三郎兼続の日記

趣味の写真で山登り・旅行を主体にした日記
最近は山登りが少なく、城郭・巨木へ

群馬藤岡の平井金山城に行って来ました(井戸曲輪・櫓門)。

2023-03-05 07:35:02 | 城郭群馬1
2023年2月28日(火)に群馬藤岡の平井金山城に行って来ました、平井金山城は関東管領山内上杉憲実(初代平井城城主)の詰めの城、永享10年(1438)の乱で鎌倉公方足利持氏と対峙・・・籠城した旨の説明が本丸(主郭)にあるが天正元年(1466)上杉顕定(4代藩主)が拡張・・・天文21年(1552)上杉憲正(8代藩主)が北条氏康に攻め落とされたので、その当時の遺構として残っているのでしょうネ。

平井金山城の縄張り図・・・下側の右から左へ説明しました、今回は下側中央の二の丸から上に上がりますね、井戸曲輪まで行少し戻り櫓門・カロウト岩まで。

本丸を下り二の丸脇を右側方面へ本丸を回り込むように下ります。

此処が二の丸ですね、向こうから来ましたね。

最初狭い細い道を下りますね、本丸を回り込むように・・・。

廻込いよいよ、北側正面方向へ・・・目の前は堀切が・

二重の堀切が・・・狭い尾根筋を切っていますね・・・・当時は土橋か・木橋か?。

少し先は大きな曲輪が。

その先は又堀切で大きく分断されていますね。

尾根筋の段差を利用した曲輪が右側が横矢で正面は切岸での防御ですね。

分岐が出てきましたね、左側が井戸曲輪へ、右側は大手門方面。

横矢・切岸ですね。

廻込進むと避難所が見えましたが、あすこが井戸曲輪脇です。

岩盤を掘削してありますね・・・・井戸曲輪です。

説明版が・・・・水は山城の生命線ですからネ。

また先程の分岐に戻りますね、井戸曲輪から見上げます、細く切ってありますね。

先程の切岸・横矢ですね・・・・素晴らしいですね・ワクワクしますよ。

分岐に戻り先に進みますね、細い尾根筋に変わります。

またまた、堀切が・・・。

出てきました虎口が櫓門ですね、正面は平場が続き、右側に虎口が・・・石積も見られますね。

櫓門下側から見上げますね。

少し離れて櫓門を・・・平場の脇は石垣(石積)が見られます。

櫓門先には土橋・・・堀切ですが岩盤を削っていますね。

かろうと岩ですね、この先下側に大手門があるとか・・・下のゴルフ場から声も聞こえたのでそこまで下がらず此処から戻りました・・・権利的にはこの辺はゴルフ場の持ち物みたいですが遺構を崩さず残されたみたいです、まずは良かったです、・・・・この辺りの遺構はやはり戦国期のものでしょうね、此処から戻り・・・高山城・平井城と見て回りました、特に高山城は目の前なのに皆さん知らないので苦労しました。

本丸前まで戻りました、此れから左側へ回り込み、二の丸へ・・・。

群馬藤岡の平井金山城に行って来ました(登城口・本丸)。

2023-03-04 07:59:40 | 城郭群馬1
2023年2月28日(火)朝早くから群馬藤岡へ、駅からコミュニティバスで日野小学校前(矢島商店前・・・平井城を通り越し)まで。

