三郎兼続の日記

趣味の写真で山登り・旅行を主体にした日記
最近は山登りが少なく、城郭・巨木へ

原市沼川に行って来ました(川と橋(下流編))。

2021-02-28 09:56:24 | 日記・エッセイ・コラム
2021年2月24日(水)に近所の原市沼川を遡りました、原市沼川は埼玉県上尾市と伊奈の町ほぼ境界を隔てる川で綾瀬川に合流します、綾瀬川合流点は蓮田市に接します、約5・5kmの小さな川を今回源流を求めて遡りました、原市沼川は合流点から柳津橋まで(2・5km)が一級河川でその上流は準用河川(法定外河川・・市とかが管理)だそうです、今回は柳津橋まで)・・・・なかなかコロナ禍で人込みには遊びに行けないので。

今回のスタート地点です、綾瀬川の立会橋(0)です、こちら側が上尾市瓦葺・対岸が蓮田市蓮田です、見沼代用水の瓦葺掛樋公園は左側です。

綾瀬川(下側と右側)原市沼川(左側)の合流点です、真ん中が伊奈町の南橋ですね。

合流点少し先に一番目の橋が・・・・橋名はありませんね、人道橋です・・・意外と新しいのです、左右に調整池が構築された際に出来ました。

人道橋(1)を左岸上流より、後の森?はつつじ苑の斎場です。

左岸から見た原市沼川上流です、左右とも調整池です川が氾濫しないよう水を脇に落とし込む仕組みですね。

少し遡ると志の崎橋(2)が見られます、今は伊奈町の栄ですが旧名は”志の崎”だったのでこの名前かな?。

これは以前の大雨の時の写真です、奥の調整池まで一杯の状態が解りますね。

右岸から見た志の崎橋(2)と原市沼橋(3)です県道さいたま栗橋3号線に架かりますね。

原市沼橋と県道です向こう側が伊奈町です。

右岸から下流に向かい撮った所、左側が上の調整池側です。

少し上から見た調整池。

その少し上から見た調整池・・・右側は最近出来ました、右奥は鷹の台高校・・・以前私が住んでいたのが小平市鷹の台でした・・・・徳川の狩場だったとか?。

右岸から見た栄橋(4)奥が新幹線の架線、右奥側が伊奈氏屋敷跡です、この橋は東北の震災で壊れ掛けられました、以前はこの辺りにカンバンがありシジミが取れたとか?。

左岸から見た栄橋(4)です。

栄橋から見た上流です、水門と新幹線の架線。

左岸からの水門と栄橋・・・チョット絵になりますね。

これは右岸(上尾市の看板)でこちら側の一部が伊奈氏の領地とありました、多分川が蛇行していたのでしょうね。

左岸から見ました、この少し右側向こう側が古代ハスの場所です。

北陸・東北新幹線の架線橋(5)です、先程の川沿いからは架線橋したを抜けれません、回り込んできました、今は左岸(伊奈町)です。

少し離れて、この辺りは原市沼です。

左岸から上流を見ました、右側が原市沼なのです。

左岸上流に沼橋(6)橋に名前はありませんでしたが、沼橋と呼ばれているみたいなので?。

左岸から下流方面を沼橋(6)と新幹線架線をこの辺りは草茫々でしたが砂利が入れられて奇麗な道に・・・・散歩道にでもするつもりかも?。

左岸から上流を見る・・・この辺りまでは魚が見えますね・・・結構大きなコイが泳いでいましたよ。

柳津橋です、此処までが原市沼川一級河川です、この先は準用河川だそうです。

伊奈町側から見た柳津橋(7)・・・ここも大雨が降ると冠水し水浸しになりますね、手前奥が以前の県立ガンセンターです、ガンセンターは高台で1300年前の奈良・平安時代の製鉄炉が発掘されていますね・・・現地には何も案内はありませんが大山遺跡とか。

