三郎兼続の日記

趣味の写真で山登り・旅行を主体にした日記
最近は山登りが少なく、城郭・巨木へ

茨城の栗橋城に行って来ました。

2023-03-16 11:56:05 | 城郭茨城1
2023年3月15日(水)に茨城の栗橋城に行って来ました。

南栗橋駅から約30分程の歩きです、権現堂調整池(行幸湖)の権現橋を渡り向こう岸の土手沿いを下流へ向かい歩きました・・・・丁度右端辺りでしょうかネ・・・右側下流方面は幸手方面ですね。

土手沿いを・・・もう少しですね。

多分この辺りが栗橋城ですが・・・畑ですね・・・・左側の森の中が一の郭でしょうかネ・・・右のイチョウかもう少し左側ですかネ・・左側が法宣寺方面。

田んぼの真ん中の道・・・私は此処をいきなり進みました・・・・この辺りは元々は城内ですね、左側の木々が生い茂っている場所が法宣寺裏手に当たります・・・多分一の郭。

道の右側方面・・・向こうもお城みたいに見えますが・・・・後程向こうの方面に行きましたが?。

屋敷内にちかずきました、民家の庭近くです、田んぼから畑へ、反対側の森中・・・一の郭へ入るにはこの反対側からしかないのかも?。

こちら側ですね・・・民家の庭です、今いる所もそうですが・・・・・結局森の中に入らずでした・・お寺の裏から入れるかなと思ったのですが?入らないように書紙が在ったので入らずでした。

民家の庭を抜けて出口方面へ、空堀がありました。

此れが民家の正面から見た所です(奥から出てきたのですが)、入口左右は空堀です・・・木々が茂っているので見ずらいですが。

民家入口正面に栗橋城の説明版がありました・・・この辺りは二の郭入口辺りですかネ、この城は古河公方の家臣野田氏の居城ですが、永禄年間(1558-1570)に北条氏照が北関東進出したのです、天正18年(1590)豊臣秀吉が小田原征伐・・・その後廃城となったのですね。

道の反対方向に見事な枝垂れ桜がまだ少し早く花がほんの少し。

法宣と反対方向へ進みました、・・・・民家脇の細道を・・・・何となく土塁空堀みたいに見えましたが・・・はっきりせず戻りました。

案内板前に戻り法宣寺をやや遠くから眺めました、寺の後が栗橋城一の郭・・。

十九夜塔・・・安永年間(1772-1781)江戸期11代家斉の頃ですね、民間信仰月待の女人講・念仏講の記念塔です法宣寺境内にもありましたね。

法宣寺。

法宣寺・・・この裏手が栗橋城、右側から回り込みますね。

寺横から空堀が見えます、七曲りの空堀とか・・・。

木々と枯草が・・・・中に降りない様お寺に紙が在ったので(読まなければ良かったのですが?)。

丁度お寺の隅端に・・・少し高台が?・・・??。

寺裏方面へ空堀が続きますね・・。

なおも続きますね。

法宣寺を出て・・・少し先に神明社・香取神社があります、神社脇は少し土手状態になっていますね、昔は湿地帯かも?。

法宣寺の駐車場脇です、奥が一の郭ですね、畑を突っ切るのも出来ず・・・回り込みますね。

最初に来た所に出てきましたね・・・この辺りからは入れませんね。

此処は権現堂調整池の脇から栗橋城方面を見ました・・・・栗橋城土塁に見えませんか?・・・。


茨城の守谷城に行って来ました。

2023-02-25 11:55:03 | 城郭茨城1

2023年2月22日(水)に茨城の守谷城に行って来ました。

天慶年間に平将門が新皇を称し王城を築いた確証はないそうですが伝説は・・・、永禄年間(1560)頃の坂東は各大名・豪族が・・・。

此処茨城の守谷には鎌倉時代から三方の内海(沼)に張り出した半島状の丘陵を利用した、平の将門の子孫と称した相馬氏の居城がありましたね、地図の中央上から中央。

図のようなお城は、戦国期小田原北条と北関東の武将達との争いの場となり、相馬氏は後北条と連携・・・永禄10年(1567)古河公方足利義氏の御座所として後北条が改築した当時の守谷城イメージだそうです。

