三郎兼続の日記

趣味の写真で山登り・旅行を主体にした日記
最近は山登りが少なく、城郭・巨木へ

神奈川県入生田の長興山紹太寺に行って来ました(枝垂れ桜・カゴノキ)。

2024-03-31 12:02:14 | 巨木巡礼関東

2024年3月30日(土)神奈川県小田原市入生田の長興山紹太寺に行って来ました。

入生田駅より長興山の枝垂れ桜を見て石垣山城に行きました、併せて国道1号線沿いのカゴノキを見ました。

紹太寺の脇道を進みます、今回はお寺さんへは拠らず・・・・枝垂桜を・・・。

此れが結構な急な舗装道路の山道を上がりますね・・・写真は振り返り・・・まだまだ。

漸く長興山の枝垂れ桜の場所に・・・。

まだ咲いていないのではと思ったのですが、咲いていましたね、2014年3月以来・・・11年ぶりです・・・枝ぶりが切り取られて・・・・。

随分と枝が刈り取られていました・・・・枝垂れの雰囲気が無くなりましたが開花していたので嬉しいですね。

大分切り取られてます・・・樹齢330年のエドヒガン桜。

枝垂れ部分がありませんが、又枝が伸びれば・・・・。

結構土曜日のせいか、人も来ていました・・。

しかし切跡を見ると・・・痛々しい。

角度を変えて。

横の上の方の道からのぞき見。

これは2014年3月28日の時の物、手前の枝垂れ部分がありましたね・・・。

これは入生田駅脇の三浦三太夫の霊神?・・・・以前は稲荷神社の場所とか。

巨木が見えたので・・・。

山田家のカゴノキと説明版がありました・・・樹齢300年幹回り3・7mとありました、木の中が空洞化していますが、葉は元気よく生い茂っていましたね・・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


川越城に行って来ました。

2024-03-26 10:34:25 | 城郭埼玉1

2024年3月24日(日)に川越の春まつりに行って来ました、併せて川越城周辺を見て回りました。

蔵の町 小江戸 川越の東側・・・・ほぼ当時の川越城跡です・・・下側の市役所前が西大手門。

これは上が北側が上の縄張り図・・・・三の丸上側が氷川神社、左側が西大手門・外曲輪(市役所)、右側上二の丸(武道館)・・・右側帯曲輪の外側が新河岸川・・・本丸御殿の右側が三芳野神社、本丸左下側の口が富士見櫓。

これは本丸前の地図、東西が逆になっていますね・・・・右側が西大手門・・此処から進みますね。

市役所前 太田道灌の像 古河公方に対抗する扇谷上杉氏の上杉持朝は家宰の太田道真・道灌に河越城築城を命じた、加えて江戸城の築城を命じた、河越城は平山城で東方が低地比高5-6m位、北方が新河岸川・・さらに北に入間川、南方は湿地帯で連格式の独立した曲輪を各堀で囲んだ防御の城。

またまた方角が異なる(統一出来ないのかな)中の門の図。

復元された冠木門。

左側が中曲輪 土塁と堀 右側(西)からの敵を想定・・・右側は外曲輪。

北側の氷川神社方面を見る・・・・低地が解りますか。

市立博物館方面・・・三の丸。

三の丸と二の丸の間 蓮池門跡とか。

蓮池門跡。

新河岸川の新城下橋方面を見る。

新河岸川。

少し戻って本丸へ 川越城本丸御殿。

本丸御殿全景。

江戸時代の川越城本丸御殿 天守は無かったそうですね。

角度を変えて・・・。

本丸御殿前にある三芳野神社。

本丸御殿脇から見た高台が(南方)富士見櫓跡。

回り込んで富士見櫓跡へ来ました。

浅間神社と御嶽神社。

神社脇から更に・・・・。

富士見櫓跡。

富士見櫓からの景観・・・・当然富士山も見えるのでしょうね?、此処には天守の代わりの御三階櫓が会ったみたいですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


