三郎兼続の日記

趣味の写真で山登り・旅行を主体にした日記
最近は山登りが少なく、城郭・巨木へ

勝竜寺城に行って来ました。

2021-04-19 12:17:48 | 城郭京都
2021年4月7日(水)に京都府長岡京市の勝竜寺城に行って来ました、豊臣秀吉と明智光秀が争った山崎の合戦の古戦場で光秀が過ごした最後の城です。

天正10年(1582)本能寺の変後、山崎の合戦の戦場、左側が豊臣秀吉軍・・山崎城を後ろに、右側が京都側の明智光秀軍・・勝竜寺城を後ろに決戦。

勝竜寺城の位置です地図少し上が長岡京駅です、京都盆地の南西部に位置し京都ー大阪間への要所、山崎の合戦で敗れた明智光秀がこのお城に戻り一夜を過ごし北門から坂本城を目指して落ち延びたのです・・・・歴史的なお城・・・他にもいろいろあります。

JR長岡京駅前に勝竜寺城への案内が・・・・大河ドラマ麒麟がくるで有名になったからでしょうか?。

今に残る遺構?は駅に近い堀と土塁・・・少し先に復元整備されたお城(本丸)ですね。

神足神社脇に残る土塁と堀が復元されていました。

勝竜寺城です水堀に囲まれた近世城郭の原点です元亀2年(1571)織田信長の命で細川藤孝が築城、その後寛永10年(1633)には廃城。

北側です・・・今の北門?、その奥が北門みたいです・・・・後で。

復元北門?。

此方が北門で明智光秀が脱出したと説明版にありましたね、枡形の虎口石垣が遺構として存在。

土塁のうえから見た北門です。

土塁上から見た本丸?。

やはり土塁上から見た南側です、説明の推測ではこの位置に天守が建てられていた?みたいですね。

このお城は細川忠興に結婚した明智光秀の娘お玉が輿入れした場所で・・・後のガラシャです、信長の命令での結婚でしたね。

内側から見た隅櫓・・・・城内桜が。

本丸大手門の枡形虎口。

勝竜寺城表から。

もう一枚復元された勝竜寺城・・・これで今回の京都方面の城郭巡りも・・・・疲れました。

山崎城に行って来ました(天目山)。

2021-04-17 12:48:29 | 城郭京都
2021年4月7日(水)にあの豊臣秀吉と明智光秀が戦った山崎の合戦部隊の山崎城(天王山270m)に行って来ました。

京都と大阪の境目京都府大山崎町、この地は桂川・宇治川・木津川が合流地点でしばし合戦の舞台になっている地点なのですね、最初明智光秀軍はこの山崎城と川の向こう側の男山城に陣を張っていたそうです、理由は解りませんが、上の方の淀古城・勝竜寺城へ撤退、すかさず秀吉軍が山崎城を奪ったとここと、天正10年(1582)本能寺の変直後秀吉中国大返しでの山崎の合戦です。

JR山崎駅から線路を渡ると山崎城登山口があります、宝積寺へ向かいますね。

山崎の合戦に勝利した秀吉はこの宝積寺を含む山崎城を築城、山崎城は詰めの城・・・平行して大阪城を築城天正12年(1584)には大阪城へ移り、城は廃城です・・・・天下を取るためのツナギの城ですね・・・まだ柴田勝家がいましたからネ。

これは宝積寺の豊臣秀吉が勝利記念に建てた一夜の塔、一夜城とか素早いのでしょうね?。

宝積寺です、この辺りでも高台ですからネお城は此処を中心に山崎城を詰めの城、境内右脇から山崎城本丸を目指しますね。

途中の見晴らし台です、大阪方面が見えます。

途中分岐点があります、帰りはこの路から下山しました・・・・急坂でしたね。

酒解神社鳥居と手前に旗立て松と脇に見晴らし台があります、旗は秀吉軍の千成ヒョウタンを立て味方の士気を高めたとか・・・神奈川県三増峠にもありますね・・・・・武田信玄が小田原攻めの時に行いましたね。

