2023年2月22日(水)に茨城の守谷城に行って来ました。
天慶年間に平将門が新皇を称し王城を築いた確証はないそうですが伝説は・・・、永禄年間(1560)頃の坂東は各大名・豪族が・・・。
此処茨城の守谷には鎌倉時代から三方の内海(沼)に張り出した半島状の丘陵を利用した、平の将門の子孫と称した相馬氏の居城がありましたね、地図の中央上から中央。
図のようなお城は、戦国期小田原北条と北関東の武将達との争いの場となり、相馬氏は後北条と連携・・・永禄10年(1567)古河公方足利義氏の御座所として後北条が改築した当時の守谷城イメージだそうです。
同じ図ですが、現在の地図と重ねた図。
ほぼ同じですが、見やすいので?、・・・左側方面は現在住宅地・・周りの内海は芝生の低地ですが、真ん中のお城は奇麗な遺構として残っています、現在地左脇の上から堀切(空堀)を入り二の曲輪・盾形曲輪・一の曲輪・下側の腰曲輪・御馬家台と廻りました・・・小学校方面と妙見曲輪には行きませんでした。
守谷駅からつくばエクスプレス線路脇の高層マンションを目指しました。マンション前のプロムナード水路・・・水路に沿って・・・。
水路の先が守谷沼・・・そのずっと先に小貝側が、右側が守谷城の二の丸です、今の場所が当時は清光曲輪の場所ですね・・目の前は内海。
芝生が水の中ですが、森の割れ目が見えますね・・・正面が二の曲輪その右側が御馬家台。
芝生を横切りいざ城内へ。
検討は辺りですね、右側が御馬家台・左側が2の曲輪の間の堀底道。
堀底道が続きますね、Sカーブの空堀・最大比高12m・・・当時はV型の薬研堀とか。
なおも続きますね。
向こう側が見えてきました。
お城の反対側に突き抜けました、こちら側も湿地帯・・・当時は内海。
振り返り今来た堀底道、左の道から最後に帰ります、右側の二の曲輪方面へ上がります。
最後に帰る、馬出曲輪方面です。
二の曲輪の入り口・・・・最初の図ではこの道は無く左側から御馬家台へ木橋が掛けられていますね。
上の二の曲輪横下の枡形虎口。
反対方向もその枡形虎口の一部、左側から木橋が出ていますね。
二の曲輪の端・・・右側に矢倉台。
二の曲輪は広く右側方向に広がっています。
此処は二の丸の桝形虎口の入り口上。
折れ曲がった二の曲輪、左側が御馬家台、正面が一の丸方面、右下には腰曲輪があります(今は畑)。
此れが二の曲輪・・・広い曲輪です。
取り合えず先程の二の曲輪の虎口を見に行きます。
奥の斜め道が先程上がって来た道、土塁の下が枡形構造での虎口。
最初の大堀切、左側から右側の土塁に木橋が架かっていたみたいですね(絵図)。
二の曲輪から見た御馬家台の曲輪・・・絵図では上り路はありませんね?。
進んだ二の曲輪からなおも奥を見る、橋が・・・。
こちら側も二の曲輪の虎口ですね、楯形曲輪へ繋がる土橋。
土橋、向こう側が楯形曲輪。
土橋から見たから堀・・・右が二の曲輪。
振り返ります、左が二の曲輪。
楯形曲輪に入りました、一の曲輪と二の曲輪の中間に細長い曲輪を設けていっるのです。
逆側から・・・向こう側が一の曲輪(本丸・一の郭)。
これも楯形曲輪から。
楯形曲輪から郭の奥を見ました・・・細長い。
楯形曲輪から一の曲輪と空堀・・・空堀は障子堀だそうですね、後北条による築城技術ですね。
空堀に降りました、船着き場とか?。
船着き場?あたりから見た守谷沼方面。
楯形曲輪から降りて見た空堀から、左側が一の曲輪・・・此処が障子堀とか、木橋で曲輪同士が繋がっていたのですね。
一の郭へ。
一の曲輪。
これも一の曲輪、奥は鉄板が・・・今回奥の妙見曲輪を見過ごしてしまいました。
一の曲輪から見た楯形曲輪、下は障子堀の堀。
今登って来た虎口を。
間の空堀から見た領曲輪。
曲輪の外側へ・・正面が楯形曲輪の端・・・・右側奥に妙見曲輪が在ったはず(行きませんでした)。
二の曲輪外側を・・・。
此処は腰曲輪ですね・・・今は畑ですが、右側は二の曲輪・・・最初に上った見晴らし台が正面の場所ですね、左側は内海(沼)。
二の曲輪と御馬家台の大堀切・・・これから左側へ。
御馬家台曲輪。
今登って来た虎口?(実際は此処では無く、もう少し先)。
御馬家台の奥から見た所。
この先から向こう側に木橋が?。
此処は馬出曲輪側との枡形虎口ですね・・・やはり木橋で連結されていたみたいですね。
虎口側から見ました土塁から見ても枡形ですね。
楯形曲輪から降りてきました、前側の高台が馬出曲輪・・・多分道路で一日がカットされているのでしょうが?。
こちら側は高台で江戸時代にはこちら側の曲輪が使われたみたいですね、その後寛永5年(1628)廃城とか。
古河公方の御在所としては使用され無かったみたいですが立派な城郭ですね、この辺り一帯も城内が続きますからネ。