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三郎兼続の日記

趣味の写真で山登り・旅行を主体にした日記
最近は山登りが少なく、城郭・巨木へ

静岡沼津の長浜城に行って来ました(後編)。

2025-03-04 09:51:22 | 城郭静岡1

2025年2月27日(木)長浜城に行って来ました、今日で今回の旅の終わり、熱海からの踊り子号までの時間に合わせての見学。

長浜城は内浦湾のヤヤ左側に位置し、突き出した半島状の岩場の海城です、左側が長浜城、右側はシーパラダイス方面(長浜?)。

今回は右側から城内へ入りますね・・・弁天社のある方です‥・長浜城跡のバス停の反対側(沼津より)。

こちら側からは4の曲輪・3の曲輪方面から2の曲輪へ迫るコースとなります、正面へ行けば3の曲輪・・・左側へ行けば4の曲輪。

4の曲輪側へ・・・長浜城の一番外側の備えですね。

長浜城の縄張り図・・・上側は海・・・長浜城の南側は道路で消失・・・左側奥一帯が長浜の根古屋(城下)北条水軍衆の屋敷の集落地・・・・4の曲輪は海側・海岸側からの最前線防御地点。

4の曲輪の虎口。

4の曲輪。

此れから弁天社・・・3の曲輪へ。

3の下段の曲輪・・・弁天社の社が・・・。

弁天社の横は一段高い・・・此処も3の曲輪。

3の曲輪上段から下段を見る。

3の曲輪に説明版があったので・・・記載・・・右下側はバス停のある田久留輪方面です・・・現在はこの道は?・・・4の曲輪からになっていますね・・・途中は木橋がかけられています。

3の曲輪と2の曲輪の間の堀切の底道・・・木の辺りが虎口・・・上の図。

弁天社の横から見た2の曲輪方面。

2の曲輪の説明は・・・前編です、ヤグラから腰曲輪方面へ進みます、右側を回り込むように進むと・・・バス停側へ。

長浜城主郭前の曲輪B・C・D・・・。

脇を下り・・・・振り返ります・・・主郭部分ですね。

腰曲輪の最下部まで来ました。

その先の海辺へに繋がる路を下ります・・・急坂。

長浜城正面の海辺まで降りてきました、岩場です‥・淡島が正面に内浦湾は波穏やか。

岩場からは長浜城全体が見えませんので正面左側を・・・先程の弁天社側の方です。

今度はヤヤ左側・・左側の木々の間が長浜城腰曲輪から降りてきた所・・・この右側一帯に北条水軍の軍船が靄っていた場所みたいですね。

岩場から木々の間を抜け出て、腰曲輪下から見上げた長浜城、小さなお城ですが中々見ごたえのあるお城でしたね。

 

 


静岡沼津の長浜城に行って来ました(前編)。

2025-03-04 06:36:51 | 城郭静岡1

2025年2月27日(木)静岡県沼津市の北条水軍の長浜城に行って来ました・・・小さな海城ですが、当時の遺構が残り、風光明媚な内浦湾の一角にあります。

沼津駅からバスで長浜城跡(城下橋)バス停まで40分ぐらいですね・・・1時間に1本の運行なので行きやすいですね・・・右側がお城ですが道路の切通でこの分は消滅ですね・・・この左側の重須地区一帯が根古屋なのです。

バス停に長浜城関係の説明版が・・・上る前に読んでください解り易いですよ。

安宅(あたけ)船・・・大型軍船ですね・・・北条元々水軍らしきものを持っていなかったので、紀の国熊野の海賊衆、梶原景宗をスカウトし長浜城を任せたみたいですね・・・その恩義か北条氏直が高野山へ流された時には同行したそうです・・・北条水軍はこの大型船を10艘持っていたそうです。

バス停のある田久留輪(曲輪では)から長浜城へ入りますね。

細い急坂を上りきると左右に道が分かれますね。

まず右側へ行きます、左側が主郭の土塁ですね、右下がバス停の田久留輪・・・切通の為この道は行き止まりですね。

振り返ります・・・左側から登って来たのです。

重須地区海賊衆の根古屋ですね・・・下に安宅船の大きさを示す舟形があります。

戻って海側へ回り込みます・・・右側は主郭。

内浦湾・・・左側は長井崎・真ん中に淡島に囲まれた湾で風を遮り穏やかな為、多くの舟を係留できる立地条件なのです・・・海の向こうに沼津・富士山が・・・今川氏から武田氏に変わり沼津に武田氏の三枚橋城が築かれたため・・・韮山城防御の為・・・北条氏の長浜城が築かれたのです。

