三郎兼続の日記

趣味の写真で山登り・旅行を主体にした日記
最近は山登りが少なく、城郭・巨木へ

皆川城跡に行って来ました(栃木)。

2020-03-28 12:42:48 | 城郭栃木

2020年3月26日(木)に栃木市の皆川城跡に行って来ました、栃木駅からふれあいバスで皆川郵便局前です。

郵便局前で下車・・・少し戻り分岐に案内板が皆川城址ですよ。

分岐を右側に入り、少し直進・・・右手に小高い山が見え山頂に展望台が・・・あれが皆川城本丸です、入り口は皆川公民館からです、左ての土塀が皆川公民館(以前は学校とか?)(皆川氏の居館跡)、公民館でパンフレットを頂きました・・・外にもありましたね。

公民館脇から(此処は居館)山側へ・・・・いきなり竪堀目の前に。

皆川城へは直進して登らず、時計回りに山裾を回り込みますね、この道を回り込みます。

案内板と頂いた資料を見ながら左側から裏側へ本丸からジグザグで見ながら下りますね。

皆川城の縄張り図です、別名法螺貝城です、山頂を本丸・二の丸(お花畑)・西の丸と削平し帯曲輪・腰曲輪でグルグル削平し竪堀で区分けされた全山城郭です、戦国期には北の鹿沼を攻略した宇都宮氏から圧力を受け従属、離反をくり返しました、永正13年1515年には宇都宮忠綱と戦い皆川宗成が勝利・・・西方城を奪いましたね、天正12年北条氏政・氏直が来襲し3ケ月に渡る激戦の末和議、北条の傘下に、その後豊臣秀吉の小田原征伐時には藩主皆川広照は小田原籠城に参加、城は上杉景勝らに攻められました、広照は徳川家康を頼み降伏し、城は開城・・・その後お城は廃城(栃木城を築城移りました)、戦国期を巧みに生きた皆川氏のお城ですね。

此方の縄張り図が解りやすいですね。

山側から見た、皆川公民館(居館)です山のお城をバックにした中世のお城形式です、東側(栃木市側)にも昔の居館跡が見られますね永野川が有りますからね。

お城全体?を見ました、幾つかの段丘が見られますね、左の木々が西の丸・二の丸・本丸。

竪堀です、西の丸下の腰曲輪まで掘られています、わかりやすく見事な竪堀です。

これは西側の虎口ですね、丁度真横の方角に来ました。

お城の北側(後ろ側)に回り込みましたね、裏側にもしっかりと段丘削平された防御が見られますね、横矢ですね。

上から見れば削平された帯曲輪の上から迫る敵兵を上から攻撃ですね、こちら側は木が沢山有りますが下草が刈られ見やすいですね。

漸く、二の丸脇に上がりました、右側が二の丸(お花畑)です、正面奥が本丸で手前に腰曲輪?。

登って来た方の反対東側も大きく切り開かれた削平が見れますね。

本丸の腰曲輪から見た本丸です。

本丸の腰曲輪から見た二の丸です、正面が西丸です、左側下から正面奥の下を廻右側から二の丸脇へ登って来たのです。

本丸脇の腰曲輪反対側見た二の丸です。

本丸です。

本丸から見た栃木市市街方面です、右奥に筑波山が見えますが?、正面下の森が東宮神社ですね、後がグランドですが当時は此処も皆川氏の居館跡らしいですね、市街地手前の横線が永野川ですから、防御性が高いのでしょうね、この下あたりに東口虎口もあるのです。