川越の春まつりに行って来ました。

2024-03-26 07:25:33 | 日記・エッセイ・コラム
2024年3月24日(日)に川越の春まつりに行って来ました、甲冑行列にも会えました。

埼玉県川越市の小江戸蔵の町。

川越春祭りなのでいつも以上に沢山の人が・・・・。

私はこの先の札ノ辻まで行、川越城にまず行きますね、それにしても立派な蔵が立ち並びますね。

折角ですから・・・・。

これも有名な時の鐘。

時の鐘の建物を正面から・・・。

たまたま、川越城(初雁城)御殿まで来たら・・・・三芳野神社前に甲冑隊の皆様が出陣式で集まっていました。

如何ですか・・・種子島の鉄砲隊も・・・まだ見物人の数も少なかったので・・・。

この三芳野神社は菅原道真を祀った神社で川越城内の天神曲輪(本丸を囲む)奥下側が帯曲輪でその先が新河岸川です、天神様の童謡のはこのお社を歌っていたのです。

女性の槍隊も・・・。

甲冑を着込んだ続きます。

ここまでですね。

川越城の富士見櫓を見て氷川神社を見て・・・町中に戻ったら甲冑隊の皆さまが居ました。

急いで戦闘のグループへ・・・人が多くてなかなか進めませんが・・・。

立ち止まって時々、種子島の鉄砲を発砲するので漸く追いつき・・・写真が撮れました・・・今回は此れが目的で・・良かった。

帰りに大宮駅で見慣れない電車が・・・向かい側から撮った写真、後から調べて解りました・・・TRAIN SUITE 四季島 ・・・豪華列車ですね・・・土呂方面へ動きましたが、多分上野駅へ戻るのでしょうね。

川越に行って来ました(出世稲荷・氷川神社)。

2024-03-25 12:06:14 | 巨木巡礼関東
2024年3月24日(日)に川越の春まつりに行って来ました、出世稲荷・熊野神社・三芳野神社・氷川神社を見て回りました。

JR川越駅から真っ直ぐに北上(図の上の方に)、1,出世稲荷神社へ 2,熊野神社から蔵の町中を 3,上の札ノ辻から市役所前から川越城本丸前の三芳野神社 4,少し戻り氷川神社へ。

出世稲荷神社 天保2年(1832)地元の方が京都稲荷神社から分社の稲荷さん。

出世稲荷神社には大きな銀杏の木が2本。

境内側から見ました 樹齢650年幹回り 奥7・25m 手前5・67m。

分社前からあったイチョウの木だったのでしょう。

周りのマンションに囲まれて大変でしょうが・・・・頑張ってね。

イチョウは強いから・・・・。

アップでもう一枚。

次は熊野神社ですね、1590年紀州熊野から分祀。

地図の一番上側の新河岸川ぞいの氷川神社。

氷川神社の戌石。

氷川神社本殿。

本殿 天保13年(1840)江戸彫の社ですね。

八雲紋・・・・氷川神社の社紋ですよ。

氷川神社裏側 新河岸川。

桜並木 まだ開花に少し早いのか残念ですが・・。

氷川神社裏側に御神木の大ケヤキが二本。

樹齢600年幹回り4・64m・・・八の字に回れるパワースポットとか。


伊奈氏屋敷跡に行って来ました。

2024-03-20 09:14:26 | 城郭埼玉1

2024年3月19日(火)に埼玉の伊奈町にある伊奈氏の屋敷跡(伊奈城)に行って来ました・・・・家の近所にある遺構・・・・散歩道の一つで良く行くのですが、やはり冬場でないと虫が多いので。

河津桜でしょうか?、今咲き誇っていました、二の丸と主郭との土塁の切れ目に咲いていましたので・・・・これから一番遺構らしさが残る主郭と蔵屋敷の堀底道へ入ります・・・。

