三郎兼続の日記

趣味の写真で山登り・旅行を主体にした日記
最近は山登りが少なく、城郭・巨木へ

長崎玖島城に行って来ました(大村公園)。

2022-06-11 09:55:11 | 城郭長崎

2022年6月2日(木)に長崎県の大村公園にある玖島城に行って来ました、此れで今回の長崎の旅は終わりです。

JR大村駅から海沿いの道へ国道わきを大村公園へ向かい歩きましたね、道路わきですが此れが暑くて・・・もう少しです。

これは玖島城大手門に架かる案内板です、玖島城は大村湾に突き出した半島の先端に築城された平山城比高15m・・・海城ですね、慶長3年(1598)大村喜前がもともとは島であった地に築城、幕末まで続き12代、天守は無かったそうです。

現在の大村公園。

当時の玖島城。

玖島城外堀桜田の堀・・・多分海だったのでしょうね?、左側が国道34、右側が玖島城本丸側、正面奥左側から長堀があり菖蒲園です・・今満開、長堀側が大手門側ですが、暑くて疲れたので、裏側(右側から)お城へ。

公園脇の細い道から。

玖島城本丸の石垣・・・搦め手側。

少し先の登り口大村稲荷・・・此方からくればよかったかな、石垣もあるし。

玖島城本丸の縄張り図、今右上から登り右横から入りました、藩主居館が今大村稲荷、政庁跡が大村神社、左側の虎口門脇が二の丸側。

大村稲荷です、この周辺が藩主居館。

稲荷横に藩主居館跡が・・・玖島城本丸の大奥ですね。

玖島城本丸搦め手口。

玖島城本丸・・・政庁跡・・・此処も明治初期に建てられた藩祖を祭神とした大村神社です。

本丸政庁跡の大村神社。

大村神社。

大村城本丸虎口・・・枡形構造ですね。

虎口が続きます。

虎口門が続きます・・・台所口門側へ。

二の丸側。

向こう側が台所口門、こちら側が二の丸側と本丸虎口側、右側が大手門口へ、取り合えず二の丸側へ。

二の丸は周囲を空堀で囲んでいます、正面は空堀の向こう側には石垣・長塀・板敷櫓があります。

空堀を渡り板敷櫓脇へ・・・この手前後ろ側は三の丸方面・御船蔵方面へ。

大手門口へ戻りました、此処も枡形ですね。

大手門口へ続きます。

確りとした虎口ですね。

大手門口です、大手門脇にある穴門(正面)。

大手門正門から玖島城大手門。

大手門前にある長堀・・・現花菖蒲園。

玖島城本丸前の石垣に沿った長堀と菖蒲の花、奥が大村湾、右側が二の丸の板敷櫓。

板敷櫓を菖蒲の花と。

さらに玖島城板敷櫓・・・右側奥が大手門口です。

大村藩御船蔵跡。

御船蔵です、大村藩は佐賀藩が隣で長崎が天領、大村湾の向かい側長崎の上側も大村藩と分かれていますから船が必須ですね。

 


諫早城に行って来ました。

2022-06-10 16:50:08 | 城郭長崎

2022年6月2日(木)に長崎県諫早市の諫早城に行って来ました。

諫早城、今は諫早公園内の山城、戦国期文明10年(1478)伊佐早(現・諫早)地方を統一した西郷尚義がこの高城の地に築いた山城、北に本明川、南は絶壁に加え空堀を設けた、四代西郷信尚は九州征伐の豊臣秀吉に従わず滅亡、天正15年(1587)竜造寺家晴が治める。

