三郎兼続の日記

趣味の写真で山登り・旅行を主体にした日記
最近は山登りが少なく、城郭・巨木へ

天橋立に行って来ました。

2023-05-28 06:58:40 | 旅行記
2023年5月23日(火)天橋立に行って来ました。

天橋立を歩くのではなく山上から見るのです、リフトで往復です。

リフト山頂からの天橋立・・・・私はこの景色初めてですが何となく見慣れていますね。

折角ですから、もう一枚、日本三景の一つですね、他は?。

此処には籠(この)神社の奥之院の遥拝所があるのですね、冠島・沓島が神の宿る島だそうです。

遥拝所・・・籠神社奥の院。

若狭湾に浮かぶ神の島、冠島・沓島が見えました、昨晩は雨でしたが、今日はスッキリ。

天橋立に向かいリフトで下りますね。

籠神社・・・神門。

重要文化財の阿吽一対の狛犬。

鎌倉期の作品胴脚がどっしりした所が特徴とカ。

境内写真不可の為、神門前から見た籠(この)神社の拝殿・・・”ちぎ”は横削ぎですね。

伊根の舟屋に行って来ました。

2023-05-27 06:25:54 | 旅行記
2023年5月23日(火)に京都府の伊根の舟屋に行って来ました。

伊根の舟屋 若狭湾の西側の端の伊根湾にあ立ち並ぶ200数十軒の漁師さんの家並み、生みに浮かぶような佇まいで有名ですね、海から見ました、波止場にはウミネコが・・・。

約40分程のクルーズ・・・ウミネコが・・・。

ウミネコの他にもトンビも・・・。

若狭湾の端の伊根湾・・・・見えてきましたね。

此処が伊根湾の端・・・・内海なのでしょうね、波が静か。

此れが舟屋です、海に浮かぶような・・・・昔は狭い場所に木の舟を格納するために・・・人は舟屋の向かい側の家に住んでいるとか。

アップで見ますね。

海岸沿いに立ち並ぶ舟屋。

船が収容されていますね、解りますか。

横にずれていきますね・・・。

再びアップ・・・舟屋を塞いでいる家も・・・。

此処が伊根の舟屋です。


出石(いずし)城に行って来ました。

2023-05-26 07:26:38 | 城郭兵庫1

2023年5月22日(月)に兵庫県の竹田城・次に出石城に行って来ました、今日は城崎温泉宿泊、天気が悪くなってきましたが、何とか持ってくれましたね此処での雨は辛いですからネ。

城下町出石、町の南(図上)の有子山山頂には戦国期の名城有子山城が、麓には近世期の名城出石城が築かれています、谷山川と出石川を外堀とした惣構えの城下町・・・・但馬の国。