此処まで原市沼川で来ましたが、昔は沼落川とも呼ばれていたみたいです、原市沼がこの下流一帯でそこに注ぎ込む川だったのですね。

柳津橋から上流を見ます、此処からは準用河川だそうです、市町の管理に代わるのです・・・源流はいかに?、次回上流編へ乞う期待?。


















太平山城に行って来ました。

2021-02-24 09:44:12 | 城郭栃木


2021年2月22日(月)に太平山に行って来ました、山頂は341mの太平山城跡です、1月31日に行った晃石山はその先ですが、今回は大平神社からお城跡です。

東武線の大平下駅から(写真下)から大平山神社・大平山(大平山城)です、この地図の上の部分が皆川城跡です、大平山城は皆川城の支城ですね、見晴らし砦なのでしょうかネ・・・大平山神社を含めれば結構な城郭なのですが、神社は古くからありますからネ。

山登り・・・ハイキングですが、結構登ります、前回は晃石山までですが、今回は富士浅間神社まで。

いきなりですが、山頂の案内板です、以前の案内版と変わりました・・・なぜかな?。

此れが以前の案内板です、太平山城の説明があります、今回いきなりなくなっていました、改悪ですネ。

太平山神社脇から山道に入ります、神社脇に見晴らし台があり栃木の町が見えるので・・・神社もお城の一角なのでしょかネ、岩場とか細い尾根をたどります。

山頂への登り・・・現在は富士浅間神社の参道です。

登りつめると明らかな人工的な切岸です、正面階段上が太平山城本丸です、左側に腰曲輪が・・・多分昔は正面階段は無かったのではと想像しますね、左側に回り込ましての横矢が防御ですからね。

本丸脇の腰曲輪です、規模は小さいですが奇麗に削平されています。

本丸への階段・・・昔はどうなのでしょうかネ?。

振り返ります、登って来た参道です。

此処が大平山341mの山頂です、富士浅間神社です、神社後ろが櫓台でしょうか?少し高くなっています、大平山城本丸です、北側方面に皆川城(栃木市)があります・・・・後北条と皆川氏とがこの近くの草倉山辺りで戦い、その後後北条の傘下になったそうです。

神社裏手の高台です・・・・櫓台があったのでしょうね・・・・皆川城へ連絡しあったりしたのでしょう・・此処から皆川城は現在見えませんが?皆川城からは大平山は解りますからネ。

山頂の裏側の急斜面です。

本丸神社側から見た所、左側が上がって来た階段がわ・・・こちら側は当時不要と思われますね、右側が本当の虎口?、と思われる。

右側の虎口・・・回り込むように、右下にも削平の曲輪が見て取れますね。

回り込むと先程の腰曲輪です、やはり立派な城郭の雰囲気が見て取れますね。

本丸下から見た本丸の虎口が回り込むよう見て取れますね、まあ規模の小さな山城ですが、皆川城本丸と似たような形式が?。

本丸から降りた所も尾根が削平されていますね。

上の写真の削平の先です・・・ここも明らかに虎口ですね。

虎口の先は急斜面です、此処を下り尾根筋を行けば晃石山進みますね・その先峠に下り、馬入不山・岩舟山へと山々が続きます・・過去2回上りましたね、今日は天気が良く暖かな穏やかな日でした眺望は逆に良く見えませんでしたが5月の陽気とか。


伊奈氏屋敷跡に行って来ました(発掘現場ー障子堀)。

2021-02-21 17:20:44 | 日記・エッセイ・コラム

2021年2月19日(金)に散歩道の一つ伊奈氏屋敷跡に行って来ました、丁度発掘現場の乾燥の為ブルーシートをはがしていました嬉しいですね、今回はその発掘調査現場写しましたので・・・。

