三郎兼続の日記

趣味の写真で山登り・旅行を主体にした日記
最近は山登りが少なく、城郭・巨木へ

栃木県宇都宮市の多気城に行って来ました。

2022-03-14 16:18:51 | 城郭栃木
2022年3月9日(水)に栃木県宇都宮市の多気城に行って来ました、石の里大谷の脇に聳える多気山全山を使用した山城、宇都宮国綱が後北条に対抗するために、宇都宮から移築。

まず、多気山不動尊(持宝院)を目指しました。

多気山不動尊本堂の左側脇から御殿平(多気山山頂377m)を目指します。

急なジグザグ道が続きますね・・・・最初の地図通りですネ。

漸く開けた場所に出ました、御殿平の下脇。

御殿平脇から今来た道を見ました。

登って来た所から見た御殿平・・・・・多気城の主郭部分ですネ。

多気城の大手門?からの登山口です、多気山不動尊の駐車場は左側手前、左側は茶店?、この辺りは多気城の山裾の曲輪地帯ですね、段々に削平されています。

こちら側もジグザグな山道が続きますね。

左側は切岸で下側からくる敵を土塁上からの横矢掛かりにかける防御が見えます。

左右は土塁で細い虎口での防御になっています・・・・ただの山道ではなく左右は空堀です。

此れを見てもらえれば、左右の土塁がハッキリ・・・・単なる山道・・イエイエ。

今の道を上がれば、開けた削平地が奥・脇には土塁が積み上げられた立派な曲輪です。

多気山への登山道・・・これは現在の道なのでしょうね?、この上が御殿平・・・今までが東峰部分の城郭です、この左側方面に南峰部分の城郭があるみたいです・・・・今回は主郭から少し下がっただけで全部は見ていません・・・結構道があれています。

主郭部分の真下です、主郭の土塁と空堀。

空堀に入りました(堀底道)、主郭の土塁の高さ?m。

主郭の御殿平から見た今来た道です、この道は現在の山道でしょうね、主郭の周りは空堀土塁で防御。

登って来た主郭部分の橋から奥方面を、先程の多気山不動尊からの登りは右端です。

多気城の碑と宇都宮市内方面です、東側です。

縄張り図、右側の東峰方面からです、南・西方面は行ってません。

此方の方が解りやすいですね。

此れは御殿平主郭部分の図、山頂部右側は奇麗ですが、その他はヤブ状態です(今は冬なので結構見れますが足場は悪いですね)、山頂外脇西側は人工的な遺構は見えず?、北側は帯曲輪、南側に空堀、御殿平はL字型に土塁で区分けが為されていますね、主郭前(見晴らし良い)と主郭奥(土塁奥空堀と少し高台・・・一番高い所が櫓台(山頂377m))。

御殿平前部分・・・正面に土塁。

御殿平前部分から見た奥部分の土塁・・・そんなに高くなく写真で見ずらい。

もう一枚、主郭の区分け土塁、奥が山頂ですね、左・右から土塁を回り込める。

此れは左側の筋違い虎口。

主郭南側方面の南西の虎口方面・・・ヤブ状態で散策しませんでした。

此れは主郭下南西方面の社、この下側方面に沢山の削平地がありますが、結構荒れていたので行きませんでした。

主郭前部分を奥から見ました。

主郭奥の西側から見た北西側の古賀志山・・・この奥が日光方面でこも右側に雪の女峰山が少し見えました。

展望台看板。

多気山山頂377m・・・この左側が櫓台?、右側は人工的な空堀、と曲輪が少し?、尾根が続きますね。

此処から向こう側が尾根続きです、少し削平が見られますね。

主郭奥脇下・・・帯曲輪とありましたね、この先に北東虎口の跡が見られますが、出入りは出来ませんでした。

主郭奥の手前から見た主郭奥です、土塁空堀奥の高台部分ですが、解りずらいですね・・・、結局、豊臣秀吉の天下統一に伴い廃城。

茂木城に行って来ました。

2022-01-21 12:19:32 | 城郭栃木
2022年1月17日(月)に栃木県芳賀郡茂木町の茂木城に行って来ました。

下館から真岡鉄道で茂木(もてぎ)・・・以前近所にいた方は(もぎ)さんなので読み方が?。

以前乗ったか?チョット覚えがありませんが?、水戸城に行った帰りに乗り換えての茂木城訪問です。

駅少し先にあった八雲神社です・・・須佐之男命。

神社前の通りから見た桔梗山・・・茂木城です山城です・・・中世の山城から江戸期初期まで、宇都宮氏の支族、茂木知基(とももと)が建久3年(1192)築城(鎌倉創立期ですね)・・・それから400年16代まで、佐竹氏秋田移封に伴い慶長15年(1610)廃城。

