三郎兼続の日記

趣味の写真で山登り・旅行を主体にした日記
最近は山登りが少なく、城郭・巨木へ

黒井城に行って来ました。

2021-04-12 15:27:57 | 城郭兵庫
2021年4月5日(月)予定では雨でしたが、少し早まって天気は回復しましたね、兵庫県丹波市の赤松貞範が建武2年(1335)に築城その後改修を繰り返された中世の山城城郭です、標高356m/比高240mの山城。

此れで今有名なお城ですね、荻野直正(赤鬼の異名がある・・赤井直正)が当時城主です、天正3年(1575)織田信長の命令で始まった丹波攻め明智光秀との黒井城の戦いです・・・”麒麟が来る”の舞台・・戦闘シーンはありませんがね、後ろの山頂が黒井城です。

城主赤井直正です、あの天空の城竹田城を落城させたが、急遽戻り激戦を繰り返しますね、黒井城の戦いは一次と二次に分かれます、

天正3年(1575)10月から4年1月の包囲攻撃の最中に同じ丹波の八上城波多野氏が造反し明知勢に攻めかかりました。その後天正5年10月から天正7年(1579)8月黒井城落城までの戦いです、・・・天正6年3月赤井直正は病死50歳。

黒井城は福知山の南、篠山の北ですね、京都の西端の兵庫県丹波市の山中です・・・・この辺りは明智光秀の丹波攻めの激戦地区なのですね、この後天正7年8月からは近世城郭、福知山城を築城しますからネ・・・この辺りは逆に中世山城城郭の宝庫です。

黒井駅前から見た黒井城です、駅前の道を真っ直ぐ、大通りを右側方面へ・・・興禅寺を目指しますね。

駅前の地図を・・・興禅寺黒井城下の館でこの近辺が城郭で黒井城は詰めの城なのですね。

黒井城へは私は緩やかなコースを上り石踏の段から本丸・・その後戻り急坂コースを下り太鼓の段三段曲輪をみました、残念なことに水の手曲輪に気が付きませんでしたね。

学校隣の興禅寺入口です。

興禅寺参道から正面が興禅寺、奥の山が黒井城で急坂コースですね・・・この辺りが黒井城下館なのです。

興禅寺です・・・これ自体が城郭ですね・・・戦後明智光秀の家臣斉藤利三が治め所ですね・・・娘はやがて徳川時代春日の局となり大奥を収めたのです。

興禅寺の裏山が黒井城入口です、左側がゆるやかコース、右側奥からが急坂コースです(此方から上がるのが曲輪跡が実感できそう)。

緩やかな?山道へ入りました。

途中一個所見晴らしが開けた所がありましたがまだまだ上りますね。

漸く石踏の段と呼ばれる削平された曲輪跡に出てきましたね・・・・模擬門だそうです。

石踏の段跡地を横から見ます、山城の途中の中継広場ですね。

石踏の段は急坂コースと緩やかなコースが交わる所でもあります、帰りは右側を下りますね、下って少し先に太鼓の段があります・・・山の向こう側です・・・水の手曲輪は気が付かなかったですね??。

先に急坂コース側を説明します、太鼓の段です・・・水の手には気が付かず。

急な尾根筋を削り切岸状態に・・・・敵が登りずらく回り込むように仕向け横矢掛かりが出来る防御の仕組み・・三段曲輪。

三段曲輪の一つの切岸上部から下を見ますね、上りくる敵を上から攻撃ですね。

三段曲輪を下から見上げますね・・・昔は切り立つような壁状態なのでしょう、力攻めは犠牲が多く出るので包囲網をひくのでしょう。

石踏の段からさらに山頂を目指しますね、この山は石が多いですね、もう少しです。

此処で山頂の黒井城縄張り図を・・・今右下の三の丸下の東曲輪から城内へ入ります、三の丸・二の丸・本丸・西の曲輪と周りの帯曲輪を見ます左側下の筋部分が今登って来たコース。

