三郎兼続の日記

趣味の写真で山登り・旅行を主体にした日記
最近は山登りが少なく、城郭・巨木へ

伊奈氏屋敷跡に行って来ました(遺構発掘調査・・障子堀・・2回目)。

2022-11-14 07:09:41 | 城郭埼玉
2011年11月13日(日)伊奈氏屋敷跡での伊奈忠次公まつりがあり、発掘調査説明会に行って来ました、11月の初めに何回か発掘現場を訪れて見させて頂いておりました、前回も見たのですが説明会がコロナ禍で中止?で聞けませんでした。

東北新幹線脇のニューシャトル丸山駅脇にあります、伊奈氏屋敷跡(伊奈代官屋敷跡・伊奈陣屋跡・伊奈城跡)。

伊奈氏屋敷跡搦め手口の脇の湿地帯を発掘しています、手前は昭和59年に発掘調査の障子堀現場。

搦め手口にある案内板。

後北条の堀底で有名な防御対策手段障子堀が此処で見つかっています、その後周辺を何度か発掘しているのです。

反対側、奥?の北散策路から見た・・・・発掘現場。

これは発掘現場とは関係ありませんが、私が好きな場所本丸と蔵屋敷跡の堀底道・・・趣のある城跡の気分がある散策路です。

時々散歩をするコースなので、11月初め頃に見た発掘現場。

邪魔をしなければとのお言葉で、写真を取らせていただきました。

まだ途中ですね、私も昔八王子の高校生の時中央道石川町の現場で発掘調査のお手伝いをしたことがあるのですが・・・夏休みの暑いときでしたね。

逆側から見た・・・この右手側を前回発掘したのです、それと奥の方も発掘、説明によれば、右側と奥の遺構が途切れているので、今回それを確認するため発掘調査を行ったとの説明でした、右側上が平場でもともと土塁が積み上げてあり、土塁下まで堀があり6m幅位の堀を確認(前回発掘)。

前回の右側は完全な障子堀状態が出土との事でしたが、今回は写真奥行き6mの、奥側は掘られていないとの事?、また手前の堀も右側は浅い状態で途中で止めたような未完成な堀・・・との説明が。

浅い堀・深い堀、奥側は掘られていない状態の発掘現場・・・・・細かな情報は解らずでしたが、遺構として障子堀の延長の現場が伺えました、散歩で何回か見させていただき楽しい散歩が出来ましたね、また、発掘調査が行われるといいですね楽しみにしています、ただし多くは私有地なので発掘場所は限られますが!。


河越館跡に行って来ました。

2021-03-12 11:28:16 | 城郭埼玉
2021年3月9日(火)に埼玉県川越市の河越館跡に行って来ました、JR川越線の西川越駅から歩きました、柏原城跡の帰り笠幡駅からです、この日は結構歩きましたね・・・・道路歩きは疲れますよ。

川越周辺の地図です、川越駅上の川越城とは異なります・・・・逆に戦国期はこの川越城を攻めた位置にあった河越館なのです・・・両方とも入間川なのですが支流ですね。

川越橋から見た入間川下流です、右側の西川越駅から来たのです。

川を渡ると土手下に学校が・・・この横が河越館跡ですね

土手を下ると河越館跡の常楽寺です。

常楽寺を正面から・・・。

中に入り・・・。

お寺横に供養塔があります、この河越氏は坂東八平氏の秩父氏の一族で河越に館を構え河越氏となりました、鎌倉幕府に仕えましたね、源義経のの正妻郷御前(京姫)の里です、重頼・郷・義経の供養塔。

常楽寺横の空き地から見た河越館跡です・・・常楽寺裏手方面が主殿。

河越館跡・・・柵内、正面の建物は先程の上戸小学校です、学校も館の一部みたいですね。

手前の少し凹んだ所が河越氏時代の堀跡ですね・・・・・河越氏は応安元年(1368)に鎌倉幕府と対立した武蔵平一揆で敗れ衰退、遺跡跡に戦国初期再度山内上杉に改修使用されているのです。

河越氏時代の井戸。

これも河越氏時代の堀跡。

説明版です・・・源義経とのかかわり郷御前・・・正妻(静御前が有名ですが)、衣川まで落ち延びました(娘一人)ねわずか5年でした、頼朝の命で京に行きましたね、親の河越重頼も義経没落後誅殺。

河越氏時代の館イメージだそうです。

その後、戦国時代初期長亨元年(1487)に起こった長亨の乱(山内上杉と扇谷上杉の争)の際、関東管領山内上杉顕定が扇谷上杉方の川越城を攻撃するため7年間にわたり陣を構えた場所でもあります、遺構が重なり合っているのです。

