三郎兼続の日記

趣味の写真で山登り・旅行を主体にした日記
最近は山登りが少なく、城郭・巨木へ

山上城跡に行って来ました(群馬桐生)。

2020-03-14 11:13:32 | 城郭群馬

2020年3月12日(木)に上毛電鉄の膳駅から山上城跡に行って来ました、その前に膳城跡に行き、北側に抜けて無事山上城跡へ、意外と近くでしたね。

山上城跡入口です・・・・。

模擬櫓?を入ると三の丸に入る木橋が・・・・三の丸は公園ですね。

三の丸にある案内図です、皆さんが荷物置き場に・・・・少し横にどけて写真を・・・左側公園の外に南曲輪が有りますね、丘陵地を空堀で区画し横にも長い空堀と土塁で囲んだ連格式の中世のお城ですね。

藤原秀郷の流れをくむ山上氏のお城で関東管領山内上杉の重臣、天文15年1546年河越夜戦にも上杉軍として参戦、弘治元年1555年北条氏康により山上氏秀は城を奪われます、永禄9年1566年戻るが、永禄12年1569年上杉謙信の関東攻略で山上氏は滅亡、天正8年1580年武田勝頼により落城と有名な武将に攻められたお城です。

三の丸です、正面先が二の丸。

三の丸と二の丸の空堀です、二の丸脇に腰曲輪が北郭まで、右側は土塁でもう一つ腰曲輪が見られますね・・・見た目防御性は高く見受けられませんね。

三の丸と二の丸を分ける空堀です。

先程の二の丸の虎口と腰曲輪です。

二の丸の虎口から三の丸方面を見ました。

二の丸から見た腰曲輪、その左下にも、もう一つあります。

二の丸です、奥の盛り上がる所が本丸と本丸二の丸は強く分かれていませんね。

二の丸西側の土塁です、此方も、空堀・土塁と続いていますね、この空堀は三の丸から北の丸まで直線です堀底道ですね。

本丸の虎口?、右側奥が本丸で此処だけが空堀で分けられていますね?。

本丸から北郭を見ました、結構な高さが維持されていました。

本丸奥に碑、正面が北郭、その向こうが笹郭になります。

本丸広場です、連格式の簡単な構造のお城です、天正18年1590年の小田原征伐の時には片桐且元らに攻められ落城・・・その後廃城。

これは西側の虎口?。

西側虎口から見た三の丸の土塁と空堀、今日は桐生城・膳城・山上城跡を尋ねました、此れで帰りますね。

膳城跡に行って来ました(群馬)。

2020-03-13 19:23:49 | 城郭群馬

2020年3月12日(木)に群馬の膳城跡に行って来ました、西桐生駅から上毛電鉄に乗り、膳駅へ、この電車初めてかも・・・2両で後ろ車両に自転車乗車OK。

膳駅脇を右側へすぐ大通りを右側へ、少し歩くと案内が在りました、駅から歩いてお城までいけます、左に曲がり兔川を渡れば昔は城内ですね、橋の向こう側が根古屋で右側が南曲輪・追手門方向、根小屋の上方向(北)が西曲輪でその上が本丸です。

此れが膳城跡の全体図ですね、今は本丸脇から真下に道があり、遺構は本丸・二の丸周辺の曲輪と空堀が残っています、意外にも周辺によく見れば空堀らしき見て取れます、本丸の北側は公園ですが上のお寺さん間でとかなり広いですね。

