三郎兼続の日記

趣味の写真で山登り・旅行を主体にした日記
最近は山登りが少なく、城郭・巨木へ

川越城に行って来ました。

2024-03-26 10:34:25 | 城郭埼玉1

2024年3月24日(日)に川越の春まつりに行って来ました、併せて川越城周辺を見て回りました。

蔵の町 小江戸 川越の東側・・・・ほぼ当時の川越城跡です・・・下側の市役所前が西大手門。

これは上が北側が上の縄張り図・・・・三の丸上側が氷川神社、左側が西大手門・外曲輪(市役所)、右側上二の丸(武道館)・・・右側帯曲輪の外側が新河岸川・・・本丸御殿の右側が三芳野神社、本丸左下側の口が富士見櫓。

これは本丸前の地図、東西が逆になっていますね・・・・右側が西大手門・・此処から進みますね。

市役所前 太田道灌の像 古河公方に対抗する扇谷上杉氏の上杉持朝は家宰の太田道真・道灌に河越城築城を命じた、加えて江戸城の築城を命じた、河越城は平山城で東方が低地比高5-6m位、北方が新河岸川・・さらに北に入間川、南方は湿地帯で連格式の独立した曲輪を各堀で囲んだ防御の城。

またまた方角が異なる(統一出来ないのかな)中の門の図。

復元された冠木門。

左側が中曲輪 土塁と堀 右側(西)からの敵を想定・・・右側は外曲輪。

北側の氷川神社方面を見る・・・・低地が解りますか。

市立博物館方面・・・三の丸。

三の丸と二の丸の間 蓮池門跡とか。

蓮池門跡。

新河岸川の新城下橋方面を見る。

新河岸川。

少し戻って本丸へ 川越城本丸御殿。

本丸御殿全景。

江戸時代の川越城本丸御殿 天守は無かったそうですね。

角度を変えて・・・。

本丸御殿前にある三芳野神社。

本丸御殿脇から見た高台が(南方)富士見櫓跡。

回り込んで富士見櫓跡へ来ました。

浅間神社と御嶽神社。

神社脇から更に・・・・。

富士見櫓跡。

富士見櫓からの景観・・・・当然富士山も見えるのでしょうね?、此処には天守の代わりの御三階櫓が会ったみたいですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


伊奈氏屋敷跡に行って来ました。

2024-03-20 09:14:26 | 城郭埼玉1

2024年3月19日(火)に埼玉の伊奈町にある伊奈氏の屋敷跡(伊奈城)に行って来ました・・・・家の近所にある遺構・・・・散歩道の一つで良く行くのですが、やはり冬場でないと虫が多いので。

河津桜でしょうか?、今咲き誇っていました、二の丸と主郭との土塁の切れ目に咲いていましたので・・・・これから一番遺構らしさが残る主郭と蔵屋敷の堀底道へ入ります・・・。

伊奈町の新幹線脇にある伊奈氏の屋敷跡・・・図の下側の原市沼側から散歩に来ます。

図を大きくして・・・下側は今は原市沼側・・・昔は原市沼・・・右側も湿地帯・・・左側の新幹線も原市沼とほぼ湿地帯に浮かぶ島が伊奈氏屋敷跡(以前はお寺・・岩付城の支城とか?)。