本丸下の帯曲輪から西方を見ました、右上が二の丸・西の丸、その下が大きな曲輪で井戸・池(土が崩れている辺り)が有りますね、そのしたも段々です。

二の丸です、奥が西の丸。

西の丸・・・・道路は堀きりで区切られていたのでしょうね?。

二の丸から見たお城南側の正面。

二段目の腰曲輪から本丸を上務、正面が井戸・池跡。

西の丸下の竪堀上から西方面を見る、段丘での防御が見られますね。

同じく南側(正面)を見る、向こうの山は大平山・晃石山方面ですね、下は居館。

此れが竪堀を上から見た所先程は下から見上げました、下が屈折させていますね。

まず右側方面西の虎口方面まで段々が繋がっていますね。

竪堀左側から真下を見る。

竪堀中間から西方の虎口方面です。

振り返り南側、本丸を望む、この右側も大きな削平ですね。

竪堀脇から西の丸を見上げる。

同じく本丸を見ました。

無事下城、バス停へ向かう途中で皆川城跡を見ました。

東宮神社です、この後はグランドです、参道を高速道路が横切りトンネルでした、ここも居館とのことです。

東宮神社裏手から見た皆川城跡です、脇は土塁ですね、東口の虎口には行かずでした、機会があれば。

栃木城跡に行って来ました。

2020-03-27 17:44:11 | 城郭栃木
2020年3月26日(木)に栃木城跡に行って来ました、

栃木第四小学校グランド側のラーメン屋さん脇を入ると案内板が見えました、左側が四小です、右側がわずかな遺構です。

この栃木城はこの一帯を治めた皆川家は北条の傘下でした、皆川家の藩主広照は小田原征伐時には小田原城へ籠城、徳川家康の勧めで降伏、皆川城を失いましたが、家康の助けで本領を安堵・・・天正18年1591年この地に栃木城を築城。

案内板から右側へ・・・・この辺の方が古い作りの武家風の屋敷がありますね。

この右奥が栃木城跡です。

この水堀が遺構の一部?です、小さな栃木城址公園です。
皆川広照は小田原征伐後は徳川家康に仕え家康の第六子忠輝を養育長野の飯山に移り、栃木城は弟の俊勝に預けましたが、慶長14年1609年忠輝失脚に伴い皆川家は改易、城は破城となった為、町中で遺構が無いみたいですね。

水堀もわずかですね。

この奥少しを含め城址公園です。

堀脇がわずかに高台で残っているだけですね、しかし、皆川家は1615年豊臣家滅亡の大阪の役で功あり、1623年常陸国石岡で一万石の大名に復帰していますね、・・・・結構数奇な人生を送った戦国大名ですね。

現在の遺構は写真中央のボツですから、立派なお城ですね。

桜の花の栃木城遺構です。

水堀の角から栃木城跡遺構を。

遺構の土塁うえから水堀を・・・・、この前に皆川城跡を尋ねたのです・・・皆川城跡は山全体が遺構ですからね。

舘山城跡に行って来ました(山形・米沢)。

2020-03-23 11:42:06 | 城郭山形
2020年3月19日(木)に山形県米沢市の舘山城跡に行って来ました、伊達氏のお城で後に上杉氏時代に廃城(破城)となった城ですね。

鬼面川に架かる大樽橋です、左側が舘山城跡です、会津・喜多方面の道路。

橋左側から見た鬼面川上流です、正面の山が舘山城です、川が合流地点で左側が大樽川・・・上流に小野川温泉があります、右側が小樽川となります。

橋を渡りチョット左側がお城への入り口ですね、左側の家が資料館です、正面の川(小樽川)を渡れば舘山城城内ですね。

舘山城跡の縄張り図です、今上右側の端です、上の方の北館跡には行きませんでした、東館から南側虎口から上がり曲輪1・2・3と見て回りました、此処館山城は伊達家の本城で伊達政宗生誕の城なのですね。

小樽川の橋を渡ると正面に切岸?が現在変電所なのです、左右に道が・・・右側の北館には行かず左側の東館へ行きました。

舘山城内東館跡です、正面は大樽川です。

東館跡の脇・・川は大樽川、奥林の中が大手口があり右側の山への登城口です、井戸跡等が有りますね。

東館の奥(現林の中)の大手道、正面から右側に登り口が有ります。

横矢掛かりの斜面をジグザグ登りますね、右側下が東館側。

曲輪1の虎口に出ました。

曲輪1です、右側(北東)が先程の変電所が有る切岸の上ですね。

曲輪1の外れから見た米沢側です、下が鬼面川で右側林が米沢城辺りでしょうかネ?、向こうは蔵王方面でしょうかネ?。

振り返り見た曲輪1.

