三郎兼続の日記

趣味の写真で山登り・旅行を主体にした日記
最近は山登りが少なく、城郭・巨木へ

秩父羊山公園の芝桜の丘に行って来ました。

2022-04-29 10:57:12 | 日記・エッセイ・コラム
2022年4月28日(木)に秩父の羊山公園の芝桜の丘に行って来ました。

西武秩父駅から歩きました・・・駅前の丘が羊山公園ですね、此れで三回目?ですね、大分来ていないのですっかり忘れていますね。

駅から1・5KMで羊山公園入口へ、そこから丘の上を横に大分這いずりますね・・・・桜の名所ですね・・・もう終わっていますが。

此処が芝桜の丘です、連休では込み合うので天気と相談その前に来ましたが青空は出ませんでしたね。

正面に見えるのが奥武蔵の武甲山1304m・・・・日本二百名山です、山頂には日本武尊を祀る御嶽神社があります、石灰岩の為セメントの材料として取られこのような姿の山になっています。

写真を撮りながら武甲山へちかずきますね・・・・平日ですが結構観客がいます。

連休まで花が持った感じでしょうか・・・・今日は入るにあたり500円のクーポン券をゲットしたので入園料のおつりが・・・入口脇ですでに使いました、大分端まで来ましたね。

振り返りますね、・・・・この芝桜の計画者は市役所の職員が発案?とか初めて2年後ぐらいに来た時聞いたような気がしますが・・・如何だったかな?。

武甲山が近くに・・・天気が良ければもっとスッキリなのですが、この間清雲寺の枝垂れ桜を見にきた時には雪が少しあったのですが。

芝桜を見ますね。

もう一度・・・これが芝桜の丘。

ハート型の模様があったのでもう一枚・・・・。


岐阜県郡上市・三重県桑名市に行って来ました(凌霜隊・薩摩義士)。

2022-04-22 16:13:58 | 旅行記
2022年4月岐阜県郡上市での凌霜隊・三重県桑名市の木曽三川改修工事の碑を見てきました。

郡上市の郡上八幡城の本丸天守裏の松の丸には凌霜隊の碑があります・・・此処を凌霜の森と呼び名がついています。

凌霜隊の碑です、郡上藩青山家は幕末の動乱期、勤王派と佐幕派に意見が分かれたが勤王派に決定、しかし、江戸藩邸の45名が脱藩し戊辰戦争へと参加・・・・藩の存続をかけて二股的な戦略とも?、江戸を脱走し小山・宇都宮・会津と戦う、会津若松城落城と共に元藩士は郡上藩お預け35名、明治3年赦免されるが赤谷の揚屋(牢屋)は日が当たらず湿気の場所の為監禁中1/3が病死、元隊士には周囲も冷たく藩をはなれた。

郡上八幡城の中腹二の丸岸劔神社にもこの話と石碑がありました。

前回も此処は記載。

桑名城を見ての帰り気が付きました、東海道の少し桑名城への入った所にある海蔵寺です、宝暦治水工事に携わった薩摩藩の人の話です。

江戸幕府が宝暦3年(1753)に薩摩藩に木曽三川(長良川・木曽川・揖斐川)治水工事の御手伝い普請を命じた、薩摩藩は総奉行平田靱負・藩士・足軽以下1000人を派遣、約1年3カ月の歳月をかけて完成させました、工事には約40万両(300億以上)犠牲者は関係者だけで80余名・・・・工事検分後直後に責任を取り自刃。

薩摩義士24名のお墓です、岐阜県の海津市には治水神社として祀られているとのこと。


松坂城に行って来ました。

2022-04-21 09:51:18 | 城郭三重
2022年4月11日(月)に三重県の松坂城に7時ごろから近鉄線で出かけ、その後津城・桑名城と戻りながら三城を散策、見ごたえがありましたが、流石蒲生氏郷が築城した松坂城は良かったですよ。

駅は下側です、解りやすくお城に着きました。

これが松坂城本丸周辺です、この外側に三の丸と堀で囲んだお城ですね、標高38mの独立した丘陵に築かれた平山城で、北側(図右側に)を流れる阪内川を防御とした石垣の城、天正12年(1584)豊臣秀吉により松ヶ島城に封じられた南伊勢12万石蒲生氏郷がこの丘陵に目を付け築城天正16年(1588)に完成・・・天正18年(1590)小田原征討の功により42万石の太守として会津へ移りました。

