三郎兼続の日記

趣味の写真で山登り・旅行を主体にした日記
最近は山登りが少なく、城郭・巨木へ

下館城に行って来ました。

2023-10-10 07:40:03 | 城郭茨城2
2023年10月6日(金)に茨城の筑西市の下館城に行って来ました、天慶年間(938-948)藤原秀郷が平将門追討の為に築いた三館(久下田城(上館)・伊佐城(中館)・下館城(下館))の三城を巡りました、三城共、真岡鉄道と五行川に挟まれた段丘を堀切で分割した条件ですね・・・・五行川=>利根川水系の小貝川の支流河川、今から1000年も前でですから全て伝承ですね、その後城跡は再利用されたので当時の面影は解りませんがお城を築く好条件なのですね。

真岡鉄道の下館二高前の駅から歩きました、大分疲れてきましたね、まず、定林寺に拠りました、下館藩主の墓所が・・。

折角ですから墓参り、なお、水谷家は寛永16年(1639)水谷勝隆の時備中松山へ転封、その子が備中松山城を築城、現存12天守で今に残っていますね。

定林寺の道を下館方面へ少し先右側に・・・下館城出丸跡がありました。

下館城西城跡の説明版・・・中に入りましたが、小さな公園と大きな水道タンク・・・その先は切り立つ崖?。

西城(出丸)入口から見える木々が八幡神社・・・・この辺り一帯は下館城なのですね。

八幡神社です、案内板がありました。

下館城の縄張り図・・・前の西城(出丸)の説明版と少しずれる絵?、八幡神社・・本丸跡?・・・。

説明版・・・文明10年(1478)水谷勝氏が築城、天正14年(1545)水谷正村(蟠龍斉)が宇都宮氏に供え・・・上館(久下田城)を築いたとありますね・・・。

下館城跡の碑。

八幡神社。

本丸跡に八幡神社、他は下館小学校・宅地・・・溜池は?、五行川は残っています。

八幡神社の説明が・・・。

八幡神社脇から・・・・結構な台地に築かれていますね、下に五行川。

神社脇を下ります・・・堀跡なのでしょうね?。

右側が二の丸側、正面が五行川へ。

五行川。

振り返りますね、右が本丸、左側が二の丸側・・・・これで上館・中館・下館を巡りました。


伊佐城(中館)に行って来ました。

2023-10-09 08:09:34 | 城郭茨城2
2023年10月6日(金)に茨城の筑西市の伊佐城に行って来ました、天慶年間(938-948)藤原秀郷が平将門追討の為に築いた三館(久下田城(上館))・伊佐城(中館)・下館城(下館))の三城を巡りました、三城共、真岡鉄道と五行川に挟まれた段丘を堀切で分割した条件ですね・・・・五行川=>利根川水系の小貝川の支流河川、今から1000年も前でですから全て伝承ですね、その後城跡は再利用されたので当時の面影は解りませんがお城を築く好条件なのですね。

真岡鉄道の折本駅・・・右側が段丘になっているのが解りますか、右側から道路に出て,約15分位下館方面へ歩きます。

自動車道路をくぐりなおも進みます、左側のお店の脇へ入ります・・・・観音寺の脇に出る・・・正式にはもう少し先なのでしょうが?。

お寺さんが出てきました、観音寺ですね。

お寺の方から見たのですが、先に観音堂から説明します。

立派な観音堂です、焼失し江戸期に再建とか・・・・此処は伊佐城の二の郭の一部ですネ。

観音堂右脇に伊達行朝の供養塔があります、南北朝の争乱が常陸国に及ぶと伊佐城城主が同族の伊達行朝を迎えて、北朝方の河師泰軍と戦う、興国4年(1343)落城。

観音堂脇は五行川で段丘の上に伊佐城が在りますね。

観音堂から観音寺へ・・・。

下館城主石川総管(ふさかれ)公の墓所。

観音寺山門。

観音寺本堂・・・奥に碑が・・・。

伊佐城の碑・・・・此処は伊佐城の二の丸跡・・・中館を伊佐氏が改修、築城者伊達朝宗との説も?・・・。

本堂奥に大ケヤキが在ったので・・・。

観音寺の裏側です・・・一の郭方面か?、もしくは一の郭は、最初に入ってきた道路の向こう側とか?、他に案内が無いので、いずれにしろ細長い台地の上を堀切で分割すれば曲輪が出来る条件の場所なのです。

