2021年に訪問した城郭の一部をまとめました、お正月ですが良かったら見てやってください。
コロナ禍にも関わらず結構見て回りましたネ。
滋賀県近江八幡市にある八幡山城。
豊臣秀次が天正13年(1585)43万石の近江の領主として築城、山麓にも居住の館跡が在ります。
兵庫県丹波市の山城(356m)にある黒井城・・・訪問後熊の出没が報道されていましたね。
別名保月城、明智光秀の丹波攻略に立ち塞がった、赤井直正のお城。
京都府福知山市にある明智光秀築城福知山城。
電車から撮影した、福知山城・・・天正7年(1579)築城・・丹波攻略が終わっての築城ですね。
兵庫県丹波篠山市の高城山(459m)の八上城。
丹波一帯を収めていた波多野氏の山城、明智光秀との戦いで籠城戦後落城、天正7年(1579)。
兵庫県丹波篠山市にある篠山城。
徳川家康が豊臣氏と西国大名の抑えに天下普請で築城、藤堂高虎縄張り。
豊臣秀吉と明智光秀とが争った山崎の戦い。
京都府の山崎、天王山270mにある山崎城。
天正10年(1582)本能寺の変後、豊臣秀吉が中国大返しで戻り明智光秀との山崎の合戦の地、その後大阪城築城までこの地に居たとか。
山崎の合戦の明智光秀軍の拠点の勝竜寺城。
合戦に敗れ抜け出した勝竜寺城北門、坂本城を目指すが・・・。
福島県会津市向羽黒山にある向羽黒山城。
向羽黒山城二の丸、永禄11年(1568)蘆名盛氏が7年の歳月を費やし築城。
向羽黒山本丸・・・・岩崎山409m。
長野県佐久市、龍岡城五稜郭。
文久3年(1863)松平乗かたが築城・・・幕末。
龍岡城の裏山にある田口城脇から見た龍岡城、五稜郭の一部が未完成ですね。
長野県松本市の松本城二の丸虎口。
松本城本丸・乾小天守・辰巳付櫓・月見櫓、複合連結式層塔型5重6階、石川数正・康長築城。
長野県上田市・・・米山城・砥石城・本城・枡形城・・・真田家ゆかりの山城。
米山城本丸、天文19年(1549)武田信玄と村上義清が争い武田軍が敗れた砥石崩れの舞台。
砥石城本丸、あの真田幸隆が調略で砥石城を落とし、村上軍はやぶれますね。
砥石本城・・・真田一族は上田城を築城移るまでこの地が本拠地です。
枡形城本丸・・・・山沿いの尾根筋に繋がるお城。
長野県上田市・・・・上田城本丸虎口、本丸南櫓・東虎口櫓門・本丸北櫓。
尼が淵ぞいの西櫓、真田昌幸が天正11年(1583)築城・・・徳川軍と対決した城。
佐賀県佐賀市の佐賀城竜造寺家、鍋島直茂・勝茂が慶長16年(1611)に完成。
佐賀城天守台。
福岡県福岡市の福岡城黒田長政が慶長6年(1601)から7年かけて築城、多門櫓。
福岡城小・中・大天守石垣。
福岡県久留米市の久留米城、田中吉政柳川藩32・5万石の支城、元和7年(1621)有馬豊氏が21万石で入封。
久留米城本丸石垣より・・・・4代目藩主有馬頼元の元禄4年(1691)に完成・・・天守は無し。
佐賀県唐津市の唐津城・・・・5重5階の模擬天守。
唐津城は寺沢広孝が慶長7年(1602)から7年かけて築城。
佐賀県 名護屋城三の丸、本丸大手門虎口。
名護屋城本丸、豊臣秀吉が唐入りの軍事拠点として天正19年(1591)築城。
名護屋城天守5重7階、玄界灘を壱岐・対馬・朝鮮へ約20万の兵士が渡海、一時期この地には10万の兵士が集まった、慶長3年(1598)廃城、夢のまた夢・・・
この頃はお城番組も多くなりましたが山城見学は、無盡状態の散策が楽しめますね。
剣崎止まりのバスの為少し余分の歩きました。
白浜毘沙門天堂へ行く途中、一度海から離れました、三浦ダイコンの畑です、今が収穫期です。