やはり散歩の途中で見つけたマンサク(我が家のマンサクも咲き始めましたが)、まず最初に咲くのでマンサク・・・梅が早いですね。

伊奈氏屋敷跡の全景です、今回は浅間神社脇から、こちら側は原市沼の反対東側ですが湿地帯です、左側が大手門側で東側は二の丸側です。

縄張り図が無いと解りずらいので、上の写真は右側からです、発掘調査は裏門跡の跡の文字辺りです。

折角ですから二の丸脇の堀底路から左側が本丸の土塁、右側が二の丸です・・・写真では下側中央の太線です。

裏門の障子堀跡です・・・白線が埋め戻した跡、今回は奥の所です、裏門脇の土塁下です。

新しくできた北側散策路から見た所。

左側下から反時計回りに見ていきますね、左側のブルーシートははがしてありません?、穴の中の色の違う場所が障子堀の桟ですね、この角度はわかりにくいですが。

少しアップで桟の部が解りますかネ。

今回の発掘は全面的に泥をどかしてありませんね、障子堀があるのと規模(大きさ)まででしょうか?、右側の位置が奥行きと深さですね、梯子の部分の泥はどかしてありませんね。

この位置がわかりやすいでしょうかネ、奥は土塁の下まで深さは土塁上まで3m?位でしょうかネ。

横から見た所です、結局土塁側の泥をどかしたイメージの障子の枠、左側は階段状に掘り進めただけかな?。

此処もわかりやすいですね、・・・できればもう少し掘り進めてたらわかりやすいのですがね・・・・遺構が壊れてしまうのでしょうか?。

土塁の上から見た所です、ブルーシートの先の土が無い状態ののですね、結構深く急な斜面なので、ハシゴでも持参しないと攻めるのは厳しいのでしょう?。

これは北条の山中城の遺構です、桟はもっと細いのですが崩れるので厚くしてあります、障子堀はいつの時代のものかは?閼伽井坊の北条とは私は考えられないのですが・・・誰が作ったのかな?。

原市沼川に行って来ました(粗大ゴミとカワセミ)。

2021-02-20 12:06:05 | 日記・エッセイ・コラム
2021年2月19日(金)に散歩道の原市沼川・綾瀬川に行って来ました、またもゴミの放棄が・・・粗大ごみで処理が出来ないのでしょうかネ?。

此処は綾瀬川と見沼代用水が交差する見沼代用水掛樋史跡です。

史跡には案内板もあります。

公園に説明の模型図が昔は川を交差するのに樋を掛けたのですネ、今は綾瀬川を潜って交差しています、アユが此処まで遡上したみたいですね以前よりは奇麗になったのでしょうが。

此処は綾瀬川ですが、200m位上で綾瀬川が右側から、左側から原市沼川から合流します・・・大分土砂が堆積したので本年度の予算で土砂を覗く工事が進められます。

これは原市沼川の調整池側ですが、2020年12月29-30日に捨てられた粗大ゴミ(ソフア)でしたね、年明けにはかたずけてくれましたね・・・小さなゴミもついでに?捨てられていましたね・・・年末自分の家だけ奇麗にしたかったのでしょうか?。

粗大ゴミをアップでカバーは解らない様?はいでありました?。

今度は2月17-18日でしょうか、またも粗大ゴミが・・・昼間は釣り人散歩者がいるので夜間でしょうかネ?。

やはりアップでバギー車でしょうかネ、以前ゴミ掃除で自転車が3-4台捨てられていましたね奇麗にしたのですがね。

この川はそんなには奇麗ではありませんが、カワセミが結構見られます、カワセミも見ていました。

カワセミも泣いていましたね。

伊奈氏屋敷跡に行って来ました(北側散策路)。

2021-02-14 16:05:20 | 城跡
2021年2月13日(土)に伊奈町の伊奈氏屋敷跡に行って来ました、北側の散策路が完成しました、私の散歩道の一つで以前より行っていましたが、2月14日(日)の散策路完成を目指していましたが今年はコロナ禍の為中止となりましたが業者さんが作業を行っていました。


これは我が家に咲く福寿草です、今盛りなので思わず撮りました。

原市沼の栄橋(東北の地震で壊れ作り直しました)から原市沼川の水門と新幹線の高架、右側が伊奈氏屋敷跡です。

伊奈氏の説明版。

伊奈氏の屋敷跡の縄張り図です、今回完成の散策路は北側です(地図の上側)。

まずは陣屋跡横の頭殿権現社です、伊奈氏屋敷跡は大宮台地東緑部の原市沼等の湿地帯に囲まれた比高5mの島城の台地です。

頭殿権現社から見た原市沼側です。

次は二の丸跡です、左側が原市沼側・・・・南側方面(地図では下側)

