に譲り、翌年隠居城として駿府城を改修、寛永元年(1619)には徳川秀忠の第2子忠長が城主に、その後改易、城は城番制となる(大阪城・二条城)、現在は本丸・二の丸が一つ、元はこの図の前の図三重の堀が当時。

駿府城本丸徳川家康像、天守は7層・・・焼失。

駿府城 二の丸巽櫓・東御門。


大阪城 大阪府、輪郭式平城、石山本願寺跡に豊臣秀吉が天正11年(1583)から7年の歳月をかけ築城、北に淀川が流れる要害地、慶長20年(1615)大阪夏の陣で落城し豊臣家滅亡。

大阪城 元和6年(1620)-寛永6年(1629)2代目将軍徳川秀忠が築城、城主は置かず城番制ですね、幕末期14代家茂(この城で病死)、15代慶喜は大政奉還後この城に入りましたがね。

大阪城 極楽橋方面からの天守、独立式層塔型5重5階地下1階。

大阪城 曲折屛風石垣と天守。


二条城 京都府京都市、輪郭式平城、13代足利義輝の居城、15代足利義昭(織田信長が築城)、慶長3年(1603)徳川家康が征夷大将軍就任で築城、城番制、2代秀忠・3代家光までが使用、天守は落雷で炎上・・本丸御殿も火災で焼失、二の丸御殿が国宝・世界遺産、慶応3年(1869)大政奉還・・・15代慶喜・・・この時二条城に直属の兵5000・会津兵3000・桑名兵1500が集合待機・・・軍事衝突を恐れ大阪城へ・・・翌月に鳥羽伏見の戦いとなる・・・(歴史にもしもはありませんが)。

二条城 二の丸御殿・・・歴史の舞台です。


名古屋城 愛知県名古屋市、梯郭式平山城、慶長14年(1609)徳川家康が豊臣家の抑えに天下普請で築く、本丸の石垣は加藤清正、徳川家康9男義直尾張藩47万石の居城、本丸はほぼ正方形、織田信長誕生の那古屋城(二の丸)、昭和20年(1945)の空襲で焼失。

名古屋城大手門 西南隅櫓方面より大手門と櫓門。

名古屋城天守 同じく西南隅櫓方面から手前石垣は小天守(木で見えず)との渡廊下。

名古屋城 小天守への虎口・・・小天守より大天守へ渡る仕組み。

名古屋城 天守(小天守ー大天守)、手前は本殿の一部、連結式層塔型5重5階地下1階。


和歌山城 和歌山県和歌山市,梯郭式平山城虎伏山49m北に紀の川を天然の堀、天正13年(1585)豊臣秀長の築城、元和5年(1619)より大改修徳川家康10男頼宜の紀州藩55・5万石の居城。

和歌山城 天守は火災・落雷・戦災と三度焼失。

和歌山城 三の丸側から見た一の橋大手門。

和歌山城天守 連立式層塔型3重3階。

和歌山城 天守二の門(楠門)、隅櫓から多門櫓で繋がる連立式天守ですね(姫路城・伊予松山城)。

和歌山城 二の丸と西の丸に架かる御廊下橋・・・屋根付き橋ですね・・・府内城・福井城でも見ましたね(高松城は名前だけ))、如何でしょうかネ。


水戸城 茨城県水戸市、御三家水戸徳川、徳川頼房(家康11男)25万石の居城、北に那珂川、南に千波湖を天然の堀とした連格式平山城、土塁・空堀の関東式。

水戸城 三の丸・二の丸・本丸(連郭)・・・本丸は武器庫とか?。

水戸城本丸に現存の高麗門 佐竹時代の門とか、二の丸に御三階櫓の独立式層塔型3重5階があり、空襲で焼失。

水戸城 二の丸と三の丸の空堀にはJR水郡線が走る、大手門が復元されたみたいです。


福井城 福井県福井市、輪郭式平城、柴田勝家の北ノ庄近辺に越前松平、結城秀康(徳川家康次男)68万石が慶長6年(1601)に築城。

福井城本丸 現在二の丸・三の丸はない、秀康は豊臣秀吉の養子となったが、秀頼が生まれ、結城家に養子として出された、嫡男信康はすでに死んでいたが養子に出ているため・・・2代将軍は三男秀忠となる。