此処が白浜毘沙門天堂です、此処から少し下ると白浜で、岩礁の道へ出ます。
白浜・・・?。
少し先に行き振り返りました、車がある左側の毘沙門天堂から出てきました。
白浜から見える島・・・・島の方に向かって歩きますね。
島の近くに来ました、陸続きか?、大きな洞窟が見えたので近くまで行きました、反対側のほうに洞窟が在ったみたいですがこちら側に気を使い見過ごしました。
海側を皆が・・・・良い天気で穏やかな・・・向こうは房総半島かな。
此処を回り込めば毘沙門湾側ですね、やはり、この辺りは水没地域ですね。
先程の島が遠くなりましたね、今水が引いているときですね。
此処は毘沙門湾を過ぎた場所、先程の島の位置が異なりますね・・・食事をしました、こちら側は岩礁の道ですよ。
千畳敷の岩場が続きます、満潮時は怒涛の波しぶきが上がるのでしょう、このごつごつの岩ですから。
あの島が見える向こう側から海岸沿いを来たのですね。
此処は釣りの場所としても良いらしいですね。
海岸沿いは高い岸壁が続きます、波に浸食され岩の造形が素晴らしいです。
岩礁の道にふさわしい造形ですね。
如何ですか、素晴らしい造形。
海側と岸壁がわを交互に撮るような景色が目に移りますね、三浦海岸がこんなにすごいとは知らなかったです。
この辺りが盗人狩の異名がある岸壁ですね30mほどの断崖絶壁が続きますね。
この辺り如何です!。
此処に盗人狩の看板がありましたね、説明によれば下でなく上の事ですね盗人が追い詰められ下を見れば怒涛の波が押し寄せてくる崖下を見て恐れて捕まったとの事。
宮川湾へ近づきましたね・・・観音山でしょうか?、左側奥の橋が城ケ島大橋。
振り返りますね、千畳敷です。
造形美です見事。
岩場が続き、角度が変わるごとに別の景色が・・・。
どうしても次から次へ写真を撮り捲りますね。
此れで宮川湾へ入ります・・・各湾の写真は撮りませんでしたが、岩礁は随分撮り捲りました、如何でしょうか?。
2021年12月9日(木)今日は博多の最終日ですが、福岡城・櫛田神社・宇美八幡宮に行って来ました、宇美八幡宮は15代応神天皇御降誕地、安産・子育ての神です、産=うみ=宇美との事。
JR博多駅から比較的近いですね、博多の南方面。
宇美駅からレンガ敷の通りを歩きました、神社内には大きなクスノキが沢山あります、幹回り5m以上の大楠が12本、この木でも結構な巨木。
宇美八幡宮の鳥居と応神天皇御降誕地の碑。
宇美八幡宮の参道。
宇美八幡宮拝殿です、朝早く行ったので地元の氏子会?か沢山の方がお参りに来ていました、巨木は神社右横に湯蓋の森・左奥に衣掛の森の御神木があります。
湯蓋の森と名前の付いた大楠です、樹齢2000年目通り15・7m。
大きく元気です。
大きな枝ぶりから、一つの木ですが=森の名前が付いているのでしょう。
角度を変えて、湯蓋の森。
中は空洞なのでしょうかネ、大きな枝も空洞ですから・・・・。
湯蓋の森、樹齢2000年15・7m。
此方がもう一つの衣掛の森樹齢2000年目通り18・2mの御神木、応神天皇の産湯のさい産着を掛けた木。
回り込むとかなり痛んでいます、やはり皮で幹を支えている状態ですね。
しかし、荒々しく立ち上がっていますね。
衣掛の森の脇にある産湯の水です、応神天皇の産湯に使ったそうです、碑の文字は広田弘毅とか。
趣がありますね、頑張ってほしいですね。
しかし、九州は楠の巨木が沢山ありますね、今回も幾つかの大楠とあえて感動を頂きました。
此れが唐津城です5層5階地下1階です、たまたま東唐津駅に停車したところで取ったものです良かったです、この角度の写真が一番でしょうかネ!、この前福知山城も電車から撮ったのが良かったですから・・・・全体が良く見えますからネ・・・でも唐津城には天守が無かったとか。
