三郎兼続の日記

趣味の写真で山登り・旅行を主体にした日記
最近は山登りが少なく、城郭・巨木へ

佐賀県唐津城にいってきました。

2021-12-19 19:54:32 | 城郭佐賀
2021年12月8日(水)に佐賀県のJR唐津駅から名護屋城に行き、帰りにバスセンター拠り徒歩で唐津城跡に行って来ました、此れで今回予定の城郭巡りは無事回れました、九州は城郭が多くとても回り切れるものではありませんからネ。

此れが唐津城です5層5階地下1階です、たまたま東唐津駅に停車したところで取ったものです良かったです、この角度の写真が一番でしょうかネ!、この前福知山城も電車から撮ったのが良かったですから・・・・全体が良く見えますからネ・・・でも唐津城には天守が無かったとか。

バスセンター横の市役所にある三の丸櫓と堀、右側がバスセンターで此れも名護屋城に行く前に撮ったものです。

唐津駅前正面が市役所で隣がバスセンターです、上が唐津湾(玄界灘・壱岐の島・対馬)で左が松浦川、唐津城は三方向を海と川に囲まれた満島山の山頂を本丸・二の丸・三の丸と連格式城郭です。

佐賀県です、名護屋城は上の方になります、唐津城は真ん中の海沿いデスネ。

此処は二の丸と三の丸を隔てた堀。

この唐津城も舞鶴城と呼ばれていますね(確か福岡城も)、正面から反時計回りに外側を廻ました、隣の学校が写真を撮りずらくしていますね。

唐津城本丸天主を見上げました。

少し回り込み。

右側に回り込みます、松浦川が海に注ぎ込みますね、唐津城は海城です。

松浦川は河口の橋の上から・・・もう少し先まで行きたかったのですが風が強く寒いので戻りました。

海沿いの腰曲輪を廻いよいよ本丸へ。

まだまだ階段が続きます。

ようやく最後の虎口で振り返ります。

本丸石垣前の二の曲輪(中段広場)から見た唐津城(大手門・天守)、最初の写真東唐津駅からはほぼこの角度から全体が見えたのですね。

唐津城大手門。

二の曲輪端から井戸と大手門。

二の曲輪少し離れて天守を見上げます。

大手門脇からの唐津城。

本丸横の上段の二の曲輪前、化粧櫓と西門。

西門と天守。

大手門をはいり本丸。

本丸から見た唐津城天守、唐津城は豊臣秀吉の家臣寺沢広高が文禄4年(1595)8・3万石で拝領、関ケ原では東軍に味方、島原に4万石を加増、慶長7年(1602)から7年の歳月をかけて築城、二の丸が藩主の住居(現城脇の高校)・・・名護屋城の解体資材を使用とか、

寛永14年の島原の乱の責任で島原領4万石は没収、その為か藩主(二代目)が自殺子供が無く改易、その後、大久保家・土井家・水野家・小笠原家と藩主が変わりました。

天守・西門・化粧櫓。

角度を変えて、唐津城。

唐津城本丸石垣から見た唐津湾?・・・・。


佐賀県名護屋城跡に行って来ました(後)。

2021-12-18 09:45:59 | 城郭佐賀
2021年12月8日(水)に佐賀県鎮西の名護屋城跡に行って来ました前の続き、豊臣秀吉の大陸への軍事拠点として天正19年に築城。

前回は三の丸・馬場・弾正丸左側上までです、此れから二の丸・遊撃丸・本丸へ向かいます。

弾正丸の隅櫓跡からの景色。

弾正丸の虎口、右側が馬場、左側が二の丸、正面石垣が本丸多門櫓。

二の丸。

二の丸の北側の石垣(内側)。

二の丸北側から見た遊撃丸の石垣と正面が本丸。

二の丸、本丸下左側が遊撃丸虎口。

遊撃丸から見た本丸天守台。

遊撃丸から本丸脇を回り込む、水の手曲輪。

本丸への虎口北門、上山里丸(秀吉の住居地域)からの入り口。

名護屋城本丸。

本丸から見た天守台。

本丸から見た東側方面、呼子大橋か?。

本丸東側から見た天守台、右下側が水の手曲輪上山里側。

名護屋城天守台跡、此処から沢山の軍船を見送ったのでしょう、引き上げ時には太閤秀吉は無くなっていましたからネ、前の島は松島・加唐島でしょうかネ。

300からの大名が周辺に陣屋をはり大陸に渡ったのです。

天守台から見た遊撃丸。

同じく天守台から見た二の丸。

本丸多門櫓跡から見た弾正丸、右下は二の丸。

本丸隅から見た馬場西側櫓台跡。

本丸大手、正面は南西櫓跡。

本丸大手。

大手を下ると三の丸です、先程は此処を直進し馬場曲輪方面へ・・・・これで住居がわの山里曲輪を除けば見終わりました、前田利家陣の跡地を見ましたが意外と小さなものでしたね、名護屋城博物館入口バス停13時10分で唐津バスセンターへ直接戻ります、各陣屋巡りは車が無いととても回り切れませんからネ・・・・これから唐津城。