出石城 慶長9年(1604)小出吉英(よしふさ)が有子山の麓に築城。

出石城登城橋(江戸期には橋は無い)、埋め門、西隅櫓、後ろが有子山。

門内へ、石垣前が下の曲輪、右側が西の曲輪、手前の石垣上が二の丸、奥が本丸西隅櫓。

少しちかずきます、出石城本丸の西隅櫓(天主は無かったそうです)・・・・本丸の上に高石垣があり稲荷曲輪がありますね。

本丸脇方面から見た西隅櫓、一段下の石垣が二の丸、ちなみに登城橋の前が三の丸。

本丸です、西隅櫓(右側)、高石垣(左側)、この建物は感応殿(明治に建つ)仙石権兵衛秀久(江戸末期の藩主仙石氏の祖)を祀った。

お城坂(稲荷参道)・・・・お城の中を突き抜ける、最上段の稲荷神社への参道、元々は有子山城への大手道?。

参道脇には出石城稲荷曲輪の石垣・・・この右下が本丸。

参道を上り切りました、左側が有子山城への道、右側が稲荷曲輪(神社)。

有子山城へ・・・・登山道です・・・残念ながら今回はいけませんが。

稲荷曲輪にある稲荷神社。

稲荷曲輪です、出石城下町が眼下・・・・。

石垣上から城下町を望む、右側中央に見えるのが明治期に建てられた辰鼓楼で三の丸大手門跡。

同じ場所から下を見ます、出石城本丸・・・稲荷曲輪の下に本丸があるのです、珍しいですね、西隅櫓と感応殿。

参道を下ります、途中右側は山里丸の曲輪と石垣。

此処は二の丸下の下の曲輪?。

参道入口です、右側下流が先程の登城橋、この辺り一帯が出石城なのです、橋手前は三の丸です。

三の丸(対面所跡)・・・元禄15年(1702)松平忠周が建設本丸より移る、この正面が辰鼓楼。

三の丸から見た本丸方面、左側が東隅櫓、後が稲荷曲輪の石垣。

三の丸から見た、有子山城の石垣・・・羽柴秀長の命で築城の名手藤堂高虎が最初に築いた石垣?、有子山城は天正2年(1574)但馬守護山名裕豊(すけとよ)が有子山山頂(321m)に築城、天正8年(1580)羽柴秀長による改修、元和元年(1615)の一国一城令で廃城。

出石城三の丸濠横の土塁。

出石城三の丸の堀と辰鼓楼。

出石城三の丸大手門跡に建つ、辰鼓楼・・・・屋根の上の後の有子山尾根に有子山城石垣が見えますね。
この後は城崎温泉(きのさき)で外湯7湯(1湯は休み)をしましたが、途中大雨となり4湯で止めました、久しぶりに下駄をはいたので歩きずらかったですね。


竹田城に行って来ました。

2023-05-25 07:25:30 | 城郭兵庫1

2023年5月22日(月)に兵庫県の竹田城に行って来ました。

天正5年(1577)羽柴秀吉の但馬攻めで羽柴秀長が城代になり、以降織豊方の拠点城郭として機能、天正8年(1580)羽柴秀長は出石有子山城へ、天正13年(1585)赤松広秀が城主となり、石垣の城を構築(豊臣の力を示すお城)。

竹田城大手門下から石垣を仰ぐ・・・・・。

竹田城大手門・・・・北側・・・階段が奥に行くほど詰まっていますね。

大手門脇の石垣の上から今来た上り路を見る、奥の石垣が本丸側。

同じ場所から、大手門跡を見ます、左側が北千畳曲輪側、大手門を入ると桝形虎口が続きますね。

北千畳曲輪の西側から見た、二の丸・本丸の石垣と天守の石垣、以前4月ごろに来た時は木々の葉が無く良く見えたのですが・・・こちら側が昔は大手筋とか・・・水の手もこの下側にあるとか?。

大手門上側から見た所、枡形構造。

大手門上の東側端から見た、南側方面、奥に行くには正面の石垣を避けて、西側から回り込みますね。

振り返りますね、大手門・・・先程登って来た所・・・上からの攻撃で厳しいですね。

西側から二の丸・本丸・南側方面へ・・・・大手門筋からは此処を進むのです、横矢にかかりますね。

漸く二の丸へ上がりました、正面が、竹田城本丸天守台、以前来た時はその先立入禁止で上がれませんでしたね!!。

竹田城本丸・・・・天守台石垣。

天守台石垣から見渡しますね、まず、南側、右脇から平殿・南二の丸・南千畳。

もう少しアップで南二の丸と南千畳。

本丸脇から見た西側の花屋敷の曲輪。

北側の二の丸・三の丸・北千畳・・・此方から来ましたね。

北側方面西側、本丸下の通路(花屋敷・南側へ)、正面奥は北千畳・左下に水の手?。

もう一度南側の石垣を見ますね、見事な石垣ですね・・・・この時期は雲海は出ませんね・・・これだけのお城を築いたのですが、生活空間ではありませんからネ。

南千畳まで降りてきました、南二の丸虎口の石垣・天守石垣・二の丸の石垣群。

少し離れて、竹田城の本丸石垣を・・・見せる城ですね。


姫路城に行って来ました。

2023-05-24 15:30:56 | 城郭兵庫1

2023年5月21日(日)に兵庫県に行って来ました、姫路城を久しぶりに見てきましたよ、4回目かな・・・。

姫路城大手門・・・。

姫路城大手門を入ると三の丸ですが、正面に連結式天守が、手前はリの一渡櫓、後が大天守・西小天守・乾小天守・・・前回に比べると大分落ち着いた色になりましたね。

少しちかずきましたね。

菱の門・・・・この先沢山の門を通過して天守へ・・・・、城内のスタート地点ですね、よく日本一のお城とかやりますが、此れだけの石垣・建物が存在するは此処だけですからね。