バスセンター横の市役所にある三の丸櫓と堀、右側がバスセンターで此れも名護屋城に行く前に撮ったものです。
唐津駅前正面が市役所で隣がバスセンターです、上が唐津湾(玄界灘・壱岐の島・対馬)で左が松浦川、唐津城は三方向を海と川に囲まれた満島山の山頂を本丸・二の丸・三の丸と連格式城郭です。
佐賀県です、名護屋城は上の方になります、唐津城は真ん中の海沿いデスネ。
此処は二の丸と三の丸を隔てた堀。
この唐津城も舞鶴城と呼ばれていますね(確か福岡城も)、正面から反時計回りに外側を廻ました、隣の学校が写真を撮りずらくしていますね。
唐津城本丸天主を見上げました。
少し回り込み。
右側に回り込みます、松浦川が海に注ぎ込みますね、唐津城は海城です。
松浦川は河口の橋の上から・・・もう少し先まで行きたかったのですが風が強く寒いので戻りました。
海沿いの腰曲輪を廻いよいよ本丸へ。
まだまだ階段が続きます。
ようやく最後の虎口で振り返ります。
本丸石垣前の二の曲輪(中段広場)から見た唐津城(大手門・天守)、最初の写真東唐津駅からはほぼこの角度から全体が見えたのですね。
唐津城大手門。
二の曲輪端から井戸と大手門。
二の曲輪少し離れて天守を見上げます。
大手門脇からの唐津城。
本丸横の上段の二の曲輪前、化粧櫓と西門。
西門と天守。
大手門をはいり本丸。
本丸から見た唐津城天守、唐津城は豊臣秀吉の家臣寺沢広高が文禄4年(1595)8・3万石で拝領、関ケ原では東軍に味方、島原に4万石を加増、慶長7年(1602)から7年の歳月をかけて築城、二の丸が藩主の住居(現城脇の高校)・・・名護屋城の解体資材を使用とか、
寛永14年の島原の乱の責任で島原領4万石は没収、その為か藩主(二代目)が自殺子供が無く改易、その後、大久保家・土井家・水野家・小笠原家と藩主が変わりました。
天守・西門・化粧櫓。
角度を変えて、唐津城。
唐津城本丸石垣から見た唐津湾?・・・・。
前回は三の丸・馬場・弾正丸左側上までです、此れから二の丸・遊撃丸・本丸へ向かいます。
弾正丸の隅櫓跡からの景色。
弾正丸の虎口、右側が馬場、左側が二の丸、正面石垣が本丸多門櫓。
二の丸。
二の丸の北側の石垣(内側)。
二の丸北側から見た遊撃丸の石垣と正面が本丸。
二の丸、本丸下左側が遊撃丸虎口。
遊撃丸から見た本丸天守台。
遊撃丸から本丸脇を回り込む、水の手曲輪。
本丸への虎口北門、上山里丸(秀吉の住居地域)からの入り口。
名護屋城本丸。
本丸から見た天守台。
本丸から見た東側方面、呼子大橋か?。
本丸東側から見た天守台、右下側が水の手曲輪上山里側。
名護屋城天守台跡、此処から沢山の軍船を見送ったのでしょう、引き上げ時には太閤秀吉は無くなっていましたからネ、前の島は松島・加唐島でしょうかネ。
300からの大名が周辺に陣屋をはり大陸に渡ったのです。
天守台から見た遊撃丸。
同じく天守台から見た二の丸。
本丸多門櫓跡から見た弾正丸、右下は二の丸。
本丸隅から見た馬場西側櫓台跡。
本丸大手、正面は南西櫓跡。
本丸大手。
大手を下ると三の丸です、先程は此処を直進し馬場曲輪方面へ・・・・これで住居がわの山里曲輪を除けば見終わりました、前田利家陣の跡地を見ましたが意外と小さなものでしたね、名護屋城博物館入口バス停13時10分で唐津バスセンターへ直接戻ります、各陣屋巡りは車が無いととても回り切れませんからネ・・・・これから唐津城。
玄海灘を目の前に突き出した、この半島全体(鎮西)に日本国大名が陣屋を構えたのです、今回は名護屋城跡と前田利家陣屋跡を散策しましたね。