福井城 本丸石垣、望楼型4重5階の天守は焼失、以後本丸は立たず。

福井城 水堀。


高田城 新潟県上越市、越後少将松平忠輝(徳川家康六男)高田藩60万石の居城、輪郭式平城(本丸を二の丸が囲む)、あの伊達政宗の縄張り(娘婿)。

高田城 本丸です石垣でなく土塁が主体の城郭ですね、川に挟まれ湿地帯の平城・・・天守は無かったみたいですね、・・大阪城に憧れました。

高田城 御三階櫓、独立式層塔型3重3階。

高田城 東側から見た所です。


鶴ヶ城(会津若松城) 福島県会津若松市、保科正之(会津松平・・徳川家光の異母弟)23万石会津藩の居城、梯郭式平山城、黒川城・・伊達政宗、若松城・・蒲生氏郷・上杉景勝・加藤嘉明、文禄元年(1592)蒲生氏郷(92万石)が近世城郭に改造、慶長3年(1598)上杉景勝(120万石)が越後春日山より入封、寛永4年(1627)加藤嘉明(43・55万石)伊予松山より入封、寛永20年(1643)保科正之(23万石)が会津藩創設、慶応4年(1868)戊辰戦争の戦闘で1カ月の籠城戦の末開城。

鶴ヶ城 廊下橋、本丸と二の丸を繋ぐ橋。

鶴ヶ城本丸 層塔型5重5階。

お疲れ様でした、結構まとめるのに疲れますね。


城郭の縄張り図と本丸9.

2020-06-08 06:46:21 | 城郭縄張図1

2020年6月8日(月)昨日は寝冷えか・・・鼻水が・・・大変でした今日は治まっていますが、しかし振り返ってみると下手な写真が多いですね、反省点が出てきました。

伊賀上野城 三重県伊賀市、梯郭式平山城、天正13年(1585)筒井定次・・・慶長16年(1611)豊臣対策の為、徳川家康の命で藤堂高虎が改修し高石垣で有名ですね、台風の為天守が倒壊、元和元年(1615)大阪夏の陣で豊臣家滅亡で築城も中止、藤堂高虎は津城が本城です・・・(津城はまだ行ってませんね)。

伊賀上野城 左側のお城・・・奥にも石垣(古城跡が在りますね)。

伊賀上野城 西側の対豊臣対策で構築した高石垣と堀・・・確か高い所で23m・・大阪城は30mとか。

伊賀上野城 層塔型3重3階ですが、当初は5層の予定が3層となり天守台石垣とのしっくり感が・・・。

岡山城 岡山県岡山市、梯郭式平山城、旭川を背後に川向うの後楽園を曲輪に、宇喜多直家が入城、天正18年(1590)から子の秀家57・4万石が大改修、後にあの小早川秀秋も入っていますね、残念ですが昭和の空襲で炎上焼失。

岡山城 後楽園より見える城。

岡山城 旭川を背景に、複合式望楼型4重6階の大天守。

岡山城 本丸大手門側・・・後楽園の反対側です、下側が三の丸方面です。

掛川城 静岡県掛川市、梯郭式平山城、永禄12年(1569)今川氏より徳川が奪う・・・その後の武田氏との戦いにも持ちこたえましたが、天正18年(1590)山内一豊5・1万石で移封し改修(関ケ原以降高知へ)。

掛川城 本丸と天守丸・・・三日月堀。

掛川城 本丸・・・・四足門・荒和布櫓・・・・天守丸・天守。

掛川城 天守丸に聳える、複合式望楼型3重4階天守。

関宿城 千葉県野田市、利根川水系で船運の要地、関東の水運を抑える拠点で戦国末期北条と上杉の間で激しい争奪戦の地となった、梁田晴助(古河公方の家臣)が守り上杉謙信・佐竹義重の援助で頑張ったが、3度目の北条氏康・氏照父子の侵攻で陥落・・・北条は北関東へ進出、小田原征伐後は松平康元(徳川家康の異父弟)が治める・・・河川の中で現在は脇にお城が・・・・古河城も川の中ですね。

関宿城 天守

関宿城 この場所から少し下流の土手脇が元の城跡。

広島城 広島県広島市、輪郭式平城、太田川河口のデルタ地帯に築いた平城、毛利輝元112万石が天正17年から築城、高田郡山城より移築・・・黒田官兵衛(如水)が縄張りとか。

広島城 二の丸・本丸、慶長5年(1600)福島正則が大改修、元和5年(1619)からは広島藩42・6万石浅野家の居城、戦災の原爆で倒壊。

広島城 本丸内部から、複合式連結望楼型5重5階。

広島城 内堀外三の丸より。

広島城 水堀に浮かぶ天守・・・右側奥の方に原爆ドームです。

高田(吉田)郡山城 広島県高田市吉田、毛利家の居城、毛利元就・輝元 改修、江の川と多治比川に挟まれた、吉田盆地の北側の郡山全山の山城。

高田郡山城 拡張により全山の尾根筋に各曲輪が広がる、毛利輝元が広島城を築城し移城、江戸初期に廃城。

高田郡山城 二の丸。

高田郡山城 本丸、毛利家は 広島・・萩城へと。







城郭の縄張り図と本丸8.