久下田城(上館)に行って来ました。

2023-10-08 22:03:48 | 城郭茨城2
 2023年10月6日(金)に茨城の筑西市の久下田城に行って来ました、天慶年間(938-948)藤原秀郷が平将門追討の為に築いた三館(久下田城(上館))・伊佐城(中館)・下館城(下館))の三城を巡りました、三城共、真岡鉄道と五行川に挟まれた段丘を堀切で分割した条件ですね・・・・五行川=>利根川水系の小貝川の支流河川、今から1000年も前でですから全て伝承ですね、その後城跡は再利用されたので当時の面影は解りませんがお城を築く好条件なのですね。

真岡鉄道久下田駅から見た久下田城(雲の下)・・・向こう側下館行き側ホーム脇から民家の裏側から出れました。

民家脇から真っ直ぐ、まわりこむような道・・・この林奥がお城・・・。

下りながら回り込むと・・・・これは水堀なのですよ。

此処は左右とも川(水堀)・・・・右側上がお城、久下田城。

久下田城本丸への登り口です、何も書いてないので先に進みましたが、最後は此処に降りてきましたね・・・・上に稲荷神社(本丸)があるのですが、標識がありませんね、取り合えず先に進みました、丁度反対側の向こう側から入城しましたね。

丁字路に出ました、右側に回り込みます、大きなお寺がありますね。

お寺の塀が切れる直前に又右側に・・・・上ります、台地の端ですね、右側上が久下田城。

坂を上りきると右側に入る路が・・・・この辺りも多分久下田城ですね。

恐る恐る入りましたが、明らかでしたね、写真では解りずらいですが、右側の民家の裏側は空堀です・・・草が深くうまく撮れませんでしたが。


空堀の上から(今は土橋)見た久下田城・・二の郭でしょうか・・・・正面が一の郭(此れは間違いありませんね・・)。

反対側も、向こう側から外側を右回りに回って来たのです・・・まだ山の中で無かったので良かったですがね。

畑の真ん中の道を進みますね、林に架かる土橋、左右は空堀・・・・久下田城一の郭?の虎口ですね、久下田城は結城・水谷と宇都宮氏との対立が深まった天文14年(1545)時の下館城主の水谷正村(蟠龍斉)が北方の宇都宮氏から守るため築城(上館を改修?)、元和元年(1615)一国一城令で廃城となりましたが・・・遺構が残っていますね。

土橋脇から見た空堀・・・漸く遺構らしさに会えました。

奥を覗きますね・・・結構な広さがありますね・・・案内板らしき・・。

久下田城の文字が・・・解りずらい絵図ですが・・・・水堀に囲まれていたのでしょうね?、広い所が一の郭みたいですね。

しかし、曲輪脇には土塁が奇麗に残っていますね。

土塁上から見た空堀・・・当時は水堀なのでしょうか?。

曲輪の奥を見ますね。

曲輪奥に小さな高台がみられますね、櫓台かな?。

アップで・・・ヤハリ櫓台?。

櫓台?脇に、久下田城址・・・保存会が??。

稲荷神社が祀られていました。

稲荷神社への参道が・・・。

先程見逃した水堀に架かる石橋へ出てきました、案内板が少ないですね、・・・”ごみを捨てるな”の看板は沢山ありましたが、でもお城らしき遺構が残っていたので嬉しいですね。


真岡城に行って来ました。

2023-10-07 15:23:42 | 城郭茨城2
2023年10月06日(金)漸く涼しく秋晴れとの事で出かけました、真岡(もうか)鉄道下館駅から真岡駅へ①真岡城、真岡駅から久下田駅へ戻り②久下田城(上館)、折本駅から③伊佐城(中館)、下館二高前駅から④下館城と巡ってきましたね・・・22千歩と結構歩き疲れましたね、城館・中館・下館のお城は藤原秀郷(俵藤太)が平将門征討の折に築城したと伝説に有る所ですね。

真岡駅前からの道を上に向かい、突き当りを右側に・・・城山公園は江戸時代の陣屋跡(四の曲輪)、真岡城は真岡小学校(一の郭・二の郭・三の郭)、駅から歩いて約10分、茨城県真岡市台町ある真岡城(芳賀城)。