坂を上るといきなり膳城跡本丸が・・・・・。

膳城跡本丸の入り口です・・・それ程大きくはありませんね、西側から南にかけて兔川が流れ、東側に童子川の間の棚状丘陵地帯に空堀を巡らせたお城です。

本丸の堀底道をまず時計回りに見て回ります、左側は今は通りです。

反対側へ出てきました、右側が本丸、左側が二の丸。

空堀の底から見た本丸・二の丸・正面は北曲輪方面ですね、此れから少し先左側を上ります。

登と空堀があり、左側が二の丸で此処は袋曲輪が有りますね。

此処が袋曲輪ですね、左側は二の丸を囲む空堀です。

袋曲輪と二の丸の合流点です、後が西虎口。

二の丸です。

二の丸から見た本丸と空堀(先程歩きました)と右側が櫓台です。

本丸から見た二の丸がわで右奥が先程登った袋曲輪側です・・・・この一角が奇麗な遺構として保存。

本丸です、右側は通り。

本丸に残る碑、築城は15世紀後半にはすでに有ったとか善氏(後に膳氏)文明12年1480年佐野昌綱により、落城したが由良氏(佐瀬業繁の援軍で帰城、永禄5年1562年上杉方に降る、元亀3年1572年上杉謙信の下野小俣城攻めで北条軍と戦うが善宗次は討ち死、その後北条軍により落城、膳氏は没落、その後上杉・北条と城主は変わる、天正8年1580年御館の乱で武田勝頼は上杉景勝を支持、上杉景虎の厩橋・大胡・山上・伊勢崎の各城を攻略、膳城近くに来た武田軍(この時武田軍は甲冑を来ていなかった)を膳城から攻撃、逆に打ち取られた”膳城素肌攻め”は有名なお話とか・・・廃城となったとの事。
この時すでに武田軍は衰退のはずですが・・・まだまだ強いのですね・・2年後天正10年武田家滅亡ですからね・・・信長も(本能寺の変)・・・その後8年北条も。

後ろは公園でした、三の丸・北曲輪辺りでしょうかネ?、お城が有りました。

三の丸・北曲輪?の公園端から見た赤城山ですね・・・これから山上城跡へ道が解るか不安ですが。

群馬太田の金山城跡に行って来ました。

2019-10-11 07:15:46 | 城郭群馬
2019年10月9日(水)に群馬太田の金山城跡に行って来ました、6年前今回2度目、新田義貞の郷土です、新田氏の一族岩松氏が築城その後下克上で由良氏が治めました、上杉謙信・武田信玄・北条等の攻撃に耐えた難攻不落の名城です、北条の謀略で支配下になり天正18年1590年豊臣秀吉の北条征伐で廃城・・・前田利家らが接収とあります(戦わずですかね)、中世の城郭ですから近代的鉄砲の前には。