山内上杉軍の使用した位置を重ねた説明もありました。

柏原城跡(上杉砦)に行って来ました(埼玉県狭山市)。

2021-03-10 12:28:33 | 城郭埼玉
2021年3月9日(火)に埼玉県狭山市の柏原城跡(上杉砦)に行って来ました、JRの笠原駅から歩いたので結構かかりましたね。

説明版が北と南の2か所にありました、南側は日に焼けて殆ど読めない状態でした、此れは北側のです。

柏原城跡(上杉砦)・・・此処では城山砦と呼ばれていました、南側から上がり北側に抜けました、説明もほぼその順で行います、途中道を尋ねたら、親切に車で此処まで送ってくれたものですから・・・本当にありがとうございました。

此処が南側の入り口です、入間川の河岸段丘の上にある城です、此処は西武狭山ニュータウン側です、天文6年(1537)に北条氏康の手で取られた河越城を取り戻すべき山内・扇谷上杉・古河公方の三連合軍立ち上がった時の山内上杉憲正が陣営を敷いた場所です、半年ほどですが敗れました、あの有名な河越夜戦です、天文15年(1545)の事です・・・上杉憲正は関東管領で群馬の平井城が拠点ですが後に越後へ。

これから登城しますね、こちら側は入間川の搦め手でしょうかネ?、山内上杉憲正が使う前から此処には館跡が在ったとの話も・・・お城は何度も使われますからネ・。

細い段丘を切り開いた竪堀を上りますね。

登りつめると正面には壁が・・・・左側が二の郭側・右側が本郭側ですね。

突き当たりです、切岸(壁ですね)。

突き当たり左側方面の空堀です。

左側が二の郭です、右側が上の写真の空堀です。

振り返ります、右側の本郭の虎口(正面)です。

本郭虎口から見た本郭内です。

本郭です土塁が見えますね。

本郭土塁上から見た空堀側です・・・木々があり良く見えませんが。

土塁上から見た本郭です、正面右側が虎口です、明らかな虎口は一つですね。

本郭の土塁の先です・・・”折り”ですね、先程の切岸・・・本郭虎口の先まで土塁が来ていましたね、敵を此処から迎え撃つ防御ですね、半枡形ですね。

本郭へ戻ります、うえの場所は右側の土塁の先ですね。

本郭虎口から見た所です、虎口に高さがありますね、左側から登って来ましたね、正面が二の郭です、右側は本丸を囲む空堀側。

最初の登りの二の郭です、右側は本郭を囲む空堀(三方向が空堀)。

二の郭です。

二の郭から見た南側入間川方面です、河岸段丘を利用したお城ですから・・・。

二の郭にある稲荷社です手前は空堀ですね、今は殆ど埋まっていますが。

此方は三の郭?です、連格式ですね、各郭を堀切で区分けしてますね。

北側の外側から見た二の郭の稲荷社です、ぐるりと空堀跡が解りますね。

より離れました、こちら側が柏原城跡(上杉砦)の北側入口で大手口なのでしょうね。

本郭側の外側の道路、左側が本郭・空堀・土塁・道路・・は昔空堀とのことです、正面が二の郭・三の郭です。

大分離れましたが柏原城跡(上杉砦)です、綺麗な遺構に感謝ですね、此れから河越館跡へ参ります。

菖蒲城跡に行って来ました。

2021-03-07 11:08:24 | 城郭埼玉

2021年3月6日(土)に埼玉県久喜市の菖蒲城跡に行って来ました、見沼代用水脇を自転車で遡りました、およそ10km久しぶりの長距離?なので疲れました、蓮田・白岡・久喜市ですから・・・。

我が家に咲く、クリスマスローズです。

クリスマスローズも沢山種類がありますが、結構高級品種見たいです。

昔は菖蒲町、今は久喜市です、見沼代用水沿いを来ました、この湿地帯奥が菖蒲城跡です、この辺は湿地帯の少しの高台に城を築いたのです、忍城・騎西城・菖蒲城です。

此処が菖蒲城跡です、遺構はありませんね、すべて整地されて田んぼ状態ですから、この道路を作る時この辺りから縄文時代の土器とカが出土、少し高台だったみたいですね。

この辺り・・・奥の四阿に菖蒲城跡の碑があります、それにしても、田んぼの野原ですから。

これは当地の陣屋の門を移築したものです、説明版に旗本内藤屋敷門とあります、しかし、門前に車を止めて・・・写真が撮りずらいですね。

仕方ないので逆方向からもう一枚。

門中から城内を?、好きな広さを想像してください。

少し角度を変えて。

お城跡へ?。

菖蒲城跡です、幾つかの碑がありますがすべて後世、縄張り図とかもないみたいですね、説明には康生3年(1456年)古河公方足利成氏の家臣金田式部則綱が築城5月5日施工したので菖蒲城の名を・・・。