同じ図ですが、現在の地図と重ねた図。

ほぼ同じですが、見やすいので?、・・・左側方面は現在住宅地・・周りの内海は芝生の低地ですが、真ん中のお城は奇麗な遺構として残っています、現在地左脇の上から堀切(空堀)を入り二の曲輪・盾形曲輪・一の曲輪・下側の腰曲輪・御馬家台と廻りました・・・小学校方面と妙見曲輪には行きませんでした。

守谷駅からつくばエクスプレス線路脇の高層マンションを目指しました。マンション前のプロムナード水路・・・水路に沿って・・・。

水路の先が守谷沼・・・そのずっと先に小貝側が、右側が守谷城の二の丸です、今の場所が当時は清光曲輪の場所ですね・・目の前は内海。

芝生が水の中ですが、森の割れ目が見えますね・・・正面が二の曲輪その右側が御馬家台。

芝生を横切りいざ城内へ。

検討は辺りですね、右側が御馬家台・左側が2の曲輪の間の堀底道。

堀底道が続きますね、Sカーブの空堀・最大比高12m・・・当時はV型の薬研堀とか。

なおも続きますね。

向こう側が見えてきました。

お城の反対側に突き抜けました、こちら側も湿地帯・・・当時は内海。

振り返り今来た堀底道、左の道から最後に帰ります、右側の二の曲輪方面へ上がります。

最後に帰る、馬出曲輪方面です。

二の曲輪の入り口・・・・最初の図ではこの道は無く左側から御馬家台へ木橋が掛けられていますね。

上の二の曲輪横下の枡形虎口。

反対方向もその枡形虎口の一部、左側から木橋が出ていますね。

二の曲輪の端・・・右側に矢倉台。

二の曲輪は広く右側方向に広がっています。

此処は二の丸の桝形虎口の入り口上。

折れ曲がった二の曲輪、左側が御馬家台、正面が一の丸方面、右下には腰曲輪があります(今は畑)。

此れが二の曲輪・・・広い曲輪です。

取り合えず先程の二の曲輪の虎口を見に行きます。

奥の斜め道が先程上がって来た道、土塁の下が枡形構造での虎口。

最初の大堀切、左側から右側の土塁に木橋が架かっていたみたいですね(絵図)。

二の曲輪から見た御馬家台の曲輪・・・絵図では上り路はありませんね?。

進んだ二の曲輪からなおも奥を見る、橋が・・・。

こちら側も二の曲輪の虎口ですね、楯形曲輪へ繋がる土橋。

土橋、向こう側が楯形曲輪。

土橋から見たから堀・・・右が二の曲輪。

振り返ります、左が二の曲輪。

楯形曲輪に入りました、一の曲輪と二の曲輪の中間に細長い曲輪を設けていっるのです。

逆側から・・・向こう側が一の曲輪(本丸・一の郭)。

これも楯形曲輪から。

楯形曲輪から郭の奥を見ました・・・細長い。

楯形曲輪から一の曲輪と空堀・・・空堀は障子堀だそうですね、後北条による築城技術ですね。

空堀に降りました、船着き場とか?。

船着き場?あたりから見た守谷沼方面。

楯形曲輪から降りて見た空堀から、左側が一の曲輪・・・此処が障子堀とか、木橋で曲輪同士が繋がっていたのですね。

一の郭へ。

一の曲輪。

これも一の曲輪、奥は鉄板が・・・今回奥の妙見曲輪を見過ごしてしまいました。

一の曲輪から見た楯形曲輪、下は障子堀の堀。

今登って来た虎口を。

間の空堀から見た領曲輪。

曲輪の外側へ・・正面が楯形曲輪の端・・・・右側奥に妙見曲輪が在ったはず(行きませんでした)。

二の曲輪外側を・・・。

此処は腰曲輪ですね・・・今は畑ですが、右側は二の曲輪・・・最初に上った見晴らし台が正面の場所ですね、左側は内海(沼)。

二の曲輪と御馬家台の大堀切・・・これから左側へ。

御馬家台曲輪。

今登って来た虎口?(実際は此処では無く、もう少し先)。

御馬家台の奥から見た所。

この先から向こう側に木橋が?。

此処は馬出曲輪側との枡形虎口ですね・・・やはり木橋で連結されていたみたいですね。

虎口側から見ました土塁から見ても枡形ですね。

楯形曲輪から降りてきました、前側の高台が馬出曲輪・・・多分道路で一日がカットされているのでしょうが?。

こちら側は高台で江戸時代にはこちら側の曲輪が使われたみたいですね、その後寛永5年(1628)廃城とか。

古河公方の御在所としては使用され無かったみたいですが立派な城郭ですね、この辺り一帯も城内が続きますからネ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


