三郎兼続の日記

趣味の写真で山登り・旅行を主体にした日記
最近は山登りが少なく、城郭・巨木へ

現存12天守(丸亀城・伊予松山城・宇和島城・高知城)。

2020-05-29 13:03:10 | 城郭現存12天守
2020年5月29日(金)現存12天守の最終です、いよいよ(伊予)四国に渡ります、四国は名城が多数ありますね、戦災にも無事残りましたからね。

丸亀城 香川県丸亀市、渦郭式平山城、慶長2年(1597)讃岐17万石生駒親正が高松城を本城、丸亀城を支城に慶長7年(1602)から6年の歳月を費やしほぼ現在の城郭を完成、一国一城令で廃城(木々で隠し廃城しなかったとか)、反りを持った扇の勾配の石垣、山麓から山頂mで4段の石垣60m、三の丸は22mと大阪城33m、伊賀上野城30mに次ぐ高石垣です。

丸亀城天守 独立式層塔型3重3階、万治3年山崎家治5万石が現在の天守を完成、その後京極氏が入封。

丸亀城天守と高石垣 石垣で有名。

丸亀城 大手一の門・二の門から仰ぎ見る丸亀城天守・石垣。

伊予松山城 愛媛県松山市、連結式平山城、連立式層塔型3重3階地下1階、慶長7年(1602)加藤嘉明20万石が築城、勝山山頂に本丸、西南の山麓に二の丸の北・南には登り石垣が本丸まで・三の丸を構えた平山城、黒船来航の翌年安政元年(1854)松平勝善が再建(天明4年(1784)落雷で焼失)。

伊予松山城 本丸大天守、右側が筋鉄門(門上は渡廊下で右側の小天守へ、南隅櫓・北隅櫓と四角を多門櫓廊下で繋ぐ・・・本壇)。

伊予松山城 本丸から天守(本壇)を見る、左が南隅櫓・小天守・大天守・・・大天守前が一の門南隅櫓・二の門隅櫓。

伊予松山城 本丸搦め手側の乾門・乾門東続櫓・南隅櫓・小天守・・屏風折れの石垣。

伊予松山城 本丸石垣脇から乾門方面を見る、見事な高石垣の屛風折れ石垣が続きますね。

宇和島城 愛媛県宇和島市、梯郭式平山城、藤堂高虎による築城、昔は海に突き出た海城で堀の水は海水を引き込んでいます。

宇和島城 上記地図と角度が異なりますが上が海側。

宇和島城天守 独立式層塔型3重3階、寛文11(1671)伊達宗利が改修。

宇和島城天守 

宇和島城天守 二の丸への登り口より。

高知城 梯郭式平山城、慶長6年(1601)山内一豊が土佐一国24・2万石を得て築城、寛延2年(1749)現在の天守完成(享保12年(1727)火災で焼失)。

高知城天守 独立式望楼型4重5階。

高知城と本殿 両方現存。

高知城 追手門と天守・・・共に現存。

高知城 二の丸脇から、右側を回り込むと本殿には入り込む、此れで、現存12天守すべて見て回りましたね・・・。

現存12天守(彦根城・姫路城・備中松山城・松江城)。

2020-05-27 11:36:28 | 城郭現存12天守
2020年5月27日(水)現存12天守の彦根城・姫路城・松江城・・・は国宝ですね。

彦根城 滋賀県彦根市、井伊家18万石2代目藩主井伊直継が慶長8年(1603)築城、築城に辺り各地の城から移築。

彦根城天守 大津城天守4重5階を3重3階地下1階に縮小移築、複合式望楼型。

彦根城天守 裏側、付櫓が解りやすく見えますね、大津城は京極高次が関ケ原の戦いの折、西軍1・5万にかこまれ1週間後に落城した城です。

彦根城天秤櫓 これも長浜城からの移築ですね、左右の石垣は違う積み方で有名?、石垣も殆どは佐和山城からの移築。

姫路城 兵庫県姫路市、播磨52万石の池田輝政が慶長6年(1601)から8年の歳月をかけて大改修、西国の豊臣大名を抑える大城郭、元和4年(1618)千姫が本多忠刻に嫁いだ化粧櫓の西の丸で全容が完成、明治初期・昭和の大戦にも失われず・・・世界遺産です。

姫路城天守 乾小天守・西小天守・大天守、渦郭式平山城連立式望楼型5重6階地下1階。

姫路城天守 中央の西小天守と手前の石垣の間から天守に入る入口です、左から回り込むように、本丸、京極丸から見上げています。

姫路城天守 西の丸の虎口、菱の門上あたりから、本丸へは長い沢山の門を抜けないと入れません。

姫路城天守 西の丸千姫化粧櫓沿いを見ながらの天守。

姫路城三の丸菱の門。

備中松山城 岡山県高梁市、天和3年(1683)水谷勝宗5万石が改修、山麓の城下に御殿の連郭式山城。

備中松山城天守 複合式望楼型2重2階。

備中松山城 本丸から天守を見る。

備中松山城 大手門内側よりの天然の岩を利応した石垣。

備中松山城 天守裏側に残る2重2階の櫓・・・天然の岩と石垣の組み合わせが。

松江城 島根県松江市、輪郭連郭複合式平山城慶長16年(1611)隠岐・出雲24万石堀尾忠氏が築城、安永11年(1634)京極忠高が26万石で入封三の丸を造営し全容完成。