曲輪1の北側斜面・・・帯曲輪が有りますね。

曲輪1の奥側を見れば土塁が見えますね、川に挟まれた舌状丘陵台地を削平ヤヤ細長い三角な曲輪1ですネ・・・中世の城郭・・・下が館。

曲輪1から見たヤヤ左側の奥、奥は土塁が見えます。

曲輪1の右側の奥は枡形虎口で小石の石積が見られます・・・・此処館山城は江戸期に廃城となり壊したのです、大きな石垣は無いですね。

しかし、趣のある石積跡ですね、向こう側が曲輪2へ繋がりますね。

枡形虎口を出た、曲輪2です、左が曲輪1の土塁で空堀があり右側が曲輪2です。

逆側を見れば空堀から竪堀が落ち込み脇には帯曲輪が有りますね、この下側は北館ですね。

曲輪2の奥(左側)には大きな土塁が見えます、正面は大樽川側です。

曲輪2の川側で切り立つ壁で下に大樽川が流れたお城なのです、

少し進むと曲輪2の大土塁があります。

土塁の上に小さな石の社と碑が・・・・・、向こう側も大きな堀切が・・・空堀ですが、今は変電所の堀?。

大土塁の上です、右側が曲輪2、曲輪下奥が虎口です。

曲輪2の大土塁上から振り返り見た大堀切・・・右側が曲輪3側の物見台方面。

曲輪2の虎口です。

曲輪2の虎口、向こう側が曲輪3側・・・横が空堀・・・今は変電所設備の水が流れている?。

虎口脇の帯曲輪としたが北館。

曲輪3の虎口・・・手前は空堀跡・・・今は変電所設備の川?。

空堀・・・・変電所設備の川?・・北側。

曲輪2と曲輪3の空堀・・・今は変電所設備の川?。

曲輪3です・・・狭いですね、後ろの物見台の為の削平地?かな。

曲輪3から見た堀切による空堀・・・実質此処が後ろの壁ですからね・・・この後の物見台の向こう側にももう一つ堀切が有りますがね。

逆光を浴びた物見台坂道曲輪3から上ります。

此処が物見台跡です舘山城の一番奥です。

物見台から見た空堀です。

舘山城物見台です、米沢市内からの敵が見える位置ですね、此れで舘山城跡の散策は終わりです、良い城でしたね。
山中平日か一人も合わず散策しました、イベントの時?には説明の旗が建てられるのかな?。

米沢城跡に行って来ました。

2020-03-22 10:52:04 | 城郭山形

2020年3月19日(木)に米沢城跡(上杉神社)に行って来ました、上山城跡の帰りに寄りました。

米沢城下の絵図・・・今は上杉神社が水堀で残っています。

上杉神社(米沢城本丸)と一部周辺。

上杉神社前から見た舞鶴橋。

正面水堀を南側から左側が米沢城本丸(上杉神社)。

南側の堀、米沢城はほぼ正方形の本丸・・・右側、左側は上杉伯爵邸です。

南側の堀に架かる菱門橋。

上杉神社正門です。

上杉神社です。

上杉神社本殿。

上杉神社正門の舞鶴橋と昆の旗、向こうは蔵王方面でしょうかネ?。

北側から舞鶴橋を眺める。

北側の水堀です。

西側の水堀です、四角な水堀に囲まれた米沢城跡です。

米沢城の南側の上杉伯爵邸です、堀の脇です。

米沢藩主上杉家の墓所です。

蓮田慶福寺の江戸彼岸桜に行って来ました(枝垂れ桜2度目)。

2020-03-22 06:10:25 | 日記・エッセイ・コラム
2020年3月21日(土)に二度目の蓮田慶福寺の枝垂れ桜(江戸彼岸桜)に行って来ました、今が満開ですね。