松坂城大手門通り、この辺りは三の丸で石垣が表門(筋違い虎口)。

筋違い表門。

表門・・・正面に本丸下段の石垣が立ち塞がりますね、左側が二の丸方向、右側が石垣後ろを回り込むように本丸下段への道。

筋違い御門を右側の石垣上に、上から見た二の丸側への方向を見ます、右側の石垣は本丸下段の石垣、奥が月見櫓の石垣ですね。

表門を右側へ回り込むように上がります。

回り込むと本丸下段の石垣に挟まれるように進みますね、左の石垣の上が遠見櫓、右側金ノ櫓。

石垣に挟まれた道を上がります・・・本丸下段へ。

本丸下段の曲輪です、右側が本丸上段の石垣。

本丸下段の月見櫓跡。

本丸下段から見た中御門跡、右側が本丸上段の石垣と金の間櫓跡、左側が太鼓櫓跡。

月見櫓跡に立ちました。

月見櫓跡の石垣端から見た表門、石垣の上は両サイドに櫓とつなぐ多門櫓、表門を入り奥側から本丸下段へ、手前は二の丸へ来る道ですね、石垣の右側は三の丸が取り囲みます。

石垣の上・・・多門櫓跡・・・月見櫓から太鼓櫓方面を見ました、左下が二の丸。

太鼓櫓の石垣上端から見た隠居丸(右側)と裏門側への下る路。

太鼓櫓跡と左建物は隠居丸の本居宣長の建物、奥の石垣が本丸上段への中門の石垣。

中御門跡・・・・右側が本丸上段へ・・・左側へ下れば隠居丸から二の丸又は裏門へとまいります。

いよいよ、本丸上段へ。

松坂城本丸上段です、奥が天守跡・・・・此処から本丸上段の石垣上を時計回りに廻、後程本丸へ戻りますね。

本丸上段の虎口上の石垣端から見た本丸下段と中御門跡。

少しずらしました、左が太鼓櫓跡、右側が隠居丸。

石垣したは隠居丸、コの字の石垣・・・・手前側が本丸上段側、向こう側がきたい丸と分断区別?。

きたい丸です。

きたい丸の外れまで来ました、隅櫓跡。

なおも、きたい丸を回り込むように・・・やはり隅櫓跡ですね、こちら側が阪内川側です、下側は三の丸です。

この先も櫓跡・・・きたい丸と帯曲輪を分断?。

本丸下段側への石垣に?・・・・・渦巻き型の石垣ですね、下側は三の丸ですが。

石垣を進むと、右側は本丸上段の石垣、今いるのは本丸下段の石垣上です、右側はきたい丸と本丸下段を結ぶ帯曲輪でしょうね。

石垣から振り返ります、左側が本丸上段の石垣(見える所は天守の石垣・・・正確には敵見櫓)。

さらに進むと角が藤見櫓跡。

藤見櫓跡から見た所・・・表門から本丸下段へ進む道が見えました、一回りしましたね。

石垣端の鐘ノ櫓跡。

鐘ノ櫓から見た所、向かい側が遠見櫓、下側の道が先程進んだ本丸下段への道、左側の建物は明治45年に建てられた歴史民俗資料館。

再び戻りました、松坂城本丸上段。

本丸上段にある天守跡、右側に敵見櫓跡と石垣が連動しています。

敵見櫓跡の石垣から見た先程歩いた本丸下段石垣多門跡と帯曲輪・・・・本丸上段石垣から本丸下段石垣と渦巻き石垣ですね。

天守跡から見た本丸上段・・・・正面が金ノ間櫓跡、その右側が先程上がった中御門の虎口。

天守跡から見た、きたい丸への石段。

きたい丸から見た天守跡と階段・・・・天守への入り口2?。

中御門から裏門側へ。

二の丸の太鼓櫓の石垣を回り込むように下りますね、右側は隠居丸(本居宣長の旧宅等があります)。

回り込むと・・・右側は隠居丸、左側奥に二の丸がその右側が裏門へ分岐しますね。

奥が二の丸。

二の丸隅から見た石垣・・・裏門側と下はやはり三の丸。

二の丸をでて二の丸の石垣と隠居丸の石垣に沿って裏門へ。

松坂城裏門です、右側が二の丸の石垣、左側が隠居丸の石垣、此処からは三の丸です御城番屋敷はこの後です、素晴らしいお城でした、この時は疲れていないので二度城内を見て回りました、良かったですね。