諫早城縄張り図。

眼鏡橋を渡ると大手門・・・此処より山城へ入ります。

石段の道を上がります、大きく曲がりチョットした広場(曲輪)。

説明版が各所にある、折坂虎口と在ります・・・出入り口です。

なおも。登坂が続きます、横矢掛かりですね(横上方面から細い道筋を通る所を上横から攻めるのです。

左上が東の丸、道は本丸へ・・・・・横矢掛かり・・・見やすいですね。

本丸前の切岸(高い塀でブロック)、此処は東の丸の虎口、正面横が本丸への入り口(本当は入り口をずらすのですが公園で付け替えたのかな?)。

東の丸・・・右側は本丸、本丸沿いに帯曲輪が構築されています、この下が折坂虎口。

本丸への虎口。

東の丸から折坂虎口方面へ、右側は帯曲輪(武者走り)。

帯曲輪へ・・・・当時はこんなに広く無いと説明版に。

帯曲輪途中に搦め手口方面の案内が・・・・当時は一部木橋。

本丸搦め手口の虎口。

搦め手側石段を上り本丸へ入りました、正面下が帯曲輪。

本丸の奥がわ。

本丸中央にある藤原明神(亀の塔)。

本丸前側・・・大楠・奥に亀の塔があります・・・草が多くやぶ蚊が多い、この時期は山城は大変ですね。

諫早城本丸の大クス、樹齢600-800年幹回り12mと見事なものです、築城当時に既にあったのですね。

折角ですから、・・・・諫早神社の大クスより一回り大きいですね。

大クス前の展望ですやはり諫早の町が良く見えますね。

此処も基本横矢掛かりの防御体制です。

搦め手口の虎口まで戻り、搦め手口へ。

右側が搦め手口虎口へ、左側は山を削った空堀底道。

搦め手虎口への石段。

空堀を進み出てきたのが高城神社です、竜造寺家晴を祭神にした明治期に出来た神社です・・・・明治期沢山大名の神社が出来ましたね、竜造寺家は江戸期佐賀鍋島藩の親類同格として諫早の地で過ごしたのです。

 

 

 

 


長崎県雲仙市の鶴亀城に行って来ました。

2022-06-09 06:51:48 | 城郭長崎

2022年6月2日(木)長崎県島原市をたち雲仙市神代(こうじろ)の鶴亀城に行って来ました、中世城郭です、併せて鍋島邸が城脇あります。

今日は諫早・大村に行き、長崎空港から帰宅ですが、根一杯見て回ります、まず島原鉄道途中下車。

線路向こう側に廻込神代川とみのつる川(鍋島邸の水堀として流れを変えたとか)の合流地点奥が鍋島邸、後ろの丘が鶴亀城・・・駅は図の上(海側)。

神代川の橋上から見た鶴亀城(こんもりとした木が有る所)、城跡の手前一帯が佐賀鍋島藩の飛び地で武家屋敷を構築。

みのつる川を渡ると武家屋敷が残っています。

此処が佐賀鍋島藩の陣屋・・・まだ早いため中に入れませんでした。

正面から、屋敷の後は鶴亀城二の丸跡下。

鍋島邸の前を進み、鶴亀城入口へ。

この道は丘を分断した堀切ですね。

文字が見えませんが、鶴亀城二の丸跡、後程此処に出てきますネ。

少し先に鶴亀城本丸の虎口があります。

本丸虎口正面。

本丸へ入りました、右側に稲荷。

鶴亀城本丸奥正面に神代神社、土地の豪族神代貴益が築城、天正12年3月に落城。

神代神社。

本丸脇には明らかに土塁が盛り上げてありますね、手つかずの城跡ですよ。

本丸側から見た虎口、当時は堅固な城で(周りは湿地帯)和睦の席でだまし討ちに会って神代家は滅亡とか。

本丸を降りて堀切(道路を先に)、こちら側にも鶴亀城の案内が、右側本丸側、左側二の丸側。

二の丸側虎口。

二の丸です・・・・現在中は畑です、畑の脇が林で囲まれています、林は手入れがされておらずこの時期は散策出来ませんね?、畑仕事の人に尋ねたのですが・・・・何も無いよ。