JR八高線群馬藤岡駅から藤岡市の山が出始める中央辺りの場所ですね。

日野小学校前のバス停斜め前に標識があります、2個並んだ低山の左側が金山城・・・・平井城・高山城共2km位でしょうかネ?。

平井金山城の縄張り図・・・今回記載部分は右側の現在地から本丸まで・・・・次回は本丸上の部分となります。

他にもいろいろ注意事項があるので見てから進んでください・・・現在の時間9時10分(朝早くから此処まで大変なのです)。

イザ山道へ・・・・ちなみに私はストックとトレッキングシューズでの山登りスタイルでの登城ですからネ。

道は枯葉が積もっていますが、標識に感謝です。

道は曲がりくねっていますが、竹藪があるがほぼ1本道。

何故かいきなり石垣が・・・・・昔のものではありませんね。

それでも何となく嬉しくなり、写真を・・・・・。

此処からが本格的な登りに・・・・それ程でもありませんが。

山道ばかりで・・・・。

この辺りは急な為道が荒れているので注意が必要ですネ。

最後の上り・・・。

お待たせしました、いよいよ、城内へ出てきましたね・・・・尾根の端です。

案内図で確認、今右端下の赤点・・・・右端が見晴らし台、左側が本丸・・・・この図にはありませんが、井戸曲輪へ行く手前で右側の方にも櫓門方面がありますね(書いてないのははみ出してしまうので省略?、最初の図を思い出してね)。

少し引いて見ますね、右側が今来た道、正面が見晴らし台。

見晴らし台。

見晴らし台からの景色・・・・登って来た方角ではありません、この周辺はゴルフ場。

見晴らし台を降りて本丸方面の尾根筋を上ります。

根筋をカットした堀切、切岸の壁、回り込みますが、横矢掛かり。

尾根を利用した連続した横矢です。

横道から上りの虎口が現れます。

上ると又、切岸が立ちはだかり、廻り込ませる作りですね。

切岸の上から見た所・・・上がって来た敵を上から抑え込むのです・・・山城の防御は解りやすく嬉しいですね?。

又も切岸が・・・繰り返し繰り返しですね。

上から見るとわかりやすいですね・・・・。

漸く広い曲輪に出てきましたね、手前が凹んでいますね、多分堀切なのでしょうが、埋まっていますね。

尾根筋が細く成ったり太く成ったりした部分を利用し、曲輪を構成するのですね。

なおも、尾根筋が続きます。

此処も堀切がきられて尾根筋を分断?。

いよいよ出てきましたね、本丸前の曲輪ですね。

本丸下の曲輪から見上げた本丸です、右側は次回記載しますが、井戸曲輪方面。

この上が平井金山城本丸・・・多分当時は一の郭。

現在位置の確認・・・・・右側から来ましたね。

平井金山城本丸。

そこの広さのある本丸ですね。

本丸に説明文が、永享の乱・・・永享10年(1438)鎌倉公方足利持氏が室町幕府に背いた戦い、鎌倉公方の家臣関東管領上杉憲実は幕府側に此処本国の領地平井に戻る・・・・本陣跡は兎も角、当時この城そのものは出来ていたかはどうなのでしょうかネ・・・平井城の遺構は殆どありませんが、山城は遺構がハッキリ残り嬉しいですね。


群馬藤岡の高山城に行って来ました(百間築地・要害山城)。

2023-03-03 08:28:13 | 城郭群馬1
2023年2月28日(火)に群馬藤岡の高山城に行って来ました、現地の方々に聞いたのですが知っている方が誰も知らないのには驚きましたね、昔?金井の湯が在ったみたいですが今は無い・・・・ふれあい花の湯・・住宅型有料老人ホームに変わっていました。

平井金山城の後歩きました、金井郵便局前から鮎川を渡り少し先を右側へ鮎川湖のダム下へ、後は道なりに進みました、此処右側が金井の湯・・・今はふれあいの湯(右は低地)・・・この道は吞つまりですね、後側が鮎川で大きく曲がって右奥方面に流れているのです、高山城はこの川を背後にしていますね、左の山が高山です、正面の道を行き右側に進みます。

正面の山は平井金山城・・・右側から左側に鮎川が大きく曲がっています、右下がふれあいの湯側です、石垣が見えますね・・・この辺りが高山城。

この辺りも高山城かな?。

枯草が多くて・・・?。

石垣がぼつぼつと・・・・。

道なりに回り込むと看板が、漸く高山城の百間築地へ・・・奥に壊れた石垣がこれが残存石垣?。

説明版。

城内から?見た看板と高山方面・・・入口が解らず・・・此処は高山城(ナビが高山城と一致)。

此れが高山城残存石垣。

高山城の後側・・・・良く見えませんが鮎川側の崖、ちなみに高山城の看板左側前はふれあい湯で城から見ると崖下・・・今来た道がわの防御が必要なだけですね・・・防御物は解りませんが・・・途中のお墓が高いので虎口かも・・・。

