三郎兼続の日記

趣味の写真で山登り・旅行を主体にした日記
最近は山登りが少なく、城郭・巨木へ

お城(城址)探訪 2015年

2015-12-23 10:36:15 | 訪問城郭年間総集

 ☆画面はフル画面でお願いします☆

 沢山のお城がありますが、殆どは城址(城跡)です、当時の現存の天守閣が保存されているものは12城、お城の建物は最近建てられたものが殆どです分類分けとして,現存天守ー復元天守ー復興天守ー模擬天守ー天守風建物(お城とは無関係)。

城址に至っては保存状態次第です、保存状態が良ければ当時の状態が伺えますが、悪ければ名前のみに・・・・。

 

此れは江戸城北の丸”清水門”です・・・・・私の好きな門です、流石天下普請で見てくれはシンプルですが巧緻で防御制の高い作りですね。

左の写真の左側近くの石垣の上から見た所です、枡形式ですね右側が土橋からの出入り口での高麗門がありその外が鵜首で狭めてあります(大勢で来れない仕組み)高麗門を入り広場で右側に行くのですが清水門が立ちはだかります、手前は堀、左側は石垣、狙い撃ちされるのです。

 

例え門を破り突破しても正面・左側は堀の石垣で手前に来る道になります。

門を回り込むと左側は急な土塁、道は登坂なので上方向からの攻めをここでも食らいます、右側からも囲むように迎え撃つのです良くできた防御だと思いませんか?。

 

 この高い石垣は江戸城本丸(右側)と二の丸(左側)の間にあり内堀まで(白鳥濠)ある防御です、この坂は潮見坂(昔は海が見えたのでしょう)で坂を上ると突き当りに石垣、曲がって門があり防御されています。

江戸城大手門です、ここも高麗門・枡形式出入り口(虎口)で奥が大手門です。

 

東京駅から丸の内の外堀(まだ内堀が正しいか)を過ぎると桔梗濠があり、巽櫓が石垣の角にあります、奥が桔梗門でその奥が富士見櫓です、とても良い景色ですね、この内堀1周約5kmでジョギングコースです(北の丸は含みません)、皇居前広場・北の丸とは堀で分けてありますからネ。

江戸城内には沢山の門があります・・・・今はありませんが、石垣と石垣の間は門があるのです、また2重3重の水堀に防御された素晴らしいお城です。


 

二本松城の箕輪門です、戊辰戦争で激戦地となり落城しました、会津では白虎隊がここでは少年隊14名が戦でなくなりました(左下に像)。

門下から見上げる箕輪門、角にあるのは石落としです、銃撃・砲撃の戦は築城当時考えていないのは無理もありませんからね、しかも壮年の武士たちは防御で出払い老人・子供たちなのでしたから、藩としても簡単に落城すると思ってもいませんでしたね。

 

二本松城は白旗ケ峰に築かれた山城で頂上に天守閣跡の石垣が見られます、この反対方向に安達太良山が良く見えます、この石垣は修理され奇麗でしたね、昔来たので2度目のお城になります。

 

諏訪湖湖畔にある高島城、昔は向こう側まで湖水があり、現在は陸地化し湖水は大分先です、石垣が緩やかなのは湿地帯の性ですかね?。

手前が隅櫓・冠木門・天守、冠木門は現在は櫓門です。

 

 甲府城稲荷櫓、甲府の駅前(駅が2分)石垣の角に立つ櫓です、建物は此れだけで後は門が復元されていますね。

城内の縄張りがこの城はわかりやすく見られますね、鉄門本丸への入り口です、内松陰門からの枡形広場等上から見えるのでこれもわかりやすいです。

  

関宿城です・・・・関宿城博物館の名前です、利根川と江戸川に挟まれたスーパー堤防上にあります、昔の城は少し下流の土手から川の中です、古河城も渡良瀬川の川中にお城が在ったみたいです河川改修で変わりますからね、古河城も。土手の外側にお城を復元したら良いと思うのは私だけでしょうか。

関宿は後北条が関東制圧に必要な重要拠点でした、このため関東管領上杉と数度にわたる戦場でした・・・・後北条が収めましたが・・・・、この城は江戸期の城を模したものですが江戸城富士見櫓が原型とか。

 