私は下側から二の丸跡にを上に突き当りが”桜”・・・蔵屋敷を囲む堀底道へ・・・・。

左側が陣屋跡の土塁の堀底道を進みますね、家の近所にこの雰囲気を残す遺構があるなんて・・・。

突き当たりますね、・・・・蔵屋敷跡。

土塁上が蔵屋敷跡。

此れから左側へ回り込みますね、大分堀が埋まっていますが、結構な土塁ですよ。

屈折した堀底を・・・・。

左が主郭の土塁、右が蔵屋敷側・・。

堀が終わり上がりますね、昔は虎口が在ったのでしょう?。

左側には土塁が・・・右側は斜め向こう側に土塁が続いていますね。

上がると主郭の搦め手側・・・正面右側の木々が搦め手の虎口(ニューシャトル丸山駅)。

右側です・・・左側は土塁が続きます。

左側は蔵屋敷側。

土塁の前側は解りずらいですが、空堀です。

此処は蔵屋敷の横側(東側・・湿地帯前ですが・・・・)低く削平されています。

東側の湿地帯に出てきました、左側へ進みますね。

東側の散策路・・・近年整備された所、前は新幹線。

整備された散策路・・・・桜の木が大きく成れば良いのですが・・・まだまだ。

搦め手側の出丸?・・・下の線は障子堀がある場所で発掘後埋め立てたのです、障子堀が後北条氏の物かわハッキリしていないみたいですね。

毎年この周辺は発掘が繰り返し行われています、この出丸?の脇まで堀が掘られているのは確実なのです、障子堀の堀に囲まれた搦め手側の虎口。

これも・・・出丸の上の一部を発掘中・・・説明会が在ったみたいですが私は行きそこなったので・・・。

此処は出丸と主郭の間の堀。

原市沼側(新幹線がわ)の左が主郭の土塁・・・・此処は土塁下の犬走か沼地か?、今は西側散策路。

散策路を進みます。

散策路を南側に入ります、頭殿権現社。

頭殿権現社・・・左側は原市沼右側は空堀で独立した区域ですね。

右側の空堀・・・・竹藪を切り払っていますね・・・・民家が素通しになりました。

頭殿権現社の後側の堀。

これは最初に戻り、二の丸横の主郭部分との堀。

同じ場所を進みます。

左二の丸の土塁、正面先は原市沼へ、右側が主郭部分の土塁。

二の丸と主郭部分の区分けの土塁・・・二の丸・蔵屋敷と続いている土塁なのです。

この後側が二の丸、土塁下此処は空堀跡なのでしょうね?、写真では解りずらいですが・・・。

表門側?から見た二の丸方面・・・後ろの木々の場所は土塁。

南側先端の原市沼側の横の湿地帯。

二の丸の土塁横の水堀(湿地帯・・・今は水が枯れたりしますが・・・昔は如何なのか?)。

この先が表門跡なのですが民家でこの堀が途絶えています、でも水堀らしく見えますから・・・・冬場でも良く見えず残念ですが・・・近くの散歩路で贅沢は言えませんが、如何です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


埼玉の毛呂氏の館跡に行って来ました。

2023-01-15 08:07:58 | 城郭埼玉1
2023年1月11日(水)に埼玉県毛呂山にある毛呂氏の館跡に行って来ました。

JR八高線毛呂駅の西側高台には埼玉医科大学病院がありますが、そこより少し南の山麓(石尊山)の長栄寺一帯が毛呂氏の館跡、長栄寺を街道側から見た所、高台が解りますね。

長栄寺を正面に・・・・現在長栄寺の墓場が大きく広がっていますね、手前後ろには不動尊のお堂もあります・・・どこまでが館かわわかりませんがお寺の裏側の山は明らかに削平された地形です。

長栄寺前にある石碑‥毛呂顕季の館。

山門手前にも毛呂氏館の説明が、毛呂氏は治承4年(1180)源頼朝挙兵以来の側近、鎌倉殿の13人の抗争に嫌気がさし此方に引き込んだとか、戦国末期小田原北条に属し、天正18年(1590)小田原攻時には八王子城の守備につき多くは討ち死にし滅んだのです。

奥の山間に溜池がありますね、高台なので水の手が必要なのです、沢から水を・・・。

山門前から左側の鐘撞堂を進むと溜池があり、山側(寺の横)に毛呂氏のお墓が・・・・。

墓石の表面が崩れて読み込め無いようなことが説明版にありましたが、確かに風化してますね、諸行無常・・・。

毛呂氏のお墓の後に館跡の標識が・・・お寺の後方になりますね。

お寺との隙間にも小さな掘りらしきものが・・・・・。

少し先を回り込むと館跡へでますね、右側が、小さな堀がわ・・・その下側がお寺がわ、段々に削平された館。

回り込みました、お寺の後方上の高台になりますね・・・毛呂氏館跡。

山肌を切り落とし削平したのです・・・・此処が毛呂氏の館跡。

先まで行って振り返りました。

少し先まで少し下りました、回り込むようにお寺の間に腰曲輪?。

戻って館の後方に回り込みました、館の後ろ側には小さな堀跡が見られますね?。

戻りました、長栄寺の正面側の山側には不動堂がありますね・・・此処は?。

長栄寺が目の前、お墓は屋敷地区・・・それとも沢ののか・・・いずれにしろ長栄寺は毛呂氏の館跡です。


埼玉の毛呂竜ケ谷城に行って来ました。

2023-01-14 12:56:46 | 城郭埼玉1
2023年1月11日(水)に埼玉県毛呂山に竜ケ谷城に行って来ました、JR八高線の毛呂駅からの歩きとなりました。