道が解らないので、無理やり藪漕ぎ・・・多分要害山下に出ましたね。

高山城百間築地の上側の腰曲輪かな(唯の山道か)。

これは間違いなく要害山城一の郭の空堀・・・。

空堀前の腰曲輪先端・・・空堀は続きますね、右手前に虎口があります。

虎口・・・土橋が解りますか、左右が空堀、今右側下から回り込んできました。

土橋から見た空堀、右側を回り込んできましたね。

土橋を超えて、空堀の向こう側を・・・・。

回り込むように一の郭へ。

一の郭を望む。

一の郭の虎口。

高山城要害山城一の郭・・・・・実に狭い郭、この高山城は関東管領山内上杉の平井城・平井金山城と三角形の近距離の関係のお城。

一の郭を出て山側に進みますね・・・尾根筋です。

尾根筋を切ってありますね。

此処も虎口です、しっかりとしていますね。

今の反対側は明らかに削平された、曲輪が・・・・。

削平された所が横に続きますね・・・・高山要害山城の曲輪ですね。

曲輪奥はゴルフ場で遮断・・・高山城天屋・・この左側奥山頂には行かないで帰りました・・・・高山城ハッキリしないままで終わってしまいました。




群馬藤岡の平井城に行って来ました。

2023-03-02 11:52:03 | 城郭群馬1
2023年2月28日(火)に群馬県藤岡市の平井城に行って来ました。

平井金山城・高山城と廻り最後に平井城に群馬藤岡駅よりバスにて矢島商店前の停留所から歩いてすぐです、旗が沢山・・・土塁の上に閃いています(本丸跡)。

平井城の縄張り図・・・現在地は図の下側本丸前の道路・・・・後ろの川((鮎川))を断崖絶壁を利用・・・遺構は殆どありませんね。

図の真ん中の道路脇。

道路反対側・・・・二の丸側・・・遺構は無し?。

平井城本丸を覗く。

本丸入口から奥を見ます。

奥に飾られた資料。

バス停前に張られた資料・・・・関東管領上杉(山内)・・上杉家は大きく4系統に(山内・犬懸・扇谷・越後)・・・家宰は長尾家。

1416年上杉禅秀の乱・・・鎌倉公方足利持氏が関東管領上杉禅秀を解任し山内上杉憲基を抜擢、禅秀は兵をあげるが最後は敗れ自害、その後1425年室町幕府5代将軍足利義量が19歳で亡くなる後継者が居らずくじ引きで後継者を選ぶ6代目は足利義教、持氏が将軍を望み幕府に対抗・・・永享10年(1438)・・・永享の乱勃発、上杉憲実は身の危険を感じて領国の平井へ戻る・・・平井城・平井金山城・・・1438年足利持氏は敗れるが、その後世の中は乱れ、享徳の乱の24年間の大乱となった。

奥側から土塁を見る・・・。

本丸、右奥。

本丸奥の崖の手前。

本丸背後の絶壁、下は鮎川。

本丸右側・・・・後はやはり切り立つ崖、・・・現在は遺構らしきものは見受けられませんね、文正元年(1466)上杉顕定により拡張、天文21(1552)北条氏康に攻め落とされ上杉憲政は越後に逃れる、永禄3年(1560)長尾景虎が奪還するが厩橋城に移り廃城。


群馬の箕輪城に行って来ました。

2022-12-24 07:59:35 | 城郭群馬1
2022年12月20日(火)に高崎の箕輪城に行って来ました、今回で2度目、郭馬出西虎口門の復元が為されたので伊香保温泉からバスで東明屋へ今度も奥方とは別行動となりました。