松江城 城郭をよりアップ。

松江城天守 複合式望楼型4重5階地下1階国宝。

松江城 裏側よりの天守。

松江城 内堀外からの天守を見る、此れで現存12天守の8城です、残り4城です。

現存12天守(弘前城・松本城・犬山城・丸岡城)。

2020-05-26 10:27:08 | 城郭現存12天守
2020年5g圧26日(火)今回は現存12天守を並べました、12城のうち、山城は1・・・備中松山城、平城は1・・・松本城、他は・・・平山城(定義が・・平野の中にある山・丘陵地に築城)・・・当然微妙な位置づけのお城もありますが、国宝5重要文化財7(5国7重)の12城。

弘前城 青森県弘前市、天正18年(1590)大浦為信が豊臣秀吉から4・5万石の領地を得る(大浦=>南部に改名)、慶長5年(1600)関ケ原の戦いで東軍につき徳川家康より加増4・7万石となり弘前藩、慶長16年(1611)2代目南部信枚の時弘前城完成、寛永4年(1627)弘前城天守に落雷5重の天守は炎上・・・地下の爆薬庫が爆発(落雷での天守炎上は約14城・・盛岡城、大阪城・・)、約200年間天守は無かった、文化8年(1811)現在の天守が建つ、梯郭式平山城(本丸。二の丸・三の丸・・6郭)。

弘前城天守 現在、石垣修理で曳家工法で移動中、従来は堀の向こう側から見た位置、千鳥破風の見栄えの良い形です、独立式層塔型3重3階。

弘前城天守 此方が普段は本丸城内側から見える御城です・・・破風の飾りが無いシンプルな建物です。

弘前城三の丸大手門。

松本城 長野県松本市、国宝、低格式+輪郭式平城(本丸、二の丸、本丸を囲む形で三の丸)、平城ですから大きな水堀で囲こんでいます。

松本城天守 複合連結式層塔型5重6階、寛永10年(1633)松平氏の時の築城。

松本城天守、左側から戌亥小天守・大天守・辰巳付櫓・月見櫓。

松本城本丸の一の門、大手門ですね、奥に大天守が見えますね。

犬山城 愛知県犬山市、城の背後が木曽川です、川に突き出す位置に立つ、元和3年(1617)尾張藩附け家老成瀬正成改修の城(国宝)、戦国期の三人にかかわる城です、永禄7年(1567)に織田信長、天正12年(1584)に豊臣秀吉、慶長5年(1600)には徳川家康にそれぞれ落とされましたね。

犬山城本丸より、複合式望楼型3重4階地下2階、手前は付け櫓。

犬山城天守 少し離れた場所より。

犬山城天守 左側に木曽川です、ちなみに、豊臣秀吉はこの川ら方面から攻め込んだ双ですね・・・奇襲作戦ですね、小さな城ですが以前は成瀬家個人の所有でお殿様が里帰りすると家臣が出迎えたとか。

犬山城本丸鉄門です、立派な櫓門です。

丸岡城 福井県坂井市、連郭式平山城、築城は柴田勝豊(柴田勝家の甥)、現天守は寛永年間(1624-1644)福井藩付け家老、本多成重丸岡藩5万石が改修、現在は本丸の丘の上に建つ天守。

丸岡城天守 独立式望楼型2重3階。

丸岡城天守 今後下の水堀を復活とか・・・木に囲まれた丘の上に・・・写真が撮りづらいお城ですね。



城郭の縄張り図と本丸跡6.

2020-05-23 10:22:40 | 城郭縄張図

2020年5月23日(土)武蔵の国周辺の城郭を並べます。

花園城本丸 埼玉県寄居市、藤田氏の居城、山内上杉氏に属したが小田原北条氏の勢力が強まり北条氏邦を娘婿に迎える・・・・後に天神山城へ移る。

花園城堀切 尾根筋に堀切で分割、遺構ははっきりしている、荒川を挟み鉢形城は目の前。

杉山城 埼玉県嵐山町、比企城館跡群のひとつ(菅谷館(嵐山町)松山城(吉見町)小倉城(小川町))、山内上杉時代か北条時代か不明点が多いが?、ち密な縄張りの山城どして有名。

杉山城本丸 

杉山城 本丸を仰ぎ見る、山城の縄張りの教科書と言われる本丸を囲む各郭。

小倉城 埼玉県小川町、城主は後北条の遠山光影か?松山城上田氏か?、山全体が岩山で石垣(石積)が見られる。

小倉城本丸

菅谷館 鎌倉幕府御家人の畠山重忠の館、長亨2年(1488)山内上杉と扇谷上杉が激戦を繰り広げた(須賀谷原の戦)、その後山内顕定の命で太田資康が扇谷上杉の拠点河越城の抑えとして改修、以後山内上杉の城となる。

