三郎兼続の日記

趣味の写真で山登り・旅行を主体にした日記
最近は山登りが少なく、城郭・巨木へ

伊賀上野城に行って来ました。

2024-04-07 07:44:36 | 城郭三重
2024年4月3日(水)に伊賀上野城に行って来ました、ホテルがお城前なので食事後散策です、今日は雨との事でしたが、まだ降っていないので出かけました。

伊賀上野城の表門・・・白鳳門・・・此処から城内へ。

両サイドが学校ですが、緩やかな登り、学校の切れ目には石垣が・・・・。

今は上野公園。

大手門跡を入ると、正面突き当りに池があり、左右に道が分かれますね・・・・・右側は旧本丸方面・・筒井定次が築城、左側へ。

大手門正面の池。

左側の坂道を登りきると伊賀上野城が現れます・・・伊賀上野城は築城の名手、藤堂高虎が徳川家康の命で豊臣対策として改修、完成間際に台風で倒壊、その後大阪の陣で徳川の勝利になったので天守は建てず・・・・・これは昭和の建物です。

その時西方の大阪対策として作られた、高石垣(約30m)。

西側から見た、伊賀上野城。

城内を回り込み東側へ、東側にある石垣は豊臣秀吉の家臣、筒井定次が天正13年(1585)築城した旧天守跡。

東側本丸からの伊賀上野城天守、大天守・小天守。

角度を変えて。

・・・。

もう少し近づいて。

三つの天守の説明版が・・・。

お城の虎口。

再び離れて・・・・桜も漸く開花しましたね。

旧本丸側の石垣へ。

旧本丸の石垣上から・・・東側。

高石垣を下側から見上げますね、高台なのですが、水がしっかり溜まっていますね。

これはホテルから見た伊賀上野城の大天守・小天守と本丸の石垣と手前は高石垣、如何ですか。


松坂城に行って来ました。

2022-04-21 09:51:18 | 城郭三重
2022年4月11日(月)に三重県の松坂城に7時ごろから近鉄線で出かけ、その後津城・桑名城と戻りながら三城を散策、見ごたえがありましたが、流石蒲生氏郷が築城した松坂城は良かったですよ。

駅は下側です、解りやすくお城に着きました。

これが松坂城本丸周辺です、この外側に三の丸と堀で囲んだお城ですね、標高38mの独立した丘陵に築かれた平山城で、北側(図右側に)を流れる阪内川を防御とした石垣の城、天正12年(1584)豊臣秀吉により松ヶ島城に封じられた南伊勢12万石蒲生氏郷がこの丘陵に目を付け築城天正16年(1588)に完成・・・天正18年(1590)小田原征討の功により42万石の太守として会津へ移りました。