車で上がれますが、遊歩道が途中より・・・・私はすべて歩きですから当然こちらのコースへ。

此れが茂木城の縄張り図です・・見ずらく御免なさい、下側が町側でこちらから登って来ました、下側左側が本丸・本丸左上が二の丸・二の丸右上が三の丸(上側)・真ん中が千人溜の大広場(ヤヤ低い位置)・下側右が出丸で出丸脇から大手門筋に入り千人溜みぎがわへ大手門へ繋がっています。

途中聖徳太子堂があります、大手門筋の曲輪なのでしょうか?(縄張り図では説明なし)削平されていますね、奥が出丸。

太子堂前を進む、橋下が大手筋、右側が出丸、左側上が千人溜です。

出丸です、出丸の脇は馬場との説明が各曲輪の周りを廻れますね。、出丸左側が大手筋、出丸右側が馬場で回り込むとやはり大手門へ。

大手筋へ、左側が千人溜側・右側が出丸の堀底道です・・・直線で無く曲がっていますね。

大手筋を進みます。

橋上から見た大手筋、曲がっていますね。

この先が大手門広場。

出丸の右側端に建つ”姫の望楼”(伝説があり)・・・見晴らし台。

姫の望楼から見た茂木の町・・・・こちら側が本来の大手筋?。

姫の望楼から見た出丸曲輪。

もう一度姫の望楼を仰ぎ見ますね。

茂木城の駐車場所(千人溜)から見た、左側奥が本丸・右側奥の木立が二の丸。

少し角度を変えて中央が水場、奥が二の丸、左側に三の丸と続きますね、この広場を囲むような縄張りですね。

千人溜の右横一段低い所が大手門、右側奥が先程の出丸。

千人溜奥・・・土塁上が三の丸(藪の中)。

千人溜奥二の丸下にある鏡ケ池(姫の伝説あり)・・・二の丸は右側・・・木々の中(此れで池の水が)。

池から木道が・・・右側が本丸の土塁。

いよいよ、本丸虎口です、イザ本丸へ。

茂木城本丸。

本丸脇から見た茂木町。

茂木城本丸脇の斜面。

茂木城本丸奥の土塁上から見た所、堀切があり後ろの備えが・・・この堀切は町中からも見えましたね。

本丸脇の土塁上・・・右側が堀切です。

本丸土塁上から・・・・左側が二の丸・・・奥が千人溜。

此れも本丸の土塁から見た千人溜・・・・・この城も天正13年(1585)北条・結城氏らの連合軍に攻められ落城、佐竹氏の援軍で奪回したとか戦場となったのですネ。

太平山城に行って来ました。

2021-02-24 09:44:12 | 城郭栃木


2021年2月22日(月)に太平山に行って来ました、山頂は341mの太平山城跡です、1月31日に行った晃石山はその先ですが、今回は大平神社からお城跡です。

東武線の大平下駅から(写真下)から大平山神社・大平山(大平山城)です、この地図の上の部分が皆川城跡です、大平山城は皆川城の支城ですね、見晴らし砦なのでしょうかネ・・・大平山神社を含めれば結構な城郭なのですが、神社は古くからありますからネ。

山登り・・・ハイキングですが、結構登ります、前回は晃石山までですが、今回は富士浅間神社まで。

いきなりですが、山頂の案内板です、以前の案内版と変わりました・・・なぜかな?。

此れが以前の案内板です、太平山城の説明があります、今回いきなりなくなっていました、改悪ですネ。

太平山神社脇から山道に入ります、神社脇に見晴らし台があり栃木の町が見えるので・・・神社もお城の一角なのでしょかネ、岩場とか細い尾根をたどります。

山頂への登り・・・現在は富士浅間神社の参道です。

登りつめると明らかな人工的な切岸です、正面階段上が太平山城本丸です、左側に腰曲輪が・・・多分昔は正面階段は無かったのではと想像しますね、左側に回り込ましての横矢が防御ですからね。