牛久城に行って来ました。

2023-02-24 16:16:43 | 城郭茨城1
2023年2月22日(水)に茨城の牛久城に行って来ました、JR常磐線の牛久駅から歩きました、40分弱かかりましたかネ。

写真の前方方面から此処まで歩いて30分位でしょうか?、左側が牛久城方面、右手先がもう少しで龍ヶ崎市、城は左の少し先。

根古屋地区でしょうか?、右側に標識が牛久城入口、左側は民家がありますが、牛久沼。

牛久城に入ります、牛久城は牛久沼に接した高台に築かれたお城ですね、各曲輪の周りは孟宗竹で一杯ですね、この右側も小さな曲輪ですが竹で見通しが悪いですネ。

竹のトンネルを抜けると段々の平地が見られます、横の道を回り込むように上がりますね。

上ると右側に回り込む曲輪があり左側が空堀で奥に土橋が・・・空堀と土塁には竹が一杯。

説明版が無いのでハッキリしませんが1の郭への虎口です、右側下は先程の入り口脇の竹藪の曲輪。

土橋を上がれば1の郭。

1の郭・・・廻はすべて竹藪ですが土塀。

1の郭の虎口は現在これ一つ・・・・?。

もと来た道に戻り奥に・・・・横は空堀、右側が1の郭。

此処は1の郭と2の郭の空堀。

堀底道を進みますね。

曲がった先は根古屋地区方面ですね、先程下の道を左から右側へ。

堀底道を元の戻りなおも先に進みますね、左側一帯は腰曲輪、右側は2の郭。

腰曲輪の先まで来ました、正面と右側に虎口がありますね、まず右側へ。

2の虎口へ。

大きな曲輪ですね、此処も今は虎口が一つのみ・・・・(1・2の郭は木橋ですかネ)。

2の虎口から正面右側は土塁に囲まれた腰曲輪、右側が3の郭方面の虎口。

2の郭からの虎口の土橋左右に空堀、左は腰曲輪を回り込むような帯曲輪、まず右側方面へ・・。

大きな空堀が。

左右に空堀があり3の郭に続きますね・・・馬出曲輪ですかね。

振り返り2の郭と虎口の土橋を見る、見事な空堀です、牛久城は小田氏一族の岡見氏のお城で小田氏の勢力が弱くなり、佐竹氏の勢力が強くなったので後北条に巻き込まれた城ですね・・・佐竹氏に対抗するため後北条が防御力強化を図った城・・・小田原征伐で後北条と共に滅亡。

3の郭へお虎口。

右手奥から出てきました、3の郭は広かったのでしょうが?、端のほうの崖以外は?、2の郭の虎口まで戻りますね、右側の案内図が古くて読めず・・・・此処は全体的に説明がありませんね、こんなに素晴らしい遺構があるのに・・・タケノコ採るなだけですね。

2の郭を渡り左側へ曲がりますね、2の郭の空堀と3の郭の空堀の間にある帯曲輪(馬出?)を進みますね。

帯曲輪から見た3の郭下側の湿地帯・・・当時は牛久沼の一部か。

2の郭横脇の腰曲輪したを回り込みます、右側は牛久沼(当時は?)。

なをも回り込みますね。

なをも・・・当初来た入口手前そばまで回り込みました・・・・築城はやはり土木工事ですね・・・後北条も凄いですが、やはり豊臣秀吉は早くて凄かったのでしょうね?。

今廻って来た方面を道路側から見ます(この辺は沼の一部か?)、向こう側の国道6号線から右側へ、右側から上の方を進み左側から右へ、素晴らしい縄張りですね、よく遺構が残っています。