松坂城大手門通り、この辺りは三の丸で石垣が表門(筋違い虎口)。

筋違い表門。

表門・・・正面に本丸下段の石垣が立ち塞がりますね、左側が二の丸方向、右側が石垣後ろを回り込むように本丸下段への道。

筋違い御門を右側の石垣上に、上から見た二の丸側への方向を見ます、右側の石垣は本丸下段の石垣、奥が月見櫓の石垣ですね。

表門を右側へ回り込むように上がります。

回り込むと本丸下段の石垣に挟まれるように進みますね、左の石垣の上が遠見櫓、右側金ノ櫓。

石垣に挟まれた道を上がります・・・本丸下段へ。

本丸下段の曲輪です、右側が本丸上段の石垣。

本丸下段の月見櫓跡。

本丸下段から見た中御門跡、右側が本丸上段の石垣と金の間櫓跡、左側が太鼓櫓跡。

月見櫓跡に立ちました。

月見櫓跡の石垣端から見た表門、石垣の上は両サイドに櫓とつなぐ多門櫓、表門を入り奥側から本丸下段へ、手前は二の丸へ来る道ですね、石垣の右側は三の丸が取り囲みます。

石垣の上・・・多門櫓跡・・・月見櫓から太鼓櫓方面を見ました、左下が二の丸。

太鼓櫓の石垣上端から見た隠居丸(右側)と裏門側への下る路。

太鼓櫓跡と左建物は隠居丸の本居宣長の建物、奥の石垣が本丸上段への中門の石垣。

中御門跡・・・・右側が本丸上段へ・・・左側へ下れば隠居丸から二の丸又は裏門へとまいります。

いよいよ、本丸上段へ。

松坂城本丸上段です、奥が天守跡・・・・此処から本丸上段の石垣上を時計回りに廻、後程本丸へ戻りますね。

本丸上段の虎口上の石垣端から見た本丸下段と中御門跡。

少しずらしました、左が太鼓櫓跡、右側が隠居丸。

石垣したは隠居丸、コの字の石垣・・・・手前側が本丸上段側、向こう側がきたい丸と分断区別?。

きたい丸です。

きたい丸の外れまで来ました、隅櫓跡。

なおも、きたい丸を回り込むように・・・やはり隅櫓跡ですね、こちら側が阪内川側です、下側は三の丸です。

この先も櫓跡・・・きたい丸と帯曲輪を分断?。

本丸下段側への石垣に?・・・・・渦巻き型の石垣ですね、下側は三の丸ですが。

石垣を進むと、右側は本丸上段の石垣、今いるのは本丸下段の石垣上です、右側はきたい丸と本丸下段を結ぶ帯曲輪でしょうね。

石垣から振り返ります、左側が本丸上段の石垣(見える所は天守の石垣・・・正確には敵見櫓)。

さらに進むと角が藤見櫓跡。

藤見櫓跡から見た所・・・表門から本丸下段へ進む道が見えました、一回りしましたね。

石垣端の鐘ノ櫓跡。

鐘ノ櫓から見た所、向かい側が遠見櫓、下側の道が先程進んだ本丸下段への道、左側の建物は明治45年に建てられた歴史民俗資料館。

再び戻りました、松坂城本丸上段。

本丸上段にある天守跡、右側に敵見櫓跡と石垣が連動しています。

敵見櫓跡の石垣から見た先程歩いた本丸下段石垣多門跡と帯曲輪・・・・本丸上段石垣から本丸下段石垣と渦巻き石垣ですね。

天守跡から見た本丸上段・・・・正面が金ノ間櫓跡、その右側が先程上がった中御門の虎口。

天守跡から見た、きたい丸への石段。

きたい丸から見た天守跡と階段・・・・天守への入り口2?。

中御門から裏門側へ。

二の丸の太鼓櫓の石垣を回り込むように下りますね、右側は隠居丸(本居宣長の旧宅等があります)。

回り込むと・・・右側は隠居丸、左側奥に二の丸がその右側が裏門へ分岐しますね。

奥が二の丸。

二の丸隅から見た石垣・・・裏門側と下はやはり三の丸。

二の丸をでて二の丸の石垣と隠居丸の石垣に沿って裏門へ。

松坂城裏門です、右側が二の丸の石垣、左側が隠居丸の石垣、此処からは三の丸です御城番屋敷はこの後です、素晴らしいお城でした、この時は疲れていないので二度城内を見て回りました、良かったですね。


津城に行って来ました。

2022-04-20 09:42:23 | 城郭三重
2022年4月11日(月)に三重県津市の津城に行って来ました、戦国期は名門北畠氏に対して織田軍が新勢力を伸ばしたところですね、織田信長の弟織田信包が築城、慶長5年(1600)関ケ原の戦いの前哨戦で西軍の攻撃で戦火にあいました、慶長13年(1608)藤堂高虎が伊予今治から伊勢・伊賀22万石で移り大改修したお城、さらに大阪の陣で32万3千石の大大名になりました。