主郭前の腰曲輪。

腰曲輪から見た主郭・・・ヤグラ・・・ヤグラ奥左が2の曲輪方面です。

ヤグラの復元?・・・右側主郭。

ヤグラ方面から2の曲輪へ。

振り返りますね・・・腰曲輪・内浦湾・淡島。

長浜城縄張り図・・・赤がその場所で各曲輪ごとに解り易く設置・・・今2の曲輪。

2の曲輪・・・建物跡です。

2の曲輪の端・・・堀切下横が虎口跡・・・向こう側が3の曲輪。

図で見た場所・・・城は重須地区側に土塁が盛り上げています、海側は開けていますね。

2の曲輪端から主郭方面を見ます。

ヤグラに登り主郭へ入りますね・・・見晴らし台ですからネ。

ヤグラから主郭へ。

主郭から2の曲輪後方面をみますね・・・土塁・主郭と2の曲輪の間には堀切で分けてありますね・・・岩石を掘ったのです。

主郭部分。

主郭内奥より海方向。

主郭の先から沼津方面・・・三枚橋城(武田氏)の見える位置みたいです、武田水軍とこの海で戦ったみたいですね。

風が遮られるため今もヨットの係留が見られます・・・昔は軍船が靄っていたのでしょう・・・淡島が防波堤の役目解りますね。

内浦湾・・・・こちら側が長浜なのでしょう?。

主郭からヤグラと2の曲輪方面をみますね・・・・此れだけでも十分ですが、後編では3・4の曲輪・腰曲輪方面と海辺を紹介。

 

 

 

 


伊豆半島伊東市の鎌田城に行って来ました(後編)。

2025-03-02 10:28:16 | 城郭静岡1

2025年2月25日(火)に伊豆半島伊東市の山城・・・南伊東駅からの城山・・・鎌田城に行って来ました・・・今回はその後編・・・鎌田城主郭部。

鎌田城主郭にある説明版・・・地元の伊東氏が後北条氏の伊豆侵攻に対応した山城‥・立てこもるも大変な山の中ですね。

鎌田城脇・・・・左下側に降れば主郭部分の空堀に・・・正面を上れば主郭部分へ・・・まず・・・・主郭部分へ・・・・前編は此処まで来ましたね。

鎌田城縄張り図・・・・左上から来ました、土塁・堀切・横矢掛かりを超えてきました、今5番曲輪への入り口。

曲輪5の虎口へ。

曲輪5から3の曲輪方面へ・・・左側は大きな空堀。

曲輪5から曲輪3へ。

曲輪3から見た曲輪1・・・・右側土塁上が曲輪2の方向。

曲輪3・・・曲輪1へちかずきました・・正面に神社跡が・・・。

此処で又全体の縄張り図・・・現在地の上が神社跡・・・今曲輪3の神社前・・・主郭の虎口ですね・・・神社で少し改修かな?。

神社前の左土塁の上に仏さまの石物が・・・・気になったので写真を撮りました。

主郭の神社跡(建物は崩壊)・・・龍爪神社の板が・・・江戸末期から明治にかけて、静岡東部地区に建てられた”弾除け”の神様との事・・・戦時中(日清・日露)は戦地での無事を祈願したのでしょうね・・・・今は氏子さんもいないので。

随分と立派な建物跡が・・・鎌田城主郭虎口に建てられていましたね・・・丁度真ん中ですからネ。

拝殿と本殿の間に・・・・龍の木彫りが・・・。

本殿には狛犬。

狛犬・・・阿吽の対・・・やや寂しげですが?。

主郭奥の方を・・・。

主郭奥の方から・・・。

主郭西側(神社裏側)には曲輪4がありますね。

主郭南西部・・・・曲輪6・・・今は見晴らし台。

見晴らし台からの山々の見える景色説明。

今日は天気が良いので説明版に負けずに・・・。

ダムも見えますネ。

神社北側の曲輪2。

曲輪2の北側・・・・この下を先程・・・左から右方向に来ましたね、左下側曲輪4、右下側が曲輪5。

熱海の海岸?・・・手前は伊東市の町ですね。

曲輪3から・・・・9・・10方面。

曲輪5から見た空堀側・・・東側・・・・これから下側の空堀側に行きますね。

縄張り図 曲輪5の上に戻り右側へ回り込みますね・・・下の方の曲輪には行けませんね。

空堀側へ降りてきました・・・結構な段差が。

空堀から見上げ南側方面へ進みます。

空堀が終わり・・・この上は曲輪15ですね。

空堀を振り返ります・・・戻って右側へ。

右側(東側)方面・・・削平された広場・・・・・黄色の標識があるので・・・最近の広場でしょうかネ。

綺麗の広場が広がりますが?。

空堀を上がりもと来た道を帰りますね・・・・鎌田城の遺構・・・深い山城なので良く残っていますね・・・誰にも会わない山の中でしたね。

 