菱の門を抜けた先がこれです、三国堀がこの前にあるのですが此れだけでも・・・。

これはイの門かな?・・・。

これはハの門?、石垣と塀の隙間を天守まで繰り返しますね、段々狭くなって、大勢が一度に攻め込めませんね・・。

大分天守の下に来ましたね・・・、姫路城は黒田官兵衛・羽柴秀吉・・・関ケ原の戦い後池田輝政が大改築、現存の五重七階の連立式天守。

天守が見えたり見えなくなったり、門が段々低くなる・・・。

西小天守下の水2の門?・・・・、左側へ回り込み隙間からいよいよ、天守へ・・・。

天守建物内・・・現在は上りハシゴ・・・昔のもの・・・右側、今は混雑防止で下りようハシゴ(新しく作成・・古けど)。

最上階から見た所、菱の門ですね、後側が西の丸方面ですね、百閒廊下櫓かな?。

西の丸、長局・化粧櫓・・・徳川家康の孫娘千姫は大阪夏の陣で豊臣秀頼が自刃、本多忠刻に再嫁・・・化粧櫓で10年を生活。

姫路城天守への虎口、乾小天守・西小天守・大天守、右側下が本丸(備前丸)。

多分、左側が帯郭櫓(腹切丸)・・・・正面がリの門太鼓櫓・・抜けると二の丸・・・・右側が本丸。

二の丸の右側ヌの門を抜けて三国堀へ・・・後が菱の門。

姫路城連結式天守・・・・です、素晴らしいですね、搦め手側を見たかったのですが、今は入れないとか?。


静岡金谷の諏訪原城に行って来ました。

2023-05-19 15:11:57 | 城郭静岡1
2023年5月17日(水)に静岡の金谷駅から旧道の東海道沿いにある諏訪原城に行って来ました。

JR東海道線金谷駅から旧東海道の金谷坂石畳を上り諏訪原城へ・・・帰りはセンター前のバス停から丁度良い時間にあたりバスで踊りました。

旧東海道の石畳の道です、玉石で歩きずらい道を・・・石畳の終点まで上ります・・・右側方面を進めば。

此処も旧東海道です、右側は諏訪原城ですが、正面に諏訪原城センターの看板が・・・・。

センター内の模型図・・・諏訪原城の縄張り図・・・・私は図の上から右上へ右側下の三日月馬出横辺りにまで来たのですね、諏訪原城は大井川の河岸段丘(牧之原台地)の端に築かれた平山城・・・・図の下側が防御を固めれば良いのです、天正元年(1573)武田信玄死去、武田勝頼が馬場美濃守信房(信春)に命じ築城した武田流築城技術を駆使した壮大な山城なのです、天正3年(1575)武田勝頼が長篠の戦で敗れ、徳川の城に変わりますね、いずれにしろ高天神城のツナギの城・もしくは見張りの城となり、天正9年(1581)徳川軍が高天神城を奪還することによりお城の使命が終わりその後廃城。

センター横から諏訪原城城内へ・・・・大手南外堀から。

大手南外堀跡・・・右側の木々の中が二の曲輪大手馬出の三日月型堀のある所です。

右側の道を北側(正面)へ進みますね、右側は二の曲輪大手馬出の空堀。

二の曲輪大手馬出の空堀・・・・左側土塁上が諏訪神社。

順路の順番に従って進みますね、右側は二の曲輪でこの方面に複数の虎口が(馬出)あります・・・右は後になります。

此処は大手曲輪・・・・右側は外堀・二の曲輪側。

左側に大手北外堀、その先が惣曲輪・・・二の曲輪の外堀に沿って進みますね。

今、図の左中央辺りの色なし部分まで来ましたね。

右側が二の曲輪、正面が二の曲輪中馬出。

惣曲輪端から見た二の曲輪中馬出・・・此処は馬出の南虎口。

大きな三日月堀を持った馬出・・・・曲輪の虎口(出入り口)が防御の弱点になるので考えられたのですね、その後枡形虎口が採用されますが武田流は丸馬出の形が多く用いられましたね。