名護屋城跡を①大手口②東出丸③三の丸⑥馬場⑨弾正⑦二の丸⑧遊撃丸⑤本丸と回りました。
模型図の写真です右端が大手門です、天守には天守閣が・・・。
同じ縄張り図ばかりですが、解りやすいので・・・大手口からイザ。
此れは解りやすいですね大手口前の広場。
大手口脇から見た馬場の石垣、正面の石垣は弾正丸の曲輪、左側奥が搦め手口方面です。
大手口。
緩やかな道を上がります、正面に見えるのが東出丸の石垣、左側は三の丸。
東出丸です、呼子方面でしょうか?。
東出丸から三の丸へは回り込みます。
三の丸虎口です、簡単には入れますね。
三の丸の虎口、石垣が多数崩れていますね、隅の算木積の技術がまだこの時は無かった(朝鮮の石工の技術をこの後持ち帰りましたからネ)。
名護屋城三の丸、右側が本丸大手口、私は左側を直進。
左側が三の丸南西櫓台で右側が本丸、階段を進むと馬場曲輪。
折角ですから三の丸南西隅櫓の石垣を正面から。
向こう側が本丸、馬場へ。
回り込んで馬場曲輪です、本丸下の腰曲輪ですね。
馬場曲輪の石垣上の土塁から、奥左が弾正丸。
馬場曲輪の切れ目に馬場西側櫓台の石垣が正面は二の丸。
二の丸広場、まず左側へ曲がります。
弾正丸から見た二の丸、向こう側の石垣は遊撃丸側です。
弾正丸脇石垣上から馬場曲輪の石垣が右側奥が大手口。
弾正丸の搦め手口への虎口。
取り合えず弾正丸から搦め手方面まで散策しました、戻ってきて二の丸を回り込みますね・・・後編へ。
福岡城跡大濠公園です・・・舞鶴公園が福岡城天守の呼び名ですね、地下鉄博多駅から赤坂駅まで来て(地図の左側下側から)お堀を渡り城内へ時計回りに本丸を廻込ました、最終日はお堀端を歩き右側から城内へ天守を見て帰りました。
福岡城周辺の石垣です、7日は①の左側を直進、⑫武具櫓下、⑬多門櫓横、⑪多門櫓虎口、⑩本丸横、⑨本丸横虎口、⑧武具櫓、⑦本丸天守を廻天守台で大雨にあいました・・・急いで帰りました、9日は右側下の下ノ橋御門、潮見櫓から本丸方面へ入り散策しました。
明治道りから見た水堀と上の橋と上の橋御門跡。
上の橋御門跡です、右側が正規な道ですが、左側から平和台球場跡地を回り込み東御門跡から南側へ。
東御門跡横の石垣を南へ進みました、途中で石垣が無くなり野球場が現れました。
野球場(二の丸)の向こう側が本丸の石垣です、角が祈念櫓の石垣。
本丸南東方面の裏手ですね。
本丸南側の石垣、武具櫓側ですね。
前に見える石垣は多門櫓(第二の本丸)側です。
回り込むと多門櫓が見えました。
多門櫓を見上げます。
多門櫓を回り込みます、左側下が三の丸で・・と続きます、江戸時代から残る両端に二層の隅櫓。
脇から見ます、左側下がわが三の丸。
折角ですから、多門櫓を。
二の丸の石垣。
二の丸へ入り、本丸の虎口へ回り込みますね・・・本丸への虎口は2か所表御門とこの桐の木坂御門?。
此処が本丸裏の武具櫓へ上がる虎口。
曲がった石垣を上がると武具櫓。
武具櫓から見た天守台、左側へ回り込む。
天守台脇に天守へ繋がる石垣が。
石垣をくぐると表側への狭い虎口が・・・此処が鉄御門跡?、振り返ります。
天守への登り口です、今くぐった石垣、裏が武具櫓ですね。
階段を上り天守方面を見る・・・大雨が降ってきました。
三の丸方面を振り返りました、さっき上がって来た所下側は左方面が多門櫓方面です。
天守石垣へ入りました、天守の地下からの出入りですね。
天守から振り返りました、?方面でしょうか。
天守から博多駅・天神方面、下が二の丸方面で木々の脇が左側から先程歩いてきた場所ですね、福岡城は関ケ原の戦いで勝利に大きく貢献した、黒田長政が筑前52万石を与えられ、父の黒田官兵衛(孝高・如水)と共に1601年から約7年の歳月をかけて築城、天守閣有無は?。
