三郎兼続の日記

趣味の写真で山登り・旅行を主体にした日記
最近は山登りが少なく、城郭・巨木へ

福島城に行って来ました。

2024-01-20 10:30:03 | 城郭福島
2024年1月18日(木)福島の高湯温泉の帰りに福島城に行って来ました、今は県庁があるだけ出すが少し土塁がある・・・前回見なかったので再度確認しました。

福島駅から阿武隈川脇の県庁へ行きます、この地図はこの後から出る地図(縄張り図)と反対ですが、駅からバスで県庁前・・・帰りは歩きました。

県庁周辺にある説明版、福島城跡は県庁周辺で殆ど遺構はありませんネ、あの島原の乱で無くなった、板倉重昌3万石の城下町。

阿武隈川沿いの福島城跡。

県庁の自転車置き場脇の説明版。

福島城縄張り図・・・・遺構は下側の土塁・・・今回はそれを見に来ました?。

紅葉山公園・・・二の丸の御外庭(此れも遺構?)。

別の場所から出土した宝塔・・・・・宝篋印塔?。

殆ど枯れかかっていますが、頑張っていますね。

阿武隈川を背負った城、橋は大仏橋。

この川沿い左側が二の丸・本丸方面。

板倉藩祖重昌を祀った、板倉神社・・・。

県庁の川沿い奥の駐車場奥の土手・・・これが土塁跡。

説明版があるので間違いありませんね。

土塁の端。

土塁上から眺めて見ました、土塁下左右とも・・・・今は何も面影はありませんでした。

阿武隈川・・・・天神橋。

二本松城に行って来ました。

2023-07-18 11:19:13 | 城郭福島
2023年7月15日(土)に福島県の二本松城に行って来ました・・・山水会の山の会で明日は安達太良山登山の為此処二本松市の岳温泉に今日は宿泊しです。

二本松城は奥州街道の要所で古くから・・・室町時代中期応永21年(1414)奥州管領畠山氏が築城、天正14年(1586)には伊達政宗、天正18年(1586)の豊臣時代には蒲生氏郷、その後上杉景勝、加藤と代替わり、寛永20年(1643)に丹羽光重10万700石と変わりますね、戊辰戦争に際しては、城中には女子供年寄りの中徹底抗戦し落城城は焼失。

城は白旗ケ峰345mの本丸、麓に居住地のお城で、奥州街道沿いに大手門と広大なお城ですね、戊辰戦争時には藩士は会津の白河口の防御に行っていましたので・・・落城。

奥州街道脇の久保丁坂入り口の大手門跡の石垣。

石垣前には堀が在ったそうですが、今はありませんね・・・多分此処は堀跡なのでしょう?。

久保丁坂を上り(観音丘陵)下ります、二本松城(霞ケ城)の箕輪門(復元)・・・門前の千人だまりに二本松少年隊の像が・・・。

箕輪門・・・Xは筋違い紋(丹羽家の紋)丹羽家は織田信長の家老職で一時は100万石を超えていますね、浮き沈みが激しい家ですが力のある家だったのでしょうね??。

二本松城のお城(現霞城公園)の縄張り図・・・・二の丸は本坂御殿跡なのでしょうね?、三の丸は上段・下段、本丸は天守の石垣とハッキリしていますが、二の丸がハッキリ定義されていませんね?。

箕輪門を入り、振り返りますね二重の櫓門渡櫓付櫓と見事なものですね。

堀重門跡を回り込み石垣の上から箕輪門入り口を・・・門が敗れても此処から横矢掛かりですね。

正面下が堀重門跡の枡形虎口ですね、左側が大手筋がわ、こちらは三の丸下段です。

三の丸下段、右側が三の丸上段、奥が庭園の霞が池方面。

霞が池・・・睡蓮の花が沢山咲いています、霞が池の上の方にるり池とか滝が・・・城内の庭園が、向こう側の丘陵地帯に唯一江戸時代の建物で焼失を免れた洗心亭の茶室が残されています。

洗心亭です、右下側が霞が池。

折角ですから・・・今日は雨が降ったり止んだり・・・・安達太良山のロープウェイは風の為停止とか・・・・・明日は大丈夫でしょうね?。

庭園の一部をなす・・・イタヤカエデの巨木、根回り3・5m樹齢350-400年。

これはアカマツの巨木で笠松の名称が付く、根回り3m樹齢300年。

二本松城の裏手山頂脇・・・搦め手門石垣、左側が本丸方面。

搦め手門石垣。

本丸天守の内部から見た枡形虎口・・・左側は東櫓台。

東櫓台から見た天守台・・・二本松城本丸天守石垣跡・・・・奥の左の松の木奥方面が安達太良山なのですが雲で見えませんね、二本松城散策は此処までです、雨も上がりました明日に期待です。


向羽黒山城に行って来ました(一の曲輪)。

2021-04-22 06:23:23 | 城郭福島
2021年4月15日(木)に会津本郷の向羽黒山城に行って来ました、今回は本城の岩崎山山頂付近の一の曲輪です。