慶福寺本堂を覆い隠すようにおよそ100歳の江戸彼岸桜が咲き誇っています。

棚の下から見上げました、大分棚の隙間からも下がっていますね。

本堂側から見た所、1本の木で大きく広がっています。

よりアップでの江戸彼岸桜の枝垂れです。

もう一度棚下から枝垂れを堪能です。

上山城跡に行って来ました。

2020-03-21 11:30:55 | 城郭山形

2020年3月19日(木)に山形の上山城跡(月岡城跡)に行って来ました、米沢の小野川温泉に宿泊し明日は朝から帰りですが米沢城跡・舘山城跡を今日一日で見て回ります、この城は以前来たのですが工事中だったので再度見に来ました。

かみの山温泉駅からの手前の端側から見た上山城・・・高欄廻縁の望楼型のお城ですね・・・以前はシートで見えなかったのでうれしいですね。

お城の下から見上げます、このお城写真が撮りずらいですね、高台ですが住宅地で電線が多く近づくと城が見づらくなりますね。

右側の公園側から見た上山城です、如何ですかネ。

やはり公園側からすこし近づき。

公園から見た蔵王方面の山です、冠雪の山々が・・・・。

より近づき城横から。

お城の横からですね・・・これから後ろ側へ最後に正面へ回りますね、この城は山形最上氏の最南端の城で米沢の伊達氏・上杉氏との攻防が行われたのです、江戸期に土岐頼行が2・5万石がおさめ、寛永5年1628年京の大徳寺の沢庵禅師が流布されたお城でもあるわけです、土岐氏が転封後廃城となったみたいですね。

お城の裏山にある月岡神社です。

月岡神社側から見た上山城です、桜の木々が多く、隙間を見つけるのが大変です。

漸く正面へ出てきました、天守脇の櫓門と華麗なお城の神山城です、電車からも奥見えますが、山形方面でないと見えません、今回は駄目です。

もう少し角度を変えて、このまま少し離れればよりよい写真が撮れるのですが下がれませんからね、でもこの前見えなっかったので今回見えて良かったです、此れから米沢に戻り、米沢城跡・舘山城跡を見てきますね。

三毳山のカタクリに行って来ました。

2020-03-18 07:27:52 | 山関係

2020年3月17日(火)に三毳山のカタクリを見に行って来ました、昨日かどうか迷ったのですが昨日は強風今日は穏やかな天気で正解でしたね。

みかも山公園東口から入りました、三毳山は関東平野に浮かぶような山で岩舟・大平山へ繋がる端ですね、しかし、三毳山は二つの町に分かれていたのですね・・・初めて知りました北のカタクリは佐野市でみかも山公園は栃木市岩舟町なのです、色が違うので気が付きました。

