三郎兼続の日記

趣味の写真で山登り・旅行を主体にした日記
最近は山登りが少なく、城郭・巨木へ

金沢城に行って来ました。

2019-03-20 08:27:42 | 城郭石川
2019年3月13日(水)に金沢城に行って来ました。


金沢城惣構跡ですね、惣構は小田原城が有名ですね。


黒門口から見た大手堀です。


黒門口です、左側が新丸、右側は今は駐車場?。


金沢城の縄張り図です、下側の右側から上がりました。


新丸の広場から見た、二の丸の菱櫓と左側が河北門。


河北門をアップで以前来た時は新丸広場に降りないのでこの角度は初めてです。


正面からの河北門。


河北門の登り口からの石垣と菱櫓。


城内をでて外側からの石川門です、門付きの櫓・高麗門・渡櫓門の枡形構造、手前は百間堀。


百間堀側本丸脇の四段にわたる石垣です。


本丸脇のいもり堀側から見た所上が辰巳櫓跡ですね。


金沢城の出丸・・・・金谷出丸(現・尾山神社)に行きました。


加賀前田家の初代前田利家の像が。


奥さんのお松の方も。


尾山神社です、前田家の神社ですね。


神社の門も変わっていますね。


再び城内へ大手門口か入城します。


建物はありませんが見事な巨石の石垣です。


この石垣と堀は三の丸と二の丸の内堀です、旧第六旅団司令部側です。


玉泉院丸です、左奥が二の丸・正面奥が本丸で建物は三十間長屋です。


玉泉院の庭園バックの短冊石垣です・・・色々な石で遊び心のある石垣です。


二の丸・本丸との内堀(空堀)です、極楽橋が見えますね。


本丸に架かる極楽橋です、三十間長屋です、左側に鉄門跡が在りますが本丸です(昔の尾山御坊の跡とか)。


菱櫓内から見た河北門です手前が内堀で三の丸です。


五十間長屋から見た橋爪門と内堀です。


本丸戌亥櫓跡から見た橋爪門・橋爪門続櫓・五十間長屋・菱櫓と三の丸も右奥が石川門です。


菱櫓をアップで見ます。


橋爪門枡形の中から見た橋爪門(渡櫓・続櫓・高麗門)です。


三の丸から見た橋爪門です。


同じく三の丸から見た菱櫓と五十間長屋です、金沢城は三度目ですが、復元されて沢山の建物が見られて嬉しいですね、玉泉院丸側は今も工事中ですが、何か出来るのでしょうかネ。

金沢に行って来ました(小松城跡)。

2019-03-15 16:14:59 | 城郭石川
2019年3月12日(火)から14日(木)まで金沢方面に行って来ました、写真の整理の都合上小松城跡を乗せます、石川県小松市にある城跡ですが、今は天守の石垣のみが有ります、芦城・小松の浮き城と呼ばれやはり加賀藩ですが金沢城の2倍の面積を誇る珍しいお城なのです。
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小松駅から芦城公園へ・・・ここは三の丸跡とか現在は小松城は市役所・公園図書館・裁判所・小松高校ですね。
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公園内にある藤の巨木です、幹回り2・14m樹齢は200年以上とか、この日は天気が悪く(3日間すべて悪い)土砂降り・雹・雷と大変でしたね、特にこの藤を見ていたら落雷が近くで・・・・・・。
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近所で聞いてもお城が解らず・・・・・取り合えず小松高校へグランド橋で漸く見つけました。
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グランド脇に本丸の碑が、この辺は加賀一向宗が盛んで天正4年1576年若林長門守が築城、その後丹羽長重が治めたが関ケ原の戦いで西軍に着いたため東軍の前田利長が2万5千の大軍で攻撃したが湿地帯の為落城しなかったそうです、その後前田家2代目藩主利常の隠居城として改修・・・この時広大なお城を築いたが元和元年1615年一国一城令で廃城となる・・・が後に加賀藩から20万石の分藩として小松藩をおこしお城も復活したみたいですね。
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流石に立派な石垣が・・・小松は石の産地ですからね。
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石垣には登れず仕方ないので周りをウロウロと。
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こちら側の石垣野横に白山井戸があります・・・・、芝生も雨で水を含み大変ですよ。
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こちら側が小松高校のグランドでその向こう側は川原です。
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これで一回りですね・・・この天守石垣がポッツ・・・・実はこの小松城を訪れる前に大聖寺城跡に行ってきたのですそれは山城で御止め山なので遺構が残っていましたね。









