2024年3月30日(土)に小田原の石垣山一夜城に行って来ました、豊臣秀吉が小田原攻めの本陣としたお城。
入生田駅から早川の太閤橋を渡り、舗装道路の山道を上がり石垣山一夜城に行って来ました、帰りはJR早川駅へこの日は熱かったですね、11年ぶりに来ました。
天下人関白豊臣秀吉が天正15年(1587)に下した関東・奥惣無事令・・・小田原征伐の大義名分を得て、豊臣秀吉軍水陸併せて22万の大軍での戦です、豊臣秀吉の本陣(図の左下)を構えたのが石垣山一夜城、この間前田・上杉軍は関東の後北条の各城を撃破しています、天正18年(1590)3月京都を出発、7月5日には小田原開城、6月26日に秀吉が本陣を移したので・・・それまでは箱根湯本の早雲寺を本陣としていた。
早川の太閤橋を渡る・・・・正面奥の山上方面が・・・・石垣山一夜城・・・これから2k位の舗装道路を上りますね。
残念石(石垣用に切り出されたのですが使用されず)・・・・この早川周辺は江戸城の石垣にも使用されたのです。
此処にも残念石が・・・・加藤清正の刻印?。
石垣山一夜城(石垣山城が正しいのかな)の縄張り図・・・関東では珍しい石垣の城、天下人の威光を見せつける為、沢山の作業員を投入し役割分担での短期間で築城、戦の前から事前に計画してたのでしょうね・・・・豊臣秀吉の得意技だったのでしょうから。
同じ縄張り図ですが。
南曲輪の石垣 城の役割が終えたので”城割り”(お城の一部を壊す)・・・他にこの辺りは地震も多いので(小田原城の石垣も地震で壊れてますね)。
南曲輪の端 東口虎口方面・・・大手門。
此処では石垣山一夜城の名前。
東口虎口・・・・東曲輪と南曲輪の間から本丸へ・・・・。
南曲輪と東曲輪に落ちてる石垣 城割り・地震? 大手道ですね・・突き当り左側へ又右側へ。
南曲輪を上り 本丸への虎口へ上がらず右側へ・・・正面石垣は二の丸(馬場曲輪)の石垣。
二の丸の石垣下の犬走?を進みますね、桜が一気に咲き始めましたね。
二の丸の石垣下を・・・。
振り返ります。
此処が二の丸(馬場曲輪)・・・奥正面が本丸 右側が本丸への北虎口。
二の丸 北東側に櫓台跡。
二の丸北東の端 小田原の町が・・・小田原城も見えますね、右下が井戸曲輪。
井戸曲輪を覗き込みます。
井戸曲輪へ降りますね、沢筋を止めて石垣造りで螺旋状に道が作られています。
井戸曲輪の説明図。
11年前は降りることが出来ませんでしたが、今回は下まで・・・。
下から見上げます。
水が流れていましたね・・・・淀の方・千利休が飲んだ水。
本丸脇の犬走?・・を見て回りました。
こちら側にも石垣が崩れていますが・・・。
回り込みます、天守台の下側辺りでしょうか?。
西曲輪 右側が本丸側。
西曲輪の虎口 右側は本丸側の城塁。
此処は東虎口を上がって来た所(南曲輪・東曲輪を抜けた所)、西曲輪の虎口・本丸への登り口・二の丸への虎口でもあります。
本丸への虎口を上りますね。
本丸です、社が。
本丸(本曲輪) 奥が天守台。
天守台。
本丸から見た小田原方面。
小田原方面をアップで・・・・小田原城が解りますか、真ん中の緑の帯の左側です、今日は黄砂があるので?。
本丸上から見た二の丸 奥やや左のもっこりが櫓台跡、井戸曲輪はその先下。
二の丸端の本丸への北虎口 本丸へは北虎口・東虎口の2か所ですね、しかし、此れだけのものを短期間で築城・・・まあ名護屋城を見れば力の凄さも良くわかりますがね。