一の曲輪側と二の曲輪の間を現在は舗装道路で分断されています、昔は堀切で分断。

たびたび出ますが、上の部分です。

道路わきにある説明版。

見ずらいですが地図。

道路脇の虎口から入ります。

虎口内の広場奥に竪堀が山頂目指し掘られています。

逆側にも竪堀・・・規模が小さいですがあり。

少し上ると見えますが、その向こう側にも段々の削平地が見られます一の北曲輪ですね・・・二の曲輪から堀切わかれていますがこちら側の第一陣の防御の場所ですね。

一の曲輪(本丸・本城)の虎口ですね、正面に切岸で回り込むように階段。

一の曲輪脇の空堀と土塁。

虎口です脇の階段を回り込むように上に上りますね、正面は急な斜面です(切岸)。

上に上ります。

上りきると平地になりました、突き当りは尾根ですね。

尾根の左側も広場になっていますが、特別な防御は見られませんね?。

右側は奥に高台が見えます。

少し進みます、道なりに行けば上からの横矢掛かりですね。

上に上がればその先も曲輪が・・・・山城の特徴ですね、尾根筋を段々に削平し防御を高めていますね。

その先に上がれば、まだまだ先の曲輪がみえます。

どうやら最後の曲輪でしょうかネ。

上りましたよ、向羽黒山城一の曲輪です。

一の曲輪からの眺望です・・・・飯豊連峰が又奇麗に見えました・・・此処からは会津若松城・磐梯山は見えませんね・・・弁天曲輪からは一望できる。

脇に腰曲輪が・・・西側の曲輪が右下の方にもありますね。

一の曲輪です。

一の曲輪脇の阿賀川が眼下に・・・・、慶長6年(1601)上杉景勝が会津(100万石)から米沢(30万石)へ移封となり廃城、これで向羽黒山城散策は終わります。







向羽黒山城に行って来ました(水の手曲輪・二の曲輪)。

2021-04-21 14:00:48 | 城郭福島
2021年4月15日(木)に会津本郷の向羽黒山城に行って来ました、前回は三の曲輪でしたが、今回は水の手曲輪・二の曲輪(中城)です、次回は一の郭(本城)の三部となりますネ。

前回も出ましたが、左下から城内へ”お茶屋場曲輪”まで今回はほぼ中央の水の手曲輪と二の曲輪です。

お茶屋場曲輪からすこし戻る感じの左側に”みかえり坂”より上りますね。

路は階段をのぼりますよ。

急坂を上ると二の曲輪の切岸でしょうか?。

回り込むように上り階段があります・・・横矢かかりでしょう・・・此処からは上らず右横方面へ回り込みますね。

回り込むと削平地が段々又は土塁が見えました。

此処も水の手曲輪?・・・二の曲輪脇下に当たりますからネ、空堀と石が転がっていますし土塁が積み上がっていますし?。

なおも回り込むと段々の削平地竪堀が広がりますね。

左側は水の手でしょう・・・土塁が高く積み上がっています。

今の写真の続きです・・・・この空堀が水の手で右側に沢山の削平地・・・水の手曲輪なのでしょうね。

土塁の上から下がわを見ました・・・沢山の人工的構築が見られますからネ。

本当に沢山扇方に広がっていますからネ。

二の曲輪方面を見上げますね・・・虎口らしき切通が。

解りずらいですが、虎口ですね、左側が二の曲輪。

虎口ですね、左側手前下が水の手曲輪、正面突き当りは切岸で止まれ、右側に回り込むと、一の曲輪方面へ
突き当たり左側に階段があり二の曲輪へ。

少し近づくとわかりますね、二の曲輪の空堀と階段が。

階段を上ると下が解りやすく見て取れますね、結構な高さがあり上からの攻撃がしやすそうですね。

階段を上がれば二の曲輪です。

二の曲輪の説明版。

結構な高さの二の曲輪ですね周りに腰曲輪。

二の曲輪からも会津若松城方面が見えます・・・会津若松城と連携した防御の城ですからネ、徳川家康が関ケ原の戦いを始める前に上杉景勝征伐を、その時にはこの城を改修し強化したそうです。

こちら側も虎口ですね、一の曲輪側です道路向こう側が岩崎山山頂部で一の曲輪側です今は道路ですが、昔は堀切でやはり尾根を分断してたのです二の曲輪(中城)なのです、次回は本城でです。


会津・向羽黒山城に行って来ました(三の曲輪)。

2021-04-20 14:12:28 | 城郭福島
2021年4月15日(木)に会津本郷の向羽黒山城に行って来ました、郡山ー会津若松ー南会津からは歩きで阿賀川に架かる本郷大橋を渡りました。