センター内にあった模型図・・・如何ですか。

北側方面へ回り込みました・・・・結局防御力は土木工事の力が必要なのです。

北側の二の曲輪北馬出の門・・・復元。

馬出側の内側、左が二の曲輪。

二の曲輪中馬出と二の曲輪を繋ぐ土橋・・・模型では木橋ですね。

諏訪原城二の曲輪。

二の曲輪を直進、本曲輪の虎口。

二の曲輪と本曲輪との空堀・・・・虎口の土橋より・・・右側が二の曲輪。

本曲輪へ・・・・。

諏訪原城本曲輪を奥に直進・・・中央に段差がある、地図では空堀で分割。

本曲輪の端、昔は大井川がこの下方面に流れていたみたいですね、脇下に帯曲輪(内堀)。

金谷方面の街並みが眼下に・・・・牧之原台地の先端です。

本曲輪の端・・・此処から二の曲輪方面へ戻ります、左側の下は水の手曲輪。

本曲輪の端、向こう側は二の曲輪。

本郭と二の曲輪の間の内堀・・・・井戸曲輪・・・・反対側に水の手曲輪。

水の手曲輪・・・・今も清水が湧いていますね、左側が本曲輪、右側が二の曲輪。

水の手曲輪から上り、二の曲輪。

二の曲輪の土塁を上ると二の曲輪東内馬出、奥にあるのが諏訪神社(二の曲輪大手馬出)、左側方面へ進みますね、右方面は先程の大手曲輪。

二の曲輪南・東馬出方面へ。

外堀が続きます・・。

二の曲輪南馬出・・・・この方面には馬出が密集していますね。

二の曲輪東馬出。

二の曲輪大手馬出方面へ戻ります。

見事な外堀が続きますネ。

諏訪神社・・・二の曲輪大手馬出の土塁上ですね。

諏訪神社裏手側、最初に向こう側を通り奥に進んだのです。

諏訪神社裏の土塁から見た三日月堀空堀です、虎口の前には馬出を設けてありますね、築城者の馬場美濃守信房は天正3年(1575)長篠の戦で戦死、その勢いで本城も落城、以後は徳川軍のものになりました・・・。


静岡吉田の小山城に行って来ました。

2023-05-18 13:58:35 | 城郭静岡1
2023年5月17日(水)に静岡県の吉田町にあり、徳川・武田両軍による攻防が行われた小山城に行って来ました、天気は良いのですが真夏日の暑い日となりました、島田駅よりバスで帰りは藤枝駅に出ました。

バス停から見える小高い丘の上に立つ小山城天守(二の郭の見晴らし台跡に建つ模擬天守・・・犬山城を模したとか)。

大井川の湯日川に囲まれた舌状台地の先に建つ平山城、右下の能満寺から上りますが、間違って道路を上がって行き裏側から入る羽目に・・暑い中急坂の道路歩き茶畑脇を歩いたり・・・益々疲れましたね。