見晴らし台からみえる景色です、この見える場所で光秀対秀吉軍が激突したのです。

この図は当時の両軍の配置図・・・兵力差は圧倒的でしたからネ。

少し進むと分岐が左側へ17烈士の墓方面へ行きます、途中で合流します。

17烈士の墓です、元治元年(1864)幕末の長州藩による禁門の変で敗れた真木和泉守ら17名が最後を遂げたのです。

自玉手祭酒解神社(たまでよりまつりきたるさかとけ)と読みます・・・色々ある山ですね。

漸く、山頂下、お城らしき手前に来ました。

虎口から本丸を覗きます。

本丸です。

本丸から天守台方面・・・少し高い場所が天守台。

山頂本丸にある説明版。

山崎城縄張り図。

天守台・・・石垣がわずかに・・・天正12年(1584)廃城・・・利用されたくなかったのでしょうね。

本丸脇下の曲輪。

此れも本丸脇の腰曲輪から見た本丸天守方面・・・・・秀吉本気で築城?。

本丸脇下にある水の手井戸。

先程の分岐がわを下り此れから、勝竜寺城の長岡京へ。

福知山城に行って来ました。

2021-04-13 07:11:45 | 城郭京都
2021年4月5日(月)黒井城の帰りに福知山城に行って来ました、2度目の訪問となりますね、京都府福知山市です、黒井城は兵庫県ですね、天正7年(1579)に横山城に福知山城として明智光秀が丹波支配の為築城、娘婿の明智秀満が城代としておさめたとか。

福知山城は近世城郭の平山城です、複合連結式望楼型の天守で三層三階と二層二階の小天守からできていますね。

市役所横の方から見た所、天守・小天守が見える位置です。

これは市役所とは反対側の台地が切れた方向から(美術館脇)。

大手門お城脇の石垣。

本丸から天守。

少し角度を変えて。

二の丸?から小天守を見る。

廻込本丸の石垣。

大手門・・・・ここのお城は奥行きが無く写真を撮りずらいのです。

本丸から小天守。

同じく本丸から大手門と天守。

天守と小天守。

天守脇から大手門。

天守と小天守。

市役所手前の道路から見上げました。

JR嵯峨野線電車内から。

これも電車内から撮りました、今日は良い天気になりましたね、明日は再びこちら方面の篠山へ来ますよ。








淀城跡・伏見城跡に行って来ました。

2019-04-20 10:01:47 | 城郭京都

2019年4月15日(月)大阪の岸和田・住吉、兵庫の尼崎と回りました、いよいよ京都の淀城・伏見城に行って来ました、淀と伏見は比較的近いですね伏見城は廃城解体となり淀城が幕末まで残ったのですね、豊臣・徳川ー幕末の戊辰戦争の始まりもこの近辺でしたね。



淀駅から近い場所に有ります、宇治川・桂川の合流付近の川中島だそうです、ここは豊臣秀吉時代の淀君がいた淀城とは少し離れて違うとの事です。



淀神社脇から城内へ、あの春日局の子孫で五代目正知の時に佐倉から10・2万石で入府したときの稲葉家の神社が正面にあります。



この淀城は伏見城廃城に伴い京都の水陸の要所なので松平定綱が築城した山城の国唯一の居城なのです。



右側のやや高い石垣が天守の石垣です。



天守脇から見た石垣と水堀です、向こう側は線路で多分城の一部は分断されたのでしょう。


淀城天守台石垣です、穴倉式天守台です・・・正面の石垣の間をもぐり中に入るのです。



天守石垣の上から見た本丸の石垣と堀。



天守の石垣、穴倉式。



本丸脇の土塁ですこちらと正面側は石垣水堀の遺構が残っています。



天守と対角にある隅櫓の石垣。



隅櫓下から見た石垣と水堀です。



本丸にある淀城址の碑です。



この後古淀城跡に行ったのですが、遺構らしきものが解らず、戊辰戦争の碑がありました、鳥羽伏見の戦いで敗北した旧幕府軍が拠り所としたのですが拒絶されましたね、伏見に向かいます。



伏見桃山駅から伏見城跡まで歩きます。



伏見桃山駅隣に近鉄線桃山御陵前駅がありその通りをすすむとJR桃山駅がある交通の要所ですね、この門は伏見城大手門を移築したものとか(御香宮神社)、廃城のおり伏見城はあちらこちらで再利用しましたね。



伏見城大手門です、凄いですね・・・・伏見城は関ケ原前哨戦のおりに徳川家康が会津上杉軍征伐で大阪を離れた時西軍がまず抑えたのがここ伏見城です、鳥居元忠が当時城代で1800で立てこもり、4万の大軍と攻防を繰り広げたのです、今の場所ではないそうです。



しかし見事なお城ですね、徳川家康が再建・・・・城造りの名人藤堂高虎が普請奉行、将軍宣下は伏見城で受けたのです、後に廃城し天守は二条城に移築・・・・伏見櫓(江戸城にもありますが?)。



現在中に入れませんが・・・・十分ですね。



横の方から仰ぎ見ました。



桜の花も・・・。



五層六階の大天守見事なものですね、山城の遺構も好きですが、建物があれば・・・・、今日は此れで奈良へ戻ります、疲れましたが明日は高取城跡ですからね。