菅谷館本丸土塁 川と湿地帯が防御。

小山城 栃木県小山市、小山氏の居城、久安4年(1148)小山政先築城、思川脇の台地を堀で分割、天正4年(1576)小山秀綱が北条氏に降伏開城、北条氏の北関東攻略の拠点。

小川城本丸と二の丸の堀。

西方城 栃木県西方町、西方氏の居城、永正12年(1515)宇都宮忠綱が皆川宗成に敗れ、西方城も皆川氏の手の落ちる、天正13年(1585)宇都宮国綱の時皆川広照を破り取り戻す。

西方城本丸 西方城を見ると確りした縄張り(本丸を中心とし尾根を利用した東西南北の曲輪)で堅固な防御にと見ましたが・・・守る碑威力がどのくらい配置できたのかな??。

皆川城 栃木県栃木市、皆川氏の居城、皆川氏は戦国期に入ると北の鹿沼を攻略した宇都宮氏から圧力を受け、従属と離反を繰り返す、天正18年(1590)小田原征伐では皆川広照は北条氏に与し小田原城籠城、広照は小田原城を脱出し徳川家康の陣に駆け込み、豊臣秀吉に所領安堵を食える。

皆川城本丸 その後栃木城城を築城移る。

皆川城の西の丸 下の竪堀。

太田金山城 群馬県太田市、金山235mの山頂から尾根筋にかけた、石垣が多数使用された珍しい城、新田一族の岩松家純が文明元年(1469)築城、享保元年(1528)由良氏が改修、天正12年(1584)には北条氏の城となる。

太田金山城本丸

太田金山城大手門筋の石垣。

桐生城 群馬県桐生市、桐生氏の居城、戦国期北条・上杉氏らに従いつつ太田金山城の由良氏と抗争、永禄3年(1560)桐生助綱は上杉謙信に従い小田原討伐に参戦、元亀元年(1573)家中の乱れに乗じられて大田金山城の由良成繁に攻められ、城主桐生親綱は佐野へ逃亡、天正2年(1574)には由良成重のものとなる。

桐生城本丸 城郭縄張り図は取り合えず終わりです、此れから現存天守12城をまとめます。
















城郭の縄張り図と本丸跡5.

2020-05-21 07:09:02 | 城郭縄張図

2020年5月21日(木)今回はほぼ武蔵の国、北条氏関連、城郭、縄張り図と本丸跡5。

腰越城 埼玉県小川町、武州松山城の支城、槻川に突き出し三方が川で要害の地の尾根筋の山城、松山城城主上田直朝の重臣山田直定の居城、戦闘記録はないが武州松山城と共に落城か?。

天文年間(1532-1555)・・・上田氏・・都幾川の小倉城ど同一時期の上田氏関連の城?、遺構は良好で分かりやすいですね。

松井田城水の手 群馬県安中市、永禄初年(1560頃)築城?もしくは武田信玄対抗での改修の安中氏の居城、交通の要所で碓氷道東山道中山道が通る、碓氷峠の備え口ともなる。

松井田城本丸 永禄7年(1564)武田信玄侵攻で開城、武田・織田(滝川一益・・)と城主がかわる、天正10年(1582)織田信長脂肪で北条氏直が進行北条へ・・・大道寺政繁が城代、天正17年(1589)小田原征伐では北国軍(前田利家・上杉景勝・真田昌幸ら)が碓氷峠側から総攻撃、よく耐えたが寡兵の為、約1カ月の籠城戦で降伏。

浄福寺城 東京都八王子市、大石氏の居城、八王子城の支城だが、北条氏照此処にいた説も?。永禄10年(1567)滝山城を築城移るとも・・高月城・滝山城。

浄福寺城本丸 滝山城に比べると遥かに小さいが、尾根を切り裂いた厳しい防御が現在にも残っていますね。

滝山城 東京都八王子市、大永元年(1521)築城、山内上杉氏の重臣で武蔵の国守護代大石定重・定久氏の居城、後に北条氏照の居城、多摩川と秋川の合流点の岸壁の丘陵に広がる。

滝山城本丸 天正15年(1546)北条氏康が河越の夜戦で扇谷上杉を滅ぼし、山内家杉の勢力を武蔵の国から排除、大石定久は氏康の三男氏照を娘婿に・・・寄居の鉢形城藤田氏も同様に氏邦を娘婿に・・・青梅の三田氏は敵対し滅亡となりましたね。

滝山城本丸と中の丸に架かる木橋 永禄12年(1569)小田原攻撃に向かう武田信玄2万が拝島より別動隊小山田信茂隊1千が小仏峠より攻撃、滝山城は三の丸まで攻め込まれ落城寸前に追い込まれたが守兵2千で持ちこたえた、が防御体制の不十分として八王子城築城へ。

八王子城 東京都八王子市、北条氏照の居城、天正15年(1587)深沢山445m比高240mに築城、要害地区(山上)・居住地区・城下地区と分けた中世・近世混ざった城郭を構築、まだ未完とも・・・・ただ広大な城郭を守る守備兵が少ないとかんじるが。