二の丸側から本丸側を見ました、此れで神代の駅前を見ながら次の諫早へ行きます。

 

 

 

 

 


島原城に行って来ました(本丸)。

2022-06-08 09:14:24 | 城郭長崎
2022年6月1日(水)長崎県島原半島の島原城に行って来ました、島原城お堀脇周辺を見て此れから本丸へ。

巽櫓方面からの島原城ですね。

上が島原駅方面ですが、下側から本丸へ(工事・観光用に作り替えた)・・・・昔は左側の二の丸からだけの虎口。

城の図が逆転していますが、虎口は二の丸のみで二の丸・本丸館は木橋の廊下橋のみで連結が解りますね。

本丸への坂を上がると天守が見えてきました。

島原城天守です、現在は独立式層塔型5重5階。

本丸入口右側にあった西櫓。

西櫓方面から見た天守・・・・層塔型は箱型の規格を少しずつ小さく重ねた形なので、写真はヤハリ斜めかな。

やや大き目で、右側に回り込みますね。

裏側に北村西望の作品が・・・・天草四郎・織田信長の像が。

巽櫓。

御馬見所?、お茶室に見えましたが?。

丑寅櫓・・・二の丸側ですね。

丑寅櫓方面からの天守、西櫓。

少し離れて・・・・雲仙岳を入れて見ました。

味気ない写真ですが本丸壇下への虎口です・・・この先から二の丸への虎口が繋がるのです・・・失敗しました、暑いのでこの坂を下なかったのですね。

回り込んで・・・・天守入り口におもてなし武将隊が・・・、荷物を預けて天守最上段へ登りますね。

資料が在ったので島原の位置を確認・・・雲仙の噴火の説明も。

島原城天守最上階から見た東側・・・・正面は島原駅、奥が有明海で向こう側が熊本です。

眼下に西櫓。

雲仙普賢岳?、噴火は向こう側で左手前の眉山が防御になり町に直撃されなかった・・・。

それの説明版。

此方ですね、如何でしたか、今日は本当に暑く・・・・少し危なかったです、此れから島原港駅近くの旅館へ宿泊、明日この島原を通過しますね。












島原城に行って来ました(本丸周辺)。

2022-06-07 08:56:39 | 城郭長崎

2022年6月1日(水)長崎県島原市の島原城に行って来ました、朝早くから長崎を出て島原を通り越し原城を散策し、戻ってきました、連日暑さの中歩き回り疲れが出てきましたね。

島原駅です、お城風の駅、朝右側のバス停より原城に行って来ました、島原城は此れから。

地図を片手に見て回りますね、森岳?・・・島原城が在った丘が森岳、別名森岳城・・・駅前上方面が島原城で本丸・二の丸(文化会館)・三の丸(学校で消滅)の連格式お城。

昔の島原城下の地図、板倉重政4万石で元和4年(1618)に入封、当初は日野江城、寛永元年(1624)に7年かけて島原城が完成、天守は独立式層塔型4重5階(現在は5重5階)縄張り図を見ると本丸の虎口は二の丸からのみ、二の丸本丸は総石垣の水堀で4万石のお城とは思えない。
2代目松倉勝家の代、重税と労役・飢餓と凶作・キリシタン迫害が重なり、寛永14ー15年(1637-1638)に島原・天草一揆を引き起こし、領内騒乱の責で斬首改易となりましたね。
この城に天草四郎を大将とした一揆勢が押し寄せたんですが、攻略できず・・・・結局原城へ立てこもったのですね。

