2015年4月14日(火)に竹田城址に行って来ました、小雨の降る中ガスもでましたが、天空の城の浮き上がりは見られませんでしたが、感動ものの時間を過ごせました。
竹田城は最高所に本丸があり北千畳曲輪・花屋敷曲輪・南千畳曲輪があり北と南千畳と比翼型の梯郭式山城で総石垣造りです。
応仁元年(1467年)かの応仁の乱(細川勝元:山名宗全)の張本人の但馬の守護山名宗全が築城者に挙げられています、太田垣氏が納めていましたが、永禄12年(1569年)織田信長の配下の木下秀吉軍2万が10日間で但馬18城を落城・・・毛利:織田軍の綱引きで、その後天正8年(1580年)羽柴秀長が6400の兵で大田垣氏を滅ぼし、秀吉に投降した龍野城主赤松広秀が城主になり今の城を築いたとあります。
北千畳に上る所が大手門につながります・・・・・山ですから急坂を上ります。
急坂を上ると石垣が見えてきます、すべて石垣に囲まれた城で中の虎口(出入り口)も数多くあり区切られています。
大手門です両側に石垣があり、櫓が在ったのでしょう、左側上が三の丸・正面左側が二番目の虎口で桝形の形式です・右側が北千畳曲輪。
二番目の虎口です。
北千畳曲輪の多分櫓の在った場所から見た大手門の虎口、右奥が二番目の桝形虎口へとなります、正面が三の丸、その一番奥(左側が)二の丸です。
二番目の虎口上(三の丸)から下を見た所です、奥が北千畳曲輪。
三の丸外れから見た大手門への登り口・正面が一番目の虎口石垣、奥が北千畳曲輪。
三の丸外れから見た二の丸側、前の石垣は武の門です、右側が二の丸へ続く道ですが城内は数多く、段差と鍵の手に折れ曲がり細かく仕切る門で構成された複雑な造りが見れます。
此れが三の丸から二の丸への道で、右奥が本丸天守台、その右下が花屋敷曲輪、正面の石垣が武の門の片方です。
竹田の城下町が一望です、川は円山川です、此処は兵庫県(但馬の国の中央(南部)で北部・山陰道の接点で交通の要衝なのです。
左側が武の門で回り込み二の丸に来ました、二の丸外れから見た三の丸・大手口・北千畳・右下が城の入口で上がってきたわけです。
二の丸から見た左奥が南千畳曲輪・その手前が南の虎口です、櫓の石垣があり大門の虎口、その上向こう側が南二の丸、また櫓の石垣があり平殿へと続きます,しつこく続きますネ。
上の写真を少しずらしました、櫓の石垣が判りやすいですネ、右側は本丸の石垣です。
二の丸から見た、此処が最高所の本丸の天守台と天守付け櫓の石垣です、南側には本丸の右側を回り込みます。
天守台の石垣です・・・・・今は中に入れません、天守台へ回り込む形ですが付け櫓から天守台へ登る口が見えません・・・?、多分付け櫓と天守は中の階段で連結した建物なのかな?、右側下が花屋敷曲輪がある方です。
上の位置から振り返りました、右側が二の丸・武の門の石垣・三の丸・二番目の虎口の上・左側奥が北千畳曲輪の外れです、天守台上から見れば大分景色が違うのでしょうが、ここ数年で見学者数が何十倍も増えて来たそうですから入れない個所も増えますネ、高倉健の「あなたへ」の2012年は入場料も無でした、日本100名城の挙げられて一躍有名になりました。
ここも入れません、花屋敷曲輪です。
本丸の石垣です、穴太積みで姫路城・安土城と同様です、隅角部分は算木積み方式です、石を見ると野面積みでしょうね・・・おかげで水捌けが良く何百年も保存状態が良いのでしょう(大分補修しましたが)。
平殿あたりから見た南側、虎口の櫓用の石垣、その奥が南二の丸、その奥見えませんが南千畳。
虎口を出たあたりから見た本丸の石垣と二の丸。
上を見上げると本丸の石垣と天守台の石垣。
南二の丸です。
南二の丸脇の虎口、右側が南二の丸、左側は門櫓でしょうか?、何せ仕切り門が多く厳重な構造です。
南千畳曲輪。
南千畳曲輪から見た正門の虎口。
南千畳曲輪の奥から見た本丸天守台・二の丸方面。
南の虎口脇から見た虎口]脇の石垣、左奥が二の丸・三の丸・北千畳方面。
同じく、ズームアップ、大手口の上り階段、城の入口受付場所が見えます。
立雲峡から見たお城の全貌ですが、雨が再び降り、残念ですがこの程度です。
木下秀吉の弟、秀長が但馬の国に攻め込みましたが当時は3000の兵とか良く城が落とせたと思いましたが、城方は投石、秀長軍は300の鉄砲で対応とあります織田軍の戦闘能力は非常に高いのですね、此の城もその後の改修でこのような近代的な(?)山城に変貌させ権力のシンボルとして見せたのでしょう?。