牛久陣屋跡に行って来ました。

2023-02-24 10:03:05 | 城郭茨城1

2023年2月22日(水)に茨城の牛久城・守谷城に行って来ました、陣屋が近くにあるので足を延ばしましたが、陣屋跡が良くわからず・・・(泣)。

JR常磐線牛久駅前の国道6号線を龍ヶ崎市方面へ・・・此処まで20分位でしょうかネ、この後が龍ヶ崎市。

奥に見えるのが牛久城です、根小屋橋を渡りますね・・・牛久の根古屋(武士の済んだ城下町)。

牛久沼・・・右手すぐ先が牛久城の入り口(看板あり)・・・先に牛久城を見たのですが・・・今回はそこを飛ばした、その先を左側沼脇を行きますね。

牛久沼脇の遊歩道を・・・右側の森の中へ。

なおも遊歩道を少し先から森の中へ・・・案内板あり(ただし牛久陣屋はありません)。

沼脇から、高台へ・・・雲魚亭・・・小川芋銭(うせん)の晩年の家とか。

近くにある河童の碑・・・小川芋銭・・・・この辺りが牛久陣屋跡みたいですね。

近所を見て回ったのですが陣屋の場所が解らず3度ほどグルグル・・・陣屋はこの辺りですが、この道の奥が・・・近所の人に尋ねたのですが3度目に明解に教えて頂きました。

遺構は殆ど無い状態ですね・・・畑を脇が幾らか土塁?かな・・。

左側奥河童の碑奥は此処より一段低くなってはいましたが、近所の稲荷神社の方が(小さいが)趣はありますが・・・此処も牛久城の城内の端の場所ですね・・・牛久藩山口弘隆2代藩主がこの地に陣屋を構えたのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


常陸太田城(舞鶴城)に行って来ました(巨木も)。

2023-01-06 16:01:01 | 城郭茨城1
2023年1月5日(木)に常陸太田市に行きました、結構遠いのですね・・・・しかも駅からレンタル電動自転車で動き回ったのですが途中でバッテリーが切れて重くて大変で思うように見て歩けませんでしたね・・・もう一度行かなくてはなりませんね(何時になるか?)。

常陸太田城は別名舞鶴城・・・佐竹氏が改修し移転した時に上空に鶴が舞い飛んだので付いた名と在りますが?・・・源氏川と里川との間の南北に長い台地で鶴の羽を広げた形なのでついたのでは?。

常陸太田城は当時の遺構があまりないとかで、本郭がこの常陸太田小学校との事ですね、この写真は校門の外から、太田城は長仁2年(1109)藤原秀郷の子孫が城塞を築いたとか、その後・・佐竹氏に変わり城は改修・・・この時鶴が舞ったとか・・・天正18年(1590)佐竹義宣が水戸城に移るまでの約470年間、太田城を本拠として勢力を拡大54万石の戦国大名となりました、関ケ原の戦いで徳川方に味方をしなかったので、慶長7年(1602)秋田に20万石で国替え・・・太田城は廃城。

多分、太田小学校脇の土塁、常陸太田城の本郭の土塁・・・遺構ですね・・・私は素晴らしい木に目が行っただけですが!。

趣のある木なので・・・。

この辺りでは電動のバッテリーが切れて、普通の自転車より重いので・・・・土塁下の国道293号脇から上ってきました、常陸太田城2郭あたりの(内堀町周辺)若宮八幡宮です、巨木のケヤキが目に入ります。

境内入り口脇のケヤキ・・・こちら側は大分痛んでいますが。

大きい方のケヤキを此処から見ました、樹齢650年幹回り11m、御神木ですね、当時も境内でお城の中を見て来たのでしょうね。

若宮八幡宮全景、他にも大ケヤキがあります、左側は道ですが、その左側はガケ(土塁)・・・奥の方が常陸太田城本郭、右側が二の郭(内堀町)、右奥が三の郭(栄町)?となりますか?。

此処は専売公社跡(今はJT)・・・栄町の3の郭、左側手前が本郭(太田小学校)・・・今は三本の木がある更地、奥が太田一高で北郭(搦め手)。

大ケヤキがボッツと・・・樹齢?年幹回り5・5m。

折角ですから・・・栄町の大ケヤキ。

角度を変えて。

此処は三の郭脇の太田落雁から見た里川方面側の土塁上・・・・本郭の逆側です、太田城は高台の上でバッテリーが切れて動きが取れず余り動かなかったので位置関係が大分あやふやで・・・・結局、田渡城には行けず・・久米城(素晴らしい!)と5時間弱走り回って疲れました。