八王子城御殿 居住地区、天正18年(1590)小田原征伐の北国軍(前田利家ら・・・3・5万+降伏軍1・5万対城内守備兵+農民・婦女子約3千)の戦い。

八王子城本丸 激戦は丸1日続くが落城、・・・・北条方の支城でのほぼ最後の戦いですね、行田の忍城のみが落城せずに残りましたが・・・・北国軍では無く石田三成軍ですが。

瀧の城 埼玉県所沢市、柳瀬川の岸辺台地、関東管領上杉の家臣武蔵の国守護代大石氏の滝山城の支城、後に北条の北関東進出の軍勢集結の拠点。

瀧の城本丸 むさしの線脇の台地ですが、遺構が良くわかりますね。

津久井城 神奈川県相模原市、城主は内藤氏(津久井宗)、武田軍に対抗する北条方の最前線の城、敵半地とか・・・半分は武田とも深い関わりがある兵が混在(上野原・小山田(都留))。

津久井城本丸 下の根小屋地区の詰めの城か?、永禄12年(1569)武田信玄が小田原攻撃の帰りの三増峠の戦いでは城兵は参加できずとか。

鉢形城 埼玉県寄居市、文明8年(1476)関東管領山内上杉の家臣長尾景春が築城、その後北条氏邦が改修した城、荒川に合流する深沢川が谷を刻み、荒川の断崖絶壁の天然の要塞、後に豊臣軍に包囲されるが、大砲が使用されるまで籠城戦に耐えました、北条氏邦時代は上野への侵攻の拠点、甲斐・信濃からの侵攻への備えで重要な役割を持った城郭。。

鉢形城本丸 山内上杉の家宰長尾景春は君主上杉顕定より疎んじられ家宰を継げず、乱を起こす、結局、扇谷上杉氏の家宰の太田道灌の力を借りて鉢形城を攻撃、山内上杉顕定が入城、その後上杉家の内紛抗争が続く、天正15年(1546)北条氏康の河越夜戦で武蔵の国の実験は北条氏のものとなる、扇谷上杉滅亡・古河公方・山内上杉は力が衰える。

鉢形城二の丸の空堀 永禄7年(1564)土地の豪族、藤田康国の娘婿となった、北条氏康四男氏邦が鉢形城へ入る、氏照と同一パータンで勢力拡大、永禄12年(1569)武田信玄が天正2年(1574)には上杉謙信が攻撃するが落とせず、天正18年(1590)豊臣軍の北国軍(前田利家・上杉景勝ら)3・5万対北条氏邦は3千で対峙やく1ケ月の籠城戦後開城・・・この助命開城に秀吉が怒り・・・八王子城の力攻め攻撃での壊滅戦になたとか?。

竜ケ谷城 埼玉県秩父市、鉢形城の支城で久長氏の居城、千馬山山頂の山城330m比高130m。

龍ケ谷城本丸 永禄12年(1567)武田信玄の侵入をいち早く察知し撃退。

龍ケ谷城二重堀切 北条氏滅亡後、城主久長但馬守は上杉景勝に仕えたとか、これで関東に覇
をとなえた北条氏関連の城郭を終えます。






城郭の縄張り図と本丸跡4。

2020-05-19 09:57:31 | 城郭縄張図

2020年5月19日(火)関東周辺の北条関連の城郭の1。

興国寺城 静岡県沼津市、愛宕山南峰の傾斜地の浸食谷と湿地帯に囲まれた要害地、沼津は戦国期今川・武田・北条らによる争奪の地になりました(天文5年(1536)-天正10年(1582))、長亨元年(1487)伊勢盛時(後の北条早雲)が今川家の家督相続で活躍しこの興国寺城を得た(?)、その後伊豆堀越公方を滅ぼし伊豆韮山へ出る足掛かりとなった拠点の城。

興国寺城本丸

興国寺城本丸から見た本丸の土塁。

韮山城 静岡県伊豆、伊勢盛時(北条早雲)の関東進出の拠点、解りずらいですが城は右側の意外と狭い所ですね、重要拠点で北条氏康の四男氏規がその後城主、元亀元年(1570)武田信玄の駿河侵攻に対しても守り切った、

韮山城本丸 天正18年(1590)小田原征伐時、豊臣軍織田信勝約5万に対し3600の兵での籠城、約100日持ちこたえ、徳川家康の説得で開城・・・氏規はなかなかの名将ですね、戦後城は廃城。

深大寺城 東京都調布市、南の野川を水堀に西方を覗く三方が湿地帯、西方は空堀を三段に供えた、大永4年(1524)江戸城を北条氏綱に攻略された扇谷上杉朝興が巻き返しに使用した城、天文6年(1537)朝興の子朝定は難波田広宗(武州松山城での守将)に命じ城を改修(現在の遺構)。