真岡小学校の脇に来ました、高台への坂道を上りますね、此処は三の郭と四の郭ですね。

此処が真岡城四の郭跡・・・今は江戸時代の陣屋跡。

陣屋跡の説明版。

陣屋跡に建つ稲荷神社。

陣屋跡脇から・・・・高台が解りますね。

振り向けば真岡小学校正門です(真岡城跡・・一・二。三の郭)、説明版がありました。

宇都宮氏の家臣の芳賀氏の居城、芳賀高貞が貞治元年(1362)築城、芳賀高継が天正5年(1571)北条侵攻に備え改築、慶長2年(1597)豊臣秀吉により宇都宮氏改易と同時に廃城。

真岡城の縄張り図、東側を行屋川の水堀、連郭式の平山(平)城・・・・行屋橋まで下り反時計回りに見て回ります、一度本丸へ入りましたが出てきます。

陣屋下から水辺公園側を見ました、左がお城。

行屋橋から見えたので下流へ・・・海潮寺の山門・・・・芳賀氏の菩提寺。

行屋橋から見た、行屋(ギョウヤ)川、水辺公園、左上が陣屋、右側上が真岡城。

水辺公園、後が真岡城・・・石壁は公園用。

水辺公園を上流に進みますね。

正面が搦め手門跡とか・・・・・・。

左右の土塁の空間が搦め手門虎口。

搦め手門を入ります。

門内の曲輪。

門内より振り返りました。

真岡城本丸の土塁を上がりました、崩れた階段が在ったので登りました・・・そのまま城内へ。

真岡城一の郭(真岡小学校グランド)・・・・段差がありますが?。

グランド脇は土塁が残っていましたね、右が校庭。

一の郭の土塁。

北側端から見たグランド。

北側の土塁上から、空堀が向こう側は腰曲輪か?・・・・これで城内を出ます。

北側の駐車場から見た真岡城。

西側より・・・先程このあたりまで来ました。

なおも、西側を見て進みますが崖下に民家があり・・・。

それでも見て回りました、・・・これで真岡城はおわり次は久下田城へと・・・。

久米城に行って来ました(その4南の出城)。

2023-01-10 09:04:33 | 城郭茨城2
2023年1月5日(木)に茨城県常陸太田市の佐竹氏一門の佐竹北家の本拠地 久米城に行って来ました・・・大きな山城なので4回に分けて説明・・・今回で4回目です。

東の城の本城と二の郭(鹿島神社)の中間地点から南側(地図下側)の尾根筋を下ります。

尾根筋にはヤハリ堀切で切断。

南の出城までは尾根筋が続きますネ。

深い堀切があり、梯子が掛けてある道を進みますね、向こう側が南の出城でしょう。

此れは見事な二重の堀切が見えました・・・・一番南側の出城から見た南側の尾根・・・・縄張り図の一番下です。

同じ場所から横を見ると、右側は南の出城、出城を守るための中央にあるのが横堀ですね。

南の出城です、左側下は横堀(空堀)、右側は東の城側・・・正面下側が根古屋地区。

南の出城のずれた所から南側の横堀(二重)を見ますね。

此処が南の出城の一の曲輪跡ですね・・・・此処からは根古屋地区ですね・・・・山入氏側は右手の方(北)ですからネ。

南の出城 本城より14m程低い位置になります。

折角ですから、久米城の全体の縄張り図・・・左側が根古屋(武家の屋敷地区)、左側の下側が城下町方面ですね。

南の出城の左側にはまだ尾根筋が続きます堀切で分割細い土橋で正面が向こう側二の曲輪。

南の出城二の曲輪。

南の出城二の曲輪脇から見た南の出城の虎口。

横堀脇に降りてきました、左側が南の出城。

堀底道に入りました、此処だけ見ると単に山道ですね、ワクワクしていますよ、こんな中に入れば横矢掛かりでやられますからネ。

尾根筋の先です・・・・この先は城下町方面へ下るのでしょうね。

南の出城から東の城脇を入口方面へ回り込みます、正面が東の城二の曲輪側・・・切岸(切り立つ崖)が見事なものですね。

切岸の脇を回り込み入口まで戻りました・・・・この辺りは何となく水の手なのでしょう(地面がジメジメしていましたね)、これで久米城散策は終わりです、良い山城でした、今回は田渡城までは見れませんでしたが何とか行きたいですね。