太田駅少し手前の電車から見た金山239mです、太田駅からも比較的近く私は歩いての行きます。

駅前の観光案内でパンフレットを頂きました、駅前少し左側から大光院・金龍寺を経由し、見附出丸から駐車場の上段の西城筋違い虎口・西城前から大手筋へ進みました。

此処は見附出丸北土塁の塹壕(堀切)です正面上が見附出丸。

見附出丸です、眺望は太田駅方面です。

駐車場奥(西城)左側の堀切(ここは塹壕)で筋違い堀切土塁が見られます。

西城に有る案内図(駐車場)左側から来ました、此れから右側の尾根筋を進みます。

金山城跡の尾根大手筋へ。

最初にあらわれる西櫓台西堀切です尾根を分断した防御です、堀切の底を通り右側斜面の参道へ。

次に西櫓台通路の堀切で左側脇から西櫓台へ回り込むような仕組みです、桟道は右側下側ですね、尾根を断ち切り、横矢の防御ですね、漸く西櫓台へきました。

西櫓台を少し先に物見台下虎口が見えてきましたね、石垣のある立派な虎口です、やはり堀切で右側は竪堀です。

物見台下虎口の堀切、上の写真の右側の岩場を削ったのです、岩の上は物見台の櫓があります。

虎口の奥は細い通路です、左側が西物見台、右側はガケです。

その奥が石垣で囲まれた竪堀です竪堀には橋が架けられています。
竪堀に架かる橋と石垣。

橋の向こう側には見張りの小屋と西物見台方面へ上がる階段です。

物見台跡と馬場です。

物見台から見た赤城山方面でしょうか?。

物見台から・馬場を通り・馬場曲輪を下り大手口へ、大手口虎口脇にある月の池、左側が馬場曲輪脇の大堀切で向こう側が本格的城内ですね。

大手虎口です、石垣で左右高く積み上げられた、防御です、正面も石垣で遮られ左右に回り込む配置です。

大手の石垣です、段々の石垣が覆い被さるような通路です。

左側の石垣が正面隕石垣で攻めては左右へ、写真は右側方向へ右側正面は南曲輪です。

此処は大手の右側の曲輪(建物横)から見た右側が南曲輪の石垣と正面は大手口の正面にそそり立つ石垣です、奥に行くには正面の石段を上ります。

石段を上ると日の池です、池の向こう側上が三の丸ですね。

南曲輪です、太田市内が眼下に見えますね。

南曲輪から見た日の池です。

同じく大手口方面です。

三の丸の金山の大ケヤキ樹齢800年目通り6・79mの巨木です、奥が本丸(実城)です。

金山山頂部239m本丸跡の新田神社です、二の丸は左側奥ですが現在は竹山の私有地ですね。

本丸裏の腰曲輪で見た、残存石垣で当時のままなのでしょうね、関東では珍しい石垣の山城ですね、唐沢山城の石垣も凄いですが、幾つかありますね。



渋川白井城跡に行って来ました。

2018-03-17 07:37:06 | 城郭群馬

2018年3月15日(木)に渋川の白井城跡に行って来ました、白井城は利根川と吾妻川の合流点に突き出した台地の先端の自然の要害を利用した城です、関東管領山内上杉憲実の家来長尾景仲による築城、上杉・武田・北条に挟まれながら頑張ったが、秀吉軍の前田利家らに攻められ開城とのこと、江戸初期何人かの城主が入れ替わりましたが本多家を最後に廃城、城としての遺構があります。

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国道17号バイパスの脇に白井宿(城下町)が残ります、明治に国道が渋川を通り衰退、渋川駅からは徒歩30分?・バス5番線での鯉沢か国立医療センター行(此れが便利)、駅観光協会。

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白井宿を見学し道の駅こもちで食事、その後源空寺・此処は愛宕神社ですケヤキの巨木がありました。

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いよいよ、北郭から三の丸へ左側正面が二の丸・本丸です、右側が吾妻側の断崖?側。

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此処は三の丸と二の丸の空堀ですね、今は農地ですね。

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二の丸です、正面の木々が本丸との境の三日月堀あたりです、随分と広い城郭なのです。

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漸く本丸前に来ました本丸左側の三日月堀(湾曲した堀)、堀の向こう側は本丸の土塁です。

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三日月堀の逆側の堀です、右側が二の丸、左側が本丸です。

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本丸の大手門の石垣(石積)の土塁跡です、小さな枡形構造です、左側に高い土塁があります(こちら側の写真に気がいき全体が無い)。

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本丸からの虎口です、左側が石積、右側が張り出した土塁、木の辺りは堀です。

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此れが縄張り図です、左側が吾妻川でお城は川沿いに郭が並んでいるのです、左側辺りに国道17号で沼田方面へバイパスは右端側でその右側に利根川で大きな巾着の形状の地です。

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これは本丸北西の角の土塁の上から見た左吾妻川・堀・二の丸側です。

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南東側土塁上から見た本丸全体で正面が虎口です。

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南側土塁の上から見た南側のささ郭です、この先に南郭・新郭と在りますが、現在は多分さくら館で遺構としては不明です?。

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三日月堀に入り進むと分岐正面が帯郭で本丸・二の丸・三の丸の前衛拠点ですね。

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堀内から上がると帯郭があります。

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帯郭を二の丸・三の丸を左に見ながら進むと神明宮があり、虎口です。