伊奈町の新幹線脇にある伊奈氏の屋敷跡・・・図の下側の原市沼側から散歩に来ます。

図を大きくして・・・下側は今は原市沼側・・・昔は原市沼・・・右側も湿地帯・・・左側の新幹線も原市沼とほぼ湿地帯に浮かぶ島が伊奈氏屋敷跡(以前はお寺・・岩付城の支城とか?)。

私は下側から二の丸跡にを上に突き当りが”桜”・・・蔵屋敷を囲む堀底道へ・・・・。

左側が陣屋跡の土塁の堀底道を進みますね、家の近所にこの雰囲気を残す遺構があるなんて・・・。

突き当たりますね、・・・・蔵屋敷跡。

土塁上が蔵屋敷跡。

此れから左側へ回り込みますね、大分堀が埋まっていますが、結構な土塁ですよ。

屈折した堀底を・・・・。

左が主郭の土塁、右が蔵屋敷側・・。

堀が終わり上がりますね、昔は虎口が在ったのでしょう?。

左側には土塁が・・・右側は斜め向こう側に土塁が続いていますね。

上がると主郭の搦め手側・・・正面右側の木々が搦め手の虎口(ニューシャトル丸山駅)。

右側です・・・左側は土塁が続きます。

左側は蔵屋敷側。

土塁の前側は解りずらいですが、空堀です。

此処は蔵屋敷の横側(東側・・湿地帯前ですが・・・・)低く削平されています。

東側の湿地帯に出てきました、左側へ進みますね。

東側の散策路・・・近年整備された所、前は新幹線。

整備された散策路・・・・桜の木が大きく成れば良いのですが・・・まだまだ。

搦め手側の出丸?・・・下の線は障子堀がある場所で発掘後埋め立てたのです、障子堀が後北条氏の物かわハッキリしていないみたいですね。

毎年この周辺は発掘が繰り返し行われています、この出丸?の脇まで堀が掘られているのは確実なのです、障子堀の堀に囲まれた搦め手側の虎口。

これも・・・出丸の上の一部を発掘中・・・説明会が在ったみたいですが私は行きそこなったので・・・。

此処は出丸と主郭の間の堀。

原市沼側(新幹線がわ)の左が主郭の土塁・・・・此処は土塁下の犬走か沼地か?、今は西側散策路。

散策路を進みます。

散策路を南側に入ります、頭殿権現社。

頭殿権現社・・・左側は原市沼右側は空堀で独立した区域ですね。

右側の空堀・・・・竹藪を切り払っていますね・・・・民家が素通しになりました。

頭殿権現社の後側の堀。

これは最初に戻り、二の丸横の主郭部分との堀。

同じ場所を進みます。

左二の丸の土塁、正面先は原市沼へ、右側が主郭部分の土塁。

二の丸と主郭部分の区分けの土塁・・・二の丸・蔵屋敷と続いている土塁なのです。

この後側が二の丸、土塁下此処は空堀跡なのでしょうね?、写真では解りずらいですが・・・。

表門側?から見た二の丸方面・・・後ろの木々の場所は土塁。

南側先端の原市沼側の横の湿地帯。

二の丸の土塁横の水堀(湿地帯・・・今は水が枯れたりしますが・・・昔は如何なのか?)。

この先が表門跡なのですが民家でこの堀が途絶えています、でも水堀らしく見えますから・・・・冬場でも良く見えず残念ですが・・・近くの散歩路で贅沢は言えませんが、如何です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


栃木の中久喜城に行って来ました。

2024-03-18 06:51:53 | 城郭栃木1

2024年3月14日(木)栃木の中久喜城に行って来ました・・・今日は茨城の下妻市から4か所も見て歩き結局2・5万歩も歩きました。

JR水戸線の小田林駅から県道264号を小山方面へ・・・・西仁連川を渡り・・・標識が出てきました、道が下がっていますね昔の城の堀の川跡でしょうね、西曲輪方面なのです。