高崎城乾櫓・・・堀と土塁が現存していますが町中の平城のため廃城後軍隊の駐屯地に使用されていました。

これも乾門です、三の丸は官庁街で面影はありません。

 

久留里城天守閣・・・山の上に立ちます2層2階、二の丸は別の連結した尾根にあり三の丸は山下にあります・・・・いろいろ城主が変わりますが戦国末期は里見氏ですがこれとは違いますね。

江戸期は黒田氏で写真手前が天守閣の台とあります、天守は浜松城模擬天守を模したみたいです。

 

館山城もとは里見氏のお城、その後のお城の内容外観は不明との事、丸亀城天守を模して建てたとあります、これがお城らしいお城ですね。

房総の海を目の前に小高い丘の上にそびえる高欄廻縁の付いた奇麗なものです入り口は付け櫓。
千葉県はお城が好きですね千葉城も全くの模擬天守閣ですから。

 

徳川家康ともゆかりの深い城、浜松城石垣の野面積みが荒々しいですね、高欄廻縁ですね、石落としが大きく広がっています。

大手門と浜松城・・・元々天守閣は無いとか?。

 

 掛川城、土佐の山内一豊が一時収めていましたね、ここは二の丸御殿が現存しています、この天守は日本初の木造での復元天守です、幕末の大地震で崩壊し無かったのです。

高知城をある程度参考に復元したと入母屋・唐破風・花頭窓、高欄廻縁は無いとの説も。

 

 駿府城二の丸巽櫓と東御門。

駿府城坤櫓。

 

 竹田城址です天空の城で有名、修復したのですが奇麗な石垣が見事なものですね、豊臣秀吉が弟秀長に改築指示し、当時の西国の武士達に見せつけたのでしょうね、大手門の石垣です。

山頂からの三方へ広がる山尾根を利用した縄張りです、本丸横から見た南二の丸・南千畳方面の石垣です。

 

 本丸の石垣です、本丸の入り口らしきものが見えないので最後は梯子の階段状態なのでしょうか・・・手前低い石垣は田中裕子がステージにした所とか。

南千畳方面からの二の丸・三の丸・大手門側を見た所です。

 

 後北条氏照が建てた八王子城の御主殿の石垣と冠木門です、右側の山上が八王子城本丸方面です、ここに天正18年(1590)年6月23日豊臣・北陸支隊50,000人(降伏部隊15000人を含む)が北条八王子留守部隊3,000人のこの城に猛攻撃をかけたのです、城主氏照は小田原城に4,000人で籠城中でした。

深澤山の山頂が本丸跡です、この右側に小宮曲輪がありこの曲輪の手薄の不備を突かれ落城したとあります、広大な城内を守る兵力不足・・・・逆に豊臣軍はそれ程の軍事力が有ったのでしょう、小田原は22万の兵力で囲んだのですから。

 

 武田信玄・勝頼と徳川家康の攻防の地高天神城の山城です。

急峻な山城でH型・・・この城が落ちてこのすぐ後に武田家が滅亡しました。

 

 唐沢山城の高石垣が今に残っています、唐沢山に建てた佐野氏の連郭式山城です、上杉謙信が何度となく攻めあぐんだとのことです、江戸時代江戸の火事を見て(晴れた日の展望が良い)早馬で駆け付けた所、江戸を監視との事で不興を買ったとも、その後佐野城に移転廃城になりましたが遺構が良いです。

本丸跡の唐沢山神社がありますが、横からの虎口は元石垣でしょう。

 

群馬県金山城址の見事な石垣です。

金山城本丸跡。

 

 

小田原攻めの折に作られた一夜城二の丸から見た本丸方面です、石垣も崩れていますがかなりあります。

一夜城の水曲輪です、ここは当時の石垣がそのままありますが崩れの為立ち入り禁止です。 

 

 群馬県の箕輪城址の本丸あと石垣ではありませんが、見事な深い土塁でのお城後に驚嘆します。

本丸土塁上から見た下が空堀です、武田信玄と争った長野業政・業盛らの夢の跡です、春風に梅も桜も散り果てて名のみぞ残る箕輪の山里(業盛)・・・水汲みに行くのか地獄の一ノ木戸行くとは見えて帰る人なし(詠み人知らず)