本丸脇の腰曲輪です、規模は小さいですが奇麗に削平されています。

本丸への階段・・・昔はどうなのでしょうかネ?。

振り返ります、登って来た参道です。

此処が大平山341mの山頂です、富士浅間神社です、神社後ろが櫓台でしょうか?少し高くなっています、大平山城本丸です、北側方面に皆川城(栃木市)があります・・・・後北条と皆川氏とがこの近くの草倉山辺りで戦い、その後後北条の傘下になったそうです。

神社裏手の高台です・・・・櫓台があったのでしょうね・・・・皆川城へ連絡しあったりしたのでしょう・・此処から皆川城は現在見えませんが?皆川城からは大平山は解りますからネ。

山頂の裏側の急斜面です。

本丸神社側から見た所、左側が上がって来た階段がわ・・・こちら側は当時不要と思われますね、右側が本当の虎口?、と思われる。

右側の虎口・・・回り込むように、右下にも削平の曲輪が見て取れますね。

回り込むと先程の腰曲輪です、やはり立派な城郭の雰囲気が見て取れますね。

本丸下から見た本丸の虎口が回り込むよう見て取れますね、まあ規模の小さな山城ですが、皆川城本丸と似たような形式が?。

本丸から降りた所も尾根が削平されていますね。

上の写真の削平の先です・・・ここも明らかに虎口ですね。

虎口の先は急斜面です、此処を下り尾根筋を行けば晃石山進みますね・その先峠に下り、馬入不山・岩舟山へと山々が続きます・・過去2回上りましたね、今日は天気が良く暖かな穏やかな日でした眺望は逆に良く見えませんでしたが5月の陽気とか。


皆川城跡に行って来ました(栃木)。

2020-03-28 12:42:48 | 城郭栃木

2020年3月26日(木)に栃木市の皆川城跡に行って来ました、栃木駅からふれあいバスで皆川郵便局前です。

郵便局前で下車・・・少し戻り分岐に案内板が皆川城址ですよ。

分岐を右側に入り、少し直進・・・右手に小高い山が見え山頂に展望台が・・・あれが皆川城本丸です、入り口は皆川公民館からです、左ての土塀が皆川公民館(以前は学校とか?)(皆川氏の居館跡)、公民館でパンフレットを頂きました・・・外にもありましたね。

公民館脇から(此処は居館)山側へ・・・・いきなり竪堀目の前に。

皆川城へは直進して登らず、時計回りに山裾を回り込みますね、この道を回り込みます。

案内板と頂いた資料を見ながら左側から裏側へ本丸からジグザグで見ながら下りますね。

皆川城の縄張り図です、別名法螺貝城です、山頂を本丸・二の丸(お花畑)・西の丸と削平し帯曲輪・腰曲輪でグルグル削平し竪堀で区分けされた全山城郭です、戦国期には北の鹿沼を攻略した宇都宮氏から圧力を受け従属、離反をくり返しました、永正13年1515年には宇都宮忠綱と戦い皆川宗成が勝利・・・西方城を奪いましたね、天正12年北条氏政・氏直が来襲し3ケ月に渡る激戦の末和議、北条の傘下に、その後豊臣秀吉の小田原征伐時には藩主皆川広照は小田原籠城に参加、城は上杉景勝らに攻められました、広照は徳川家康を頼み降伏し、城は開城・・・その後お城は廃城(栃木城を築城移りました)、戦国期を巧みに生きた皆川氏のお城ですね。