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神明宮の入り口です、お城への出入り口の一つですね。

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お城の外側の畑側から見た本丸側です、手前が帯郭の防壁で空堀があり本丸です、わかりやすい構図ですが川に挟まれた要害なのですね、それぞれの土地にそれぞれの城郭があり、それぞれ命がけで構築したわけですからネ。







真田丸三城址に行って来ました(沼田城址・名胡桃城址・岩櫃城址)。

2016-05-19 11:56:43 | 城郭群馬
2016年5月18日(水)に群馬の真田丸三城址に行って来ました(沼田城址・名胡桃城址・岩櫃城址)、昨日の雨が嘘のように晴れ渡り絶好のお城巡りとなりました、幹事さん及び皆さんに感謝です。
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まず、河岸段丘の崖に三方を囲まれた沼田城址、此れは幕府に提出した沼田城の縄張り図です、当時は5重の天守で関東では江戸城と2つのみのお城だそうです、真田家の分領でしたが、5代目信澄で改易城は壊しました。
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沼田公園で本丸です、正面小高い所が天守の場所。
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乾櫓の石垣です、土に埋もれていたのを発掘したもので当時の面影を残す遺構です。
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段丘はずれの古城跡(捨曲輪)。
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捨曲輪から見た谷川岳連峰、左側の方面に名胡桃城が見えるのです(この写真のもう少し左?)4km位こか。
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名胡桃城址(なぐるみ)です、豊臣が出した惣無事令に北条の沼田城代(氏邦)猪俣何某が違反し落城したお城です、此れがもとで小田原征伐の口実が出来たのです、それでこの小さな城が有名なのです。
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三の丸から見た二の丸です、空堀で分けられています。
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三の丸と二の丸の空堀です、両サイドは沢で切り立つような崖です。
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二の丸です、奥が土塁でその奥が本丸ですがやはり空堀・橋で引きられていますね。
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土塁を入り本丸側を見た所です。
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本丸跡です、見事な碑ですね(徳富蘇峰)。
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本丸の先もやはり堀越で分かれたささ曲輪となります。
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利根川に突き出た段丘を利用した山城です、此方からも沼田城方面が右側の山にかかるかぐらいで見えるのです、対岸の山中腹には敵の明徳寺城がありますね。
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中之条親都神社の大ケヤキ樹齢700年幹回り6・7mと在りました、真ん中の幹が枯れて上に屋根が乗っています中は空洞化しているのでしょうね・・・・群馬県内で第二位と在りました・・・・第一位も近くの原町に在ったのですが気が付きませんでした・・・・残念無念です。
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霊山嵩山の男岩から鯉のぼりが・・・・・この山の山頂付近にも山城があるのです、今回はいけませんが。
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岩櫃山を背景にある岩櫃山の縄張り図です、武田勝頼が織田軍に攻められた時昌幸が進めた城が此処です、勝頼はその後譜代の小山田信茂が進める岩殿山城を選択し裏切られ天目山で最期を遂げるのです。
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見事な縦堀(私は横に見えましたが)あります。
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本丸への細く急な道が続きます。
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左側開け、右側に切岸の土塁に出ます・・・右側が二の丸・本丸への登り口です。
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土塁端は複雑な縦堀で構成されていました。
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二の丸を上がり本丸への入り口です、横矢がかりですね。
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本丸へ上がり下を見ると二の丸ですね、本丸を囲むように帯曲輪?もありますね。
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本丸の碑です。
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本丸脇の石社、下段が帯曲輪?かな。
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その帯曲輪の端に枡形虎口跡があります、他にも木戸・水曲輪・屋敷跡が多数見られました。
各城ともボランテアのガイドさんが居られ親切丁寧な説明をして頂きました、本当にありがとうございました、この後岩櫃城温泉に入り反省会をして帰宅、感謝感謝。

