2024年1月29日(月)原市沼側の散歩で・・・・。
煙が上がっていたので、その方角へ、原市沼川から綾瀬川の落合橋左岸瓦葺見沼代用水脇の田んぼの野火でしたが、消防自動車が何台か来ていました、私が付いた時はもうほぼ鎮火していました。
まだ放水はしていましたが・・・。
電車脇の土手にも燃え広がっていたようなので、消防が北のでしょうね。
カワセミ 携帯のカメラで倍率が悪いのですが・・・・何とか。
何だか解りずらいですが カワセミ 翡翠。
2024年1月29日(月)原市沼側の散歩で・・・・。
煙が上がっていたので、その方角へ、原市沼川から綾瀬川の落合橋左岸瓦葺見沼代用水脇の田んぼの野火でしたが、消防自動車が何台か来ていました、私が付いた時はもうほぼ鎮火していました。
まだ放水はしていましたが・・・。
電車脇の土手にも燃え広がっていたようなので、消防が北のでしょうね。
カワセミ 携帯のカメラで倍率が悪いのですが・・・・何とか。
何だか解りずらいですが カワセミ 翡翠。
2024年1月27日(土)神奈川県厚木市の妻田薬師堂の巨木を見てきました。
丹沢南山からの帰り道でみた沢平稲荷のカシ・・・・・。
樹齢200年以上根回り4・6mのカシの木・・・斜面で周りが藪で全体が見ずらかった。
此処からは厚木市の妻田薬師堂の大楠、樹齢(伝)800年・幹回り11m立派な楠。
武田軍が小田原へ攻め込んだ時の帰路(三増峠から甲州へ引き返す)に妻田薬師に火を放った時、燃え移った跡とか?、永禄12年(1569)の事です。
下側の半分も今は無くなり空洞、お地蔵様の館ですね。
少し横側から・・・・巨木も幹回り10mを超えると迫力がありますね。
よりアップ。
まだまだ元気がありますね、外側の皮が確りしてれば、水を吸い上げますから、町中ですが丹沢の湧水でしょうか、左側脇の方には清水が湧きだしているので条件も良さそうですよ。
裏側?から見た所です、空洞とは思えないほど確りしています。
薬師堂前にあるケヤキ・・・これから巨木の仲間入りでしょうかネ、頑張ってほしいです。
2024年1月17日(水)に福島の桑折西山城に行って来ました、前日の雪のせいで部分的に結構雪がありましたね。
桑折西山城の二の丸から回り込むように中館・西館地区へ行きます。
桑折西山城の縄張り図・・・左側の中館・西館地区に・・・・残念ながら中館の周りを歩いただけで中の虎口・曲輪等見ることが出来ませんでした・・・雪と藪とで踏み込まなかった為外側を・・・。
中館と西岳の間の堀切(空堀)・・・右奥が西館。
土橋?を渡れば西館、西館も直進部分は見ての通りヤブの中ですが、此方は中に踏み込みます。
もう一度空堀を見ますね、後程西館ヤブの中を見て戻り、空堀横の右脇を進みます・・・素晴らしい空堀ですね。
西館の郭内に入りました、ヤブが多いので石積の土塁?上から見た所。
土塁の外側。
西館の奥に・・・石積の土塁が見えますね。
再び石積上に・・・・西側の石積、西館内は四角と🅻字に分割した形でしょうかネ。
石積が解りますよね。
曲輪内の東側空堀側へ戻り直進、此処にも区分けの門跡?らしき。
反対側にも土塁がありますからネ。
これは先程の西館の中央分離の土塁ですね。
なおも進む、左側が中館との空堀側、西館虎口方面へ進む。
西館の先に来ました、右側へ回り込みます。
西館の虎口方面の土塁が見えました。
近づきましたね、梯子は関係ありません、土塁を崩さないように設けただけです、中央右正面が虎口。
説明版、雪を払うのに寒いのでさわりだけ落としました、上側から来ました、今は一番下の端ですね、上が中館、左側が西館・・・真ん中が空堀・・・西館の上の曲輪内を見て戻り、空堀横を歩いて此処まで来ましたね。
西館の枡形虎口の上段。
西館桝形虎口を土塁上から見た所・・・橋の向こう側を下り下側も(四角に雪をかぶった)枡形がありますね。
土塁下方面の化粧道(通行止め)・・・・削平された曲輪が段々にあるみたいですが・・・・行けませんでしたね。
土塁上の橋の上から見た西館の枡形虎口・・・・この上側も枡形虎口状になっていますね・・・崩した石積みも見えますね。
念のため、もう一枚。
西館枡形虎口の案内板。
下側に降り立ちました、石垣がありますが・・・・?、この先が隠居曲輪・・・城外?。
下から見上げた西館桝形虎口・・・梯子は関係ありませんよ。
折角ですから少し角度を変えて、右方面が化粧道。
正面からもう一枚・・・・・結局中館の曲輪内へは入りませんでしたが、山城の遺構が残されたお城でしたね。
2024年1月17日(水)に福島の桑折西山城に行って来ました。