久米城に行って来ました(その3東の城(本城))。

2023-01-09 10:16:21 | 城郭茨城2
2023年1月5日(木)に茨城県常陸太田市の佐竹氏の城、久米城に行って来ました、今回は本城を巡ります。

東の城をアップし見やすくしました、・・・・西の城を見てきましたね。

西の城の一の曲輪の虎口をくだり、再び三叉路へ、右側が東の城と西の城の間を抜ける堀底道・・・その①、今回は左側へ・・・東の城の搦め手の虎口から入りますね。

此処が東の城と西の城との連結道ですね・・・左右に空堀・・・土橋を渡りますね。

正面に回り込みました・・・・堀切で分割。

虎口を入ると曲輪が(馬出でしょうか?)。

向こう側に最大の堀切が・・・・搦め手側の防御の為、尾根筋を分断したのですね。

上から覗き込みました、尾根筋を切り、切岸ですね、壁を回り込む敵に対して上からの横矢掛かりで攻める仕組みです。

先程の曲輪から見た奥が、東の城(本城)。

堀切で尾根を立ち割った、右側が本城。

久米城東の城の本城の土塀・・・を回り込みますね。

虎口跡・・・次に説明版。

要は攻めてきた敵を絞り込み左右上から攻撃する防御の仕組みです、うっかり入るとやられますよ。

虎口・・・出入り口は防御性が低くなるなるので、色々考えるのです・・・代表が枡形です。

本城の脇下を防御する・・・・帯曲輪。

帯曲輪から見た本城。

帯曲輪を回り込んできました、鹿島神社が見えてきました、本城下の二の曲輪ですね、三の曲輪は最初に上ってきて鳥居横です。

東の城本城の入り口(虎口)。

東の城の本城です・・・山中を這いずりましたが、わずか標高101m・・・比高70mの山城。

此処が佐竹氏一門の佐竹北家の本拠地、久米城本城。

本城の橋から先程来た搦め手側を望む。

本城をおり鹿島神社方面(二の曲輪)へ途中南の出城方面の標識・・・次の説明はこちらからですが、まずは神社です。

鹿島神社裏側です。

東の城二の郭・・・樅木(もみのき)平の名が・・・・、左下が鳥居の在った所です。

東の城・・・・二の曲輪。

久米城の全体の縄張り図を再び・・・低山の横の広がりを利用した山城が良くわかりますね、遺構もハッキリしています。

神社階段下を望む・・・鳥居帆面です。

鹿島神社。

鹿島神社裏手から本城を望む・・・・これで東の城は終わりです。


久米城に行って来ました(その2西の城・北の出城)。

2023-01-08 11:20:09 | 城郭茨城2
2023年1月5日(木)茨城県常陸太田の佐竹氏の久米城に行って来ました、大きな山城なので、分割して記載します、今回は西の城から北の出城です②。