二の丸を仕切る本丸の土塁。

二の丸の蔵屋敷方面の堀底路・・・・左側が本丸土塁、正面が蔵屋敷です。

少し蔵屋敷側に近づき、正面が本丸の土塁、右側が蔵屋敷の土塁跡で遺構が解りやすく保存されています。

ニューシャトル丸山駅側の案内板・・・搦め手側入口です。

裏口脇の湿地帯には障子堀がありました・・・埋め戻し白線でマークしてありますね・・・障子堀は後北条の築城のお家芸ですが・・・後北条時代は閼伽井坊があり(障子堀まで行うかな?伊奈氏ではないかと疑問)。

今回の散策路です、障子堀さきから外側を回り込みますね、・・・・障子堀の少し先を今回発掘していました。

実は今回の発掘でも土塁脇下に障子堀らしき堀跡があったとの事・・・・説明話及び写真を楽しみにしていたのですが中止になったので残念です(涙)。

埋め戻す前に見たいのですが・・・・・・・・・・・・。

北側散策路です、湿地帯なのです、今回は木橋が二つ架かりました、普段は水がありませんが雨が降れば水が・・・。

右側が本丸側です、本丸土塁下が水の通り道です、散策路は少し高い場所ですね。

振り返ってみました、左側が裏手見晴らし櫓台跡かな?。

裏門跡?・・・・・右側下が障子堀、右側手前下が発掘現場・・・右側が少し高く小さな曲輪跡?、左側が堀切でその横上が見晴らし台跡(?)、此処は微妙な遺構なのです。

北側散策路を進み振り返ります、左側が本丸側。

正面の林(竹藪)が見晴らし台かな。

二つ目の木橋。

こちら側は川?の溝が深いですね。

北側散策路の終わりですね、左側は二の丸の倉屋敷のよこの方に出てきます・・・・まだ散策路が続くのかはわかりませんが伊奈氏屋敷跡大分整備されてわかりやすくなりました・・・・丸山城?とは・・・その頃の文献が無く?よくわかりませんが伊奈氏時代のイメージは解りますね。








吉野原合戦跡に行って来ました(大宮)。

2021-02-07 12:11:00 | 日記・エッセイ・コラム
2021年2月5日(金)に近所の合戦跡である、吉野原に行って来ました。

ここは国道16号バイパス?、さいたま・栗橋線のさいたま市より上尾の原市端です、この先に芝川があり少し高台です、船橋の地名があり見沼の端です・・・・この右の所に次の看板があります。

船橋の由来・・・大永4-5年(1524-25)河越城主上杉朝興は岩槻城を攻撃するため3000余騎を率い平潟川(旧利根川)を渡り上尾宿の南吉野原(大宮)へ対する岩槻(岩付)城主太田資頼は1200余騎は原市に着陣、多数の死傷者を出し戦意を失い上杉勢は河越に退いたとの事・・・・岩槻巷談の話の看板です。

この話は年号対戦相手的にややこしく?、元々太田資頼は扇谷上杉に仕えていた家老職ですが、大永4年(1524)北条氏綱に寝が入り岩付城をせめおとし、再度攻められて扇谷上杉に降伏、大永5年(1525)には北条氏綱に攻められ岩付城は落城、資頼は石戸城へ、享禄2年(1530)太田資頼により岩付城を奪還、天文6年(1537)河越城主上杉朝興が病死・・・すかさず北条氏綱は上杉朝定から河越城を取る流れの中での、この話は主君を寝が入った頃の最初の方の戦い見たいですね?。