JR福島駅より3つ目の桑折(こおり)駅、駅から見える手前の山が目指す桑折西山城、駅にある説明書を頂いて・・。
途中には説明の案内書が新幹線をくぐります・・・・万正寺のカヤも途中にあります。
新幹線のガード下を抜けると目の前にある桑折西山城・・・右側が本丸辺りですね。
観音寺方面が・・・右に・・・。
観音寺入口(時間が無く観音寺には行きませんでした)の脇を直進・・・・右側が大手門通りです。
脇の階段を上がれば柵がありますが、入口ですね、昔は右側下が大手門道でしょうね。
獣除けの柵を抜けます、直進の大手門道(今は通行止め)、左側方面から回り込みます。
桑折西山城の縄張り図、今は下側から・・・・今回はまず、右側を案内します、砲台場・本丸・二の丸の右半分です。
車も通れる道を大手門へ、当時は右下が大手門道ですね。
昨日は雪が降りました、今日は駄目かなと思いましたが行けるとこまで行きますね・・・・大手門道を上がり大手門の虎口まで来ました、大手門にかぶさるように右手の砲台場の曲輪が・・。
桑折西山城の大手門が見えてきましたね、この辺りは門前のたまり場でしょうね、今は左側がなめらかですが、当時は切り立つ土手でしょうか?。
桑折西山城の大手門。
大手道を少し進みました、左側奥が本丸・・・本丸を囲むように削平された曲輪が・・・まず右側の砲台場方面へ。
砲台場への上がり道・・・雪が結構ありますね。
砲台場の曲輪・・・・奥左側が砲台場の土塁・・・明治元年の改修した曲輪、明治政府が仙台藩に命じて作ったとの事、会津藩を抑えの為ですが、その後仙台藩も会津藩と同盟を結んで明治政府に対抗することに・・・実際は使用されなかったみたいですがね。
砲台場方面から見た桑折西山城の本丸(右上)、削平された曲輪と犬走のような道現在の宅地造成のような・・・。
桑折西山城本丸です、天文元年(1532)頃に陸奥国守護に任じられた伊達稙宗(14代)が築き、天文17年(1548)に嫡男伊達晴宗が米沢に移るまで戦国大名伊達氏の本拠の山城。
本丸の右側・・・正面右側が裏門側・・・・七曲道(搦め手道・・通行止め)。
本丸から見た左側下が大手門、正面奥が二の丸地区、手前が左が本丸表門、直進が本丸下段方面(空堀で区分け)。
本丸表門・・・大手門へ通じる。
本丸下段地区との分割の空堀。
本丸下段地区から見た二の丸地区、正面の土塁向こうは大きな空堀で二の丸地区と分割、二の丸地区側が見ると高いですね。
土塁を回り込みました、空堀の底道、左側が二の丸地区、右側が本丸地区。
二の丸側の低い曲輪を回り込んで二の丸側の下に出てきました。
二の丸側の右端から上に上がります、二の丸の途中から横を見た所です、削平地と切岸・犬走状態が解りますね。
二の丸。
二の丸から見た、桑折西山城本丸側。
二の丸奥の縁から見た全景、良い景色ですね。
西館方面の案内が・・・・・これから中館・西館へ。
2024年1月6日(土)茨城県下妻市の大宝城に行って来ました、此処も平将門伝説がありますね、大宝元年(701)創設の関東最古の八幡宮があり、戦勝祈願の為、平将門が度々参拝。
関東鉄道常総線の大宝駅・・・・大宝八幡宮の最寄り駅。
駅裏は現在は田圃?・・・・・昔は大宝沼が広がっていたのです。
駅からもメイン道路を見れば道路が上がっているのが解りますね、微高地が丸々大宝城なのですね。
大宝元年(701)関東最古の八幡さま・・・・大宝八幡宮・・・まだお正月お参りに来ていました。
参道をお参りの人が・・・・。
大宝八幡宮・・・お参りしました、お参り後右側へ行きました(お城巡りですから・・・)。
神社の横の門・・・・この脇裏右側は保育園。
神社脇の保育園横辺りから・・・・何となく城跡の漂う雰囲気が・・・、大宝城は南北朝時代の南朝方のお城跡ですからね(古いのです)。
土塁跡とみなしてよいのでしょう・・・。
本丸(神社境内)を出て振り返りますね・・・・やはり何となく城壁らしく見えますね。
道路脇から見上げますね・・・・。
やはり城壁ですよね、良く残っていましたね・・・・・下妻城では削平したのに神社のお蔭でしょうね?。
土塀下はやはり空堀(今は)ですね。
史蹟の看板が。
今ここは北側です、駅が西側・・・・この後東側南側にも行きますが・・・・当時は南側が地続きなのですね、城主下妻政泰は公国4年・康永2年(1343)北朝方の高師冬の攻撃を受けて落城討死。
北側・・・大宝沼が広がっていたのですね・・・・この対岸に関城(関宗裕(南朝方))がありますね。
駅前の道に行きますね・・・西方。
道路をふい帰ります、北側の端なのでしょう、右がアジサイ苑(アジサイがある広場・・・昔は船着き場でしょうかネ?)。