 

 


伊豆半島伊東市の鎌田城に行って来ました(前編)。

2025-03-02 06:31:34 | 城郭静岡1

2025年2月25日(火)熱海から南伊東駅まで電車・・・南伊東駅からバスなのですが駅前にはバス停が無く・・・もう一列の道に駅入口前のバス停・・・時間オーバーでしたが諦めず少し待ったら・・・遅れてバスが来たのでセーフ・・・来なければ歩くつもりでしたね・・・どうせ帰りは歩くつもりですからネ。

八代田橋バス停から鎌田城城山(標高310m)まで往復します・・・・片道1時間の山歩き・・・・平日の為?誰にも会わず・・・道が解るかな。

八代田橋バス停がある川沿いの道・・・・行と帰りのバス停は大分ずれていますね、バス停より先に進みますね。

鎌田城の標識がありました・・・これで何とか辿れますね、鎌田城は文治5年(1188)鎌田新藤次俊長による築城・・・・その後地元伊東氏が北条早雲の伊豆侵攻に備えて改修したが落城・・・この当時の城跡・・・に明治時期に竜爪神社を創建。

集落から山道へ入ります・・・これで多分大丈夫・・・ハイキングコースですからね。

お墓横の山道に・・・石が引いてある確りした道へ。

山道ですが結構広い道が・・・。

一個目の鉄塔がありました(おかげで道が広く確り)・・・・横に金鉱跡の標識が・・・土肥金山は有名ですが伊東でも金山?が・・・ネットには書かれていませんでしたね?。

地図のの巾着袋の場所でしょうね?・・・水の手がありました・・・城とは関係ありません・・・まだ半分も来ていませんからネ。

こちら側の山を進み突き当り左側の方向に城山が?。

山登りが続きますね。

途中獣の死体が在ったりまだまだ上りますね。

左側に見えてきましたね・・・多分あちら側が城山山頂。

登りが揺りやかになりました。

この黄色の標識は一つの目安ですね・・・・鉄塔を構築した時に使用した道なのでしょうから・・・・左に曲がる直前まで来ました。

少し下ると峠?の分岐へ・・・正面奥から来ました、左側がダム方面・・・手前方面が城山への道です。

再び鉄塔が出てきました。

登り始めて2個目の鉄塔・・・今日は天気に恵まれて・・・明日は幕山登山ですが強風でしたね。

何となく山城の雰囲気が・・・切岸風の広場が・・・。

二つの標識が・・・鎌田城近し。

横矢がかりの道を上がれば堀切の跡が確認。

土橋風・・・サイドが切り落とした空堀。

目の前に土塁が?・・・・右奥は曲輪の土塀でしょうね?・・・山城が好きでない人は単なる山道ですが。

横矢掛かりの防御ラインですね・・・・右上から下側を通る敵を攻撃しやすい形。

土塁の説明版が見えましたね。

空堀から竪堀に・・・・。

この上は曲輪ですね・・・・切岸(正面)から横へ。

曲輪の横に入ってきました。

横から曲輪を仰ぎ見ました・・・・この上は二の曲輪です(後で確認しました)。

この場所が・・・・左側下に降れば空堀側へ出ます・・・・正面へ上がれば鎌田城主郭部分へ入りますね・・・・・前編はここまで、後編で鎌田城内部へ。


静岡の丸子城に行って来ました。

2024-12-16 06:46:28 | 城郭静岡1

2024年12月11日(水)に静岡の丸子(まりこ)城に行って来ました、中世から戦国時代にかけての山城で幾多の改修がなされていますが、保存状態は良好なお城ですね。

静岡駅前には今川義元・竹千代(徳川家康)の像が・・・。

駅前から駿府匠宿までバス・・・丸子宿の案内、泉ケ谷は館があり、丸子城は詰めの城ですね、静岡の西側東海道の抑えの防衛拠点ですね。

丸子城・・・北曲輪が今川時代の主郭部分・・・その後武田信玄・徳川家康時代に改修・・・・標高136mの三角山。

丸子宿入口に在ったお城情報・・・丸子稲荷神社側からの城内への道は荒れているので・・・此方から。