天守石垣横に小・中天守台の石垣があります。
天守から見た天守への虎口、右側は本丸。
天守虎口・・・本丸から小・中天守へ。
天守下を回り込み小・中天守へ・・・・・此処で写真をやめ、大手門から帰りました。
表御門跡・・・本丸と二の丸の虎口です。
9日(木)再度来ました、堀端から下の橋へ下の橋御門と奥が潮見櫓、城内への虎口は上の橋・下の橋・追廻橋(多門櫓の南側)の三か所。
下の橋御門と潮見櫓。
松の木坂御門から表御門跡、二の丸から本丸へ。
本丸へ入りました、左側が二の丸側、奥が小・中天守。
小・中天守の石垣。
登りました、天守方面を見ます・・・中天守の登り口石垣はありませんね。
中天守の下から見た所です・・・・これで福岡城(舞鶴城)まで見ましたね、あと8・9日(一部は此処)となりました。
JR久留米駅から久留米城まで歩いて行きます、道は解りやすいですね、工場脇を北上します、築後川ぞいですね。
本丸もわかりやすく長方形で天守はありません、右下の巽櫓を天守の代わりとか、久留米城は築後一国を領した田中吉政の支城でしたが1616年の一国一城令でほぼ廃城同然とか、元和6年(1620)田中吉政の跡忠政が病没跡取りが無く改易、丹波福知山8万石有馬豊氏が21万石の大出世で久留米城に・・・天下泰平の世で天守は建てず。
JR久留米駅からの途中に三の丸の標識、この先(左側)は家老屋敷・・・外郭(四の丸)には上級武家屋敷が置かれたとか。
二の丸跡ですね、正面が本丸、左側は一段と低く(此処は河岸段丘)、二の丸は藩主の生活の場とか。
久留米城大手口、此れより反時計回りに城外を廻こみます。
大手口右脇の内堀外からの石垣です二段の石垣上が巽櫓で天守代わりに聳えていたのですね。
久留米城東側の石垣です、道路は蜜柑丸と言う腰曲輪、奥の虎口上が月見櫓。
東側の虎口です、本丸への虎口は2か所ですね、右石垣の上が月見櫓。
築後川がわへ回り込みました、左側石垣は崩壊したみたいですね、この石垣は艮(丑寅)櫓です・・・すこし崩れが!。
北西側の築後川です。
築後川の土手に沿った西側の石垣。
南側の大手口脇に戻りました、手前左側角に坤櫓、右側の角に太鼓櫓。
大手口、突き当りが冠木御門(枡形ですね).
冠木御門を入りました。
太鼓櫓跡です。
太鼓櫓から見た西側方面・・・築後川方面。
同じく太鼓櫓から見た、大手口側。
太鼓櫓から冠木御門方面を振り返りました。
イザ、本丸へ二の門、奥が篠山神社です(有馬家の神社・・明治に神社を起こした藩が結構ありますね)。
篠山神社拝殿・・・本丸御殿跡。
艮櫓跡・・・・先程見た石垣の上です。
月見櫓跡です、・・・東側ですね、昔の(田中吉政)城は東が大手門側とか・・・東側は湿地帯だったとか。
月見櫓脇の虎口・・・密柑丸の腰曲輪への虎口。
折角ですからもう一枚。
天守代わりのあった巽(辰巳・南東)櫓です、久留米の街並みがみえます。
巽櫓から見た大手口・・・二段の石垣構造ですネ。
同じ巽櫓から見た月見櫓方面。
同じ巽櫓から見た、大手口一の門、此れで久留米城散策は終わり此れから福岡城へ・・・時間が・・・。
下側から中央の道路を上がり左側が二の丸・本丸です、奥の右側が三の丸・西の丸、地図全体が当時の佐賀城で水堀で囲まれた城郭です。
前の地図とは北南が逆ですが、当時の縄張り図です、右下側が二の丸本丸で広い水堀で囲まれた二つの虎口からなりますね。
二の丸・本丸をアップ、現在は現在位置上の水堀が道路でバス停です。
二の丸から見た鯱の門・続櫓。