毛呂駅から毛呂本郷交差点から見た毛呂山城(竜ケ谷城)の竜ケ谷山205m・・・庚申塚の分岐を左側に曲がり橋を渡り200-300mが入口。

埼玉医科大学病院の裏手側なのでしょうね?、竜ヶ谷城よりは雷電神社です(多分地元の人に聞いても神社が解りやすいのでは)、この右側はゴルフ場で神社があるので残された遺構では・・。

漸く竜ケ谷城の文字が現れましたね。

チョット先に神社の入り口が・・・後は右側へ・・・山道でゴルフ場へ上りますね。

山道をゴルフ場が正面に・・。

ゴルフ場です、雷電神社へのお参りは昼間はOKですね、カギを外して入ったら閉めてください、入って左側方向です。

左側少し先の石燈籠先を右側にいけばよいのです、此処はゴルフ場のカートの道路ですね。

此処からは一本道です階段を上りますね。

階段を上りきると正面に鳥居が・・・此処が竜ケ谷城の三の郭。

竜ケ谷城の縄張り図・・・今は下の方の三の郭先端です・・・これから二の郭、一の郭と行きますね。

鳥居の奥が二の郭、此処は三の郭ですが、左側の脇下、鳥居の右側も曲輪がありますね・・・三の郭の一部?。

鳥居を潜り抜け上がると社務所・神楽殿のある二の郭。

二の郭の右側に一の郭方面への上り路が・・・。

二の郭から振り返ります、下が三の郭・・・そこそこの落差はあります。

少し上って振り返りますね、二の郭です、帰りは右側へ降りて見ますね。

一の郭はもう少し、横矢掛かりの虎口になりますね。

階段横上も削平された小さな曲輪がありますね。

雷電神社ですね、竜ケ谷山山頂です。

雷電神社隣は稲荷神社です。

雷電神社と稲荷曲輪。

神社へ上がります、縄張り図では全体が一の郭ですが、神社の所は少し高くなっていますね。

雷電神社の脇にも小さな社が・・・この神社域は完全な一の郭ですね、この左下に腰曲輪があります。

一の郭の後がわです、先の方はゴルフ場ですが手前は急斜面ですね。

神社側から見た北側・・・此処も一の郭。

先端から見た毛呂山の町、正面森が出雲伊波比神社、手前の大きな建物は埼玉医科大学病院。

先端先を少し下ってみますね、先には小さな削平地が見られますね?。

木下は段々で削平されています、縄張り図の通りですが・・・随分小さいですね・・・?。

竜ケ谷城の説明版・・・毛呂氏の詰めの城・・・標高205mの山(要害山)を利用した中世の山城、各郭の周辺に腰曲輪や竪堀

一の郭先端から神社側を見る。

神社前の石段より二の郭方面を見る、右側は一の郭下の腰曲輪。

階段脇を見る三の曲輪の腰曲輪?。

二の郭神楽殿の脇から下る、右側方面にも二の郭腰曲輪があり。

下から二の郭を見上げる。

もう少し下がって二の郭方面を見上げる、二の郭横に腰曲輪。

三の郭の反対側・・・・神社への車道?・・・左上が二の郭、右側を回り込むと三の郭へ。

脇はゴルフ場に囲まれていますね、神社があるのと高いので残ってよかったですね。

やはり三の郭脇にも脇に削平地が見られますね。

神社の下り口から見える正面の山、多分牛頭山312mでしょうね?、毛呂三山・・・牛頭山・竜ケ谷山・石尊山(毛呂氏の館跡のある)。

埼玉の高坂城(高坂館)に行って来ました。

2022-12-04 22:25:16 | 城郭埼玉1
2022年12月2日(金)に高坂館跡(高済寺)に行って来ました、東武東上線高坂駅から歩いて10分程の場所ですね。

東松山市の高坂駅周辺は都幾川が流れ河岸段丘の高台に位置しますね、築城は14世紀の南北朝時代の高坂氏の館で戦国期は後北条に使えました、永禄5年(1562)松山城の合戦では北条氏政は高坂に陣をおいてます、現在の高済寺境内と周辺に残る土塁堀はこの時のものとか。