此処はみかもやま公園東口です、河津桜が満開でした、此れからカタクリを見て中岳へ・・・尾根を北が。

山道の階段を上りカタクリを見ました・・・・此処ではよいカメラでないのでカタクリの群生のみです。

登り詰めると中岳210mです、景色が良く見えますね。

登った所から下り尾根筋を北側へ青竜岳229m方面を目指しますね。

木々の葉は落ちていますが、足元に春蘭の花が咲いていました。

厳しい上り坂ですが青龍岳229mからの景色です、佐野方面でしょうか?。

厳しい下りを下りもう少しでカタクリが見られます。

ここが佐野市がわのカタクリ群生地です・・・この案内板は下にあるのですが説明のために順番を変えました、この奥がそうです、私たちは上から下りながら見ました、では。

ここの群生地は花の下から覗けるので私のカメラでも撮れます・・・カタクリの花です。

花の中の花門(ギザギザ模様)を撮るためアップにしているのです、腰が痛いのでしゃがみ込大変なのですが。

このところアズマイチゲが増えましたね・・・カタクリは花が昔と比べると?小さくなっていますかネ?。

これは花門が良く出ていますか。

何せ荷物をその都度置いて寝せべり撮るので、撮りやすい花を見つけての作業は大変なのです。

カタクリの花は下向きですから。

今回も霧吹き忘れましたね・・・・雨露がかかればより美しく・・・・。

美しい花でも美しく撮るのは難しいものですね。

カタクリは夜は花弁が下がり陽が出ると上にそってあがりますね・・・・・如何でしょうかネ?。

慶福寺の江戸彼岸桜枝垂れ桜に行って来ました(蓮田)。

2020-03-17 20:08:34 | 日記・エッセイ・コラム

2020年3月15日(日)に蓮田市の慶福寺に枝垂れ桜の花の様子を見に行って来ました。

慶福寺の江戸彼岸桜です、まだ6分咲ぐらいでしょうかネ、でも咲いていましたね、将軍桜の名前がある枝垂れ桜です。

江戸城から川越の喜多院へ移植され桜だそうです、大正14年(1925年)子木を頂いたそうです、もう少しで100年ですから名木ですね。

枝垂れの棚を数年前に作り替えたのですが、今は大分枝も伸び落ち着いてきましたね。

まだ花が少ないかなでも大分枝垂れ如何です。

年々歳々ですね・・・来週にももう一度見て見ますかネ・・・・・ライトアップは今年はどうなのかな?。

桐生城跡(柄杓山城)に行って来ました(群馬)。

2020-03-16 14:53:22 | 城郭群馬1
2020年3月12日(木)に桐生城跡に行って来ました、桐生駅からおりひめバスで城山入口のバス停へ。

バス停脇にありました、案内板です、女子高校前のバス停からも歩ける距離でしたね、帰りはバスの時刻の関係でそこまで歩きました、取り合えず城山入口から舗装の林道を上り日枝神社のコースを歩きました。

林道を上り駐車場まで、奥左側に案内図がありました、まだ舗装道路が続きますね。

案内板1此れからもう少しで桐生城跡。

案内板2・・・今右下、少し上がれば分岐・・・左側へ城の案内図(縄張り図は此れだけでしたね案内は無い)・・・私は北郭方面へ行きそこないました残念ですが(悔しい)・・・多分堀切から竪堀脇から下るのでしょうが?。

桐生市文化財桐生柄杓山城資料の縄張り図です(縄張り図を頂きました、ありがとうございました)、やはり2・3曲輪の脇から北郭へ入れるのでしたね、でも道が悪いので余りお勧めでないみたいですね注意しましょうね。

此処が分岐ですね、直進し右脇から漸く山道へ入ります、左側は土塁みたいに積み上げた土砂の作業場?・・・お城を作るの?。

作業場横の山道を少し登れば本格的な山道に入りました。

山道を進み鞍部へ右側は?、左側が桐生城(柄杓山城)の三の丸への入り口の尾根ですね。

このお城は連格式で三の丸・二の丸・本丸・・・脇に北郭等が有りますが・・・でも居館は本丸側下の山裾向こう側になります、お城は藤原姓足利系佐野氏一族の桐生氏が築城、観応元年1350年頃?、戦国期は北条・上杉らに従い群馬太田金山城の由良氏と抗争、元亀4年1573年由良成繁が攻め桐生親綱は佐野へ逃亡、以後由良氏の居城(北条方)、天正18年1590年廃城。

分岐の尾根を左側へ、すぐに堀切で区切られた三の丸が現れます、右横は竪堀ですね、ぞくぞくしますね・・・西搦め手口です。

堀切です、右側が三の丸です、道は山の向こう側へ回り込みますね。

堀切の底道を進みます、正面は竪堀、右側に山道が変わりますね、右側が三の丸で横矢ですね。

しばらく三の丸脇の道が続きますね、横矢が続くわけです。

三の丸切れ目は大きく堀切られ左右には竪堀です、道が右側に正面が二の丸です、よく見ると左側に入れそうですね・・・・多分竪堀上側を下り下の曲輪方向が北曲輪・・・東搦め手方面でしょう・・・ルートから外れるので危険が伴いますね。