深大寺城本丸 北条氏綱は迂回し直接河越城を攻撃、扇谷上杉朝定は武州松山城へ落ち延びる、深大寺城は軍事的価値失った。

河村城 神奈川県山北町、河村氏の居城、戦国期は後北条の支城。

河村城本丸 元亀・天正(1570-1573)甲斐武田信玄の侵攻があり改修。

小机城 神奈川県横浜、文明10年(1478)長尾景春の乱(山内上杉の家宰長尾景春・・当時鉢形城主が相続問題で主君に反乱)が発生、景春に味方した豊嶋氏がこの小机城に立てこもる、敵方の太田道灌(この時詠んだ句・・戦のイロハ・・)が攻撃し2ケ月で落城。

小机城本丸 その後北条氏綱の時に改修、本丸・二の丸がいずれかはっきりしていないとか。

三輪城 東京都町田氏、北条氏の支城。

三輪城本丸 私有地内で良好な遺構。

下田城 静岡県伊豆下田、天正16年(1588)北条氏直築城、北条氏の水軍の拠点。

豊臣秀吉軍長曾我部元親・九鬼嘉隆・脇坂安治・加藤嘉明ら一万の水軍対清水康英600、約50日の籠城御開城。

山中城 静岡県三島市、永禄年間(1558-1570)北条氏康が西の防衛拠点として築城、対豊臣との防衛強化を行うが未完で対戦、天正18年(1590)小田原征伐で豊臣秀次率いる7万と守将北条氏勝・松田康長3000が激突、猛烈な力攻めの結果、わずか半日で落城・・・戦力差いかに。

山中城本丸。

山中城本丸より二の丸方面。

山中城障子堀 北条関連の城郭はまだまだ続きますよ、次回へ。






城郭の縄張り図と本丸跡3

2020-05-18 16:16:55 | 城郭縄張図

2020年5月18日(月)今回は甲斐武田とかかわった城郭をならべました。

要害山城 山梨県甲府市、躑躅が崎館武田氏の居城(現武田神社)後方の丸山770mの中腹の傾斜地に築かれた中世城郭の詰めの城、永正17年(1520)武田信虎築城、慶長5年(1600)廃城。

要害山城本丸・・・甲府側のみ土塁が見られますね、本丸の先の尾根筋にも奇麗な防御の遺構があります、武田晴信(信玄)が産まれたお城。

新府城 山梨県韮崎市、天正9年(1581)築城、武田勝頼が躑躅が崎館より移城、織田・徳川連合軍に攻められ、人心が離れ、わずか数か月にて城に火をかけました、真田昌幸縄張りとか?、勝頼の落ち行く先も、真田昌幸の岩櫃城と小山田信茂の岩殿城に分かれましたが、岩殿城を選択、裏切られ、武田家滅亡となりました。

新府城本丸 西側に釜無川七里が岩の浸食崖、東側に塩川のお城ですが戦わず・・・。

勝山城 山梨県都留市、小山田信茂の詰めの城(岩殿城も同じ詰めの城)、二の丸横虎口から本丸を仰ぐ、小山田信茂は武田勝頼より途中で離反するが許されず小山田氏も滅亡。

勝山城本丸 豊臣期に改修、江戸初期幕府の治めることとなり廃城。

岩櫃城 群馬県、奇岩の岩櫃山802mの山城、永禄6年(1563)武田信玄は上州侵略の為家臣真田幸隆に岩櫃城攻略を命じた時の城主我妻氏、以後真田幸隆・昌幸。信幸、元和元年(1615)1国1城令で廃城。

岩櫃城本丸 天正10年(1582)武田勝頼が新府城より落ち行く先として、昌幸が挙げた城。

名胡桃城 群馬県、天正7年(1579)武田勝頼の命で真田昌幸が信濃から吾妻・利根に侵攻沼田城を攻略する前進基地として名胡桃城を築城、天正10年(1582)武田氏滅亡、織田信長本能寺の変で倒れ、北条・徳川が進出。

名胡桃城本丸 豊臣秀吉の関東奥惣無事令(天正17年(1589))発令、この時北条の沼田城から名胡桃城攻略が行われ、小田原征伐の口実となった城。

真田氏管轄の城と中山城との位置図、沼田城・岩櫃城・名胡桃城の楔の位置がこの中山城で攻略に必要。

中山城 群馬県中山、永禄・天正年間(1558-1592)にこの地は真田・上杉・北条が拮抗し争う、天正10年(1582)北条方のものになり、北条氏邦(鉢形城主)が改修。

中山城本丸 北条方の境目の城の役割。

磯部城 群馬県安中市、永禄4年(1561)、武田信玄が上州攻略拠点?として改修。

磯部城本丸

上州根古屋城 群馬県高崎、永禄11年(1569)武田信玄築城、箕輪城を攻略し、上杉謙信・北条氏康に対する境目の城・牽制の役目の城。

上州根古屋城本丸 戦には一度も使用されないとか、城主は佐久の望月氏(真田ゆかり?)。

箕輪城 群馬県高崎市、関東管領山内上杉の家臣、名君長野業政の居城、ここ西上州は甲斐の武田・越後の上杉・相模の北条の三つ巴の戦場の舞台となるが、永禄9年(1566)、業政が死亡し、17歳の業盛にて落城・・・信玄が業政の死を聞いて喜んだとか。