2020-06-05 10:23:12 | 城郭縄張図1

2020年6月5日(金)、今日は暑い、写真整理と文章の入力・・。

熊本城 熊本県熊本市、御存じ加藤清正築城、慶長5年(1600)関ケ原の戦いの行賞で肥後一国52万石、梯郭式平山城舌状台地の尖端、南東を流れる白川、高石垣、寛永9年(1632)加藤忠広の時改易、肥後小倉城より細川忠利が54万石入封、明治4年(1871)熊本鎮台指令の桐野利秋(中村半次郎)は老朽化した櫓を破棄、特に西出丸は石垣を取り壊した?、明治10年(1877)の西南戦争では鎮台兵4000人で1・4万人の薩摩軍の攻撃に耐えましたね。

熊本城本丸から見た連結式望楼型3重6階地下1階の大天守と3重4階地下1階の小天守。

熊本城 戌亥櫓・宇土櫓・大天守。

熊本城 宇土櫓(3重5階・・・第三の天守)・小天守・大天守。

熊本城 数寄屋丸から本丸御殿方面の高い石垣、左側奥が天守・・・。

高岡古城 富山県高岡市、梯郭式平城、前田利長築城、キリシタン大名の高山右近縄張り築城、慶長14年(1609)富山城の大火にあい、この高岡城へ・・・5年後死去、元和元年(1615)一国一城令で廃城。

高岡古城 各曲輪が水堀で分かれ有機的に橋で連結された城。

高岡古城 本丸にある前田利長像。

今治城 愛媛県今治市、輪郭式平城(海城)、慶長7年(1602)藤堂高虎が伊予半国20万石となり築城、三重の水堀に海水を引き込んだ海城、内堀と石垣はほぼ当時のまま。

今治城 二の丸から見た藤堂高虎の像と天守望楼型5重6階、藤堂高虎は羽柴秀長に仕え土木技術にたけ城造りの名人と言われましたね・・・徳川家康にも関わり深いし江戸城にも関係していますね。

今治城本丸 鉄御門・武具櫓・・・奥が天守。

今治城 上の堀を右側に回り込みました、左側が武具櫓・多門櫓・山里櫓・天守と美しい城郭ですね。

三戸城 青森県三戸郡、連格式山城、馬淵川と熊原川の浸食で出来た河岸段丘の上を削平、三戸南部氏の居城、天文8年(1539)南部晴政の時築城、天正18年(1590)九戸政実の乱の時の南部信直の居城、後に盛岡城に移る。

三戸城 三重三階櫓が天正19年(1591)に築城との事。

三戸城 大手櫓門。

小田原城 神奈川県小田原市、大森・北条・大久保忠世・稲葉正勝・・、特に北条氏康の時代には難攻不落無敵の城と言われ、上杉謙信・武田信玄の攻撃にも耐えました、江戸期には居館部が近世城郭へ改修、奥の詰めの城(八幡山)も中世城郭の遺構が残る、又延長9kmの土塁と空堀の総構えの外郭も一部・・・慶長19年(1614)徳川家康自らが撤去。

小田原城 総石垣の城の改修は寛永9年(1632)頃、元禄の地震では天守が倒壊。

小田原城本丸 天守、複合式層塔型3重4階。

小田原城 馬出門を入り馬場曲輪から・銅門(二の丸虎口)。

小田原城 常盤門・・・二の丸から本丸の虎口。

足助城 愛知県豊田市、戦国時代の山城、真弓山301mの山頂を中心とした、三河鈴木氏の居城。

足助城 三河松平に属す、天正18年(1590)徳川家康関東へ入国、城は廃城となった。

足助城 下側の図を右側に廻込本丸方向に・・・横矢掛かりの防御です、右側は崖の為隠れられず。

足助城本丸の虎口。

足助城本丸脇からは今登って来た道が左側に、尾根を段々に削平し、矢倉(見晴らし)台、・・・昔のイメージを復元した山城です。

中津城 大分県中津市、梯郭式平城(海城)、天正16年(1588)豊臣秀吉から豊前国6郡12・3万石をもらい黒田考高(官兵衛)が築城、その後細川忠興が監視、中津川河口の地を利用し堀は海水を引き込んだ、慶長5年(1600)細川忠興が豊前・豊後39万石で入封、寛永9年(1632)細川家は熊本城へ転封、以後奥平家。

中津城 本丸より独立式望楼型5重5階。

中津城 内堀側より天守を見る。

土浦城 茨木県土浦城、輪郭式平城、城主は時代ごとに入れ替わる松平信一・信吉の代に改修ほぼ現在の形に。

土浦城 本丸二の丸。

土浦城大手門の櫓門。
土浦城 搦め手側東矢倉。
しかし、今日は暑いですね、夕方にならないと散歩が出来ませんね。








城郭の縄張り図と本丸7.