佐賀県名護屋城跡に行って来ました(前)。

2021-12-17 16:10:13 | 城郭佐賀
2021年12月8日(水)に佐賀県の名護屋城跡に行って来ました、JR唐津駅へ唐津バスセンターからバス呼子へ呼子からジャンボタクシーにて名古屋城前です、名護屋城はあの豊臣秀吉が文禄ー慶長の役(1592-1598年)の軍事拠点として築城、天正19年(1591)の後半から始まりわずか数カ月で完成(築城にあたり各大名に割り普請)したお城、全国各地の大名を参集し陣屋が130ケ所築城、今に60ケ所の石垣等の遺構が良好に残る。

玄海灘を目の前に突き出した、この半島全体(鎮西)に日本国大名が陣屋を構えたのです、今回は名護屋城跡と前田利家陣屋跡を散策しましたね。

名護屋城跡を①大手口②東出丸③三の丸⑥馬場⑨弾正⑦二の丸⑧遊撃丸⑤本丸と回りました。

模型図の写真です右端が大手門です、天守には天守閣が・・・。

同じ縄張り図ばかりですが、解りやすいので・・・大手口からイザ。

此れは解りやすいですね大手口前の広場。

大手口脇から見た馬場の石垣、正面の石垣は弾正丸の曲輪、左側奥が搦め手口方面です。

大手口。

緩やかな道を上がります、正面に見えるのが東出丸の石垣、左側は三の丸。

東出丸です、呼子方面でしょうか?。

東出丸から三の丸へは回り込みます。

三の丸虎口です、簡単には入れますね。

三の丸の虎口、石垣が多数崩れていますね、隅の算木積の技術がまだこの時は無かった(朝鮮の石工の技術をこの後持ち帰りましたからネ)。

名護屋城三の丸、右側が本丸大手口、私は左側を直進。

左側が三の丸南西櫓台で右側が本丸、階段を進むと馬場曲輪。

折角ですから三の丸南西隅櫓の石垣を正面から。

向こう側が本丸、馬場へ。

回り込んで馬場曲輪です、本丸下の腰曲輪ですね。

馬場曲輪の石垣上の土塁から、奥左が弾正丸。

馬場曲輪の切れ目に馬場西側櫓台の石垣が正面は二の丸。

二の丸広場、まず左側へ曲がります。

弾正丸から見た二の丸、向こう側の石垣は遊撃丸側です。

弾正丸脇石垣上から馬場曲輪の石垣が右側奥が大手口。

弾正丸の搦め手口への虎口。

取り合えず弾正丸から搦め手方面まで散策しました、戻ってきて二の丸を回り込みますね・・・後編へ。


佐賀城に行って来ました。

2021-12-14 15:24:15 | 城郭佐賀
2021年12月7日(火)に佐賀城に行って来ました、JR佐賀駅から佐賀城跡本丸前へ。

下側から中央の道路を上がり左側が二の丸・本丸です、奥の右側が三の丸・西の丸、地図全体が当時の佐賀城で水堀で囲まれた城郭です。

前の地図とは北南が逆ですが、当時の縄張り図です、右下側が二の丸本丸で広い水堀で囲まれた二つの虎口からなりますね。

二の丸・本丸をアップ、現在は現在位置上の水堀が道路でバス停です。

二の丸から見た鯱の門・続櫓。
 
鯱の門・続櫓へ此方から本丸へ入りますね。

鯱の門、右側が天守台に繋がります、この石垣の向こう側が本丸ですが、天守入り口はこちら側の右側奥と不思議な構造となっています。

鯱の門を入りました、本丸です。

本丸御殿です。

本丸御殿を回り込みます、本丸・・・南側は土塁ですね。

本丸南側の土塁から西側へ、南西隅櫓跡の石垣上です、南側の水堀を見る、左側が三の丸方面。

同じ南西隅櫓から本丸北側を見る、石垣左側が当時は水堀でその左側が三の丸方面、石垣右側が本丸、奥が天守台石垣。

同じところから東側を見ます、本丸土塁(石垣ではありませんね)右側は広い水堀。

本丸から見た天守台石垣、こちら側からは登り口がありません。

天守石垣に沿って西御門口。

天守登り口を探して再び二の丸側へ。

見つけました、天守への虎口を・・・。

虎口の階段を上ると西御門口へ先程の南西隅櫓は、前の石垣先です、此処は北西隅櫓かな?。

天守ですね、

天守へ上がりました、振り返りました、佐賀城は鍋島直正が初代勝茂改築し5層の天守を設けたが享保11年(1726)に焼失。

天守から見た鯱の門。

最初に到着した二の丸広場。

天守への虎口、現在は二の丸ですが当時は周りは水堀で遮断されていたのですね。

天守から南側の堀の外側へ、堀の外から見た佐賀城本丸です、正面の石垣は先程の南西隅櫓の石垣。

堀外側見た三の丸・西の丸方面。

三の丸・西の丸方面へ。

西の丸大楠群へ回り込みました、西御門橋は左側です。

西側の堀端を北側へ進みます、確かに大楠が・・・・この程度では私は感動しませんが・・・武雄神社の御神木を見たばかりですからネ。

北側の堀脇にも大楠が見えました、此れで佐賀城散策は終わりです、此れから久留米城へと参りますね。