久米城縄張り図・・・今回は上の方になります、右側西の城の文字左下の印辺りが西の城と東の城の連絡路です、此処から西の城一の曲輪へ入りますね。

見ずらいので、切り出しました、西の城文字左下、テレビ塔の下あたりから入ります。

西の城・・・一の曲輪、現在NHKのテレビ塔が建っていますね。

西の塔一の曲輪(龍神平の名称あり)、右奥が物見台、左側に二の曲輪・三の曲輪と続きますね。

テレビ塔脇から、西の城の物見台。

物見台から見た北側・・・正面の木々辺りが北の出城です、この北側先に、佐竹氏一門の山入氏・・・佐竹氏と100年抗争の山入城(国安城)がありますね。

物見台脇から北の出城へ行きますね。

久米城の北側の最先端・・・・北の出城・・・・国安方面の山入氏を監視していたのでしょうね。

細いやせ尾根を下ります、途中堀切で切断してあります。

尾根筋堀切を超えて見上げました、上が物見台。

小さな曲輪ですが、北の出城・・・・正面が山入氏側ですから最前線ですね。

北の出城から戻ってきました、西の城の一の曲輪、左側に曲輪が続きます。

この先が堀切で分断、二の曲輪方面。

堀切と縦堀で曲輪を分けます、山城の特徴ですね。

二の曲輪から見た三の曲輪方面・・・やはり堀切で分断。

これは二の曲輪と三の曲輪との堀切から竪堀・・・横から簡単に回り込めないようにするわけです、当然昔は鋭く深く築いたのです。

これも二の曲輪と三の曲輪の堀切と竪堀です、北側には土塁が積み上げてありますね。

西の城 三の曲輪の端ですね。

取り会えず端ですね・・・・下側にも小さな削平された所が見えますが、左側の下側は①のV字渓谷側の脇になりますね。

これで西の城は終わりです、最初の虎口上に戻りました、右側が最初に来た方向、此れから左上の道に行きます・・・東の城(本城)搦め手の虎口③。


常陸太田の久米城に行って来ました(その1鹿島神社入口から西の城入口まで)。

2023-01-07 14:13:20 | 城郭茨城2
2023年1月5日(木)に茨城県常陸太田氏の久米城に行って来ました、常陸太田駅から電動アシスト付き自転車を借りていったのですが、帰りにはバッテリーが切れて大変でしたね、5メモリーフルでしたが、入り口の鹿島神社までで既に2の状態・・・駅(10時)から国道293号線を久米十字路を北へ若干の山道を上りましたが、鹿島神社10時30分・・・これで半分以下に・・・帰りが不安ですが・・。

佐竹一門の佐竹北家の本拠地の久米城の縄張り図・・・(図の現在地は無視してください)、下側が国道293号で久米十字路を左折し・・・左下からの道を上に・・・・丁度 現在地の文字左側が・・・鹿島神社入口(久米城入口)になります、城内は中央の”東の城”、西北の”西の城”、その北側の”北の出城”、東の城の南側の尾根続きにある”南の出城”の4つから構成された山城なのです、今回の説明は①神社入口から東の城前を抜けて西の城の間へ出てー左側V字谷ー戻ってー西の城入口・・②西の城入口北の出城から西の城ー戻って・・③東の城・・④南の出城から脇を入口へ戻るを分けて説明します、大規模な山城なのです。

鹿島神社入口(久米城入口)・・・この下側の駐車場に縄張り図の資料があるみたいですね・・・気が付かずいきなり上りました。

その前に旗を直して、写真を・・・佐竹扇の家紋(五本骨扇に月丸)、佐竹氏は清和源氏義光流、文明10年(1478)山入義知が攻撃時の城主久米義武は討ち死に落城、しかし佐竹義治は久米城を奪還し、弟義信を城主にした(佐竹北家)・・・慶長7年(1603)関ケ原の戦いに参加せず、佐竹氏は秋田へ国替え・・・城は廃城。

入口脇も削平されていますね、この辺りは根古屋地区。

先に進みますね。

説明版がありわかりやすいのです、前が根古屋地区、左側方面が昔は城下方面だったのでしょう。

少し進むと鳥居が見えてきました、左側・・・削平されていますね。

削平された場所の名前みたいですね、田楽場と名称が・・・右側が三の曲輪の土塀。

正面に鹿島神社の鳥居が・・・まっすぐ行けば”東の城”です。

鳥居前を左折・・・案内板にしたがって進みますね。

左側が”東の城”の三の曲輪です。

三の曲輪脇下の帯曲輪が見れますね。

右側奥に鹿島神社の社が見えますね、”東の城”です。

なおも、東の城脇の脇の道を進みますね、右側が東の城。

道の左側をみますね、三の曲輪脇の帯曲輪(左側)と渓谷、右側が”西の城”側です。

左側が西の城側、右側は東の城側・・・堀底ですね。

向こう側に西の城の看板が見えますね。

堀底に着きました、まず左側に進み、またここへ戻り右側へ進みますね。

左側に進みました、V字渓谷です、左側向こう側は”東の城”側。

縄張り図の現在地・・・東と西の城の境目。

境目の先端です、二重の堀切での防御の仕組みですね。

左側は切り立つ断崖絶壁の渓谷で這い上がれませんね。

これは”西の城”の城壁です・・・・この上は”西の城”の三の曲輪に出ます、此れで戻りますね。

先程左へ行きましたが、戻って右側へ進んでいます、左側が西の城・右側が東の城側です、突き当りが左右の虎口になりますね。

左右の分岐点です今西の城側から見ていますね・・・左側から来ました、正面方向は東の城への虎口となります‣・③の説明となりますね、此れから背中側の②”西の城”の説明に続きますね、

取り合えず此処まで①の説明・・・・大きなお城なのです。