此方の縄張り図が解りやすいですね。

山側から見た、皆川公民館(居館)です山のお城をバックにした中世のお城形式です、東側(栃木市側)にも昔の居館跡が見られますね永野川が有りますからね。

お城全体?を見ました、幾つかの段丘が見られますね、左の木々が西の丸・二の丸・本丸。

竪堀です、西の丸下の腰曲輪まで掘られています、わかりやすく見事な竪堀です。

これは西側の虎口ですね、丁度真横の方角に来ました。

お城の北側(後ろ側)に回り込みましたね、裏側にもしっかりと段丘削平された防御が見られますね、横矢ですね。

上から見れば削平された帯曲輪の上から迫る敵兵を上から攻撃ですね、こちら側は木が沢山有りますが下草が刈られ見やすいですね。

漸く、二の丸脇に上がりました、右側が二の丸(お花畑)です、正面奥が本丸で手前に腰曲輪?。

登って来た方の反対東側も大きく切り開かれた削平が見れますね。

本丸の腰曲輪から見た本丸です。

本丸の腰曲輪から見た二の丸です、正面が西丸です、左側下から正面奥の下を廻右側から二の丸脇へ登って来たのです。

本丸脇の腰曲輪反対側見た二の丸です。

本丸です。

本丸から見た栃木市市街方面です、右奥に筑波山が見えますが?、正面下の森が東宮神社ですね、後がグランドですが当時は此処も皆川氏の居館跡らしいですね、市街地手前の横線が永野川ですから、防御性が高いのでしょうね、この下あたりに東口虎口もあるのです。

本丸下の帯曲輪から西方を見ました、右上が二の丸・西の丸、その下が大きな曲輪で井戸・池(土が崩れている辺り)が有りますね、そのしたも段々です。

二の丸です、奥が西の丸。

西の丸・・・・道路は堀きりで区切られていたのでしょうね?。

二の丸から見たお城南側の正面。

二段目の腰曲輪から本丸を上務、正面が井戸・池跡。

西の丸下の竪堀上から西方面を見る、段丘での防御が見られますね。

同じく南側(正面)を見る、向こうの山は大平山・晃石山方面ですね、下は居館。

此れが竪堀を上から見た所先程は下から見上げました、下が屈折させていますね。

まず右側方面西の虎口方面まで段々が繋がっていますね。

竪堀左側から真下を見る。

竪堀中間から西方の虎口方面です。

振り返り南側、本丸を望む、この右側も大きな削平ですね。

竪堀脇から西の丸を見上げる。

同じく本丸を見ました。

無事下城、バス停へ向かう途中で皆川城跡を見ました。

東宮神社です、この後はグランドです、参道を高速道路が横切りトンネルでした、ここも居館とのことです。

東宮神社裏手から見た皆川城跡です、脇は土塁ですね、東口の虎口には行かずでした、機会があれば。

栃木城跡に行って来ました。

2020-03-27 17:44:11 | 城郭栃木
2020年3月26日(木)に栃木城跡に行って来ました、

栃木第四小学校グランド側のラーメン屋さん脇を入ると案内板が見えました、左側が四小です、右側がわずかな遺構です。

この栃木城はこの一帯を治めた皆川家は北条の傘下でした、皆川家の藩主広照は小田原征伐時には小田原城へ籠城、徳川家康の勧めで降伏、皆川城を失いましたが、家康の助けで本領を安堵・・・天正18年1591年この地に栃木城を築城。

案内板から右側へ・・・・この辺の方が古い作りの武家風の屋敷がありますね。

この右奥が栃木城跡です。

この水堀が遺構の一部?です、小さな栃木城址公園です。
皆川広照は小田原征伐後は徳川家康に仕え家康の第六子忠輝を養育長野の飯山に移り、栃木城は弟の俊勝に預けましたが、慶長14年1609年忠輝失脚に伴い皆川家は改易、城は破城となった為、町中で遺構が無いみたいですね。

水堀もわずかですね。

この奥少しを含め城址公園です。

堀脇がわずかに高台で残っているだけですね、しかし、皆川家は1615年豊臣家滅亡の大阪の役で功あり、1623年常陸国石岡で一万石の大名に復帰していますね、・・・・結構数奇な人生を送った戦国大名ですね。

現在の遺構は写真中央のボツですから、立派なお城ですね。

桜の花の栃木城遺構です。

水堀の角から栃木城跡遺構を。

遺構の土塁うえから水堀を・・・・、この前に皆川城跡を尋ねたのです・・・皆川城跡は山全体が遺構ですからね。

唐沢山城跡(唐沢山神社)に行って来ました。

2020-01-13 11:17:41 | 城郭栃木

2020年1月9日(木)にハイキングをかねて唐沢山城跡に行って来ました、戦国時代に佐野氏が居城し、何度も戦いの場になりましたが防御性の高い山城です、江戸時代初期に山城禁止令で廃城・・・・佐野市市内に佐野城を築城移りました、現在は本丸跡に唐沢山神社ですね。