箕輪城の縄張り図ですが、此れは徳川時代初期天正18年(1590)の井伊直政12万石の改造時ですね、慶長3年(1598)高崎城に移り廃城となります、約500年前の永正9年(1512)に長野業尚が築城、憲業・業政・業盛の4代永禄9年(1566)に武田信玄により落城、以後織田(滝川一益支配)・北条氏邦・徳川と変遷しました。
今回は下側中央の搦め手口・二の丸・郭馬出・木俣曲輪・大堀切を西側・大手虎とう門・白川埋門・鍛冶曲輪・三の丸・蔵屋敷・堀底道を北側へ・新曲輪・丸馬出・御前曲輪・本丸・二の丸と廻りました、以前は左側の水の手曲輪方面から回り込みましたね、上側(西側)は榛名白川が流れ河岸段丘の縁に位置します、南側は昔は沼地とか、大堀切で南北に分断し、空堀で沢山の曲輪が構成された群馬の百名城のお城です。

此処もバスがあまりなく、伊香保温泉を11時発(此れが一番)なのでホテルを10時に出ました(バス停で待ちましたが)、東明屋バス停まで約30分、此処から高崎まで約50分約2時間城内を見学、長野時代は大手口(徳川時代には搦め手口)・・・左側から入ります。

奥が二の丸の虎口へ右側は二の丸・本丸・御前曲輪脇の帯曲輪・稲荷曲輪と続き新曲輪方面へ行きます、左側へ進みますね。

なおも進みますね・・・今は二の丸前の虎口・・・・此処は昔は無かったのでしょうね(左側から木俣曲輪へ回り込むか、狭く細いか)?。

いきなり二の丸です、右側は空堀で本丸との間を隔ててありますね・・・左側が下に続く。

此処が圧巻の個所ですね、右側が二の丸、大堀切で分断、土橋の向こう側が郭馬出曲輪(かくうまだし)、右側が西虎口門(復元以前は無く今回初見)。

折角ですから二の丸大堀切の土塁上から・・・土橋向こう側が、郭馬出。

土橋から見た大堀切底・・・・東側。

振り返ります、土橋上から見た西側の大堀切底、右側が二の丸、木々がある場所が三の丸・・・後程この堀底道を下り大手門口方面へ行きますね。

これが復元された、郭馬出西虎口門です。

西虎口門から見た所・・・土橋の向こうの曲輪(名称が?)。

土橋を下り、郭馬出西虎口門です、城柵の門より進んだ、中世の建物で趣のある門ですね!、此れが見たかったのですヨ。

郭馬出前の木俣曲輪です、この下に法峰寺があり、激戦の水の手曲輪があります(前はこちら側から上がってきました)。

木俣曲輪から見た、郭馬出西虎口門です・・・馬出は三方が堀・土塁で囲み、横サイド(?)から出退陣するための場所ですね。

木俣曲輪から見た高崎方面・・・・草の為先までいけず、この下が法峯寺・水の手曲輪・観音様口です。

木俣曲輪左側(東側)から見た景色、右下側が今登って来た東明屋方面、山は赤城山ですね、先程の道はお墓の向こう側から上がって来ましたが、こちら側へ回り込むのかな?。

木俣曲輪から戻り大堀切の底へ下ります、途中から見あげた郭馬出西虎口門。

大堀切の底道・・・大手門方面へ、右側は三の丸。

西側です、榛名白川はこの左側を下りますね、白川口埋門。

埋め門脇が大手虎とう門口、虎とう・・・・中国の戦術の虎の巻・・・井伊直正が命名したとか?、この広場後が鍛冶曲輪。

鍛冶曲輪の石垣です、この奥が鍛冶曲輪で、三の丸・二の丸・本丸へと続きますね。

鍛冶曲輪脇を上ると三の丸石垣が、埋まっていますが4m位の石垣とか・・・多分、北条氏邦が改築。

三の丸です、右側は先程下った大堀切。