駅前左側方面大手門へ・・・交番もお城風・・・横に石垣が残っていますね。

大手門石垣から島原城が見えます、本丸・巽櫓(辰巳)。

本丸脇(辰巳方面)から見た水堀と折れ曲がった屛風石垣、巽櫓と天守、此れから反時計回りにお堀端を廻りますね・・・本丸は別途記載。

巽(たつみ)櫓と天守・・・・現在石垣上の矢狭間を持つ練塀の修理を行っていました(一部工事中)。

右奥は艮櫓(丑寅)。

上の写真を合成したものです、如何でしょうか?。

艮(うしとら)櫓。

これも艮櫓と本丸壇下側の石垣。

本丸の石垣の端まで来ました、左側が本丸・・・中央に木橋の廊下橋・・・右側が二の丸、奥の山が雲仙。

なおも進み二の丸の端まで来ました、左側が二の丸の石垣、右側は三の丸方面。

二の丸通りから見た島原城、右側が二の丸、奥が本丸天守、左側が艮櫓。

二の丸虎口から見た島原城正面。

二の丸を進み本丸への虎口・・・昔は木橋の廊下橋とか・・・本丸への出入りは当時は此処のみですね、左右に櫓が立ち並んでいたのです。

二の丸をなをも回り込みながら、武家屋敷方面へまず時の鐘。

武家屋敷を見ます。

御徒町(鉄砲)ですね、綺麗な水が流れる(湧水の町)。

生活の水道ですからね、水奉行水当番が居たとか。

島原城本丸の入り口・・・・昔はこの入り口は無かったのです。

本丸入口横、西櫓。

本丸堀端も回り切りました。

巽櫓へ戻りました、此れから本丸です。








原城に行って来ました(本丸)。

2022-06-06 15:29:37 | 城郭長崎

2022年6月1日(水)に島原・天草一揆の立てこもった原城跡に行って来ました、今回は原城本丸跡です。

島原半島の南東部有明海に臨む元有馬氏の支城でその後廃城となっていた原城跡に行きました、広大な城内を見て、いよいよ本丸跡を見て回ります。

有明海を背にした原城本丸。

原城の縄張り図。

原城本丸の縄張り図。

原城本丸の虎口(本丸正門跡)・・・・本丸は石垣を使用。

枡形構造の虎口・・・・石垣は破城で取り壊されています・・・・多分一部復元?。

枡形がコの字型に続く。

正門わきから本丸へ続く道を見る、左側は本丸段下の石垣、本丸は本丸正門と奥に本丸門と二重の虎口で構成。

埋見門跡・・・此処を上がれば本丸へ。

本丸の石垣。

埋見門を上り振り返る、正面向こう側は鳩山出丸。

本丸壇下脇の石垣から見た原城本丸正門跡、角の隅櫓の向こう側は鳩山出丸、右側空堀。

本丸壇下の奥にある本丸門跡、総大将天草四郎の館は正面石垣の脇とか?。

本丸壇上南東側端の櫓台跡。

櫓台から見た景色・・・・天草丸はこの方面。

本丸壇上奥・・・左側に天草四郎の像。

本丸壇上の脇から見た本丸の石垣、正面が本丸正門、右下が蓮池跡。

少しずらして蓮池跡、奥が二の丸出丸、右奥が二の丸。

天草四郎時貞の墓。

墓の後方面を見る、蓮池跡・二の丸(三の丸は見えず)。

本丸の池尻口門跡と本丸の石垣。

本丸の石垣脇・・・・本丸正門跡へ出ます。
原城は此処までです、此れから島原の島原城、今日は島原港駅周辺に泊まり明日も早くから・・・。


原城に行って来ました(本丸周辺)。

2022-06-06 10:13:09 | 城郭長崎
2022年6月1日(水)に長崎県の島原半島にある南島原市の原城(世界文化遺産)に行って来ました、今回は原城周辺を巡ります、本丸は別途記載。

長崎県雲仙のある島原半島・・・原城は南側(図では下側の右側)海に突き出た丘の所です、朝一番で長崎駅をスタート電車で島原駅へ、島原駅からバスで原城入口と島原半島右側を下りました。

