2020年2月1日(土)に青梅の今井城跡に行って来ました。
八高線の金子駅から歩きました、東飯能方面から線路を渡りT字路の大通りを右に霞川の端を渡りすぐ左側の川沿いを上流に歩きます。
入間川の支流の霞川です、川沿いをT字路まで歩き、T字路で川を離れて右側に少し歩くと大通り此処もT字路左側に進みますね。
金子橋(霞川)に出ます、埼玉県と東京都の境目です橋を渡らず右側の山根通りを少し進みますね・・・駅から20-30分(迷わなければ)私は迷いましたね。
山根通りのこの看板が目印です、この建物の奥の林が今井城跡です、私は此処で今井城跡はこの辺ですかと尋ねたら・・・この山根通りの大分先だと告げられました(途中でおかしいと感じたので結局無視しました、多分藤橋城跡?)、右側を巻いていきました・・・、少し先の山根通り(大手筋)からも入れますが少し解りずらいですね。
此れが今井城跡の縄張り図です、下側斜めにが山根通り・霞川、カンバンの右側を回り込むんで行きました、大きい城跡ではなく地方の豪族のお城ですが此れから見るように遺構は良好に保存されていましたね。
此れが大手門側からのお城の入り口です、二の曲輪の脇の外郭へ出ます・・・こちらに帰りは出てきました。
カンバン脇の道へ、この竹林は三の曲輪です、少し先を左側に回り込みます。
此処が三の曲輪・・・・大分道路で削られているのでしょうかやに狭いですね、ここは加治丘陵の南端の舌状台地ですね、この少し先から城内に入れる場所が有ります。
此処先程の縄張り図では外の外郭ですが城内の一部??で右側上に案内図が有ります、左側が今井城です。
外郭の上にありました今井城跡の案内図です、この奥に空堀があり、二の曲輪・一の曲輪と続きますね、脇は直ぐに住宅地。
案内板の後です、丘陵の高台が続きますね、下が山根通りで後ろは住宅地が脇まで来ていますね。
空堀ですね、左側が外郭(案内板がある方)、右側が二の曲輪です。
外郭から見た二の曲輪です。
此処が二の曲輪です、土塁はありません。
これは二の曲輪から見た一の曲輪と空堀此方の空堀の方が大きく深いですね(本丸ですからね)。
二の曲輪の一部が一の曲輪を回り込むように突き出いますね、前は空堀でその向こうは一の曲輪を取り巻く腰曲輪みたいですね。
空堀のその先は民家の中庭へ続きますが・・・多分大手筋ですね、先程の今井城入り口はこの家の少し右側です。
二の曲輪から一の曲輪を見ました、この空堀が回り込むように有るわけですね。
此処も二の曲輪から見た一の曲輪の空堀です。
これは二の曲輪の空堀です外郭と分けていますが堀が浅く幅が小さいですね。
此れも二の曲輪の空堀です。
先程の裏側の道路が見える所です、二の曲輪と三の曲輪の境目です、此れから三の曲輪方面へ。
三の曲輪を進みます・・・今は左側の道路があり低く削られているみたいですね?。
これは手前が三の曲輪側で右側が一の曲輪です。
此れも三の曲輪から見た一の曲輪です。
三の曲輪にある虎口でしょうか、一の曲輪の外側湿地帯へ下る?。
三の曲輪から見た道路側・・・大分道路で削られているのか??。
一の曲輪と三の曲輪の空堀の中から見た。
一の曲輪です、三方に土塁が積み上げられています。
一の曲輪に有る社ですが、朽ち果てていました、今井城は今井四朗左衛門経家の居城で武蔵七党の児玉党出身とか天正年間(1573-1592年)に後北条に滅ぼされた、築城時期は鎌倉後期ー室町時代中期に有った居館を後北条が改修、中世豪族の館で規模は小さいですが遺構は良好でした。