箕輪城本丸 深い空堀に囲まれた名城、慶長3年(1598)高崎城へ移城、廃城。

箕輪城に伝わる、詠み人ひらずの歌・・・激戦が、長野業盛の辞世の句
 春風にうめもさくらもちりはてて
 名のみぞ残る箕輪の山里。

金鑚御嶽城 埼玉県神川町、金鑚神社背後の御岳山343mに築かれた城、天文21年(1552)山内上杉方安保氏は北条氏康に攻められ降伏、元亀元年(1570)北条対立し武田軍が攻略、翌年甲相同盟が成立し、北条へ返還・・・武田信玄上洛前です。

金鑚御嶽城本丸。

金鑚御嶽城 金鑚神社と関係が修験者祈祷所が山頂に。

岩村城 岐阜県恵那市、中世の山城、江戸期は岩村藩、城山717mに本丸、最も高い、日本三大山城、織田・徳川・武田の抗争地区、遠山家の居城、元亀3年(1572)武田信玄は大軍を率いて遠江の徳川家康を攻撃、武田方は秋山虎繁に岩村城攻略を命じる、岩村城包囲により条件で助命開城・・・前年死亡の遠山景任の妻(女城主おつや・・織田信長の叔母)を妻に迎える、天正3年(1575)長篠の戦で武田勝頼敗北後、信長は織田信忠を総大将に攻撃籠城5ケ月で陥落開城、助命を約束しながら、夫婦を長良川川敷で逆さ磔で処刑。

岩村城本丸

岩村城本丸の六段石垣。

高天神城 静岡県掛川市、海抜132mながら堅固な山城、山が急斜面で登り口の無い中世の山城、戦国末期武田勝頼・徳川家康との激戦の城、今川氏の支城、永禄3年(1560)桶狭間の戦いで今川義元が討死、永禄12年(1569)武田信玄・徳川家康駿河に侵攻今川氏滅亡、天正2年(1574)武田勝頼高天神城を攻撃奪う、天正3年(1575)長篠の戦で武田軍敗れる、天正8年(1580)徳川軍の攻撃、翌年援軍なしで陥落(援軍を送れなかった勝頼の声望が致命的に低下・・・滅亡を速めた、籠城戦長期化は織田信長の戦略とカ。

高天神城本丸 両サイドの丘に本丸・二の丸が別々に存在。

高天神城井戸曲輪 二つの丘を繋ぐ中央に井戸郭。

高天神城二の丸 二つの本丸・・・しかし、織田信長は緩急をつけた戦ですね、此れで武田関連の城は終わり・・・ヤハリ関東は上杉・御北条の城ですね。








城郭の縄張り図と本丸跡2

2020-05-17 09:51:01 | 城郭縄張図

2020年5月17日(日)訪問した城郭の縄張り図を中心に本丸を説明、上杉謙信との関連があるお城を並べました。

春日山城 新潟県上越市 古い縄張り図、春日山の長尾氏(越後守護代)の居城、天然の要害を利用した難攻不落とされました。

春日山城縄張り図、中世城郭ですね、本丸裏側には井戸曲輪もあります。

春日山城本丸、長尾為景・晴景・景虎(上杉謙信)・上杉景勝四代です、謙信は天文17年(1548)-天正6年(1578)の無くなるまで過ごしました、戦国期を走り抜けたのです。

七尾城 石川県七尾市です、七尾湾を一望に見渡せる山城です、石動山山系の七つの尾根の松尾に築いた能登の守護畠山氏の居城。

七尾城本丸 天正4年(1576)上杉謙信は能登の国(石川県)に侵攻、城は1年間の籠城戦に耐えたが家臣重臣同士の対立で孤立開城(織田軍の援軍が途中)、漢詩9月13夜陣中の作は有名ですね、・・・霜は軍営に満ちて、秋気きよし、数行の過雁・・・・。

七尾城本丸の石垣です・・・後に前田利家が入るが、天正17年(1589)廃城、上杉謙信は翌年に死にますね。

白井城 群馬県渋川市です、利根川と吾妻川の合流地点に突き出した舌状台地(中世城郭の理想的条件)に作られた白井長尾氏の居城、主君山内上杉氏が越後に逃れると上杉謙信の勢力下にはいる。

白井城本丸、永禄年間に入ると甲斐武田信玄が西上野侵攻、真田幸隆・信綱により永禄3年(1576)落城、以後目まぐるしく城主が変わるが元和元年(1623)廃城。

唐沢山 栃木県佐野市 藤原秀郷を祖とする、佐野氏の居城、戦国期当初は上杉方の勢力下北条氏政3・5万の兵に攻められるが上杉謙信の援軍で耐える、後に上杉方と対抗、10度にわたる上杉謙信との戦いにたえた、関東の名城とうたわれた。

唐沢山本丸、関東では珍しい本丸石垣の城、天正15年北条方へ、天正18年(1590)豊臣秀吉方へ、慶長5年(1600)関ケ原の戦いでは徳川家康に着き3・5万石の佐野藩となる、慶長7年(1602)佐野城へ移城、廃城となる、現在唐沢山神社。