津城に行って来ました。

2022-04-20 09:42:23 | 城郭三重
2022年4月11日(月)に三重県津市の津城に行って来ました、戦国期は名門北畠氏に対して織田軍が新勢力を伸ばしたところですね、織田信長の弟織田信包が築城、慶長5年(1600)関ケ原の戦いの前哨戦で西軍の攻撃で戦火にあいました、慶長13年(1608)藤堂高虎が伊予今治から伊勢・伊賀22万石で移り大改修したお城、さらに大阪の陣で32万3千石の大大名になりました。

安濃川と岩田川が伊勢湾にそそぐ真ん中の場所に水堀で回の字の二重に囲まれた平城(輪郭式)、藤堂高虎は有数な築城家ですからネ。

現在は真ん中の本丸の一部のみですね。

真ん中の本丸①と西の丸(馬出曲輪)②が変形したかたち(繋がっています)で残っていますね・・・・理解するまで時間がかかりました、現在位置から城内へ

左が市役所がわ・・・当時は二の丸、西の丸への虎口。

西の丸の石垣と堀・・・・大分小さくなっていますが、右側の石垣は後から造成したのでしょうね。

この虎口は当時のものでしょう、本丸へはこの西側と東側の二か所ですからね、南側は気になりますが?。

城内に飾られた藩校の門。

西側の二の丸側です、堀はもっと広かったのですが。

北側の堀と奥の石垣が本丸で西北櫓が角地に立っていたのです。

西の丸・・・現在日本庭園。

現在陸続きですが、本丸の西側の石垣、手前は水堀で隔て絶たれていたのです、右側が本丸への虎口。

本丸側西側の虎口・・・平城なので石垣は立塀なのです、上は多門塀でぐるりと囲むお城でしょうね?。

本丸西壁際を奥に・・・・。

突き当たり奥に建物が見えてきました、本丸東側です。

本丸石垣の上から見た津城復元櫓(模擬隅櫓)・・・・木々が生い茂り写真は?。

石垣上から見た東側です、取り合えずお城は此処までですね。

津城本丸北側の石垣上から西側を見た所、東北隅櫓跡。

西北隅櫓まで石垣の上を歩きました、先程の西の丸です、奥は二の丸・・・石垣の括れた所が当時は橋?で細く繋がっていたのでしょうね?。

念の為・・・左側に石垣が向こうまで出ていますからネ。

本丸へ降りてきました。

藤堂高虎の像・・・・伊予今治城にもありましたね、七回主君を変えていますが、豊臣秀長の下で技術力を磨いたのでしょうね?。

津城の模擬隅櫓・・・丑寅櫓(場所も形も異なるとか、でも建物があるとわかりやすくいいですね)。

津城丑寅櫓。

先程は上から見ましたが本丸の北側の堀と石垣。

再び津城丑寅櫓・・・・・電線が多く写真が撮りずらい、折角建物を建てたのに考慮が・・・・、此処ではありませんが、ほかでも看板が目につくとか???。

東側は本丸で切れています・・・・東の丸はありませんね。

再び本丸へ南側の虎口がありますね?、右側は西南隅櫓(伊賀櫓?)。

外に出て見ると公園ですが堀跡ですね・・・船着場?。

本丸西南隅櫓の石垣です。

本丸城内から見た櫓の石垣・・・・此処が本丸天守台ですね、全体の大きさが把握できず中途半端になりましたが如何です、今回の最後の松坂城此れも素晴らしいあの蒲生氏郷が築城です。

桑名城に行って来ました。

2022-04-19 09:33:53 | 城郭三重
2022年4月11日(月)に三重県の桑名城に行って来ました、この日は当初より天気が良いとの事で三重県近鉄線沿線の松坂城・津城・桑名城と回りました・・・・結果的には4日間天気が暑すぎましたが良かったです。