山頂へ出ました、目前に東曲輪の石垣が目に飛び込みましたね・・・鉄の階段は虎口部分が壊されるので設けたのです。

東曲輪へ入り、三の丸方面を見ました。

少し脇へ同じ方面、三の丸の石垣と奥が本丸です、石垣も見えますね。

二の丸の虎口へ・・・二の丸の脇を通りますね・・・横矢掛かりです。

二の丸の虎口です。

二の丸から本丸方面を見ます。

二の丸脇から三の丸方面を見ます。

二の丸脇から本丸方面を、石垣を一部見えますね。

同じく三の丸方面へ振り返りますね、三の丸の土塁の高さも昔はもう少し高低差がありますね。

本丸脇に近づきました、二の丸と本丸の脇には堀切で分けられ本丸側が高く石垣がありますね、細い土橋での虎口が解ります。

本丸空堀下から見上げました、今は土塁が崩れ埋まり石垣も崩れていますが、築城当時は本丸へは近づ付けなかったのでしょうね。

本丸脇から先程きた三の丸方面を見ました。

本丸虎口へ向かう、本丸の隅の石垣・・・大分石垣が崩れていますね。

本丸虎口前から本丸南側の石垣をみる。

本丸の虎口です。

先程の本丸の隅石垣から二の丸方面を見ました。

虎口を上がり本丸です。

本丸から二の丸への土橋虎口を見る・・・本丸側が大分崩れていますね。

本丸虎口ですね、小さな枡形?でしょうかネ。

二の丸との土橋を斜めから・・・規模が小さいですが雰囲気がありますね。

やはり本丸から二の丸方面を・・・北側です。

本丸に立つ碑・・・・黒井城別名保月城です、山城を落とすのは大変ですね、明智軍は包囲網を引いての長期戦で落城させましたね、天正7年(1579)8月の事です・・・天正10年本能寺の変ですから。

本丸脇の西曲輪です。

西曲輪から見た本丸です。

西曲輪から南側へ回り込みました、此処だけ石垣が残っていますね。

少し下がって石垣全体を、手前上の石垣は鉢巻石垣なのでしょうね、全部を石垣での要塞にはしていないのですね。

北側の本丸脇です、こちら側には石垣は使われていませんね、明智光秀はこの黒井城と八上城の中間地点の金山に拠点の城を築き天正5年から天正7年の攻城包囲網を引いたのです、戦は直接の戦闘力だけでなく総合力ですからネ。


尼崎城跡に行って来ました。

2019-04-19 21:28:13 | 城郭兵庫

2019年4月15日(月)に尼崎城跡に行って来ました、住吉大社から難波駅乗り換えで阪神尼崎駅へ乗り換え場所が離れていたので大変でしたが無事着きました、電車から良く見えましたネ、本尼崎城は3月末?開城の新しいお城です。



以前の三の丸の公園に築城。



立派なお城ですね、今日は天気が良くて・・・・一段と良いですね。



阪神尼崎駅の側です。



尼崎城は戸田氏鉄5万石が築城、当時は三重の堀に囲まれていたそうですね。






お城も遺構があれば良いですが、建物があれば全然違いますからね、此れから梅田に出て淀城に行きますよ。

明石城跡に行って来ました。

2019-04-18 11:45:04 | 城郭兵庫
2019年4月14日(日)に明石城跡に行って来ました、今日から4日間奈良を中心にしたフリー旅行です、京都からそのまま明石に行きお城を散策し奈良に行きます、生憎雨が降
り始めましたね。

明石駅のホームから見た明石城の堀・石垣。櫓が見えます、古来より交通の要所なので徳川が西国の外様大名の抑えの城として姫路城の次に重視したのですね。

駅前に広がる堀も大きいですね。

明石城公園の全体図ですが、右側が駅でその向こう側が山陽道です、淡路島・四国ルートの要ですからね、左側堀で囲まれた長方形が今に残る城内ですね、グランドは三の丸です。

正面入口(太鼓門)から見た二つの櫓、左側が坤(サルヒツジ)櫓・右側が巽櫓がある本丸です。

太鼓門は枡形構造ですね。

門を抜けると広場(武家屋敷)の向こうに石垣が有り(本丸の石垣)巽櫓が見えますね。

右側には坤櫓が桜の花の上に見えました。

広場右側に武蔵の庭園が広がっています。

本丸の石垣は二段に積み重ねてありますね、巽櫓の右側は本丸入口として狭められていますね。
本丸への登り口です、石垣は二の丸・東の丸側です。

登り口の途中から見た本丸です、手前の隅櫓が巽櫓奥が坤櫓です。

登り切った所が二の丸への門ですね、本丸へは直接は入れません。

本丸に入るのには右側の細まった(鵜首状態)土橋を渡るのです。

こちら側は二の丸で奥に東の丸と二分されています、左側の土塁の向こう側は石垣で下に桜堀があります。

二の丸側の反対側から見た本丸側です。

此処を渡れば本丸です。

本丸天守台跡から見た坤(サルヒツジ)櫓と三の丸方面・明石の中心街です、天守は無かったみたいですね、この櫓は伏見城の櫓を移築したみたいですね・・・・江戸城の伏見櫓もそういわれていますね・・・・伏見城今回見てきましたが一国一城令で廃城解体したので再利用したのですね。

