2023年5月22日(月)に兵庫県の竹田城・次に出石城に行って来ました、今日は城崎温泉宿泊、天気が悪くなってきましたが、何とか持ってくれましたね此処での雨は辛いですからネ。
城下町出石、町の南(図上)の有子山山頂には戦国期の名城有子山城が、麓には近世期の名城出石城が築かれています、谷山川と出石川を外堀とした惣構えの城下町・・・・但馬の国。
出石城 慶長9年(1604)小出吉英(よしふさ)が有子山の麓に築城。
出石城登城橋(江戸期には橋は無い)、埋め門、西隅櫓、後ろが有子山。
門内へ、石垣前が下の曲輪、右側が西の曲輪、手前の石垣上が二の丸、奥が本丸西隅櫓。
少しちかずきます、出石城本丸の西隅櫓(天主は無かったそうです)・・・・本丸の上に高石垣があり稲荷曲輪がありますね。
本丸脇方面から見た西隅櫓、一段下の石垣が二の丸、ちなみに登城橋の前が三の丸。
本丸です、西隅櫓(右側)、高石垣(左側)、この建物は感応殿(明治に建つ)仙石権兵衛秀久(江戸末期の藩主仙石氏の祖)を祀った。
お城坂(稲荷参道)・・・・お城の中を突き抜ける、最上段の稲荷神社への参道、元々は有子山城への大手道?。
参道脇には出石城稲荷曲輪の石垣・・・この右下が本丸。
参道を上り切りました、左側が有子山城への道、右側が稲荷曲輪(神社)。
有子山城へ・・・・登山道です・・・残念ながら今回はいけませんが。
稲荷曲輪にある稲荷神社。
稲荷曲輪です、出石城下町が眼下・・・・。
石垣上から城下町を望む、右側中央に見えるのが明治期に建てられた辰鼓楼で三の丸大手門跡。
同じ場所から下を見ます、出石城本丸・・・稲荷曲輪の下に本丸があるのです、珍しいですね、西隅櫓と感応殿。
参道を下ります、途中右側は山里丸の曲輪と石垣。
此処は二の丸下の下の曲輪?。
参道入口です、右側下流が先程の登城橋、この辺り一帯が出石城なのです、橋手前は三の丸です。
三の丸(対面所跡)・・・元禄15年(1702)松平忠周が建設本丸より移る、この正面が辰鼓楼。
三の丸から見た本丸方面、左側が東隅櫓、後が稲荷曲輪の石垣。
三の丸から見た、有子山城の石垣・・・羽柴秀長の命で築城の名手藤堂高虎が最初に築いた石垣?、有子山城は天正2年(1574)但馬守護山名裕豊(すけとよ)が有子山山頂(321m)に築城、天正8年(1580)羽柴秀長による改修、元和元年(1615)の一国一城令で廃城。
出石城三の丸濠横の土塁。
出石城三の丸の堀と辰鼓楼。
出石城三の丸大手門跡に建つ、辰鼓楼・・・・屋根の上の後の有子山尾根に有子山城石垣が見えますね。
この後は城崎温泉(きのさき)で外湯7湯(1湯は休み)をしましたが、途中大雨となり4湯で止めました、久しぶりに下駄をはいたので歩きずらかったですね。
2023年5月22日(月)に兵庫県の竹田城に行って来ました。
天正5年(1577)羽柴秀吉の但馬攻めで羽柴秀長が城代になり、以降織豊方の拠点城郭として機能、天正8年(1580)羽柴秀長は出石有子山城へ、天正13年(1585)赤松広秀が城主となり、石垣の城を構築(豊臣の力を示すお城)。
竹田城大手門下から石垣を仰ぐ・・・・・。
竹田城大手門・・・・北側・・・階段が奥に行くほど詰まっていますね。
大手門脇の石垣の上から今来た上り路を見る、奥の石垣が本丸側。
同じ場所から、大手門跡を見ます、左側が北千畳曲輪側、大手門を入ると桝形虎口が続きますね。