桑名城は木曽三川(揖斐川・長良川・木曽川)が伊勢湾にそそぐ河口の脇、完全な水城です。

桑名城の縄張り図、後は大河(海)で水が豊富な掘割で囲まれた水城。

これが現在の桑名城跡の九華公園・・・・真ん中中央が本丸。

駅がわから東海道を渡り最初の掘割・・・・此処の石垣が当初からのものか?・・・此処から武家屋敷だったのでしょうかネ?。

次にでた水堀からが九華公園です、石垣は当時のものではありませんが・・・三の丸の堀?。

公園入口の三の丸に徳川四天王の本多忠勝の像が、天正18年(1590)小田原征討で徳川家康は関東へ、その時上総大多喜10万石に慶長6年(1601)関ケ原の戦いで伊勢桑名11万石の大名となりこの地に城を構えたのです。

現在建物の遺構はありません・・・・これは当時三の丸にあった蟠龍櫓(水管理)の外観復元櫓・・・この左側先に”七里の渡し”。

三の丸水堀の水門口。

木曽三川・・・広くてわかりませんが水門とか見えます。

三の丸外側?の公園から大手筋(正面)へ行きますね。

此処は?。

此処が本丸への大手道。

大手道から右側を・・・右奥が二の丸です。

同じ場所から左側を・・・・右奥が三の丸・・・昔は本丸と三の丸は水堀で分かれていますが、今は繋がっていますね。

土橋?を渡るとイヨイヨ、桑名城本丸へ。

桑名城本丸。

桑名城本丸。

本丸にある鎮国守国神社・・・松平定綱を祀る、各藩祖を祀る神社が明治初期各地でおこりました。

神社脇に残る天守石垣、東北隅に四層六階の天守(火災で紛失・・そのまま)。

本丸辰巳櫓跡・・・天守の代わりとなっていたとか、明治維新の折、落城の印として焼き払われたとか。

辰巳櫓跡から見た二の丸方面、朝日丸は?。

此処は本丸西南隅櫓のあった、神戸櫓跡本多忠勝以前の櫓をそのまま利用とか。

これも二の丸方面、こちら側は何となく以前の面影が。

これは三の丸方面、如何ですか、昔と水堀の関係が?解りずらく少し違うかも・・・何せ暑さの中3城も廻疲れました。


名古屋城に行って来ました。

2022-04-18 14:26:18 | 城郭愛知
2022年4月13日(水)今回の名古屋地区のお城巡り最終日のラストに拠りました、小牧山城の帰りです、11日の巡った城(松坂城・津城・桑名城)はまだ整理中です、今日も暑いですね、雨が降らず良かったですがチョット異常ですね。

名古屋城の縄張り図です、よく見たら2か所見ていない場所がありましたね、多分5回目なのに見逃しました、1は下の二の丸大手二の門、2は御深井丸の西北隅櫓(清州門)次回木造での復元時には併せて見たいものです。

地下鉄の市役所前を上がった所の外側の堀、右側奥が東門・・・手前左は二の丸大手側。

東門。

東門から見た東側の堀、左側が二の丸。

東門の石垣。

東門を入ると二の丸です。

二の丸から見た本丸の東南隅櫓と天守。

アップでの名古屋城天守・・・現在は建物の中に入れません。

東南隅櫓と本丸正面虎口。

本丸東側の内堀・・・奥は旧二の丸東二の門。

東南隅櫓お東側の内堀奥は旧二の丸東二の門・・・これから時計回りに内堀を見て本丸城内から東二の門へ。

此処は正面御門前の二の丸の石垣・・・・この奥左に見ていない二の丸大手二の門があるのですね?。

本丸表門、内枡形ですね。

表門から今来た東南隅櫓を見る。

西南隅櫓と大天守・・・小天守は木々で見えず。

名古屋城大天守をアップ。

名古屋城正門・・・一度外へ出ました。

名古屋城の巨木です・・・カヤの木樹齢600年幹回り8m・・・幹が見ずらく?。

西南隅櫓から東南隅櫓を見る。

名古屋城大天守と渡櫓・・・右側に小天守あり。

横から見た大小天守・・・真ん中を繋ぐ剱塀(塀の軒に鋭い槍先がある)。

小天守。

西北から見た名古屋城大天守、此処の御深井丸の隅櫓が清州櫓・・・まだ見た事ない。

本丸北側の大天守横にある不明門・・・この先行き止まりで不明門から本丸へ入ります。

名古屋城小天守剱塀・・・・大天守は小天守経由でしか入れないのです。

本丸から見た名古屋城大小天守・・・・手前の建物は本御殿の建物。

清正石・・・名古屋城最大の大石。

搦め手側の旧二の丸東二の門・・・・奥の正面に清正石あります・・・・これで名古屋駅へ戻ります、疲れました。


郡上八幡城に行って来ました。

2022-04-17 12:05:08 | 城郭岐阜
2022年4月12日(火)に岐阜駅から郡上八幡城下町へ、電車の方が時間がかかるのでバスにしました本数はありませんが結構早く行けますね。