西曲輪(住宅地)脇を突き当たりまで来ました、標識が・・・。

小山の守護 小山氏の居城の中久喜城の縄張り図 上の県道から来ました(曲輪Ⅱの中)、今曲輪Ⅲの堀の角、城は水戸線で分断されています。

久寿2年(1155)小山政光が築城・・・鎌倉以前からの古いお城になりますね、江川と西仁連川に挟まれた舌状台地の南端で結城方面の備えの城、その後小山義政は康暦2年から永徳2年(1380-83)反乱・・・鎌倉府の追討を受け断絶・・・同族の結城氏から養子を迎え再興とか色々ありましたが、慶長6年(1601)結城氏が越前へ転封となり廃城。

堀跡。

土塁と堀。

土塁もほんの少し・・・。

土塁城内・・・今は畑。

土塁の上に・・・社が。

土塁上から見た堀。

直線の土塁が・・・・。

土塁先はJR水戸線に分断されていますね。

水戸線の向こうに広がる曲輪Ⅰ(主郭)。

水戸線の踏切から見た・・・右側の木々の場所が土塁・・・この辺りは堀の上なのでしょうね、右側には曲輪Ⅲが広がっていたのでしょうか。

曲輪Ⅰの南側・・・左側は西仁連川と湿地帯なのでしょう・・・。

中久喜城の虎口。

虎口中に・・・枡形虎口みたい、突き当り右側へ・・。

虎口を上がると今来た踏切がむき出しで・・・・・この辺りは農地になっていたのでしょうね。

城内に上がる段差が・・・・・。

城内に入りました・・・・城内から今来た方向を見ます。

城内の向かい側・・・・・土塁が残っていますね・・・・城内も畑に使われていたみたいですね?。

土塁側まで来て・・向こう側のヤヤ右側から来ました・・・・・曲輪Ⅰの全景。

曲輪Ⅰの西側土塁から見た西側。

少し先から曲がった所の土塁下・・・・犬走(堀底道)?。

曲輪Ⅰの南南西部分・・・喰い違い土塁・・・??。

土塁が途絶えています?。

土塁上を進みますね。

そこそこの高さはありますね。

この土塁は水戸線で立ち分かれた土塁です。

土塁下左側に開けた場所もあります。

水戸線にぶつかりました。

水戸線が見えないので少しずれた先から・・・・先程の標識が在った場所ですね。

土塁の外側に入りますね。

直接畑側でなく、犬走みたいに・・・。

曲輪Ⅰの南南西がわ、虎口かどうか・・・・土塁が無い場所から外側に降りました。

西側は畑・イヤ田んぼ・・・奥左側は水戸線が・・・右側は土塁下の犬走見たいのが回り込んでいます?。

戻って、犬走(底堀道?)を回り込みますね。

犬走を戻ります・・・。

なおも、廻り込んで・・・・正面が踏切・・・左側横に切り込みが・・・?。

曲輪Ⅰの切り込み・・・・?。

切り込みから上がってみました?・・・・主郭部分の畑への登り口?・・・、はっきりわかりませんが古いお城なのでどうかな・・・・帰りは川沿いの方が近道なので曲輪Ⅲを突っ切たのですが、遺構らしきものは?。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


茨城の下妻市の関城に行って来ました。

2024-03-17 06:35:34 | 城郭茨城3

2024年3月14日(木)に茨城の下妻市の関城に行って来ました、騰波ノ江駅から歩きました。

下妻市界隈の図 左側の上が関城 騰波ノ江駅ー大宝駅(大宝城)とは密接な南朝方の関係でした、下妻神社・光明寺(下側)もあります。

関城と大宝城は大宝沼(明治時代まで存在)で繋がった南朝方の同盟国だったのです、康永2年/興国4年11月(1343)共に北朝方の攻撃の前に落城しました。

騰波ノ江駅から歩きました、高台が切れた向こう側に島みたいに見えるのが関城・・・此処が大宝沼なのですネ、近くに砂沼がありますが此れは人口の溜池、大宝沼は逆に用水の役目が低下、大正2-9年(1913-20)に干拓され水田になったのです、色々変わるものですね。