2020-06-02 21:06:24 | 城郭縄張図

2020年6月2日(火)今日は久しぶりに近所で外食、床屋さんにも行って来ました。

岐阜城 岐阜県岐阜市、長良川を背後にした金華山山頂の山城、天文2年(1533)長井新九郎則秀(後の斉藤道三)が居城とした、永禄10年(1567)天下布武・・織田信長が斉藤龍興から奪い改修、難攻不落の名城とうたわれたが5回の落城、天正11年(1583)当時の城主織田信孝は滝川一益と秀吉に対抗すべき挙兵、秀吉の美濃返しで敗れる、天正13年(1585)にはあの姫路城築城の池田輝政も城主でしたね。

岐阜城 山頂を尾根筋を利用した山城、上側下に長良川。

長良川から見上げた山の上に岐阜城が見えますね。

岐阜城二の門 この中が二の丸(下台所・上台所郭)、上の図真ん中少し上。

台所郭から見た岐阜城、尾根が狭く写しずらいですね。

岐阜城天守 長良川の橋上からアップ。

吉田城 愛知県豊橋市、半円郭式平城豊川を背後に本丸を囲みますね、永禄3年(1560)今川義元が桶狭間の戦いで敗れ、永禄8年(1565)今川氏を離反した松平家康が攻略。

吉田城 元亀2年(1572)武田信玄が南進城下まで攻められましたが守り抜きました、天正18年(1590)豊臣秀吉により徳川家が関東移封、池田輝政が15・2万石で入りました、慶長6年(1601)には姫路城へ移封・・・姫路城築城したのです。

吉田城 本丸虎口。

吉田城天主 本丸から。

吉田城天守 豊川側より。

佐倉城 千葉県佐倉市、連郭式平山城、鹿島川(西側)と高崎川(南側)が流れ北には印旛沼の湿地帯、土塁・水堀・空堀(石垣は無し)、千葉邦胤時代築城を行うが親子2代暗殺され頓挫、慶長15年(1610)土井利勝改修築城、その後城主は入れ替わる、幕末には老中首座の堀田正睦が城主でした。

佐倉城 上の図と角度が異なりますが、連格式平山城、馬出の土塁空堀が見られます。

佐倉城本丸 土塁が見られますね、天守は御三階櫓(独立式層塔型3重4階)。

佐倉城三の丸 堀田正睦・・幕末の天保の改革(水野忠邦(老中首座)・・失敗?)、ハリスと日米修好条約・・・、この後井伊大老が老中の上に。

大垣城 岐阜県大垣市、連郭輪郭式複合式平城、水堀に囲まれた大きな城郭です、天正11年(1583)池田恒興15万石の城主、翌年戦死輝政が継いだが翌年には岐阜城主へ移封。

大垣城本丸 慶長18年(1613)石川忠親によって総堀が松平忠良が天守改修、寛永12年(1635)戸田氏鉄が摂津尼崎5万石がら美濃大垣藩10万石に移封。

大垣城天守 複合式層塔型3重4階。

大垣城本丸には戸田氏鉄の像が。

福山城 広島県福山市、近世城郭円熟期の代表、輪郭式平山城、二重の堀瀬戸内海へ抜ける運河を持つ海城、元和8年(1622)水野勝成が備中福山藩10万石の城として築城。

福山城 築城当初より搦め手側(図上側)の防御の弱さが指摘、三の丸はJR福井駅でありません、昭和20年(1945)の空襲で天守は焼失(沢山の残った天守が戦災で焼失しました)。

福山城天守 連結式層塔型5重6階。

福山城 筋鉄御門(本丸虎口)・多門櫓・御湯殿・月見櫓・・・此処には伏見城から移築しました建物が幾つか。

福山城 石垣が続き、月見櫓・鏡櫓・天守と奇麗ですね、幕末期ここの城主阿部正弘はやはり老中首座で井伊大老が桜田門外で死亡後の幕府を支えた人ですね、ペリー来航・・鎖国をやめるとか・・・・、でも人の話をよく聞き人材を登用(勝海舟・・)。

明石城 兵庫県明石市、連郭梯郭式平山城、元和4年(1618)小笠原忠真10万石の居城、JR明石駅の目の前です・・・中国地方のお城は海沿いが多く海と山沿いが狭く、山陽本線がすれすれ又は分断した城郭も幾つかありますね。

明石城 連郭・・・本丸、梯郭・・・本丸ー二の丸が並びますね・・・説明にならず。

明石城三の丸大手門虎口(JR明石駅脇)から本丸の坤櫓・巽櫓が見れますね。

明石城 三の丸から二の丸への虎口途中から坤(未申)櫓(奥)・巽(辰巳)櫓と二の丸御門の石垣(手前)、天守は無かったみたいですが天守台は坤櫓奥の左側にあります、この写真の石垣を上り右側が二の丸・東の丸。