地図の左下側から駐車プラザバス停、此処から山側の城山公園山頂の郡上八幡城を目指します。

駐車プラザから安養寺横の急坂を城山公園、ジグザクの急坂を20分程登ります。

お城の大手門奥の安養寺です、右横がお城への道。

お城への道、正面が岸剱神社ですが、左側へ。

坂道を上ると安養寺が眼下。

城山公園の案内図・・・此処が二の丸跡です、八幡城は山城で詰めの城ですね。

城山公園から見上げると郡上八幡城の天守が桜の花に埋もれて見えます。

公園の山内一豊と千代(生まれ在所)(土佐の高地の殿様)の像が(名馬を購入した所)。

郡上八幡城の縄張り図です、山頂付近に石垣と帯曲輪で囲まれた城です、木造による復興天守と櫓高塀があります。

急坂を(山道)を上ると出てきましたね、石垣・・・上の図の右端下。

イザ此れから城内へ。

しかし、立派な石垣ですね、見えるのは正面門脇の隅櫓。

本丸下の帯曲輪が此処は2段下の櫓があった場所から見上げました、奥が天守・・・独立層塔型4層5階、此れから下の道を左へ天守下の虎口を上がり隅櫓脇から天守裏・・上の帯曲輪を戻ってきますね。

その前に天守を・・・隅櫓は木々で隠れていますね。

下の帯曲輪を進むと石垣に囲まれた虎口が。

上段の帯曲輪へ上がります。

上段の帯曲輪から見た隅櫓。

先程下から見上げた隅櫓。

帯曲輪から見た郡上市八幡の町を流れる吉田川と小駄良川。

今登って来た虎口と隅櫓。

天守裏側の曲輪。

上段の帯曲輪から見た郡上八幡城と高塀と隅櫓。

本丸御門。

本丸から見た郡上八幡城、八幡山山頂354m/130m登って来ました、永禄2年(1559)時の郡上領主東常慶(とうのつねよし)と遠藤盛数が争う、その時遠藤方が陣を構えたのが八幡山(古名牛首山)、天正16年(1588)稲葉貞道が城主となり大改修本格的な山城へ、慶長5年関ヶ原の戦い後遠藤慶隆が返り咲き中腹に二の丸を構築。

天守最上段より見た城下町・・・この方向から登って来ましたネ。

城下町下から見上げた郡上八幡城です、意外と交通が不便な為以前よ来たかったお城なので良かったです、しかし暑く汗だくでしたね、この後岐阜駅に戻り墨俣一夜城(記載済)へ行ったのです。


岐阜県郡上八幡へ行って来ました。

2022-04-17 07:39:17 | 旅行記
2022年4月12日(火)に岐阜県郡上市の八幡城に行って来ました、まず城下町を・・・。

郡上八幡の城下町です、JR岐阜駅から高速バスで往復しました。

郡上八幡はおどりが有名ですね・・・雨も降らずに袖濡らす・ソンデンセエ。

結局は郡上八幡城を中心に見て回ったのです・・・・此処は二の丸跡の城山公園ですが、何と”円空像”が・・・円空の故郷とも現在193体ほどあるとか、円空のいやしの水とありました(喉を潤し・心を癒す)。