三の丸と二の丸(右側)を分ける空堀です、左側が三の丸で蔵屋敷方面へ続きます。

三の丸虎口脇から見た大堀切と郭馬出西虎口門。

蔵屋敷曲輪から見た本丸との木橋(復元今は渡れず)・・・蔵屋敷から通仲曲輪方面には道が無く行けません、少し戻り堀底道へ。

空堀へ降りて本丸(右手側)脇を進む。

なおも左に進みますが、右側は本丸、正面が御前曲輪・・・正面階段は両曲輪を隔てる空堀へ出る・・・。

御前曲輪の裏側の堀・・・現在の御前曲輪への階段は当時はどうかな?、右側は通仲曲輪、右側の堀底道から来ました、後程正面の階段から御前曲輪へ。

上の所から少し下がってみた、左側は稲荷曲輪・帯曲輪で最初の所に繋がります、その左側は新曲輪、正面は御前曲輪。

北側の丸馬出・・・遺構がはっきりしませんね、新曲輪も畑・・・状態でハッキリしませんね。

丸馬出から御前曲輪方面、左側が新曲輪。

御前曲輪に入りました、北側です、左奥は井戸。

御前曲輪の南虎口・・・・他に西虎口門・・・木橋による虎口が在ったみたいですね、この曲輪で長野業盛永禄9年(1566)武田信玄の2万の軍勢の猛攻撃にあい22歳?の若さで自刃、辞世の句 春風にうめも桜も散りはてて 名のみぞ残る箕輪の山里、親の業政の代には攻め落とすことが出来ず業政が死んで信玄は喜んだとか?、武田勝頼は永禄6年に箕輪攻めで初陣2歳下。
新陰流の祖、剣聖・・上泉伊勢守信綱はこの長野業政(なりまさ)・業盛(なりもり)に仕え、信玄との戦いにも参戦目覚ましい戦いをしました、長野氏滅亡後は仕官せず剣一筋に・・・。
この箕輪城は真田幸綱(幸隆)も天文10年(1541)武田信虎(信玄の親)により海野平の戦いで敗れ長野業政を頼って逃げてきましたね、その後晴信(信玄)に帰属・・・攻める側になりますね・・・戦国時代ですからネ!。

先程の御前曲輪と本丸(左)を隔てた空堀。

空堀横が御前曲輪と本丸を繋ぐ南虎口、正面が本丸・・・土塁が今に残っていますね。

本丸 南虎口・・・奥が御前曲輪。

少しずらします、本丸の碑・・・奥が蔵屋敷側に繋ぐ木橋(先程下を潜り抜け・・・今は渡れません)、左側土塁の左は堀切・・空堀で二の丸と隔てています。

本丸の南側の虎口、右側は空堀、正面は二の丸・・・・最初に正面左側から入城しました、此れで水の手曲輪方面を除けばほぼ城内を巡りましたね、長野時代・北条時代・徳川時代と改修されたので、長野時代の武田軍の猛攻を支えたお城の規模が?・・・・いずれにしろ素晴らしい名城なのです。


桐生城跡(柄杓山城)に行って来ました(群馬)。

2020-03-16 14:53:22 | 城郭群馬1
2020年3月12日(木)に桐生城跡に行って来ました、桐生駅からおりひめバスで城山入口のバス停へ。

バス停脇にありました、案内板です、女子高校前のバス停からも歩ける距離でしたね、帰りはバスの時刻の関係でそこまで歩きました、取り合えず城山入口から舗装の林道を上り日枝神社のコースを歩きました。

林道を上り駐車場まで、奥左側に案内図がありました、まだ舗装道路が続きますね。

案内板1此れからもう少しで桐生城跡。

案内板2・・・今右下、少し上がれば分岐・・・左側へ城の案内図(縄張り図は此れだけでしたね案内は無い)・・・私は北郭方面へ行きそこないました残念ですが(悔しい)・・・多分堀切から竪堀脇から下るのでしょうが?。