丸子宿の案内板少し先に入り口が・・・・ここからですよ。

別のお城の資料・・・反対側は”おおだたら”と読むのですね。

丸子城への虎口・・・多分この上が”泉が谷砦”・・・これから階段が続きます。

このような階段が200-300は?。

少し上ると小さな・・・丸子砦?・・・この右下が泉が谷?、此処から大分上りますね。

くねくねと階段が続きます。

漸く何か見えてきました。

東名高速で移転した丸子稲荷神社。

稲荷神社のこの辺りは丸子城の外曲輪・・・・尾根筋の端ですね。

尾根筋を狭めた・・・。

しばらく尾根筋が続きますね。

此処は土橋・・・左側はガケ、右側は堀切。

土橋を回り込むように上がると・・・・大手曲輪。

細長い大手曲輪が続きます・・・。

所々に段差が見られますね、木戸なのでしょうかネ。

開けた場所に・・・北曲輪・・・今川時代の丸子城の主郭部分とか。

北曲輪の先・・・木々が多く?、二の丸・本丸方面です。

二の丸方面へ。

切岸の脇の木戸を上りますね。

木戸の先に二の丸ですね。

二の丸・・・奥の先が本丸。

二の丸の展望台?から見た静岡の町、見晴らしの良いのも山城の条件ですからネ。

二の丸から見た本丸の壁が立ち塞がりますね。

本丸への虎口・・・二の丸と本丸の間は堀切で分けられています、一度下り上りますね。

階段を上れば枡形の虎口が・・・。

枡形虎口を右へ・・・本丸です。

東側に平虎口・・・のろし場へ・・・袖曲輪には直接降りる道が見えませんね?・・・。

のろし場?、他に袖曲輪への降り場は見られず・・・。

本丸西側の喰い違い虎口・・・ロープ入れないのか?、・・・・。

本丸南側・・・・・大鈩(おおだたら)・誓願寺方面へ。

急勾配が続く・・。

本丸へ戻り・・・。

本丸に馬出曲輪?・・・・このしたの方ですね・・・・・降ります。

下側、物見郭から見た馬出曲輪?(おおだたら曲輪)?。

物見曲輪から・・・・馬出曲輪・・・この石ころは投石用?・・・まさかね。

西側に続く横堀・・・・・凄い土木量です、右側は本丸・二の丸・北曲輪方面へ。

見てください、本丸横の横堀と土塁が続きますよ。

此れは竪堀ですね。

北曲輪脇までも続く横堀・・・・武田軍による特徴がみられるが、徳川時代に改修されたのではとのことも・・・・対豊臣対策で防衛強化かも・・・1590年(天正18)徳川家康関東移封で廃城。

 

 

 

 

 


静岡浜松二俣の鳥羽山城に行って来ました。

2024-05-27 14:20:05 | 城郭静岡1

2024年5月18日(土)に静岡県浜松市天竜区二俣の鳥羽山城に行って来ました。

天正3年(1575)武田勝頼に奪われた二俣城(依田信繁)を奪還すべき、徳川家康が本陣にした標高180mの鳥羽山、二俣城は目の前。

鳥羽山城搦め手口。

本丸から見た搦め手口。

鳥羽山城本丸。

本丸東門方面。

本丸東口。

本丸外周は全体に土塁が取り枚巻く・・・現石垣は堀尾氏時代に築かれた、二俣城別城一郭?。

本丸見晴場・・・・木々が育ち浜松方面の景色が見えない。

大t門口から見た本丸 右側東門方面、左奥が搦め手方面。

大手門口の土塁、向こう側が東曲輪(二の丸)。

本丸大手門口。

大手門口枡形。

大手門口枡形。

東曲輪(二の丸)。

大手道。

大手道入り口に立つ鳥羽山城碑。

鳥羽山の舗装道路を下る・・・二俣城。

下って振り返る・・・鳥羽山。

此れで二俣城・鳥羽山城に行って来ました、徳川軍が武田軍と激戦を繰り返した場所ですね、浜松に近い徳川軍としては何としても死守すべきお城なのですね、取り返したのは設楽原の戦いで勝利したのちになります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