実は最後に降りてきたのですが、能満寺・・・・此処から御城に登のでした。

能満寺のソテツの巨木、日本三大ソテツの一つとか。

これで一株、高さ6m・根元の周囲5m・5本の大枝で一番太いのは周囲2m、寺伝・・平安時代中国から長徳元年(995)。

上左真ん中の郷土資料館脇から潜り込みました、空堀・土塁、三重堀・井戸から三の郭・二の郭・お城の中・本郭から能満寺へ降りました。

資料館脇の空堀・・・三角の二辺は崖で・・・此方の一辺を厳しく防御する構造ですね。

空堀に架かる橋・・・・右側も小さな曲輪ですね。

空堀に架かる橋を横側から、正面が三重の堀、右側が三の郭側。

三重堀の説明版、この下側が堀。

左側・真ん中・右側と三日月型の三重堀がこの辺りは水堀?。

三重堀を・・・木々が邪魔して解りずらいですが。

三重堀の堀上から左側も堀・右側とその右側にも堀が・・・。

二番目その右側が三番目・・・・三日月型に回り込んでいますね、武田信玄に仕えた山本勘助に兵法を学んだ、馬場美濃守信房(信春)により築城。

勘助井戸。

三の郭から見た、二の郭見晴らし台に建つ小山城天守、当時はありませんね、武田信玄が元亀二年(1571)小山砦を修築小山城と命名、大熊備前守長秀を城主として、徳川軍と10余年激しい攻防を繰り広げました。

二の郭にある本丸前の三日月馬出。

本丸虎口・・・左側が三日月馬出、右側が本郭。

本郭の虎口から見た小山城天守・・・実際は二の郭見晴らし台。

少し角度を変えての小山城天守。

二の郭側から見た小山城天守。

正面から見た小山城天守。

天守内の小山城縄張り図。

天守高欄廻縁から見た二の郭・本郭、城下町・・・元亀二年(1571)・天正3年(1575)長城の戦いで敗れ・同年諏訪原城落城・天正9年(1581)高天神城落城・天正10年(1582)小山城落城・・この城は最後まで頑張ったのですね。


日光に行って来ました(戦場ヶ原・湯滝・湯の湖)。

2023-05-11 11:21:22 | 山関係
2023年5月10日(水)日光の戦場ヶ原を散策しました。

赤沼から湯の湖までの散策、今日は天気も良く・・・かなりの人が来ていましたね。

湯川沿いの散策路も漸く再開されたので久しぶりに・・・・この時期は野鳥観察の人が多かったですね、高そうな望遠レンズのカメラを抱えた人、他は湯川の釣り人もいますね。

倒木の上に新木が芽を吹いています・・・・昔この川で鹿が水草を食べていましたが、残念ながら写真がありませんね。

赤沼の名前の元・・・・鉄分を含んだ土地柄なのでしょう、赤くサビが出ることから。

戦場ヶ原・・・・男体山・大真名子・小真名子・・・。

太郎山・・・・昔二度ほど行きましたね、山頂の噴火口跡の土の上に鹿の足跡が沢山ついていましたネ。

日光湯元温泉方面の山。

小田代ヶ原方面とぐるりと見てますよ・・・左下は谷内坊主・・・湿地帯に出来る草の塊?・・釧路湿原にもありましたね。

湯川に架かる青木橋・・・・木々に葉が無いので野鳥の観察するのに適しているのでしょうね。

湯川に架かる青木橋・・・・2016年2月16日・・・雪の戦場ヶ原を散策した時です・・・この時はキツネに会いましたね・・・勿論写真には撮れませんでしたが。

これは2013年6月10日ズミの花が咲きほこっていましたね・・・。

これは2011年4月1日・・・まだ雪が大分残っていましたね・・・・少しの時期の違いで色々な景色を見せてくれますね。

泉門池・・・新緑もこれからですね、あとわずかで一斉に新緑に変わります。

小滝です、湯滝の少し下流ですが、2-3日前に雨が降っていたので立派に見えますね。

小滝を上流側から見ます、迫力ある水量に・・・。

湯滝を正面から・・・やはり水量が多く迫力ありますね、時として真ん中の岩が不動明王に見えるとか・・・うまく見た事がありませんが?。

少し横から・・・。

湯滝横の急階段を上り湯の湖湖畔へ・・・アズマシャクナゲが咲いていましたね。

アズマシャクナゲの花。

白花のアズマシャクナゲもありました、まだ蕾もあり、しばらくは楽しめそうですネ・・・花の時期は難しいですね、でも沢山咲いていましたよ。

湯の湖の湖畔から見た男体山、湯の湖は左側の三岳の噴火で川が堰き止められてできた湖とか・・・。