三郎兼続の日記

趣味の写真で山登り・旅行を主体にした日記
最近は山登りが少なく、城郭・巨木へ

小田原の石垣山一夜城に行って来ました。

2024-04-01 06:46:01 | 城郭神奈川

2024年3月30日(土)に小田原の石垣山一夜城に行って来ました、豊臣秀吉が小田原攻めの本陣としたお城。

入生田駅から早川の太閤橋を渡り、舗装道路の山道を上がり石垣山一夜城に行って来ました、帰りはJR早川駅へこの日は熱かったですね、11年ぶりに来ました。

天下人関白豊臣秀吉が天正15年(1587)に下した関東・奥惣無事令・・・小田原征伐の大義名分を得て、豊臣秀吉軍水陸併せて22万の大軍での戦です、豊臣秀吉の本陣(図の左下)を構えたのが石垣山一夜城、この間前田・上杉軍は関東の後北条の各城を撃破しています、天正18年(1590)3月京都を出発、7月5日には小田原開城、6月26日に秀吉が本陣を移したので・・・それまでは箱根湯本の早雲寺を本陣としていた。

早川の太閤橋を渡る・・・・正面奥の山上方面が・・・・石垣山一夜城・・・これから2k位の舗装道路を上りますね。

残念石(石垣用に切り出されたのですが使用されず)・・・・この早川周辺は江戸城の石垣にも使用されたのです。

此処にも残念石が・・・・加藤清正の刻印?。

石垣山一夜城(石垣山城が正しいのかな)の縄張り図・・・関東では珍しい石垣の城、天下人の威光を見せつける為、沢山の作業員を投入し役割分担での短期間で築城、戦の前から事前に計画してたのでしょうね・・・・豊臣秀吉の得意技だったのでしょうから。

同じ縄張り図ですが。

南曲輪の石垣 城の役割が終えたので”城割り”(お城の一部を壊す)・・・他にこの辺りは地震も多いので(小田原城の石垣も地震で壊れてますね)。

南曲輪の端 東口虎口方面・・・大手門。

此処では石垣山一夜城の名前。

東口虎口・・・・東曲輪と南曲輪の間から本丸へ・・・・。

南曲輪と東曲輪に落ちてる石垣  城割り・地震?  大手道ですね・・突き当り左側へ又右側へ。

南曲輪を上り 本丸への虎口へ上がらず右側へ・・・正面石垣は二の丸(馬場曲輪)の石垣。

二の丸の石垣下の犬走?を進みますね、桜が一気に咲き始めましたね。

二の丸の石垣下を・・・。

振り返ります。

此処が二の丸(馬場曲輪)・・・奥正面が本丸 右側が本丸への北虎口。

二の丸 北東側に櫓台跡。

二の丸北東の端 小田原の町が・・・小田原城も見えますね、右下が井戸曲輪。

井戸曲輪を覗き込みます。

井戸曲輪へ降りますね、沢筋を止めて石垣造りで螺旋状に道が作られています。

井戸曲輪の説明図。

11年前は降りることが出来ませんでしたが、今回は下まで・・・。

下から見上げます。

水が流れていましたね・・・・淀の方・千利休が飲んだ水。

本丸脇の犬走?・・を見て回りました。

こちら側にも石垣が崩れていますが・・・。

回り込みます、天守台の下側辺りでしょうか?。

西曲輪 右側が本丸側。

西曲輪の虎口 右側は本丸側の城塁。

此処は東虎口を上がって来た所(南曲輪・東曲輪を抜けた所)、西曲輪の虎口・本丸への登り口・二の丸への虎口でもあります。

本丸への虎口を上りますね。

本丸です、社が。

本丸(本曲輪) 奥が天守台。

天守台。

本丸から見た小田原方面。

小田原方面をアップで・・・・小田原城が解りますか、真ん中の緑の帯の左側です、今日は黄砂があるので?。

本丸上から見た二の丸 奥やや左のもっこりが櫓台跡、井戸曲輪はその先下。

二の丸端の本丸への北虎口 本丸へは北虎口・東虎口の2か所ですね、しかし、此れだけのものを短期間で築城・・・まあ名護屋城を見れば力の凄さも良くわかりますがね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


高麗山城に行って来ました(湘南平)。

2023-02-20 09:57:55 | 城郭神奈川

2023年2月18日(土)に神奈川県大磯の湘南平に行って来ました、湘南のハイキングコースですが、高麗山城の城跡が在ります。

JR大磯駅前の国道1号線(東海道)を東京方面へすぐ先から旧東海道があり松並木を進むと、高麗神社(高來神社)・・・図の右下、神社裏側から上がりますが男坂・女坂・・・合流し大堂(高麗山)・堀切で分割された尾根筋を八俵山(左側中央)・浅間山・湘南平・JR大磯とめぐります、高麗山城の範囲は不明ですが、神社から八俵山辺り一帯でしょうかネ、下に王城山城もありますから?。