二俣城に行って来ました。

2024-05-27 06:47:08 | 城郭静岡1

2024年5月18日(土)に静岡県浜松市天竜区の二俣城に行って来ました。

今日は旅行が終わりなので早めにホテルを出て、弁天島から浜松・遠州鉄道で新浜松から西鹿島・天龍浜名湖線西鹿島から二俣本町駅へ・・・・二俣城・鳥羽山城を見ますね。

天龍浜名湖線の二俣本町駅。

駅前から標識があり二俣城へ向かいますね、道路の向こう側に標識が見えたので向こう側を進みますね。

階段を上り舗装道路を上ります・・・・二俣城入口が見えてきました、私は此処から上りましたが、もう少し先にも北曲輪方面からの入り口がありますね。

此れは北曲輪方面に在った案内図・・・・右側・・・私は右下側北曲輪の真下から登りました。

途中石灯籠がありましたが・・・直進しました、登れば本丸と北曲輪の間に出れます。

二の丸・本丸への標識・・・右側へ、直進は南曲輪方面ですね。

二俣城の縄張り図 今右側の真ん中あたりの、二の丸大手門前、此処二俣城は元亀3年(1572)武田信玄が大軍を率いて信濃から遠江に侵攻、武田勝頼の軍が二俣城を攻撃落城、その後三方ヶ原で両軍が激突武田軍の大勝・・・浜松に近い場所なのです。

此処が二の丸大手門の石垣。

左側の石垣・・・・野面積ですね・・・木の根がこんなに広がっていたのに崩れないのですね。

二の丸に入りました、左側奥に社があります(写真ではハッキリしませんが)。

右側方面を見ますね・・・二の丸、右側に石垣向こう側が中仕切り門があり本丸です。

まず本丸の左側の土塁上に上がります、左側が南曲輪。

二の丸の土塁の端・・・南曲輪・西の曲輪方面の境目、堀切・竪堀で分割されています、後程此処を下ります、取れ会えず二の丸へ戻ります。

二の丸から見た本丸方面の石垣。

本丸への中仕切り門。

中仕切り門を入れば本丸。

本丸西側(天竜川方面)に天守石垣が見られます、地元の方々が本丸でグランドゴルフを行っていました。

天守石垣。

少し離れて。

本丸北側の搦め手門方面。

搦め手門から見た北側・・・奥が北曲輪。

北曲輪。

本丸へ戻り二の丸の後方面へ。

先程の二の丸の南の端の土塁上方面です・・・堀切の向こう側が南の曲輪。

西の曲輪方面へ下りますね。

西の曲輪を抜けて水の手曲輪。

二俣城を抜けて鳥羽山城へ向かいますね、後は天竜川。

天竜川です、向こう側が鳥羽山城です、二俣城築城者は今川の二俣昌長、改修者は徳川の大久保忠世、廃城は慶長5年(1600)武田家・豊臣家も滅亡し不要となったのですね、しかも天正7年(1579)家康の長男の信康が切腹させられた場所なのですから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


浜松城に行って来ました。

2024-05-20 07:24:47 | 城郭静岡1

2024年5月15日(水)に浜松城に行って来ました。

静岡県浜松市にある城郭で野面積みの石垣、徳川家康が17年間在。

浜松城も時代により改修されていますからネ。

徳川家康在城期の浜松城はこんなイメージなのですね・・・。

徳川家康が関東へ移った後・・・堀尾吉晴が築城。

埋門側から見た浜松城・・・・模擬天守ですね。

日本庭園がわ・・・北側ですかね。

南側から見た石垣と天守・天守門。

石垣下にちかずきます。

日本庭園側から天守への登り口。

富士見櫓跡に出てきました。

富士枚櫓跡から天守方面を振り返ります。

天守門・・・・野面積のい石垣が荒々しいですね。

天守城内へ。

浜松城。

城内から角度を変えて。

埋め門脇の土塁上から。

再び回り込みます、天守虎口。

浜松城の古城 曳馬城方面へ行きます。

曳馬城の標識。

曳馬城本丸あとは元城町東照宮。

曳馬城の説明版。

東照宮・・・・・浜松城が出来た後は浜松城の出城なのでしょうね。

東照宮。

藤吉郎が最初に奉公に上がった所がこの場所とか・・・・ここから出世したわけでは無いですが?。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