図上右方面が都幾川で段丘の崖に面した場所です、川横の高台の城郭・・・高坂氏の館プラス北条氏政の陣営改築による城跡。

高済寺・・・寺門の向こう側が土塁・堀。

土塁上・・・・説明版は加賀爪家3代の墓・・・徳川時代高坂周辺に3000石の領地を持ち、この場所が居館、加賀爪は有名な幡随院長兵衛(町奴)の話にでる、水野十郎佐衛門(旗本奴)と同じ旗本奴で後に領地取り上げになりましたね。

これが説明版。

加賀爪家累代の墓が建つ・・・・・北条時代は見晴らし台の場所でしょうかネ?。

土塁上から見た空堀。

同じく土塁上から見た都幾川方面と空堀・・・・見事な堀ですね。

土塁上から堀底脇に来ました、川側からの虎口?、に見えますね。

川側の道路から見た所、前の写真は黄色い看板の上あたりです、上に見えるのが加賀爪家の墓・・・高台です。

高済寺前の道路向こう・・・・今は公園ですが、城郭の一部との説明版・・・他にも古墳群も出土と在りますね。

此処も少し高台・・・見晴らし台?、昔は松山城方面が結構見えたか?。

今は公園ですね、左側は崖・・・河岸段丘のへり、奥の木々がある場所に空堀があります。

公園を二分するように空堀が・・・・説明が無いと公園で遊んでいる人は気が付かないでしょうね。

空堀・・・堀切ですね。

空堀を進むと此処は河岸段丘のへりでこちら側は土塁、横矢掛かり?風に見えますね。

正面に見える土塁上が公園です、当時は立派な防御の仕組みでしょうね、永禄5年(1562)の武田・後北条連合軍は5万数千で松山城を取り囲み松山城に籠城した上杉憲勝を開城させました、救援の上杉謙信は石戸城まで来てましたが間に合わず八つ当たりした話は有名ですね。

難波田城跡に行って来ました(埼玉県富士見市)。

2020-02-20 11:18:53 | 城郭埼玉1
2020年2月19日(水)に埼玉県富士見市の難波田城跡に行って来ました、東武東上線志木駅東口からバスで下南畑バス停へそこから歩きました、南畑=難波田・・・なのでしょうね、難波田弾正左衛門尉善銀の城とか・・・・松山城を預かり扇谷上杉に所属していましたね、後北条に敗れましたかネ?、荒川と新河岸側の間の湿地帯のお城で三重の水堀に囲まれた珍しい平城です。

現在は難波田城公園です、右側半分が城跡ゾーンですが、公園上側は宅地化され当時の曲輪は欠けています、左側は古民家が展示されていました。

当時の縄張り図です、下側が大手門で、中央が本丸(本曲輪)でその上が二の丸(二の曲輪)ですが、上部は現在宅地で有りませんね。

左側中央辺りから、城内へ、水堀と曲輪3のあずまや目に入ります、左側が本城です。

少し空堀に近づき曲輪3のあずまや、左側が水堀を隔て曲輪2です、右奥が大手門(追手門)側です、こちら側は搦め手側ですね。

どうも、図と居場所がしっくりしないのですが、今は図の左側か中央左辺りか?、いずれにしろそれ程大きくはありませんね。

本城です、碑があり、後は民家でそこが本城なのでしょうね?。

本城の碑から見た本城門と橋・・・狭く空堀ですが・・・広く水堀だったのでしょうが、曲輪2・・馬出の説明が有ります。

曲輪2(馬出)から見た本城側です、本城門(冠木門と碑)・・・本城は住宅地なのですね。

曲輪2から見た最初に来た方です、右側は民家ですね・・・本城は結構広かったのでしょう?。

曲輪2から振り返り見た水堀と曲輪3のあずまや・・・・その向こうが資料館でその後ろ側が古民家展示ゾーンですね。

曲輪2側から見た東門側と復原橋。
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東門外から見た所です。

曲輪3から見た曲輪2.

廻込曲輪3から見た曲輪2と本城(曲輪1)方面。

曲輪3の外れ大手門手前の筋違い虎口、正面大手門、右側が曲輪4.

土塁上から見た曲輪4方面、正面は資料館。

同じ場所から見た筋違い虎口。

追手門(大手門)冠木門に屋根を乗せた棟門。

資料館前から見た難波田城です、正面のあずまやは曲輪3、左側奥が曲輪2側ですね、輪郭式平城の片割れですがイメージは府から見ますね。