名胡桃城址・沼田城址に行ってきました(群馬)。

2014-07-30 11:10:09 | 城郭群馬

2014年7月29日(火)に群馬県水上市の後閑にある名胡桃(なぐるみ)城址・沼田城址に行ってきました、暑かったです。

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後閑駅前から利根川を渡りました、地元の方が親切に水路橋を教えてくれて少し近道が出来ましたが、結構歩きました、正面左(ここからは左木の陰方面)奥の高台です。

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国道17号に少し切られた形です、図の上の方が利根川後閑駅方面で、駅の先山の麓に北条方の沼田からの出城明徳寺城が有ります、そう此処は真田昌幸が築いた山城です。

城は簡単な連郭式な山城です、尾根筋を利用し堀切で区分け。

豊臣秀吉に北条氏を攻める原因を与えたお城です、秀吉が関東。奥州の大名に私闘を禁じた「関東奥惣無事令」をだし、北条側が無視してこの城を攻め取ったのです。

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国道17号から見た城内です土塁は農地として使用したため、平らに削られていますが空堀が綺麗に残っています、丸馬出しで左が三の丸の空堀です、馬出しの後ろに空堀があり三の丸です。

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此れは右側が三の丸で左側が二の丸で此処は二の丸の空堀です。

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これは二の丸横の腰曲輪でその先は湯舟沢の断崖です。

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二の丸と本丸を渡す土橋(昔は木橋)で空堀は筋違いに彫られています。

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土橋を渡ると本丸です、碑文は徳富蘇峰による揮毫とありました。

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本丸先のササ郭です、尾根筋を堀切で分断した様子が判りやすいです、此処には土塁が少し見られます。

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ササ郭から沼田方面をみる、木の陰でわずかに見えません。

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ササ郭からみた本丸です、土橋横が両サイド堀切で落としてありますネ、右側は空堀で踏み込んで上がると二の丸・三の丸・般若郭の壁に阻まれます。

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本丸から二の丸方面をみる。

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二の丸からみた左が三の丸と向かい側が般若郭です。

小さなお城ですが、縄張り状態がよく、地元のボランテイアの方の説明で判りやすかったです感謝です、この後沼田に引換し沼田城址を見ました。

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沼田駅から坂道を上り沼田城址に行きました。

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ここも真田家ゆかりのお城ですが5代目で廃城取り壊しに在った為、広場の縄張り以外当時の状態はありません。

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わずかな、石垣が残る西櫓台後、石垣は土で埋められていた為残っこた。

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おなじ石垣と樹齢400年の桜(御殿桜)です。

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捨曲輪後、利根川の段丘が左・正面方向で切り立っています。

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名胡桃城方面をみる。

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真田信幸(真田昌幸の息子(長男で徳川方)、昌幸と信繁(幸村・・次男)は豊臣方))が築いた当時のお城図面。

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テニスコート裏にある池に僅かに残る石垣(多分掘れば内堀の石垣等が取り壊しで埋めた状態で復元出来るのでしょう。

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本丸跡・・・・今は公園の広場で花壇とかテニスコートとか野球場でした。









高崎に行ってきました(箕輪城址)。

2014-04-18 13:42:26 | 城郭群馬

2014年4月17日(木)に高崎市箕郷の箕輪城址に行ってきました。

日本百名城で土地の豪族、長野氏4代が武田信玄・北条氏康・上杉謙信との争いのなか 山内上杉憲正につき滅亡した所です、その後も数奇な運命をたどる城ですね。

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保存会の資料に概略が記載されていました、最後は井伊直正が高崎へ移り廃城となりますが、おかげで保存状態は良好でした。

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案内図があり判りやすく廻れました、結構広いので歩きますが。

地図の位置は上が北で東西に走る堀切で南北に分かれた造りです、堀が大きく沢山回り込むように縄張りがしてあります。

ちなみに武田軍2万は最後新曲輪(北側)側からなだれ込み御前曲輪で城主長野業盛は城を枕に討死しました。

辞世の句 春風に梅も桜も散り果てて 名のみぞ残る箕輪の山里。

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最初大手尾根を見たのですが城の構造がおかしいと思っていたのですが復元図の説明をみて納得しました・・・・・搦め手が大手でした(東側)。