七尾城に行って来ました。

2018-04-14 11:14:33 | 城郭石川
2018年4月10日(火)にお城巡りで待望の七尾城跡に行って来ました、室町幕府の守護能登畠山氏の居城の山上城郭です、天正5年9月15日に上杉謙信軍2万の前に落城しました。
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七尾城は能登半島の付け根七尾湾を眼下にそびえる石動山300mの端に位置します、山裾の尾根を利用した堅固な城ですね・・・小谷城・観音寺城を思い出しました。
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車で本丸下の駐車場まで上がれます、昔は無いルートで?長屋敷への一部かな?、いきなり本丸方面へ。
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左側が本丸の切岸で少し行くと調度丸の郭に出ます。
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調度丸脇から見た本丸の切岸とその上にある石垣です。
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調度丸です・・・・・左側が桜馬場側です石垣(石塁)が見られます。
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奇麗な野面積の石垣が三段に積み上げてありますね、防御用?崩れ防止用?、高い石垣構築技術がまだ無かったのですかネ、しかし良く崩れずに残りましたね・・・低い野面積なればこそ400年も残るのでしょうね。
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調度丸の端に虎口の石垣があります、寺屋敷への出入り口です。

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桜馬場・遊佐屋敷へ階段を上り上から石垣を見ろしました。
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遊佐屋敷脇から本丸方面を見ました、本丸への北の虎口の石垣です。
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本丸への上り口です石垣に囲まれた細い登りです。
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登りつめるといきなり本丸です。
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北側は眺望が七尾湾が眼下に見えます、南側は山々が繋がり石動山も見えます、石動山大宮坊に上杉謙信は本営を設けここ能登畠山氏と戦をしたのです、当時天正5年9月15日に落城しますが、漢詩で有名な9月13日はこの時の情景を詠じたものです、二万の軍勢で包囲し城側は籠城したのです。
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七尾城址の碑が山頂にありますが、畠山氏の末裔の(荏原製作所創業者)建立とか、当時は畠山氏は内紛状態で当主不在状態で有力家臣が三グループで対立、遊佐氏・・・上杉系、長氏・・・織田系、温井氏・・・金沢御堂系織田の勢力が大きくなり金沢御堂(本願寺)が上杉支持になり、最後は遊佐氏が上杉軍を引き入れたそうです。
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本丸から北側の虎口を見る・・・眼下に登る敵が見えますね。
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本丸のもう一つの虎口(西側)です、土塁石垣が崩れていますが。
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虎口は枡形状の広場で両サイドはガケ状です。
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虎口出口は横矢掛かり状態の急さかです、遊佐屋敷横桜馬場へなります、本丸の抑えは北・西とも遊佐氏が抑えていたわけです。
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桜馬場を行くと左側が西の丸・正面が温井屋敷・二の丸となります。
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温井屋敷から見た二の丸の石垣。
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温井屋敷西側の虎口にある九尺石です、降りる先は?、二の丸を迂回して三の丸へ出るのでは?、私は今回二の丸までで引き返したのでこの山城全体が把握できずですが、やはり各屋敷を山上に構えたのは観音寺城に似ているのでしょうね。
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調度丸からの帰りです、右側が本丸土塁(切岸)です、東側も掘割(堀切?)で削られています、やや時間が少なく未消化でしたが、来て見て実感しました、明日は昨年行った、福井・丸岡・越前大野城跡です。

この城は上杉軍の前に開城し、支援依頼を受けた織田軍柴田・前田4万はまにあわず敗退するが翌年上杉謙信は春日山城にて死亡、結局前田利家が治めその後廃城となりましたね。