北千畳曲輪の西側から見た、二の丸・本丸の石垣と天守の石垣、以前4月ごろに来た時は木々の葉が無く良く見えたのですが・・・こちら側が昔は大手筋とか・・・水の手もこの下側にあるとか?。
大手門上側から見た所、枡形構造。
大手門上の東側端から見た、南側方面、奥に行くには正面の石垣を避けて、西側から回り込みますね。
振り返りますね、大手門・・・先程登って来た所・・・上からの攻撃で厳しいですね。
西側から二の丸・本丸・南側方面へ・・・・大手門筋からは此処を進むのです、横矢にかかりますね。
漸く二の丸へ上がりました、正面が、竹田城本丸天守台、以前来た時はその先立入禁止で上がれませんでしたね!!。
竹田城本丸・・・・天守台石垣。
天守台石垣から見渡しますね、まず、南側、右脇から平殿・南二の丸・南千畳。
もう少しアップで南二の丸と南千畳。
本丸脇から見た西側の花屋敷の曲輪。
北側の二の丸・三の丸・北千畳・・・此方から来ましたね。
北側方面西側、本丸下の通路(花屋敷・南側へ)、正面奥は北千畳・左下に水の手?。
もう一度南側の石垣を見ますね、見事な石垣ですね・・・・この時期は雲海は出ませんね・・・これだけのお城を築いたのですが、生活空間ではありませんからネ。
南千畳まで降りてきました、南二の丸虎口の石垣・天守石垣・二の丸の石垣群。
少し離れて、竹田城の本丸石垣を・・・見せる城ですね。
2023年5月21日(日)に兵庫県に行って来ました、姫路城を久しぶりに見てきましたよ、4回目かな・・・。
姫路城大手門・・・。
姫路城大手門を入ると三の丸ですが、正面に連結式天守が、手前はリの一渡櫓、後が大天守・西小天守・乾小天守・・・前回に比べると大分落ち着いた色になりましたね。
少しちかずきましたね。
菱の門・・・・この先沢山の門を通過して天守へ・・・・、城内のスタート地点ですね、よく日本一のお城とかやりますが、此れだけの石垣・建物が存在するは此処だけですからね。
菱の門を抜けた先がこれです、三国堀がこの前にあるのですが此れだけでも・・・。
これはイの門かな?・・・。
これはハの門?、石垣と塀の隙間を天守まで繰り返しますね、段々狭くなって、大勢が一度に攻め込めませんね・・。
大分天守の下に来ましたね・・・、姫路城は黒田官兵衛・羽柴秀吉・・・関ケ原の戦い後池田輝政が大改築、現存の五重七階の連立式天守。
天守が見えたり見えなくなったり、門が段々低くなる・・・。
西小天守下の水2の門?・・・・、左側へ回り込み隙間からいよいよ、天守へ・・・。
天守建物内・・・現在は上りハシゴ・・・昔のもの・・・右側、今は混雑防止で下りようハシゴ(新しく作成・・古けど)。
最上階から見た所、菱の門ですね、後側が西の丸方面ですね、百閒廊下櫓かな?。
西の丸、長局・化粧櫓・・・徳川家康の孫娘千姫は大阪夏の陣で豊臣秀頼が自刃、本多忠刻に再嫁・・・化粧櫓で10年を生活。
姫路城天守への虎口、乾小天守・西小天守・大天守、右側下が本丸(備前丸)。
多分、左側が帯郭櫓(腹切丸)・・・・正面がリの門太鼓櫓・・抜けると二の丸・・・・右側が本丸。
二の丸の右側ヌの門を抜けて三国堀へ・・・後が菱の門。
姫路城連結式天守・・・・です、素晴らしいですね、搦め手側を見たかったのですが、今は入れないとか?。
地図の右側がJR伊丹駅線路の右側は低地・・・左側が伊丹台地の高台を利用した総構えの平城。
遺構は台地端に少し残っているみたいですが・・・?。