此処がアジサイ苑、右奥が神社・・・私は左側高台・・本丸から来ました。
多分・・・空堀(昔は沼地)・・・草が多くて解りずらいが・・・・窪地が・・。
窪地が切れた所から登りました・・・・台地の端。
見後な土塁が残っていますね、左側上が本丸・・・此処は犬走でしょうか?。
大宝城本丸・・・・正面向こうが八幡宮本殿の方。
東側から城外へ・・・・敵返不動尊へ。
左側が不動尊、右側が十一面観音堂、右横は古墳?との・・・今はお墓でしたが当時は物見台かな?。
不動尊から見た大宝城・・・沼地に浮かぶ軍艦みたいに見えたのでしょうね。
筑波山が目の前に・・・。
東側の横を歩き、搦め手(駅の反対側)を過ぎて南側の端へ出てきました、地続きな為、高い土塁での防御が今も見られますね。
大宝城大手門口・・・現在は大宝八幡宮への入り口。
結構な巨木が何本か見られました・・・・・下妻市周辺には巨木が見られるみたいなので今度は巨木巡りを・・。
2024年1月6日(土)茨城県下妻市の多賀谷城に行って来ました、関東鉄道常総線の下妻駅そばです。
下妻駅の反対方向に渡るとある公園が多賀谷城址公園、この駅周辺は当時は沼地で周辺の微高地を連携した防御力のある、お城なのでしょう、後北条の猛攻にも耐えたのですからネ。
公園名も多賀谷城址公園・・・・昭和40年代の都市計画でそれまであった城郭の遺構を取り崩し埋め立てたそうなのです、わずかに遺構の欠片が周辺に?・・・・此処が多賀谷城本丸跡。
公園奥がわずかに高台に・・・・。
此処が本丸跡。
横の所に低地を埋め立てるために2m程高台は掘り下げた旨の説明が・・・。
多賀谷城(下妻城) 多賀谷氏家~7代147年間続いた豪族ですね、慶長5年(1600)7代の重経は佐竹氏と共に西軍に心を寄せて出陣しなかった為滅亡。
多賀谷城の縄張り図・・・沼地に囲まれた防御性の高いお城だったのですね、埼玉の忍城みたいだったのでしょうね・・・・これから行く大宝城も右上の方にありますね。
本丸から周りを見ます・・。
今は公園ですからネ・・。
忠魂碑。
公園の外側の道路を見ると廻が低地だったのが何となくわかりますネ。
本丸側から駅の反対側に戻り、側の高台へ・・・・・・。
城山稲荷神社・・・・。
神社脇が高台で保存?、この辺りは隠居曲輪の端っこだったのですかネ。
ほんの少しですが、土塁なのでしょうかネ・・・考えすぎかな。
城山稲荷神社。
2024年1月6日(土)に茨城県常総市の豊田城に行って来ました、併せて常総市地域交流センター(模擬天守)にも行って来ました。
関東鉄道常総線下館駅から南石下駅へ・・・この鉄道と真岡鉄道には昔の城跡が多数ありますからネ、利根川水系の川とそれに伴う河岸段丘の条件が城造りに適しているのでしょうね、駅から何となく斜めに進み常総バイパスへ・・・確かに団子屋さんの看板をありましたが、妙見八幡神社。
この櫓風の建物がその前に目に入りましたね・・・3個程目につきました、豊田城は古いお城で今は何もないのですが、常総市地域交流センター(豊田城・・模擬天守)があるので併せて櫓風建物を作っているのでしょうね。
バイパスの大通りを渡ると八間堀川・・・筑波山が・・・・。
八間堀川を渡り、しばらく小貝川方面へ進みますね、振り返ると見えました、此れが豊田城模擬天守。
大分進みます、本豊田八幡神社。
小貝川の土手に出てきました。
右下の道から土手に上がりました、豊田城の遺構は現在何もないのでしょうね、この辺り・・・もう一つ、この右下の方に農地開発の碑があり豊田城跡の碑がありますね。
これは小貝川の改修の碑、結局、豊田城は小貝川のこの辺りでしたが、川の氾濫にあい、今遺構は無いのでしょうね。
田圃脇にある土地改良の碑と豊田城址の碑、豊田氏は桓武平氏の流れをくむ520余年当地で栄えた名門ですが、12代善基の時この地に築城し栄えたが、21代政親・22代治親の代に至り、下妻城主多賀谷正経との攻防が繰り返され天正2年(1575)滅亡。
豊田城近くのお寺龍心寺。
少し離れた、長照寺。
長照寺の巨木?。
センダンの実がなっていましたね・・・。
常総市の看板 平将門と豊田城(センター)、歩いて豊田城を見ながら石下駅まで行きますね。
八間堀川の向妙見橋・・・この辺りは田圃で何もないので写真が撮りやすいですね。
段々ちかづきますね。
バイパスの大通りを渡り櫓風の脇から・・・・向こうにも櫓風建物が。
今日は当地では成人式みたいで当センターに若者が溢れかえっていました、近場からのお城?は撮れませんでしたね・・・少し歩いて石下駅へ・・・・そこから下妻駅まで行、天敵の多賀谷城を此れから散策しますね。