静岡金谷の諏訪原城に行って来ました。

2023-05-19 15:11:57 | 城郭静岡1
2023年5月17日(水)に静岡の金谷駅から旧道の東海道沿いにある諏訪原城に行って来ました。

JR東海道線金谷駅から旧東海道の金谷坂石畳を上り諏訪原城へ・・・帰りはセンター前のバス停から丁度良い時間にあたりバスで踊りました。

旧東海道の石畳の道です、玉石で歩きずらい道を・・・石畳の終点まで上ります・・・右側方面を進めば。

此処も旧東海道です、右側は諏訪原城ですが、正面に諏訪原城センターの看板が・・・・。

センター内の模型図・・・諏訪原城の縄張り図・・・・私は図の上から右上へ右側下の三日月馬出横辺りにまで来たのですね、諏訪原城は大井川の河岸段丘(牧之原台地)の端に築かれた平山城・・・・図の下側が防御を固めれば良いのです、天正元年(1573)武田信玄死去、武田勝頼が馬場美濃守信房(信春)に命じ築城した武田流築城技術を駆使した壮大な山城なのです、天正3年(1575)武田勝頼が長篠の戦で敗れ、徳川の城に変わりますね、いずれにしろ高天神城のツナギの城・もしくは見張りの城となり、天正9年(1581)徳川軍が高天神城を奪還することによりお城の使命が終わりその後廃城。

センター横から諏訪原城城内へ・・・・大手南外堀から。

大手南外堀跡・・・右側の木々の中が二の曲輪大手馬出の三日月型堀のある所です。

右側の道を北側(正面)へ進みますね、右側は二の曲輪大手馬出の空堀。

二の曲輪大手馬出の空堀・・・・左側土塁上が諏訪神社。

順路の順番に従って進みますね、右側は二の曲輪でこの方面に複数の虎口が(馬出)あります・・・右は後になります。

此処は大手曲輪・・・・右側は外堀・二の曲輪側。

左側に大手北外堀、その先が惣曲輪・・・二の曲輪の外堀に沿って進みますね。

今、図の左中央辺りの色なし部分まで来ましたね。

右側が二の曲輪、正面が二の曲輪中馬出。

惣曲輪端から見た二の曲輪中馬出・・・此処は馬出の南虎口。

大きな三日月堀を持った馬出・・・・曲輪の虎口(出入り口)が防御の弱点になるので考えられたのですね、その後枡形虎口が採用されますが武田流は丸馬出の形が多く用いられましたね。

センター内にあった模型図・・・如何ですか。

北側方面へ回り込みました・・・・結局防御力は土木工事の力が必要なのです。

北側の二の曲輪北馬出の門・・・復元。

馬出側の内側、左が二の曲輪。

二の曲輪中馬出と二の曲輪を繋ぐ土橋・・・模型では木橋ですね。

諏訪原城二の曲輪。

二の曲輪を直進、本曲輪の虎口。

二の曲輪と本曲輪との空堀・・・・虎口の土橋より・・・右側が二の曲輪。

本曲輪へ・・・・。

諏訪原城本曲輪を奥に直進・・・中央に段差がある、地図では空堀で分割。

本曲輪の端、昔は大井川がこの下方面に流れていたみたいですね、脇下に帯曲輪(内堀)。

金谷方面の街並みが眼下に・・・・牧之原台地の先端です。

本曲輪の端・・・此処から二の曲輪方面へ戻ります、左側の下は水の手曲輪。

本曲輪の端、向こう側は二の曲輪。

本郭と二の曲輪の間の内堀・・・・井戸曲輪・・・・反対側に水の手曲輪。

水の手曲輪・・・・今も清水が湧いていますね、左側が本曲輪、右側が二の曲輪。

水の手曲輪から上り、二の曲輪。

二の曲輪の土塁を上ると二の曲輪東内馬出、奥にあるのが諏訪神社(二の曲輪大手馬出)、左側方面へ進みますね、右方面は先程の大手曲輪。

二の曲輪南・東馬出方面へ。

外堀が続きます・・。

二の曲輪南馬出・・・・この方面には馬出が密集していますね。

二の曲輪東馬出。

二の曲輪大手馬出方面へ戻ります。

見事な外堀が続きますネ。

諏訪神社・・・二の曲輪大手馬出の土塁上ですね。

諏訪神社裏手側、最初に向こう側を通り奥に進んだのです。

諏訪神社裏の土塁から見た三日月堀空堀です、虎口の前には馬出を設けてありますね、築城者の馬場美濃守信房は天正3年(1575)長篠の戦で戦死、その勢いで本城も落城、以後は徳川軍のものになりました・・・。