陸橋のうえから吉野原方面を見ました。

同じく国道大宮方面を芝川がありその先に東北新幹線とニューシャトルの吉野原駅があります・・・・この駅名が吉野原です。

陸橋下のバス停名が船橋で見沼添いの狭い個所に船の橋を渡した名前みたいです。

芝川です、新幹線が見えますね、向こう側は大宮の工業団地となっています、この先と右側がが原市側です。

ニューシャトル吉野原駅です、この辺りが古戦場なのでしょうかネ?。

今の工業団地吉野原です。

芝川に架かる吉野橋の名前も今に残りましたね、さらに天文15年(1546)扇谷上杉朝定は山内上杉・古河公方連合で河越城を攻めましたね、有名な河越夜戦です、この戦いで扇谷上杉は滅亡、山内上杉は越後に武蔵は北条のものになりましたね。

晃石山に行って来ました。

2021-02-01 16:51:56 | 山関係

2021年01月31日(日)に大平山系の晃石山に行って来ました、419mと低山ですが意外とアップダウンのある山です、大平山は我が家からは一番近い山でしょうかネ、最近は2018年12月に大平山の山頂大平山城跡(富士浅間神社)と大平神社へ、2016年1月20日は雪の晃石山へ行きました・・・・しばらく行っていないみたい・・・。

東武日光線新大平下駅から日立工場前から踏切を渡り大きな道路?を過ぎJRの踏切をまで20ぐらいですかネ?、漸く大平山東山道入口へ。

切通を上がれば右側へ上り路が・・・・。

此処から階段200段ぐらいでしょうかネ10壇位で踊り場の繰り返しで上がります。

階段の中間ぐらいですかネまだ階段が続きます。

漸く景色の見える所に、この先一度道路を横切りまた山道へ入りますが、右側が大平山でしょう、奥が此れから行く晃石山です、登り下りの尾根歩きです。
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山山をアップで左側奥の一番高い山が晃石山419mです、中央奥右辺りが大平山ですね、右側の高く見える山は?謙信平でしょうかネ?。

謙信平下脇の蕎麦屋さんに出ました、筑波山が左脇の方に見えました、双耳峰がくっ切りわかりますね。

舗装道路を200-300m登れば”陸の松島”と呼ばれる謙信平です、結構な人手にビックリしました・・・・謙信平の駐車場が車で一杯でしたね、人込みを避けて山側に入りました、写真は謙信平の展望台です、上杉謙信と北条氏康が大中寺で和議条約を結んだときにこの山から関東平野を見て広さに驚いた場所です・・・・確か豊臣秀吉にも似た話がありましたね。

蠟梅(ロウバイ)が今盛りです・・・・秩父の宝登山も有名ですが・・・。

今回は大平神社には行かず直接晃石山方面へ・・・・この手前右側へ行けば神社側ですが人が居るので裂けましたが山中にも多くの人が来ていましたね、今日は天気が良いので日曜なのですが来ましたがやはり平日が良かった・・・・風も強く天気予報がずれましたね。

漸く大平山の迂回路もおえて、本格的な山道へ入りました、左へ下れば大中寺方面ですが此れから尾根筋のアップダウンですね、鹿・猪が増えたみたいですね、木に巻き付けた白いものは鹿に食われない対策です・・以前はありませんでしたね。

山道を低山ですが結構な登りも・・・道も石が出ていますしネ。

途中の見晴らしの良い場所から日光方面を眺めました・・・・日光白根山?でしょうかネ、美しい雪山が。

反対側を見れば登って来た方面です、筑波山も見えますね。

結構岩も露出していますよ。

木の根も露出していますし。

漸く着きました晃石神社です、右側の裏側から奥の院山頂へ登ります、

山頂への上り路も結構荒れていますね、土が流れ落ちて木の根が岩と混ざって・・・。

此処が晃石山山頂です419mです、向こう側は栃木市の皆川地区(皆川城のある方ですね)奥右側が日光方面です。

日光の連山です男体山・・・先程の雪山はこの左側です、この下の皆川城を探したのですが解りませんでした、多分もう少し右側かな?。
久しぶりの山で往復5時間弱大変疲れましたが、今日は足の痛みも無くスムーズに散歩も出来ましたね、しかし帰りの電車でゴルフ帰りでしょうかネ、ビールを飲んでいる人が何人かいましたね(当然マスクを外して)。