長崎本線で諫早駅へそこから島原鉄道へ乗り換え・・・・学校の通学で多数の学生が乗車。

島原駅でバスに乗り換えます・・・・此処で少し慌てましたね・・・・小銭が無く万円札のみ!慌てて駅で両替事なきを得ました。

原城の台地(丘)は熊本の阿蘇山大噴火の跡とか?、もともと原城跡です、この近く(今回行きませんでした)の日野江城の支城としてキリシタン大名肥前有馬氏が慶長3-9年(1598-1604)にかけて築いた城郭、1612年有馬晴信の失脚・1614年有馬直純の日向転封で一時天領、その後松倉氏の支配・・・島原城完成となり、寛永14ー15年(1637-1638)にかけて起こった島原・天草一揆のおりこの廃城の原城が一揆勢の籠城拠点となったのです・・・およそ2万数千人、一方鎮圧の幕府軍は12万、4カ月による兵糧攻めの末壊滅。

島原駅からおよそ50分原城入口バス停へ到着、左側一帯が原城。

現地の説明版一揆勢;幕府がにらみ合う仕寄場、攻める側が城中からの攻撃を防ぐ対策を立ててにらみ合う・・・・現在の城前の畑辺りです。

仕寄場?、奥が原城の二の丸・三の丸出丸の土塁。

この近くにある、最初の幕府軍統率者である板倉重昌の碑、老中松平信綱に統率者が変更との連絡を受け突き出し討死。

原城縄張り図・・・海側に突き出した台地で陸地側も台地の壁で構成されている、多数の人が籠城するに適した構え・・・結局4カ月における兵糧攻め・・・・それでも1万人からの死傷者とか。

原城大手口・・・・原城温泉 真砂脇(浦田漁港)・・・・左右とも三の丸。

大手口原城跡。

原城大手口跡。

この辺りは三の丸、大手口を入ると廻は高台で中は低地(現畑)。

三の丸から見た、左側が三の丸低地、右側が二の丸、奥は有明海。

海側の左側が二の丸、右側が三の丸の田尻門跡。

左有明海、右側手前二の丸、奥正面が原城本丸跡。

原城本丸側へ近づきました、此れより上がりますね、この左側低地は蓮池跡?なのでしょう。

原城本丸です・・・・別途記載。

本丸脇・・・二の丸との隙間(奥の高い所は二の丸)・・・・蓮池跡。

二の丸側。

二の丸側へ上がってきました、何せ、結構な広さがあります、下が蓮池跡(大きさは?)、向かい側正面が原城本丸跡・・・・原城は本丸のみ石垣で築城、他は自然地形を利用したものですが、落城後?幕府により破城されました。

二の丸の中ほどから見た町中(バスで来た方)、左右何れも二の丸出丸・・・幕府軍と対峙した最前線。

二の丸跡地に立つ世界文化遺産の碑・・・・二の丸には5700人の一揆勢が守備したとか、ちなみに三の丸方面には3500人。

二の丸から見た、二の丸出丸の左側方面(二の丸出丸は大きいのです・・・その先に鳩山出丸があり、本丸をすっぽりと囲みますね。

横を向くと本丸側へ続きます、左下蓮池跡。

本丸虎口前にある空堀跡、右側が二の丸出丸、正面が鳩山出丸、左側が本丸。

本丸虎口前から見た本丸・・・石垣での築城、此処に少年ながら総大将天草四郎がいたのです・・・本丸は別途記載。

本丸前から二の丸・蓮池跡方面を見ました、三の丸はその向こう(見えません)。

本丸を下りました、鳩山出丸、本丸は右側奥。

此処は天草丸・・・4000人の一揆勢が立てこもり、黒田軍と激戦。

原城への虎口、正面が鳩山出丸、右奥が本丸方面、手前に天草丸。

原城外から見た鳩山出丸及び二の丸出丸、幕府軍12万に囲まれ寛永15年2月兵糧攻め後総攻撃にあい、飢饉や領主の苛政・キリシタン弾圧に耐えきれず蜂起した2万数千人が起こした一揆の終焉の地。