大宝城指定区域の看板が・・・・?、正面が関城、東・南(こちら側)・西の三方が大宝沼に囲まれ北側は台地続きなので防御が必要となりますね。

関城通り・・・・関城の台地を南北に通る路。

少し上ると関親子の墓の手前左側に広がるやや低地の広場・・・その先は大宝沼の岸辺・・・。

関城城主の墓 関宗裕・宗政。

関城の案内図・・・下側の図の通り(関城通り)から上に右側へ回り込み回り込んで真ん中にでて戻りました、左側は竹藪の中に入りましたが民家なので立入しませんでした・・・遺構がありそうですが?。

関城は鎌倉時代関氏が築城、南北朝時代小田城を追われた南朝方の重臣北畠親房がこの城に逃げ込んだので北朝方の攻撃に会い2年間にわた戦の末落城・・・親子は討ち死、北畠親房は神皇正統記をこの城で完成、吉野(南朝方)に脱出。

関宗裕・宗政親子の墓・・・隣が結城直朝の墓?。

ちなみに北朝方は高師冬・・・・足利尊氏は京都です。

土塁内側に入り見させて頂きました・・・。

もう少し奥に・・・。

此処が関城の主郭部分・・・奥の向こう側は大宝沼。

土塁外側の堀跡・・・・当時は水堀だったのでしょうね。

減から堀を回り込んでみますね・・・・。

もう少し・・・・人工的な遺構が見えるので・・・・正面奥の方は民家の為立ち入りしませんので・・・後程此処へ出てきます。

関城通り・・・右側の民家方面へは行かない、奥の木の辺りが土塁・空堀、少し先左側へ行きます。

この先に行きますね。

坑道跡・・・奥の木々がある場所は八幡神社の曲輪。

戦はなかなか攻められなかったので、関城の城内まで穴(坑道)を掘る計画を実行したみたいですね、結果的に失敗したみたいですが、その穴の一部が発見。

此処がそうです。

ジグザグに掘り進んだ穴。

大宝沼の東側・・・八幡神社の曲輪脇。

八幡さま。

八幡神社。

神社境内の曲輪跡。

神社前の通り。

右側は土塁跡・・・・この先に先程の空堀へ出ます、図ではこの土塁の向こう側が堀ですね・・・・これでもう少し外側を見て廻り戻りますね。

これは西側の竹藪中の一段低い広場?、左側が大宝沼側・・・正面奥が堀か?・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


下妻神社に行って来ました(大ケヤキ)。

2024-03-16 07:00:26 | 巨木巡礼関東

2024年3月14日(木)に茨城の下妻市の下妻神社に行って来ました、光明寺の大ケヤキを見てそのまま神社へ。

下妻神社は文明年間(15世紀後半)下妻城主多ケ谷家植が勧請、ムクロジの木・・・実が沢山落ちていました、木は空洞化。

日本のケヤキですが、手前が大分大きいですね、樹齢500年幹回り7・9m。

同じ場所から・・・・。

アップで・・・。

角度を変えて。

・・・・。

中々のケヤキですね。

此方が小さなほう・・・、大分細いです。

見比べます。

裏側が痛んでいます。

大きい方も痛んでいます、空洞化が進んでいるのでしょう?。

木そのものも大分斜めに傾いています、大嵐の時は如何なのでしょうかネ・・・これから下妻駅から騰波ノ江駅(とばのえ)まで行関城まで歩きますその後戻り、下館駅から水戸線の小田林駅へ中久喜城を散策しますね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


茨城の下妻市光明寺に行って来ました。

2024-03-15 11:16:51 | 巨木巡礼関東

2024年3月14日(木)に茨城の下妻市の光明寺に行って来ました、以前多賀谷城で見損なった巨木を見て回りました、序に城郭2か所併せて4か所2・5万歩結構疲れましたね。