JR伊丹駅の目の前。
隣にある公園・・・此処がわずかに残る有岡城主郭の一部?。
この空間がお城に見えますね・・・有岡城。
すぐわき・・・堀跡なのでしょうか?。
有岡城主と言えば荒木村重ですね、昨日行った、池田城(細川氏の家臣池田氏)の池田氏の内紛に乗じて池田城を支配し、天正2年(1574)織田信長の命で、この伊丹城も落とします、伊丹城を街ぐるみの総構えに改築し有岡城と改め居城としますが、天正6年織田信長に背き天正7年(1579)落城・・・・途中荒木村重は尼崎城へ離脱・・・生き延びたのです、2年間の織田軍の攻めに耐えた名城とか?。
有岡城の主郭が在った場所?。
有岡城の井戸の跡。
有岡城の石垣、チョット寂しいのですが、駅前で良く残ったと思いますね。
堀跡跡なのか?。
猪名野神社、有岡城総構えの北の端、岸の砦跡。
地図の先端部分ですね、上臈砦(付近にも行きましたが高低段差)。
猪名野神社、右側後方面は低地・・・此処までが台地なのですね。
神社後側、低地が解りますね。
神社後側・・・横の土塁が・・。
土塁がこの神社には遺構として残っています・・・神社だからこそ。
町中を見て回りました、クスノキの巨木。
法巌寺の大楠、樹齢500年?・幹回り6・2mの巨木。
立派な巨木につられ屋内に入らせて頂きました。
築城の名手あの藤堂高虎の縄張りによります、二重の水堀・外堀の三方向に馬出虎口・内堀内は本丸・二の丸の梯郭と外堀内は三の丸の輪郭を重ねた防御性のお城です、天守は築かなかったそうですね。
上の写真と向きが異なりますが、馬出虎口は外堀の外へ張り出したものです・・・大手門の馬出は現在ありませんね。
大手門の虎口中門?・・・馬出の大手門は現在無?。
二の丸への中門?。
内堀を望めますね。
此処が中門?・・・内枡形虎口ですね。
クネクネと枡形の鉄門です・・・二の丸の入り口中が大書院です。
二の丸大書院の建物を回り込みます。
二の丸です、左奥の石垣は本丸です。
二の丸の石垣上から見た、内堀と三の丸。
本丸方向です、正面石垣・・・・現在は青山神社がありますね。
本丸の虎口。
本丸右奥の天守台です・・・・天守は不要との幕府命令で建てず。
天守台石垣。
天守広場、右奥に見える山が丹波富士(高城山)八上城。
二の丸石垣から見た大手門方面。
本丸石垣です。
二の丸・・・南面の埋め門虎口。
埋め門から三の丸を見ました。
三の丸南から北側を見る内堀と石垣。
同じく東側方面を・・・。
左側が埋め門と二の丸の石垣・張り出したところからが本丸の石垣。その奥角が天守石垣。
北側の内堀と二の丸石垣。
此れが外堀です。
此れも外堀南面・・・濠の向こう側が三の丸と先程の二の丸本丸の石垣。
東馬出の堀と曲輪。
三方向を水堀に囲まれた東馬出曲輪です、左右の虎口から打って出る仕組みです、城内に戻るのも此処に集合して戻る・・・味方のふりをして紛れ込めないのですよ。
兵庫県篠山市は波多野氏一族が治めていました、周辺の山にはそれぞれお城を設けていたのですね、沢山ありますね、中世城郭は麓に館、山に詰めの城を設けて守ったのです、真ん中少し下が八上城です(丹波富士の名前がある高城山462/240)、16世紀中頃は三好長慶や松永久秀らと交戦・・・その時は脇の奥谷城が本拠地とか・・・その後八上城を設けて強化・・・・左側の篠山城は江戸期に築城したのです。