城山公園の桜が今満開です、此処には山内一豊と千代の像・・・お城も見えるのです‥‥別にお城で記載しますね。

城山公園の隣に岸剱神社があったので。

凌霜隊の碑が神社脇に・・・・幕末徳川を支持する方々が会津で戦い、敗れた後脱走兵として罪人の汚名のもとこの地の牢獄に悲しいお話です(勝てば官軍ですから)。

水の流れる古い街並み。

もう一枚。

やはり気になる酒屋さん。

郡上八幡は名水百選で有名な湧水、宗祇水。

これが宗祇水です、上流?から区分けした水場の共同利用施設です、メインは郡上八幡城此れから見参。


小牧山城に行って来ました。

2022-04-15 12:46:17 | 城郭愛知
2022年4月13日(水)に愛知県小牧市の小牧山城に行って来ました。

小牧山城はあの織田信長が美濃斉藤氏攻略の為、永禄6年(1563)に清州城より拠点を移し築城したお城、4年後の永禄10年(1567)には稲葉山城が落城し岐阜城へ廃城となります、天正12年(1584)羽柴秀吉と徳川家康が戦った小牧・長久手の戦いの家康の陣城でもあります、土塁・空堀は当時のものとか・・・・。

江戸時代は尾張藩の御留山の為遺構残っていますね。

小牧駅からバスで小牧市役所へ・・・何せ熱いので疲れています、今日が名古屋散策の最終日85mの小牧山を此れから歩きます。

市民の方の散歩コースですね、皆さん散歩されています、右側は平ですが、結構急な場所もあります。

右端の方です、正面が小牧山。

これが当時の・・・大手門筋から真っ直ぐに伸びた道両サイドには削平した曲輪が途中から屈折し山頂へ・・・・安土城の縄張りにどこか似ていますね。

少し上った所から正面下を見る、結構土塁が見て取れますね。

削平された場所が・・・・曲輪でしょうかネ。

大手道です、真っ直ぐに登ります。

下側の大手道。

大手筋が右側に曲がります。

漸く山頂近くに。

山頂下の切岸ですね、一部石垣が見えます、回り込みます。

切岸を回り込むと山頂が見えます。

大きな石が散乱しています、転落石・・・・石垣が崩れ落ちたものです、山頂には小牧山城(模擬天守)があります。

石垣の裏石です、発掘調査の結果山頂付近には石垣があり、使用期間は4年間ですが、しっかりと築城されていたみたいですね。

現存の腰巻石垣です。

復元した石垣と模擬天守です。

模擬天守の小牧山城です・・・・?。

織田信長も見た景色?・・・・イエイエ徳川家康は見たでしょう、右側奥が長久手とか、羽柴秀吉と徳川家康は半年間睨み合い状態で大きな戦も無く撤退したのです。

小牧山城を見ながら今度は裏側方面を回り込みながら下山。

小牧山城・・・本丸を見ながら、織田信長は此処から美濃侵攻の策略を・・・。


墨俣一夜城に行って来ました。

2022-04-15 11:48:49 | 城郭岐阜
2022年4月12日(火)に岐阜県大垣市の長良川西岸の州股(墨俣)墨俣城に行って来ました。

郡上八幡城の帰りに岐阜駅からバスで終点”墨俣”へ、墨俣界隈を歩き川沿いの今は立派なお城を散策しました、桜並木がありますが終わっていましたね、今日は凄く暑い。

墨俣は美濃路の宿場町なのです、この脇は寺町界隈でお寺さんが沢山ありますね。

此処が長良川の脇犀川と天王川の州股なのでしょう?(中州)なのです、永禄4年(1561)ー9年(1566)の織田信長の美濃侵攻の足掛かりとして築城した砦・・・・永禄9年木下藤吉郎が一夜に築いた二階建て高櫓とは違いますが

お城を回り込むように見ますね。

正面がわから。

しかし随分立派なお城を築きましたね、この川原の土手には桜並木が縦横にお花見が進みますね。

回り込んできました。

ここは犀川の橋の上から、お城に架かるのが出世橋、土手の水門向こうは長良川・・・・上流に稲葉山(岐阜城)があるのです・・・美濃斉藤氏。

いよいよ城内へ。

城内に神社がありました。

墨俣一夜城。

ひょうたんの出世の泉・・・・馬柵(敵の騎馬を防ぐ)がありますね、実際は沢山の馬柵を並べ敵がこれなくし砦を作ったのです。

お城の前の犀川の水門。

出世橋を渡ります、太閤秀吉の像が正面にありましたね。

橋の上からもう一枚。

右側の山の真ん中建物が付いた所が稲葉山・・・・・岐阜城が見えますね・・・・この時には織田信長は清州城からすでに小牧山城へ移っていますね、永禄10年(1567)美濃斉藤氏滅びますね。