三の丸の虎口から見た二の丸方面、この後三の丸へ・・・中は手入れが無く意外と細い。

二の丸脇の道です。

二の丸と本丸の堀切です、横は竪堀です。

これは二の丸を戻り三の丸との堀切ですが、藪があり見ずらいですね。

二の丸から見た本丸前の堀切と本丸虎口、手前の木が根事倒れて下の堀切を見ずらくしているのです。

本丸の虎口です、小さな枡形?、回り込んでいますね。

本丸の虎口上から見た二の丸との堀切です・・・・此処からは良く見えますね、左側から来るわけです。

すぐ小さな削平地がありこの奥が本丸です、回り込みますね。

本丸ですね、回り込みますね、虎口は向こう側です。

本丸脇を回り込みますが、この右脇下にも帯曲輪が有るみたいでしたね・・・上から見ると削平が見れますが降りる道は?。

本丸脇を回り込み木々が切れてきました、桐生市内側へ来ました。

これは土が崩れない様・・・、見晴らしが良いよう木々が切り払われています。

本丸です、今日は誰にもあわず・・・、桜の時期は名所なのかな?。

桐生柄杓山城の立派な碑があります。

本丸から見た桐生市内方面です、この下が日枝神社居館方面となります、此処は詰めの城なのでしょう、右側のもう一つ右側の山が吾妻山側ですね。

本丸の北東側?も下側に削平地が見られます・・・居りませんが。

本丸から日枝神社へ下ります、急な斜面の坂道です。

急な斜面を下り降りると段々の削平地が見られます、この辺からが居館・・・桐生館でしょうかネ?。

少し下側に社がありました、まだ日枝神社まで少し距離がありますね。

この辺りも削平地で向こう側は切岸みたいですね。

日枝神社脇に降りました、神社脇に楠の巨木が見られました・・・幹回り3-5位の立派なものですね。

日枝神社から少し離れて楠に囲まれた風情があるり、桐生氏にゆかりのある神社です。

日枝神社(右下)と柄杓山です、社は右上の緑の林あたりですかネ・・・・やはり山城は遺構が残されて見ごたえが十分にありますね。

山上城跡に行って来ました(群馬桐生)。

2020-03-14 11:13:32 | 城郭群馬

2020年3月12日(木)に上毛電鉄の膳駅から山上城跡に行って来ました、その前に膳城跡に行き、北側に抜けて無事山上城跡へ、意外と近くでしたね。

山上城跡入口です・・・・。

模擬櫓?を入ると三の丸に入る木橋が・・・・三の丸は公園ですね。

三の丸にある案内図です、皆さんが荷物置き場に・・・・少し横にどけて写真を・・・左側公園の外に南曲輪が有りますね、丘陵地を空堀で区画し横にも長い空堀と土塁で囲んだ連格式の中世のお城ですね。

藤原秀郷の流れをくむ山上氏のお城で関東管領山内上杉の重臣、天文15年1546年河越夜戦にも上杉軍として参戦、弘治元年1555年北条氏康により山上氏秀は城を奪われます、永禄9年1566年戻るが、永禄12年1569年上杉謙信の関東攻略で山上氏は滅亡、天正8年1580年武田勝頼により落城と有名な武将に攻められたお城です。

三の丸です、正面先が二の丸。

三の丸と二の丸の空堀です、二の丸脇に腰曲輪が北郭まで、右側は土塁でもう一つ腰曲輪が見られますね・・・見た目防御性は高く見受けられませんね。

三の丸と二の丸を分ける空堀です。

先程の二の丸の虎口と腰曲輪です。

二の丸の虎口から三の丸方面を見ました。

二の丸から見た腰曲輪、その左下にも、もう一つあります。

二の丸です、奥の盛り上がる所が本丸と本丸二の丸は強く分かれていませんね。

二の丸西側の土塁です、此方も、空堀・土塁と続いていますね、この空堀は三の丸から北の丸まで直線です堀底道ですね。

本丸の虎口?、右側奥が本丸で此処だけが空堀で分けられていますね?。

本丸から北郭を見ました、結構な高さが維持されていました。

本丸奥に碑、正面が北郭、その向こうが笹郭になります。

本丸広場です、連格式の簡単な構造のお城です、天正18年1590年の小田原征伐の時には片桐且元らに攻められ落城・・・その後廃城。

これは西側の虎口?。

西側虎口から見た三の丸の土塁と空堀、今日は桐生城・膳城・山上城跡を尋ねました、此れで帰りますね。