桐生市文化財桐生柄杓山城資料の縄張り図です(縄張り図を頂きました、ありがとうございました)、やはり2・3曲輪の脇から北郭へ入れるのでしたね、でも道が悪いので余りお勧めでないみたいですね注意しましょうね。

此処が分岐ですね、直進し右脇から漸く山道へ入ります、左側は土塁みたいに積み上げた土砂の作業場?・・・お城を作るの?。

作業場横の山道を少し登れば本格的な山道に入りました。

山道を進み鞍部へ右側は?、左側が桐生城(柄杓山城)の三の丸への入り口の尾根ですね。

このお城は連格式で三の丸・二の丸・本丸・・・脇に北郭等が有りますが・・・でも居館は本丸側下の山裾向こう側になります、お城は藤原姓足利系佐野氏一族の桐生氏が築城、観応元年1350年頃?、戦国期は北条・上杉らに従い群馬太田金山城の由良氏と抗争、元亀4年1573年由良成繁が攻め桐生親綱は佐野へ逃亡、以後由良氏の居城(北条方)、天正18年1590年廃城。

分岐の尾根を左側へ、すぐに堀切で区切られた三の丸が現れます、右横は竪堀ですね、ぞくぞくしますね・・・西搦め手口です。

堀切です、右側が三の丸です、道は山の向こう側へ回り込みますね。

堀切の底道を進みます、正面は竪堀、右側に山道が変わりますね、右側が三の丸で横矢ですね。

しばらく三の丸脇の道が続きますね、横矢が続くわけです。

三の丸切れ目は大きく堀切られ左右には竪堀です、道が右側に正面が二の丸です、よく見ると左側に入れそうですね・・・・多分竪堀上側を下り下の曲輪方向が北曲輪・・・東搦め手方面でしょう・・・ルートから外れるので危険が伴いますね。

三の丸の虎口から見た二の丸方面、この後三の丸へ・・・中は手入れが無く意外と細い。

二の丸脇の道です。

二の丸と本丸の堀切です、横は竪堀です。

これは二の丸を戻り三の丸との堀切ですが、藪があり見ずらいですね。

二の丸から見た本丸前の堀切と本丸虎口、手前の木が根事倒れて下の堀切を見ずらくしているのです。

本丸の虎口です、小さな枡形?、回り込んでいますね。

本丸の虎口上から見た二の丸との堀切です・・・・此処からは良く見えますね、左側から来るわけです。

すぐ小さな削平地がありこの奥が本丸です、回り込みますね。

本丸ですね、回り込みますね、虎口は向こう側です。

本丸脇を回り込みますが、この右脇下にも帯曲輪が有るみたいでしたね・・・上から見ると削平が見れますが降りる道は?。

本丸脇を回り込み木々が切れてきました、桐生市内側へ来ました。

これは土が崩れない様・・・、見晴らしが良いよう木々が切り払われています。

本丸です、今日は誰にもあわず・・・、桜の時期は名所なのかな?。

桐生柄杓山城の立派な碑があります。

本丸から見た桐生市内方面です、この下が日枝神社居館方面となります、此処は詰めの城なのでしょう、右側のもう一つ右側の山が吾妻山側ですね。

本丸の北東側?も下側に削平地が見られます・・・居りませんが。

本丸から日枝神社へ下ります、急な斜面の坂道です。

急な斜面を下り降りると段々の削平地が見られます、この辺からが居館・・・桐生館でしょうかネ?。

少し下側に社がありました、まだ日枝神社まで少し距離がありますね。

この辺りも削平地で向こう側は切岸みたいですね。

日枝神社脇に降りました、神社脇に楠の巨木が見られました・・・幹回り3-5位の立派なものですね。

日枝神社から少し離れて楠に囲まれた風情があるり、桐生氏にゆかりのある神社です。

日枝神社(右下)と柄杓山です、社は右上の緑の林あたりですかネ・・・・やはり山城は遺構が残されて見ごたえが十分にありますね。