飯山城 長野県飯山市、千曲川、縄張り図上と斑尾山地に挟まれた越後・信州の軍事交通の要地、上杉謙信の属城。

飯山城本丸 永禄7年(1564)武田信玄の侵攻に備え、信濃出陣の拠点として改修、なお城下には寺町(沢山のお寺)が街道脇山腹にならぶ・・・出陣時の宿泊施設。

武州松山城 松山城の名前は幾つかありますね、埼玉県吉見町、応永6年(1399)上田友直(扇谷上杉家臣)が、対山内上杉・古河公方様に築城、後に後北条との戦いに移る、天文6年(1537)河越城が北条氏綱にせめられ落城、松山城は時の城主難波田憲重らの活躍で撃退・・・・河越城から落ち延びた上杉朝定の居城となるが、天文14年(1545)河越野戦で敗れ扇谷上杉は滅亡・・・北条方へ、永禄4年(1561)上杉謙信の力で取り返すが、永禄6年(1563)北条氏康・武田信玄連合軍が攻撃、籠城戦の末上杉謙信援軍(埼玉県北本まで来たが)を目前に開城・・・・謙信は頭にきて近場の北条方の城に火をかけたとか。

武州松山城本丸 市野川を天然の堀に幾多の戦場になった城。

武州松山城空堀・・・各曲輪は深い空堀で構成されたお城、やはり関東は武田氏・北条氏とのかかわり深い城が多数で、それ以前の山内上杉・扇谷上杉・古河公方関連のお城はその後永禄・元亀・天正の戦いに飲み込まれ城郭も改修されましたからね。



城郭の縄張り図と本丸跡1。

2020-05-15 09:56:20 | 城郭縄張図

2020年5月15日(金)、訪問した城郭の整理1、縄張り図を中心に説明、関連の高いものを並べながら。

観音寺城本丸・・・縄張り図がありません?、滋賀県近江八幡市安土町の繖(きぬがさ)山の山城432m、近江源氏の佐々木六角の居城、応仁の乱以後たびたびの戦乱がありましたね。

有名な観音寺城石垣です・・・各仕切り壁見たいな使用でその後の石垣とは違うようですね?、戦国期六角義賢・義治の頃、浅井長政に敗れ衰退、永禄11年(1568)織田信長が足利義昭を擁して上洛、此れに敵対しましたが、敗れて開城・・一時織田軍が使用・・・石垣文化を安土城で信長が実現した下地かな。

小谷城の縄張り図です、小谷山495mの尾根上に築かれた山城、浅井氏三代の居城、朝倉義景・浅井長政連合と織田信長との元亀・天正の4年間にわたる死闘の舞台です、強固な防御ですね。

小谷城本丸です、天正元年(1573)この上側にある京極丸側(父・・久政)に羽柴秀吉が奇襲翌日落城、天正元年・・まず、朝倉氏の一乗谷を攻め落城、その後この小谷城と攻めたのです、織田信長は元亀元年(1570)の姉川の戦いから4年の歳月を費やし人を勧誘離反しじわじわこれを攻めたのです。

福井県福井(越前)朝倉氏の一乗谷城です、左下が朝倉氏の居城城下と詰め城(右下)です、結局山城は補強したのですが、織田信長軍との戦いでは使用されず落城したみたいですね。

一乗谷城・・一乗谷山473mに築かれた朝倉氏の中世山城、本丸(千畳敷)416m・一の丸・二の丸・三の丸473mと連続の曲輪の防御です。

一乗谷城本丸です、上の図の左側です、朝倉義景は戦わず逃亡しましたね(一族までが離反し戦えなかったのですね)。

滋賀県近江八幡市安土周辺です、上が琵琶湖で安土城、安土城下が観音寺城です、同じ町内で近いのですよ、山は違いますが(安土山・繖山)。

安土城の縄張り図です、左側にそう見寺が作られたのです、下側から直線的な城内への階段、防御性には問題がある山城とのことです(多分力を見せつける事が必要と他の山城から学んだのでしょうかネ)。

安土城は天正4年(1576)-天正7年(1579)完成の天主、5重6階地下1階、日本の城郭の歴史では初めての総石垣造りの近世の城郭の始まりなのです。

安土城本丸天主跡、天正10年(1582)本能寺の変で織田信長が無くなり、天正13年(1585)完全に廃城。

佐和山城・・・小谷城の支城の一つ、佐和山232mの山城、後に石田三成の居城です、三成に過ぎたものが二つ、島左近と佐和山の城。

佐和山城本丸です、井伊家が彦根城築城に当たり破城、徳川政権では逆賊ですからね。

佐和山城本丸の石垣ですが、破城の為、現在石垣が2個のみ残存、小谷城の石垣も、秀吉が長浜城築城の為持ち去っていますね。

大聖寺城の縄張り図・・石川県加賀市、戦国期最初はは一向一揆の拠点、慶長3年(1598)小早川秀秋の家臣山口宗永が6・3万石での居城、慶長5年(1600)関ケ原の戦いに西軍で参戦、東軍の前田利長に攻められ落城、秀秋は東軍に寝が入りましたからね。