以前は駅右側15番の多賀谷城を見たのですが、今回は6番の光明寺、次に11番の下妻神社の巨木を見ました。

二木山光明寺 親鸞聖人の法弟明空が開いたお寺。

これは親鸞聖人御手植えの菩提樹だそうです・・・樹齢700年。

寺前に巨木のケヤキ。

主幹が切り落とされていますが、樹齢500年幹回り4・6mの巨木。

中は空洞化が進んでいそうですが・・・・。

左側が傷ついています・・・・木の根元がお尻みたいでかわいらしく見えましたね、如何でしょうかネ?、後ろに見える建物は太鼓堂とか。

光明寺の本堂・・・右手はイチョウの巨木ですね。

光明寺本堂。

拝観していませんが。

銀杏です、樹齢300年幹回り6m。

主幹が折れたのでしょうか、痛んでいますね。

明空御手植えの柊・・樹齢700年以上・・今は立ち枯れの一部が残ったまま。

太鼓堂、此れから下妻神社へ向かいますね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


造海城に行って来ました(後編)。

2024-03-12 07:31:11 | 城郭千葉
2024年3月10日(日)に千葉県の富津市竹岡の造海(つくろうみ)城に行って来ました、今回は城内の主郭内です。

大手道から突き当り、右方面に進みました、左側(海側)下側に削平された堀状態が・・・・此処は土橋かな?、左右が切ってありますからね。

左側に降りて見ました、明らかに切り落としてありますね。

その下側(海側)には削平された曲輪が広がっていますね・・・雨水?が溜まっていました・・・・下る路が解らないので無理はしません(行かなかった)ね。

土橋に戻り上がりました、曲輪に出てきました。

山頂でしょうか、削平された、大きな曲輪。

海側の端から見た東京湾・・・三浦半島でしょうかネ、近くに見えますが、此処は里見氏の水軍の拠点ですからネ。

端から見た曲輪、まだ先に少し高く見える曲輪がありますね・・・。

曲輪脇から降り道が?、・・・汚れたロープが掛かっていました(よく見ないと気がたかない)。

曲輪脇に犬走?が。

曲輪の海側の城塁ですね。

道が荒れているので・・・・大丈夫そうなので注意して進みました。

振り返ります、大分崩壊していますネ。

上り道らしき?・・・崩れていますが。

先の曲輪方面への尾根道ですね。

曲輪の入り口に・・・。

曲輪内は藪のままです・・・・冬だから(山城は当然ですが)草が刈れているので良いのですよ。

曲輪中央に石の社がありました、此処が小さいですが、主郭・・・この先は竹岡港側への下り方面になりますが、此処で戻ります無理はいけませんからネ。

大手道の分岐まで引き返しました、左側(海)方面へ下ります、先程は写真左側へ上がって行きましたね。

少し横により、左側から下って来たのです、趣のある岩場に木の根が絡んでいますね・・・前の写真の場所、下側が荒れていて下るのが危なそうなので横に這います、結構な急坂。

先程はこの上側を進みました、今回は下側を進みますね。

在れていますが、階段ですね・・・。

石が奇麗に?・・・。

異様な光景ですが、多分石切り場の跡ですね?・・・・城の城壁ではありませんね・・・此処に城壁を作っても意味ありませんからネ?。

砂岩の岩を断ち切っているのが解りますか・・・。

折角ですから中に入りますね、鋸山の房州石は有名ですが、此処石は?・・・まあ、むき出しの状態だったので切り出したのでしょうかネ、下の切通のトンネルでもわかる石が取れる場所なのでしょうか。

まあ別の意味の遺産の一部なのでしょうね、城内の土の部分の木が倒れたり土が流れたりして危ない所が見えるので無理せず引き返しましたが面白いお城でした。