途中で見た会津磐梯山です電車内から・・・・この磐梯山を軸に回り込むよう進みますね。

凄いですね、何の山かな?・・・飯豊連峰です・・・まだ真っ白です。

南会津駅から会津本郷方面へ阿賀川に架かる本郷大橋から見た磐梯山。

同じく飯豊連峰と素晴らしい景色です・・・肝心の向羽黒山城は?。

丁度磐梯山の逆側、阿賀川の向こう側に見える低い山左が岩崎山408m・隣が羽黒山・観音山(写っていない)・・・白鳳三山の岩崎山が向羽黒山城です。

向羽黒山城入口の案内板・・・岩崎山全山がこれ城郭ですね。

シンプルな縄張り図に置き換えます、図の左下の観音山(282m)・羽黒山(344m)は素通りします、岩崎山(408m)の城内へ・・・舗装道路が城内を貫いていますね、三の曲輪・御茶屋場曲輪・水の手曲輪・二の郭・一の郭と見ていきますね。

此処が城内への入り口です、後がインフォメーションセンターです・・・資料を頂きました。

観音山入口ですが、舗装道路を進みますね。

羽黒山も回り込みますネ。

漸く羽黒山と岩崎山の間に来ました・・・三の曲輪の案内板が、このお城は蘆名盛氏(蘆名氏16代)が永禄4年(1561)から11年(1568)8年の歳月をかけて築城、その後伊達政宗・蒲生氏郷・上杉景勝が改修したのです・・・黒川城(会津若松城)の詰めの城。

三の丸下。

三の丸から羽黒山方面を見る。

三の丸下から見上げる・・・段々の削平地が見えます。

三の曲輪です、この左側方面に北の曲輪があります(今回は行かず)。

舗装道路へ降りて奥に進みました、御茶屋場曲輪です。

景色が良いですよ、此処で景色を見ながら茶のをしみたいです。

飯豊連峰が・・・・。

少し右側にずらすと会津若松城(当時は黒川城が見え)その先に磐梯山が見えますね、此れからですが・・・。

猪苗代城跡に行って来ました(巨木天子のケヤキ)。

2019-07-01 14:14:26 | 城郭福島

2019年6月27日(木)福島の猪苗代町の巨木天子のケヤキと猪苗代城跡に行って来ました。


天子のケヤキ・・・私有地立入禁止の看板がありました、ごめんなさい。


樹齢伝1000年幹回り15・4mと日本でもトップクラスのケヤキですが中が崩れて大きさが解りずらいですね、昨年の東根のケヤキはハッキリしていましたが、この時期周りの木々と草もあり益々はっきりせず・・・。


少し盛り上がった台地に建っています、周りの木が邪魔しているので全体像が此処までですね・・・それだけ大きのですが、お地蔵様もお顔が見えませんね。


全体が入らないので中心のアップ・・・凄さが解りますかネ、石の社と地蔵様。


上部もアップで木の皮で栄養が伝わり枝も頑張っていますね。



裏の道方面からの天子のケヤキ草があり左側が解りずらいが一本なのでしょうね?、割れて分かれてしまったのでしょう、冬で草葉が無い時期でないと(雪も)駄目ですね、此れからすぐ横の猪苗代城跡へ行きます。


天子のケヤキが有る所から近いのです、猪苗代城跡は図の右側で左側上が鶴嶺城跡と二つのお城が有るのですが、途中雨模様なので猪苗代城跡を見て回りました。


これが古地図の猪苗代城跡です、豪族猪苗代氏のお城で後に会津藩の支城(一国一城の例外みたい)戊辰戦争で落城しましたが、天子のケヤキは中央右側の城下の所ですね、絵でもわかりますが磐梯山南山麓の高台にあります。


猪苗代城大手口多門櫓台石垣・・・土塁と石垣(会津時代でしょうか)、いざ見参。


大手門跡、右石垣が多門櫓台石垣で喰い違い門で右側にすぐ左側へと上ります。


多門櫓横から突き当り左側に井戸がありますが井戸手前を左側へと進みますね。


お城の中段に帯曲輪があり二の丸・本丸を囲んでいますね、奥上が本丸です。


最初の階段を上り喰い違いで本丸の階段へと繋がります、この帯曲輪が一周しています、この石垣帯郭法面石垣と説明あり。


帯郭を時計回りに回りますね、本丸へは後程。


帯郭の胴丸跡から大手口をみます、井戸も見えますね。


此処が南帯郭跡です。


南帯郭からの景色です、左奥が猪苗代湖です。下は歴史資料館の一部。


南帯郭から見た二の丸土塁。


二の丸搦め手道、石垣は本丸隅櫓台です。


西側の土塁と下に空堀が見えますね。


北帯郭から見た土塁下、この左側奥方面に鶴峰城跡があるみたいです。


漸く本丸登り口へ。


左右に分かれますが、左側の二の丸へ、上の石垣が二の郭櫓門です。


この石垣は二の郭櫓門東側石垣。


二の郭から見た本丸黒門跡ですね。


二の郭上から見た南帯郭ですね。


二の郭から見た本丸方面、左側石垣が先程の本丸隅櫓台跡で搦め手道、右側は黒門の石垣跡でしょうかネ。


猪苗代城本丸です背景に会津磐梯山です、鶴峰城跡は出来れば次回にでも?、小ぶりですが良いお城でしたね、此れで今回の大人の休日15000円切符は終わりです・・・・明日は別の旅行が入り三日で終わりです、連続は疲れますね。