搦め手側?の桜堀です、右側がが二の丸の石垣ですね。
坤櫓です、櫓奥の石垣が天守です、天守下側が稲荷曲輪側で剛の池もありますね。

最後にもう一度巽櫓を・・・結構雨が降っていて写真がハッキリしませんが、明日からはお城巡りに集中しますよ、雨の中四阿の中で花見をしている人もいます、頑張りますね。









倉敷に行って来ました(姫路城・好古園)。

2016-03-29 21:02:39 | 城郭兵庫
2016年3月24日(木)に姫路城・好古園・播州赤穂城に行って来ました、流石世界文化遺産・国宝姫路城(白鷺城)です観光客も沢山来ていますね、50年ぶりです。

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姫路駅前から正面に見えますね、街並みはともかく城の規模がそのままあるのですから改めてすごいですね。

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お城の縄張りです、まだ”ぬの門”と”りの渡櫓”が修復中が残念ですが他は平成の大修理が終わり奇麗な白鷺の天守閣が甦っています、門・櫓の数が多いのでイロハとか一二三とか名前を附っている状態ですね。

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大手門前からの姫路城です。

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大手門と堀です

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三の丸広場(今は何もありませんが)から左側方面の西の丸百間廊下入り口櫓・カの櫓・菱の門です。

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カの櫓・菱の門・化粧櫓です、ぬの門・りの渡櫓は工事中なので撮りません。

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西小天守・大天守と本丸(備前丸)の石垣・二の丸の石垣です、右側が太鼓櫓・帯郭櫓(腹切丸)です。

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西の丸の石垣から見上げた百間廊下入口櫓とカの櫓です。

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菱の門入り口です。

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門を入るとそこに天守が乾小天守・西小天守・大天守と本丸石垣・二の丸石垣が見事に迫りましたネ。

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上の写真を少し下から三国堀から石垣を含めてご覧あれ。

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百間廊下出口にある化粧櫓(千姫の休憩所)です。

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西の丸から見た天守閣、西小天守と大天守の間の石垣下が天守への入り口なのです、回り込まないと入れないのです、高い石垣と長い壁門を越さないと辿りつけない防御を構成。

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西の丸百間廊下への入口櫓です。

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百間廊下と天守です。

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西の丸から見た天守閣までの回り込ませる仕組みの壁と門がつながります、左側の櫓門を抜け右側の天守閣入り口に辿りつかないと・・・・。

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途中の多分”ろの門”ですね。

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これは”はの門”へむかうところですかね。

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しかも門が段々小さくなり大勢が攻め込めない防御の仕組みです、門の狭間・石垣の上から狙い撃ちです。

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天守閣への道は上からの狙い撃ちに隠れる場所もないところです。

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天守閣内部から今来た方角を見ました大変さがわかりますね。

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本丸広場から見上げた天守閣です、手前の石垣の間が出入り口です。

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姫路城横の好古園にも入りました、色々な庭園がありました。

姫路城は5層7階で黒田官兵衛・羽柴秀吉・本多忠正らが城主ですが西国の大名を抑えるため池田輝政が大改築で今の姫路城を作りました。
明日はいよいよ備中松山城です楽しみだなー。

倉敷に行って来ました(播州赤穂城)。

2016-03-28 20:55:30 | 城郭兵庫
2016年3月24日(木)に姫路城を見た帰りに播州赤穂城を見てきました、赤穂城は赤穂浪士忠臣蔵で有名なお城です、日本100名城ですね、播州赤穂駅から歩いて行けます

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赤穂城は千種川を横に後ろには海です、城は変則輪郭式ですね、本丸を二の丸が囲み、二の丸の一部を三の丸が囲みます。
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三の丸の堀の角にある隅櫓、奥が大手門です。
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赤穂城大手門です。
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大手門の内側です元は枡形で内側に二の門がありました。
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門の中奥は大石神社(忠臣蔵で有名な大石内蔵助を祭る)。
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二の丸・三の丸を進むと本丸門と内堀があります、三の丸・二の丸の境は余りありません。
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本丸門の内側です、枡形構造で高麗門・櫓門です。
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本丸城内です、藩邸の跡を表示しています、奥に天守台の石垣があります。
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天守台の石垣です。
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天守台から見た藩邸横の庭が見えます。
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同じく天守台から見た藩邸跡と大手門です。
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台所門を外(二の丸側から見た所。
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台所門を外(二の丸側から見た所少し角度を変えました、石垣が細かく曲がっていますね?。
今色々と復元の最中に見えました・・・・・そのうちにお城が建つかも?。



竹田城址に行って来ました。

2015-04-17 11:48:54 | 城郭兵庫

2015年4月14日(火)に竹田城址に行って来ました、小雨の降る中ガスもでましたが、天空の城の浮き上がりは見られませんでしたが、感動ものの時間を過ごせました。

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竹田城は最高所に本丸があり北千畳曲輪・花屋敷曲輪・南千畳曲輪があり北と南千畳と比翼型の梯郭式山城で総石垣造りです。