菖蒲城址の大きな碑、話は飛びますが、武州松山城の戦の折北条氏康・武田信玄連合が攻めました、岩付城の太田資正配下が松山城に籠城援軍の救援を上杉謙信へ・・・・上杉謙信が北本の石戸城まで来ましたが、松山城は直前に開城降伏・・・・怒った謙信は騎西城・菖蒲城を焼払ったとのこと、永禄6年(1563年)の事ですね、この後元亀・天正の戦国時代へ。

この碑にはなんと書かれていますか?、上の築城古河公方云々ですね。

奥の方から全体を撮りました、実は今は菖蒲園ですね、この右側は農業用水路?が流れていますね、今も湿地帯なのです。

2013年6月にもこの地に来ています、今回で3回目かな?、ラベンダー祭で有名なのです。

菖蒲城跡は菖蒲園なのです又、花の時期コロナ禍が収まれば見に来ます。

伊奈氏屋敷跡に行って来ました(埼玉伊奈町)。

2020-04-16 09:40:22 | 城郭埼玉
2020年4月15日(水)に伊奈氏屋敷跡(伊奈城跡)に行って来ました(散策)、家の近所なので散歩ですヨ(昨日も散策しました)。

伊奈氏屋敷跡の縄張り図です、伊奈町の忠次プロジェクトで大分敷地内の整備が進み遺構が解りやすくなりましたね、元は後北条の岩槻の支城跡なのでしょうーー>お寺ーー>伊奈氏へ。

伊奈氏屋敷跡は右側から右奥方面です、縄張り図の下から見てます、川は原市沼川です、原市沼が新幹線下を中心に昔は大きく広がっていたのです、屋敷は廻すべてが湿地帯に囲まれた要害の地でした。

川の横の道から屋敷内へ入ります、この右は今でも湿地ですね、この道の突き当り右側が表門方面の跡とか。

上の道を突き当たり左側方面にある二の丸跡です。

先程の道から見た二の丸跡ですね、土塁の上が二の丸です、左側の沼側から回り込んで二の丸へ行きます、この伊奈氏屋敷跡は周辺の遺構が多く残り空堀土塁による曲輪が見られます。

沼側から上がりました堀底道です、左側が本丸側、右側が二の丸です。

本丸跡・・・左側奥が陣屋跡方面です、写真の外右側が二の丸側です、まず本丸方面へ。

屋敷内は昔からのクランクした道路がそのまま残っています?、陣屋跡方面(道路を左側へ)入りました、正面奥左側が頭殿権現社です、陣屋跡は右側ですが、民家です。

頭殿権現社です、長禄年間1457-1460、太田道灌が勧請したと言われる・・・太田道灌が築城?扇谷上杉・・?、権現社なので伊奈氏時代は徳川家康を祀ったものですね。

原市沼川がわから見上げた本丸方面の頭殿権現社です、忠次プロジェクトで奇麗に整備されました。

原市沼方面です、新幹線です、下側がニューシャトルの線路使用です・・・湿地帯です。

権現社境内から。

伊奈氏屋敷跡(伊奈代官屋敷跡・伊奈城)・・・、徳川の関東郡代伊奈備前守忠次が天正19年1591年(小田原征伐翌年)小室の地に築いた陣屋跡です、小室・鴻巣領1万3千石の大名ですね。

権現社の裏側を回り込みます、本丸の搦め手方面を見ました。

クランクした本通りに出ました、裏門方向です、先はシャトル丸山駅方面です。

裏口方面も遺構が残されていますね、空堀です、此処もプロジェクトのお蔭で奇麗に刈り込まれ見やすくなりました。

裏口の曲輪から見た新幹線とシャトル丸山駅と裏門の障子堀案内図と広場です。

空堀跡が奇麗に見えますね。

裏門脇の障子堀跡(埋め戻してあります)、障子堀は後北条が得意とした技術ですからね、伊奈氏以前の遺構?、左側も湿地帯です四方湿地帯ですね。

新幹線脇(原市沼)から見た図・・・左側が屋敷です。

最近整備された原市沼新幹線脇横です、本丸脇の土塁下の散策路(犬走?)。

東側の本丸と二の丸の脇から見た裏門方面です。

まだ整備が進んでいませんが北東側(縄張り図右上側)の空堀と本丸側土塁です。

東側蔵屋敷(右側)と東側湿地帯(正面)への散策路。

本丸の空堀・・右側が本丸、左側が蔵屋敷跡の曲輪ですね。

この辺二の丸・蔵屋敷(左側)の空堀土塁等の遺構が奥残っていますね・・・平地部分は民間部分ですが空堀は当時のまま?残され遺構として見られますね貴重な遺産ですよ、今は新型コロナで散歩コースとして使用しています。