安濃川と岩田川が伊勢湾にそそぐ真ん中の場所に水堀で回の字の二重に囲まれた平城(輪郭式)、藤堂高虎は有数な築城家ですからネ。

現在は真ん中の本丸の一部のみですね。

真ん中の本丸①と西の丸(馬出曲輪)②が変形したかたち(繋がっています)で残っていますね・・・・理解するまで時間がかかりました、現在位置から城内へ

左が市役所がわ・・・当時は二の丸、西の丸への虎口。

西の丸の石垣と堀・・・・大分小さくなっていますが、右側の石垣は後から造成したのでしょうね。

この虎口は当時のものでしょう、本丸へはこの西側と東側の二か所ですからね、南側は気になりますが?。

城内に飾られた藩校の門。

西側の二の丸側です、堀はもっと広かったのですが。

北側の堀と奥の石垣が本丸で西北櫓が角地に立っていたのです。

西の丸・・・現在日本庭園。

現在陸続きですが、本丸の西側の石垣、手前は水堀で隔て絶たれていたのです、右側が本丸への虎口。

本丸側西側の虎口・・・平城なので石垣は立塀なのです、上は多門塀でぐるりと囲むお城でしょうね?。

本丸西壁際を奥に・・・・。

突き当たり奥に建物が見えてきました、本丸東側です。

本丸石垣の上から見た津城復元櫓(模擬隅櫓)・・・・木々が生い茂り写真は?。

石垣上から見た東側です、取り合えずお城は此処までですね。

津城本丸北側の石垣上から西側を見た所、東北隅櫓跡。

西北隅櫓まで石垣の上を歩きました、先程の西の丸です、奥は二の丸・・・石垣の括れた所が当時は橋?で細く繋がっていたのでしょうね?。

念の為・・・左側に石垣が向こうまで出ていますからネ。

本丸へ降りてきました。

藤堂高虎の像・・・・伊予今治城にもありましたね、七回主君を変えていますが、豊臣秀長の下で技術力を磨いたのでしょうね?。

津城の模擬隅櫓・・・丑寅櫓(場所も形も異なるとか、でも建物があるとわかりやすくいいですね)。

津城丑寅櫓。

先程は上から見ましたが本丸の北側の堀と石垣。

再び津城丑寅櫓・・・・・電線が多く写真が撮りずらい、折角建物を建てたのに考慮が・・・・、此処ではありませんが、ほかでも看板が目につくとか???。

東側は本丸で切れています・・・・東の丸はありませんね。

再び本丸へ南側の虎口がありますね?、右側は西南隅櫓(伊賀櫓?)。

外に出て見ると公園ですが堀跡ですね・・・船着場?。

本丸西南隅櫓の石垣です。

本丸城内から見た櫓の石垣・・・・此処が本丸天守台ですね、全体の大きさが把握できず中途半端になりましたが如何です、今回の最後の松坂城此れも素晴らしいあの蒲生氏郷が築城です。

桑名城に行って来ました。

2022-04-19 09:33:53 | 城郭三重
2022年4月11日(月)に三重県の桑名城に行って来ました、この日は当初より天気が良いとの事で三重県近鉄線沿線の松坂城・津城・桑名城と回りました・・・・結果的には4日間天気が暑すぎましたが良かったです。

桑名城は木曽三川(揖斐川・長良川・木曽川)が伊勢湾にそそぐ河口の脇、完全な水城です。

桑名城の縄張り図、後は大河(海)で水が豊富な掘割で囲まれた水城。

これが現在の桑名城跡の九華公園・・・・真ん中中央が本丸。

駅がわから東海道を渡り最初の掘割・・・・此処の石垣が当初からのものか?・・・此処から武家屋敷だったのでしょうかネ?。

次にでた水堀からが九華公園です、石垣は当時のものではありませんが・・・三の丸の堀?。

公園入口の三の丸に徳川四天王の本多忠勝の像が、天正18年(1590)小田原征討で徳川家康は関東へ、その時上総大多喜10万石に慶長6年(1601)関ケ原の戦いで伊勢桑名11万石の大名となりこの地に城を構えたのです。

現在建物の遺構はありません・・・・これは当時三の丸にあった蟠龍櫓(水管理)の外観復元櫓・・・この左側先に”七里の渡し”。

三の丸水堀の水門口。

木曽三川・・・広くてわかりませんが水門とか見えます。

三の丸外側?の公園から大手筋(正面)へ行きますね。

此処は?。

此処が本丸への大手道。

大手道から右側を・・・右奥が二の丸です。

同じ場所から左側を・・・・右奥が三の丸・・・昔は本丸と三の丸は水堀で分かれていますが、今は繋がっていますね。

土橋?を渡るとイヨイヨ、桑名城本丸へ。

桑名城本丸。

桑名城本丸。

本丸にある鎮国守国神社・・・松平定綱を祀る、各藩祖を祀る神社が明治初期各地でおこりました。

神社脇に残る天守石垣、東北隅に四層六階の天守(火災で紛失・・そのまま)。

本丸辰巳櫓跡・・・天守の代わりとなっていたとか、明治維新の折、落城の印として焼き払われたとか。

辰巳櫓跡から見た二の丸方面、朝日丸は?。

此処は本丸西南隅櫓のあった、神戸櫓跡本多忠勝以前の櫓をそのまま利用とか。

これも二の丸方面、こちら側は何となく以前の面影が。

これは三の丸方面、如何ですか、昔と水堀の関係が?解りずらく少し違うかも・・・何せ暑さの中3城も廻疲れました。