応仁元年(1467年)かの応仁の乱(細川勝元:山名宗全)の張本人の但馬の守護山名宗全が築城者に挙げられています、太田垣氏が納めていましたが、永禄12年(1569年)織田信長の配下の木下秀吉軍2万が10日間で但馬18城を落城・・・毛利:織田軍の綱引きで、その後天正8年(1580年)羽柴秀長が6400の兵で大田垣氏を滅ぼし、秀吉に投降した龍野城主赤松広秀が城主になり今の城を築いたとあります。

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北千畳に上る所が大手門につながります・・・・・山ですから急坂を上ります。

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急坂を上ると石垣が見えてきます、すべて石垣に囲まれた城で中の虎口(出入り口)も数多くあり区切られています。

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大手門です両側に石垣があり、櫓が在ったのでしょう、左側上が三の丸・正面左側が二番目の虎口で桝形の形式です・右側が北千畳曲輪。

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二番目の虎口です。

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北千畳曲輪の多分櫓の在った場所から見た大手門の虎口、右奥が二番目の桝形虎口へとなります、正面が三の丸、その一番奥(左側が)二の丸です。

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二番目の虎口上(三の丸)から下を見た所です、奥が北千畳曲輪。

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三の丸外れから見た大手門への登り口・正面が一番目の虎口石垣、奥が北千畳曲輪。

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三の丸外れから見た二の丸側、前の石垣は武の門です、右側が二の丸へ続く道ですが城内は数多く、段差と鍵の手に折れ曲がり細かく仕切る門で構成された複雑な造りが見れます。

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此れが三の丸から二の丸への道で、右奥が本丸天守台、その右下が花屋敷曲輪、正面の石垣が武の門の片方です。
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竹田の城下町が一望です、川は円山川です、此処は兵庫県(但馬の国の中央(南部)で北部・山陰道の接点で交通の要衝なのです。

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左側が武の門で回り込み二の丸に来ました、二の丸外れから見た三の丸・大手口・北千畳・右下が城の入口で上がってきたわけです。

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二の丸から見た左奥が南千畳曲輪・その手前が南の虎口です、櫓の石垣があり大門の虎口、その上向こう側が南二の丸、また櫓の石垣があり平殿へと続きます,しつこく続きますネ。

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上の写真を少しずらしました、櫓の石垣が判りやすいですネ、右側は本丸の石垣です。

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二の丸から見た、此処が最高所の本丸の天守台と天守付け櫓の石垣です、南側には本丸の右側を回り込みます。

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天守台の石垣です・・・・・今は中に入れません、天守台へ回り込む形ですが付け櫓から天守台へ登る口が見えません・・・?、多分付け櫓と天守は中の階段で連結した建物なのかな?、右側下が花屋敷曲輪がある方です。
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上の位置から振り返りました、右側が二の丸・武の門の石垣・三の丸・二番目の虎口の上・左側奥が北千畳曲輪の外れです、天守台上から見れば大分景色が違うのでしょうが、ここ数年で見学者数が何十倍も増えて来たそうですから入れない個所も増えますネ、高倉健の「あなたへ」の2012年は入場料も無でした、日本100名城の挙げられて一躍有名になりました。

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ここも入れません、花屋敷曲輪です。

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本丸の石垣です、穴太積みで姫路城・安土城と同様です、隅角部分は算木積み方式です、石を見ると野面積みでしょうね・・・おかげで水捌けが良く何百年も保存状態が良いのでしょう(大分補修しましたが)。

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平殿あたりから見た南側、虎口の櫓用の石垣、その奥が南二の丸、その奥見えませんが南千畳。

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虎口を出たあたりから見た本丸の石垣と二の丸。

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上を見上げると本丸の石垣と天守台の石垣。

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南二の丸です。

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南二の丸脇の虎口、右側が南二の丸、左側は門櫓でしょうか?、何せ仕切り門が多く厳重な構造です。

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南千畳曲輪。44dsc08773

南千畳曲輪から見た正門の虎口。

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南千畳曲輪の奥から見た本丸天守台・二の丸方面。

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南の虎口脇から見た虎口]脇の石垣、左奥が二の丸・三の丸・北千畳方面。

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同じく、ズームアップ、大手口の上り階段、城の入口受付場所が見えます。

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立雲峡から見たお城の全貌ですが、雨が再び降り、残念ですがこの程度です。

木下秀吉の弟、秀長が但馬の国に攻め込みましたが当時は3000の兵とか良く城が落とせたと思いましたが、城方は投石、秀長軍は300の鉄砲で対応とあります織田軍の戦闘能力は非常に高いのですね、此の城もその後の改修でこのような近代的な(?)山城に変貌させ権力のシンボルとして見せたのでしょう?。