大聖寺城本丸、山口宗永の墓あり。

大聖寺城の本丸・二の丸の間に馬洗い池。

岩手県二戸にある、九戸城縄張り図、三方を川に囲まれた天然の要塞、九戸政実の居城、豊臣秀吉の奥州仕置きで反乱軍どして戦う、天正19年豊臣秀次6万のへいに囲まれた図、九戸政実と南部信長と家督争いで対立・・・秀吉軍の介入となる。

九戸城本丸、戦いは籠城戦となるが除名を約束に開城するが、約束は守られず城兵女子供共撫で斬りに有ったとも。

九戸城本丸石垣・・・・蒲生氏郷が改修したものとか。

舘山城縄張り図・・山形県米沢市、伊達氏の居城、天正12年(1584)伊達輝宗が使用、伊達政宗誕生の城。

舘山城二の曲輪から本丸への虎口。

相馬中村城本丸・・・福島県相馬市相馬氏の居城、永禄6年(1515)相馬隆胤は伊達氏との抗争。

慶長16年(1611)相馬利胤が近世城郭に改修。

烏山城の縄張り図・・栃木県那須、那須氏の居城、佐竹氏との抗争耐える。

烏山城本丸虎口大手門石垣、奥が本丸・その奥が旧本丸。

大田原城の縄張り図・・・栃木県大田原・・大田原氏の居城、天文12年(1543)改修。

大田原城本丸 三の丸は戊辰戦争で旧幕軍の攻撃を受け炎上。

備中松山城縄張り図 岡山県高梁市 現存12天守の一つ、臥牛山487mに繋がる小松山430mに築城、戦国期は三村氏の居城・・天正2年(1574)三村元親は毛利家より離反・・織田信長に着くが小早川隆景に攻められ落城、天和元年(1681)水谷勝隆5万石が入封これにより現在の形に改修。

備中松山城大手門脇から見た、後方のそそり立つ巨岩とその上にある厩曲輪の石垣、凄いですよね。









神社仏閣と巨木

2020-05-12 11:12:40 | 巨木

2020年5月12日(火)巨木の写真整理、巨木を撮りに神社・仏閣に訪れますが、建物と巨木を一緒に撮る機会はあまりありませんね・・・建物の前方に巨木があるとは限りませんからね意外と少ないので整理して驚きました、此れからは少し考えて被写体を考えて見ますね。
埼玉県岩殿の正法寺観音堂のイチョウです、樹齢700年根廻11m、多分株たちなのでしょう(巨木?)。

神奈川県茅ケ崎の鶴嶺八幡宮です、神木のイチョウが脇にあり収まっていますね、樹齢950年幹回り9mの巨木。

神奈川県小田原の勝福寺のイチョウ、樹齢700年幹回り7・5m、イチョウは黄葉か葉無しの時期でないと枝が解らないので。

この木は・・・・平成22年3月10日に倒木した、鎌倉八幡宮の大イチョウです、樹齢1000年幹回り9m、残面ですが。

千葉県の千葉寺(正確にはセンヨウジ)の大イチョウです、本殿は右側で写っていませんが後のお堂があるので取り上げました、樹齢1300年幹回り7m。

静岡県伊東の八幡宮来宮神社です、趣のある参道の奥にある大杉です、樹齢1000年幹回り5・7m。

テレビでもおなじみの日本一の巨木鹿児島姶良の蒲生八幡宮の大クスノキです、樹齢1500年幹回り24m、この日は大雨で傘を差しながらの写真でした。

山梨県の軍刀利神社の奥の院、桂の巨木、樹齢300年幹回り9m。

東京大井町の光福寺の大イチョウ、樹齢800年幹回り6・4m・・・・麻布の善福寺の大イチョウ(此れも戦災に焼けながらも今も頑張っています)の一枝を挿し木したものとか。

群馬県渋川の早尾神社の大ケヤキ、こちら側は大分傷ついていますね、樹齢1000年幹回り7・3m。

長野県白馬村の諏訪神社の大杉、樹齢1000年、幹回り10m、白馬スキー場の入り口です。

埼玉県秩父の清雲寺のヒダレザクラ、此処は30本ぐらいのヒダレザクラがあります、1本は樹齢600年。

静岡健の若宮八幡宮の大クスノキ、樹齢1000年幹回り10m、落雷で幹が削られていますが元気ですね、あの徳川家康が駿府で隠居中に木陰で休んだとの話が残っているそうです。

愛媛県の大山祇神社の大クスノキ、神社が良く見えませんが特に上げました、樹齢2800年幹回り11m、小千命(おちのみこと)御手植え、樹齢2600年幹回り11m。

群馬県塩原の塩原八幡宮の大杉(逆さ杉)、樹齢1500年11・5m。

千葉県府馬の宇賀神社の大クスノキ(実際はタブノキとか?)、樹齢1300-1500年幹回り12m。

栃木県の野木神社の大イチョウ、樹齢1200年幹回り9・7m、巨木は沢山ありますが、神社お寺が含まれた巨木は余りありませんでしたね、如何でしたかネ、夏場は巨木・山城は散策に向かないし山も大変になるので今のうちに体力をつけないと?。