三郎兼続の日記

趣味の写真で山登り・旅行を主体にした日記
最近は山登りが少なく、城郭・巨木へ

高崎に行ってきました(箕輪城址)。

2014-04-18 13:42:26 | 城郭群馬

2014年4月17日(木)に高崎市箕郷の箕輪城址に行ってきました。

日本百名城で土地の豪族、長野氏4代が武田信玄・北条氏康・上杉謙信との争いのなか 山内上杉憲正につき滅亡した所です、その後も数奇な運命をたどる城ですね。

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保存会の資料に概略が記載されていました、最後は井伊直正が高崎へ移り廃城となりますが、おかげで保存状態は良好でした。

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案内図があり判りやすく廻れました、結構広いので歩きますが。

地図の位置は上が北で東西に走る堀切で南北に分かれた造りです、堀が大きく沢山回り込むように縄張りがしてあります。

ちなみに武田軍2万は最後新曲輪(北側)側からなだれ込み御前曲輪で城主長野業盛は城を枕に討死しました。

辞世の句 春風に梅も桜も散り果てて 名のみぞ残る箕輪の山里。

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最初大手尾根を見たのですが城の構造がおかしいと思っていたのですが復元図の説明をみて納得しました・・・・・搦め手が大手でした(東側)。

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水の手曲輪にある法峰寺です、此処にも歌が 水汲みに行くのか地獄の一の木戸 行くとは見えて帰る人なし(よみびとしらず)、激戦の籠城ですネ(合掌)。

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法峰寺手前を左に観音堂へ上り左脇へ・・・・観音堂入口です。

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下が観音堂から見た水の手曲輪です、穏やかです。

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上ると二手にわかれます、私は左の大手尾根コースを選びました。

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堀が多いです、回り込むように上りました、左は空堀で正面突き当りは観音口からのコースとぶつかります。

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これは右側が観音堂口で左側が榛名口へでます、真ん中は空堀で左は曲輪です。

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合流点から見た堀で右側は木俣曲輪側です、左側は二の丸脇の郭馬出しです。堀を右側に周り込むと大堀切にでて搦め手と出れます、敵から見えずらくし敵が入り込めば上から打てる構図です。

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これは今の堀の突き当り周り込んだ堀の上の曲輪から見たところです。

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先程の合流点から二の丸方面を見ます、右上が郭馬出し曲輪です。

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郭馬出し曲輪への道、右側が大堀切で此れが南北に二つに分割しています。

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土橋の上から見た大堀切の西側、右側が三の丸の土塁です。

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これが東側です、左側が二の丸の土塁です、正面が搦め手方面です。

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土橋入口から見た二の丸です、正面奥が堀の向こう本丸です、私は左側三の丸へ行きます。

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ここも堀で仕切られています、左奥が三の丸です。

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三の丸です、奥が蔵曲輪となります。

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三の丸の外側、西側ですね・・・此処には石積がみられました。

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三の丸奥です、この曲輪と本丸とは橋が架けられていたとの事です、右側が堀で向こう側が本丸です。

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此れが本丸と三の丸との間にある堀です。

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ここは正面御前曲輪で右側が本丸です北の虎口です。

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堀を進み右側は御前曲輪で石積みがあります、この石は御前曲輪と通仲曲輪(左側)を繋ぐ橋の土台と有りました。

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御前曲輪を回り込み丸馬出し・稲荷曲輪(正面右)・新曲輪(正面奥)への虎口です。

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ここまで来ると浅い堀状態であまりハッキリしませんでした。

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この方面から武田軍が攻め込んだと有りますが、今は当時の面影が見られず平坦ですネ、私が攻めればやはり此処かなと思いましたが・・・。

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奥が本丸・御前曲で土手の上が稲荷曲輪(右奥高台に稲荷様があります)です堀は水堀とか・・・・・。

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御前曲輪の北の外れからみた所、右側左が稲荷曲輪です、左は山で向こう側やはり堀が掘られています。

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御前曲輪です、当時は持仏堂があり長野業盛の終焉の場です、親父の業正が有名な武将で武田信玄の猛攻を何度も撃退したのですが病で死んだとあります、信玄が此れを聞き攻めたとか。

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これは北の虎口で向こう側が本丸です。

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本丸側からみた所。

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本丸です。奥が御前曲輪です。

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本丸脇にある馬出し(左上)から二の丸(右側)前を回り込むように搦め手虎口へ。

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本丸の土橋を渡ると二の丸、右側奥は堀。

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搦め手側へ下り二の丸側をみる、手前は帯曲輪が段々になっています。

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搦め手虎口で奥が右本丸、左が二の丸で三段の土塁で防御してありますね・・・やはりこれが昔は大手口なのでしょうね、その後井伊直正は南側に城下町を作ったのでしょう。

城の構造も長野・武田(内藤)・滝川・北条・井伊と有るので長野時代のとはかなり異なるのでしょう、しかし、凄い城でした・・・・・良かったです。