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水の手曲輪にある法峰寺です、此処にも歌が 水汲みに行くのか地獄の一の木戸 行くとは見えて帰る人なし(よみびとしらず)、激戦の籠城ですネ(合掌)。

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法峰寺手前を左に観音堂へ上り左脇へ・・・・観音堂入口です。

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下が観音堂から見た水の手曲輪です、穏やかです。

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上ると二手にわかれます、私は左の大手尾根コースを選びました。

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堀が多いです、回り込むように上りました、左は空堀で正面突き当りは観音口からのコースとぶつかります。

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これは右側が観音堂口で左側が榛名口へでます、真ん中は空堀で左は曲輪です。

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合流点から見た堀で右側は木俣曲輪側です、左側は二の丸脇の郭馬出しです。堀を右側に周り込むと大堀切にでて搦め手と出れます、敵から見えずらくし敵が入り込めば上から打てる構図です。

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これは今の堀の突き当り周り込んだ堀の上の曲輪から見たところです。

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先程の合流点から二の丸方面を見ます、右上が郭馬出し曲輪です。

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郭馬出し曲輪への道、右側が大堀切で此れが南北に二つに分割しています。

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土橋の上から見た大堀切の西側、右側が三の丸の土塁です。

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これが東側です、左側が二の丸の土塁です、正面が搦め手方面です。

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土橋入口から見た二の丸です、正面奥が堀の向こう本丸です、私は左側三の丸へ行きます。

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ここも堀で仕切られています、左奥が三の丸です。

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三の丸です、奥が蔵曲輪となります。

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三の丸の外側、西側ですね・・・此処には石積がみられました。

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三の丸奥です、この曲輪と本丸とは橋が架けられていたとの事です、右側が堀で向こう側が本丸です。

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此れが本丸と三の丸との間にある堀です。

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ここは正面御前曲輪で右側が本丸です北の虎口です。

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堀を進み右側は御前曲輪で石積みがあります、この石は御前曲輪と通仲曲輪(左側)を繋ぐ橋の土台と有りました。

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御前曲輪を回り込み丸馬出し・稲荷曲輪(正面右)・新曲輪(正面奥)への虎口です。

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ここまで来ると浅い堀状態であまりハッキリしませんでした。

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この方面から武田軍が攻め込んだと有りますが、今は当時の面影が見られず平坦ですネ、私が攻めればやはり此処かなと思いましたが・・・。

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奥が本丸・御前曲で土手の上が稲荷曲輪(右奥高台に稲荷様があります)です堀は水堀とか・・・・・。

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御前曲輪の北の外れからみた所、右側左が稲荷曲輪です、左は山で向こう側やはり堀が掘られています。

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御前曲輪です、当時は持仏堂があり長野業盛の終焉の場です、親父の業正が有名な武将で武田信玄の猛攻を何度も撃退したのですが病で死んだとあります、信玄が此れを聞き攻めたとか。

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これは北の虎口で向こう側が本丸です。

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本丸側からみた所。

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本丸です。奥が御前曲輪です。

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本丸脇にある馬出し(左上)から二の丸(右側)前を回り込むように搦め手虎口へ。

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本丸の土橋を渡ると二の丸、右側奥は堀。

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搦め手側へ下り二の丸側をみる、手前は帯曲輪が段々になっています。

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搦め手虎口で奥が右本丸、左が二の丸で三段の土塁で防御してありますね・・・やはりこれが昔は大手口なのでしょうね、その後井伊直正は南側に城下町を作ったのでしょう。

城の構造も長野・武田(内藤)・滝川・北条・井伊と有るので長野時代のとはかなり異なるのでしょう、しかし、凄い城でした・・・・・良かったです。