今回は篠山城からレンターサイクルで八上城まで往復しました、その後篠山城も散策しました、奥谷城・法光寺城跡には行きませんでした。
これは篠山城天守台から見た高城山462m(八上城)、右が法光寺城かな?。
自転車で来ました八上城です。
登山口前の案内板です、幾つかありますが、東尾根からの春日神社口です。
コース案内もありますね、右側から左側の方にですかね・・・上で左側のコースは危険個所が発生の案内があり途中まで行き戻りました・・後程。
春日神社口です。
趣のある神社なので寄り道します・・・土塀ですが少し剥がれ落ちて。
春日神社。
脇に杉の巨木がありましたね、神社よりも此方に目が行きましたので。
八上城主郭の縄張り図、左上へほうから中央へ此れから登っていきますね、それから右下まで降りて再びもどります。
春日神社内?、伝・主膳屋敷跡です、麓の館跡です、右横少し上まで削平地があります。
少し上り、伝・鴻の巣番所跡。
次に削平地が、伝・下の茶屋丸。
伝・下の茶屋丸からの景色が・・・多分、明知勢が拠点とした金山が見えるのでしょう、天正3年(1575)織田信長の命で丹波攻略を開始した明智光秀は、天正3年10月に黒井城を包囲しましたが、天正4年1月に波多野秀治の寝返りにあい敗北撤退、天正5年(1577)再度丹波攻略に架かります、天正5年10月亀山城・八木城・園部城を天正6年4月までに落とし、八上城・黒井城の包囲網を築きます、1年以上の包囲網で城内は餓死者が出る状態で、天正7年(1579)7月八上城は落城しましたね。
次は伝・上の茶屋丸です・・・・東尾根を削平し陣営を置いた所ですね、山城は堀切で分割し土塁を築けばなかなか落ちませんね・・・小谷錠も四年ぐらいかけての切り崩したのですからネ。
上の茶屋丸の上にも削平地が見えました。
漸く主郭部へ出てきましたね、石垣が少し見え始めました、右側が伝・右衛門丸の曲輪、左側が涼御殿、上が腰曲輪ですネ。
右衛門丸の奥から振り返ります、右側が腰曲輪。
各曲輪の脇を通り山頂方面へ。
振り返ります、腰曲輪・右衛門丸・篠山の街並み。
三の丸です、その上が二の丸へと続きます、多分最近木を刈り取ってくれたのでしょうね、非常に見やすいですからネ。
三の丸に上がりました。
三の丸の端に来ました、腰曲輪・右衛門丸・篠山の町・明智軍が拠点とした金山城?。
振り返ります、二の丸ですね。
二の丸の虎口へ来ましたね、奥が本丸ですね。
此処でも振り返りますね、三の丸です。
二の丸から本丸をみました・・・。
本丸からの景色。
本丸です。
やはり本丸を・・・。
上の本丸の写真右手下にある曲輪・・・岡田丸・・・波多野家の重臣なのでしょう。
岡田丸の奥から見た本丸です、右側方面が二の丸・三の丸方面です、左側方面から藤木坂の西尾根方面ですね。
藤木坂の途中が危険個所ありとの情報がありました、取り合えず水の手曲輪までは行きたいので下ります。
本丸脇の帯曲輪から下りへ。
少し下ると伝・蔵屋敷跡が・・。
なおも下ると伝・池東番所・・・・このお城は殆どが伝承なのでしょうね・・・伝。
急斜面の切岸下が竪堀どか・・・私は右側の水の手へ。
谷あいに水の手曲輪・・・・伝朝路池です、奥の右奥には伝池西番所があり、貴重な水の手を守っていたのでしょう、何せ1年以上の籠城戦で食べ物も無い状態で頑張るのは水があればこそですからネ、天正7年7月波多野家はこの戦で滅亡しました、この1か月後黒井城も落城しましたね。