高來神社の鳥居、後ろの山が高麗山(右側)、左側が八俵山?。

高来神社参道・・・この高麗神社は埼玉県の高麗神社と同一ですね・・此処から移ったみたいですね。

高麗神社です、神社横を・・。

神社横・・・・男坂・女坂の分岐、右側の女坂を進みますね・・・途中景色が見えるとありましたからネ・・・・でも結構急な坂、脇は崖があります。

確りと急坂が続きます、ナメタラアカン・・・。

途中の景観、相模湾。

やがて、男坂とも合流します、途中切岸みたいな構造の山道があります・・・気が付かなければ唯の山道。

大堂への石段が出てきました、もう少しです、この山頂脇下には回り道(帯曲輪らしき道筋が)。

高麗山山頂・・・大堂、城跡みたいに見えますが、上段の間は高麗権現堂が在った場所ですね、永享の乱(永享10年(1438))関東公方足利持氏が幕府に反旗・・・幕府軍関東管領上杉持房が本陣を構えた所(勝ちました)、次に永正7年(1516)伊勢宗瑞(北条早雲)が関東進出の連絡用の砦として構築、永禄13年(1560)上杉謙信が小田原征伐の折本陣を置いたみたいですね。

お堂の後が当時の見晴らし台?。

高麗山山頂・・・見晴らし台跡でしょうか?。

お堂跡。

お堂跡から見た、山頂・・・・結構広いですね、正面右側の石段を上がってきました。

山頂から下ります、八俵山方面へ。

急坂を下ると木橋が・・・最初の図⑤地点・・・・堀切。

土橋の横に廻り横から・・・・堀切ですね。

その先・・・このコースは細い尾根なのですね。

しかし、綺麗な堀切がよく残っていましたね。

細い尾根が続きますね。

此処も堀切?、大分埋まっていますが?。

やはり堀切でしょうね?。

その先にもありました、橋が架かっていますね。

かなり大きな堀切ですね。

その先に曲輪が八俵山山頂ですね。

八俵山山頂ですね・・・・此処までは明らかにお城の一部ですね。

八俵山から浅間山に向かいますね。

ぢごく沢への分岐、正面の方向が浅間山・湘南平方面。

何となく穏やかな山・・・浅間山はもうすぐ。

浅間山山頂、湘南平が左側奥の方に見えますが、下って上りますね。

まず、下り。

此処から上れば湘南平。

湘南平です、後ろの山は丹沢大山。

富士山。

江の島方面です。

展望台の建物。

展望台から見た湘南平・・・多分正面の山が高麗山、此処で食事を食べて帰りました、今回は久しぶりの山の会となりましたね、城跡も見たし良かったです、今日は少し足が疲れています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


箱根湯本の湯坂城に行って来ました。

2022-12-09 07:52:36 | 城郭神奈川
2022年12月5日(月)箱根湯本にある湯坂城に行って来ました。

箱根湯本駅から約10分程歩けば登り口が出てきます、写真左側に早川正面の橋少し先に須雲川があり旧東海道・・・この道は現東海道で箱根マラソンのコース函嶺洞門は近くです。

湯坂路は早川と須雲川の合流点に突き出た、湯本の町を見下ろす、細長い尾根上にある江戸時代からの東海道の主要ルートの一つ・・・鎌倉古道とも呼ばれているので昔からあったのでしょうね・・・・箱根の温泉場のいくつかは此処からですからね。

道は急な登りですが、歩きずらくは無いですね。

多分イノシシが餌を探して掘るのでしょう、石畳が掘られています、凄い力ですね。

登山口から15分強、漸く虎口風な雰囲気の場所に・・・・切岸風?に見えますね・・・。

そうですね、上がれば削平された尾根にみえますからネ、・・・・・。

振り返ってみました、張り出した両サイドからは上がってくるのが見下ろせますからね。

ネットの資料によれば”五”の曲輪・・・・・チョット小さいですね?。

先に進みますね、左側がヤヤ高くなっていますねがヤブ状態なので入りずらいです!。

道から上がって、比較的まばらなヤブに入りました、・・・写真では解りずらいですが、明らかに削った窪みはありますねどのあたりかわかりませんが。

此処が二と三の曲輪の境目でしょうかネ?。

左側横の竪堀?。

右側の竪堀ですね、喰い違い堀切で二の曲輪ですね。

二の曲輪を進みます・・・此処も両サイドがヤブ状態なので中に入らず進みますね・・・向こうに広場が?。

土塁らしき盛り土の先に広場があり説明版が、此処が湯坂城一の曲輪ですね。

綺麗に削平された一の曲輪、奥左側が明らかに高台ですね。

湯坂城の説明なので特に記載しません・・・・。

奥から見た所、右側は明らかに土塁なのでしょう。

上側の左側に高台が見えますね、道は高台を回り込むように・・・・・関所風ですかネ?。

高台脇を回り込みますね。

回り込みました、此処も堀切跡でしょう明らかにわかりますね、此処までが一の曲輪?。

堀切の先です・・・石畳が復活していますね、こちら側にもヤヤ削平された感じがありますが・・・。

尾根上の道が山頂方向に進みますね、特に防御性は見られませんね・・・。

引き返します、此処が堀切で分断されていたのでしょうね?。

最後に高台?の上から見た一の曲輪、右側は崖状態ですね、天成園はこの下あたり?、左側は函嶺洞門辺りでしょうか、・・・山賊対策の治安維持風に見える城?・・・大森氏は詰めの城でしょうかネ?。