伊奈代官屋敷跡に行って来ました(埼玉・伊奈町)。

2019-02-27 11:22:28 | 城郭埼玉
2019年2月26日(火)に伊奈代官屋敷跡(伊奈城跡)に行って来ました、今日はガンセンターの外来ボランテアの日で通り道の為早目にでて見学、散策路の整備が24日にあり奇麗になっていたので照会。
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その前に家に咲く花たちを撮ったので・・・福寿草が今満開になっていますね。
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マンサクの花も漸く・・・・・まず咲くから マンサクとか?。
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梅の花も一気に咲き始めましたね・・・紅梅。
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白梅も。
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代官屋敷の二の丸跡の標識も奇麗になりました、今回の散策路は二の丸周辺が整備されたのです、此れで本丸側・蔵y式側と三か所が奇麗になりましたし見やすくなりましたね。
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表門跡から少し入った二の丸跡の裏手の空堀が今回の整備場所ですネ、写真中央が二の丸跡。
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表門跡から屋敷内へ入り二度目のクランクの個所左側が二の丸跡となっています、本丸の土塁が残っています、切通状態の舗装道路の角左手前がが今回の散策路です。
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クランクの右側が土塁・左側も土塁・・・昔は真ん中の舗装道路は無かったのでしょうかネ?、左側が空堀ですからね。
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舗装道路から見た二の丸と本丸の間の空堀ですね、竹藪は土塁が続きますね。
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ついこの間まではボサボサでしたが奇麗になりました、左土塁上が二の丸跡ですね、右側は本丸の土塁が続きます、正面方向は原市沼側です。
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空堀の突き当りが原市沼川(現)手前の湿地帯ですね(昔は沼でしょうね?)。
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二の丸側を回り込むように湿地帯手前を奇麗にしていますね。
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反対側(本丸)は未整備ですが・・・また奇麗にするのでしょうか?。
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基に戻り検証すると、本丸の土塁が此処は高く感じられますね、右側の土塁上が二の丸跡です、右側手前も空堀が二の丸を囲っていますね。
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これは二の丸跡の脇から表門跡方面を見ました。
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此れも二の丸跡の脇から先程の空堀を見た所です。
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これは搦め手のシャトル丸山駅信号脇にある縄張り図です、今回は上の所です。
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新幹線下シャトルの丸山駅の橋上から見た搦め手側です、左側は障子堀の埋め立て跡地です、こちら側にも空堀跡が見られますね。
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今の障子堀の裏側も空堀が続きますね・・・・こちら側も奇麗にするのかも?。
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搦め手側の道路を入ると昔ながらにクランクした道筋が当時の面影を残し?。
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曲がり曲がり・・・右側の奥には前回整備した散策路が有ります。
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反対側にも初回に行った整備の散策路が有ります、私有地が多い中で此れだけ遺構が解りやすく残っているのも珍しいのでは無いでしょうか?。

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これは原市沼をながれる原市沼川です、正面は新幹線です、右側が伊奈代官屋敷跡表門です、湿地帯に囲まれた城郭なのです。
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原市沼は大きな調整池だったのでしょう、今は沼地が無くなり代わりに川のほとりに調整池が作られています、原市川の左側には、現在2個、右側に1個と現在造成中です。
























群馬原町のケヤキ・深谷城跡に行って来ました。

2018-03-16 11:59:26 | 城郭埼玉

2018年3月15日(木)に青春18切符2回目で群馬方面の群馬原市・渋川・帰りに深谷城跡に行って来ました、最初に吾妻線の群馬原町行きました。

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以前岩櫃城跡に行ったのに拠れなかったので大ケヤキを見に来ました、群馬原町駅前の県道35号を戻るように左へ10分弱歩けば交差点の真ん中にありますね。

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樹齢1000年幹回り11mの巨木ですが、中は空洞状態です、一枝の幹が空洞の中に根を下ろしていますね。

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幾つかの基幹はすべて枯れ一つだけが頑張っています。

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空洞に1本の幹・・・・頑張って!。

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3本で頑張っていますね。

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何せ、県道の交差点で車の量も半端でない三角地点ですから何時までも倒れない様願いますね。

此れから渋川に戻り白井城跡を見たのですが画面の都合で深谷城跡を載せます。

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JRの深谷駅です、レンガ風の素晴らしい駅です。

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ここ深谷は偉人渋沢栄一の故郷ですから、深谷駅のレンガ(東京駅)もこの人が起こした明治の産業が絡んでいますからネ。

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駅前の道を15分位歩き右側の学校辺りが深谷上杉房憲が古河公方からの侵攻に備え築城した深谷城跡です、学校校内に碑が見えました。

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学校の横が城址公園です、昔のお城の一角を城風に見建っててありました。

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縄張り図です、場所以外は面影もありませんが、平城で唐沢川・福川に囲まれた低湿地に築城したのです。

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深谷上杉も秀吉の関東攻めの折に開城、その後徳川初期に廃城との事すこし城風な公園でした。