鯱の門・続櫓へ此方から本丸へ入りますね。
鯱の門、右側が天守台に繋がります、この石垣の向こう側が本丸ですが、天守入り口はこちら側の右側奥と不思議な構造となっています。
鯱の門を入りました、本丸です。
本丸御殿です。
本丸御殿を回り込みます、本丸・・・南側は土塁ですね。
本丸南側の土塁から西側へ、南西隅櫓跡の石垣上です、南側の水堀を見る、左側が三の丸方面。
同じ南西隅櫓から本丸北側を見る、石垣左側が当時は水堀でその左側が三の丸方面、石垣右側が本丸、奥が天守台石垣。
同じところから東側を見ます、本丸土塁(石垣ではありませんね)右側は広い水堀。
本丸から見た天守台石垣、こちら側からは登り口がありません。
天守石垣に沿って西御門口。
天守登り口を探して再び二の丸側へ。
見つけました、天守への虎口を・・・。
虎口の階段を上ると西御門口へ先程の南西隅櫓は、前の石垣先です、此処は北西隅櫓かな?。
天守ですね、
天守へ上がりました、振り返りました、佐賀城は鍋島直正が初代勝茂改築し5層の天守を設けたが享保11年(1726)に焼失。
天守から見た鯱の門。
最初に到着した二の丸広場。
天守への虎口、現在は二の丸ですが当時は周りは水堀で遮断されていたのですね。
天守から南側の堀の外側へ、堀の外から見た佐賀城本丸です、正面の石垣は先程の南西隅櫓の石垣。
堀外側見た三の丸・西の丸方面。
三の丸・西の丸方面へ。
西の丸大楠群へ回り込みました、西御門橋は左側です。
西側の堀端を北側へ進みます、確かに大楠が・・・・この程度では私は感動しませんが・・・武雄神社の御神木を見たばかりですからネ。
北側の堀脇にも大楠が見えました、此れで佐賀城散策は終わりです、此れから久留米城へと参りますね。
2021年12月7日(火)に佐賀県高雄温泉に行きました、此れで47都道府県のいずれかの町に行ったのですよ!、この高雄市には大きな楠”川古の大楠”があるのですがこの木は残念ですが見れませんでしたが、凄い楠が見れました。
この木は塚崎城の北の外れにあるのです、鹿児島にも塚崎の大楠があるので間違えた写真が掲載されているのが見受けらりたりしますね。
右側が文化会館ですが左側の山?が塚崎城址の端ですね、主郭は高雄高校だとか・・・左側道の向こう側。
山の斜面が削平されていますね、塚崎城址の土塁の一部です、大楠は右奥の曲輪の外れです。
少しみずらいかな、此れが塚崎の大楠。
穴は木の空洞です、向きを変えますね!。
塚崎の大楠、昭和38年の落雷で本幹が焼失、樹齢2000-3000年根廻38m幹回り13・6m。
表皮と小枝でなをも頑張っているのです・・・・凄いのです。
思わずアップ・・・・凄い感動です。
眼に焼けつけるためもう一枚。
木の空洞の中側から・・・・・・・・・。
内部の幹・・・・・・・樹齢は数えようがありませんが、戦国期の城址・・・・城の落城も見て来たのかも?。
塚崎の大楠の道の反対側にある武雄神社、神社裏の山が御船山で北の山麓に塚崎の大楠、東山麓が武雄神社です主神は武内宿禰。
高雄神社表参道。
城郭みたいな石垣を回り込んで本殿へ、左側に?。
高雄の大楠の鳥居がありました御神木・・・・この先ですよ。
参道を進み左側竹林の先に・・・高雄の大楠。
樹齢3000年・根回り26m・幹回り20m、全国7位の巨木です、やはり中は空洞で12畳の広さで天神様をお祭りしてあるとか(中には入れません)、龍神が宿るパワースポットです。
何せ凄い感動ですよ、この木も表皮でのみ生きているのですね。
すこしずつ角度を変えて撮り捲りますね。
凄い・凄い。
ただただ、圧倒されました、此れから佐賀城にまいりますね。