田沼駅から上り唐沢山城の搦め手(裏側)の尾根に出ました、此処から北城へ向かいます。

唐沢山城の全体図です、唐沢山山頂241mの本丸を中心に大規模な山城関東七名城ですね、右上から来ましたが、一度城内を抜け左側の方から順次説明しま。

城内大手道前にある鏡石です、上杉謙信も攻めあぐんだ・・・・謙信が援軍で入城とか・・・地方の豪族は大変なのです。

かっては櫓があったとか、大手門の喰い違い枡形虎口ですね。

此処が喰い違い虎口・・・。

喰い違い門虎口に入りましたね、正面が北側の天狗岩です、左側に曲がると枡形の広場大手道。

喰い違い虎口を入ると、天狗岩の登り口が有ります、大きな岩場で見晴らしがよいのです。

天狗岩の山頂です、物見櫓があったとか。

山頂からの眺望です。

此れも・・・日光連山・・左側が男体山ですね。

喰い違い虎口の中から見た大手道・・・ここは枡形の広場、鳥居の左側手前が、大炊(おおい)の井です。

大炊の井です、この城は本丸横にも車井戸がありますね。

四つ目の堀(堀切で分断)に架かる神橋(昔は曳橋)ですね、大手道、左側が帯曲輪・三の丸・二の丸・本丸で大手道は回り込むようになります。

大手道です、左側が帯曲輪・三の丸へ。

大手道をそれて帯曲輪へ右側が三の丸へ上がる路です。

三の丸です、正面が二の丸ですね、二の丸には右側から回り込みます。

三の丸から回り込みます、左側が二の丸、右側が大手道・・・上からの横矢がかりですね、正面が本丸の高石垣8m。

本丸下から見た高石垣、低い石垣辺りは南局、右側の先は現在の神社参道の登り口で向こう側が南城です、左側奥が二の丸ですね。

まず神社正面の参道の階段ですね、途中の踊り場が前の道ですね、右側に南城、左側二二の丸方面が有ります、昔は上の階段は此処には無かった?。

唐沢山神社正面です、此処は南局です、奥の一段高い場所が本丸です。

本丸跡にある、唐沢山神社ですね、祭神は藤原秀郷ですね、あの平将門を成敗した人です、左側(西側)は二の丸へ。

二の丸です、その後ろ下が三の丸です、二の丸には土塁が奇麗に残っていますね。

二の丸から見た本丸です、右側が高石垣側です。

本丸脇の高石垣ですね。

神社参道の階段上より、左側が南城です・・・この階段は昔は無い?。

南城から見た富士山・・・・昔江戸が火事の時急いで駆け付けた話がありますね・・・・江戸を監視するのはけしからんで廃城になったとか?。

南城西側石垣低いが趣がありますね。

南城南側の石垣です、この石垣下は堀切で一つ目堀・・・四つの堀切が神橋まであります。

搦め手側の本丸を取り囲む長門丸と金の丸の虎口・・・東側の尾根です。

金の丸・杉曲輪・北城の右側(東)の尾根に架かる堀切による分断場所ですね、低山ですが、両サイドは急な崖に守られ本丸には石垣がある立派なお城でしたが、慶長12年1607年廃城、佐野城に移ったのです・・・・明治になり神社を建てたのですが遺構の保存状態は良いですね。

佐野城跡に行って来ました。

2020-01-12 07:34:28 | 城郭栃木
2020年1月9日(木)に佐野城跡に行って来ました、唐沢山城跡の帰りに佐野駅に下車し駅前の高台の城山公園を散策。

此れが佐野城の全体です、別名春日岡城で東西に長い独立丘陵を利用した連格式平山城ですが佐野氏が慶長7年1602年・・・唐沢山城からの移築を命ぜられこの地に築城、慶長12年1607年に時の藩主佐野信義が唐沢山城を廃城し移ったのですが、慶長19年1614年領地を没収改易、お城は壊されたとか、その後御留山となり、高台は遺構が残りました、図の水堀はありません。

駅から直接、三の丸跡の城山公園です正面奥が二の丸です。
二の丸への虎口です、三の丸の脇を回り込むように上がります、右側奥に記念館があり資料を頂きました。

二の丸です。

二の丸を進むと本丸との境に大きな空堀で仕切られ、現在橋が架けられていますね、此れを見るとお城の遺構が色濃く残っていますね。

橋を渡り本丸へ・・・・当時は木橋でしょうね。

橋中央から空堀を見ました、大きな空堀で当時はより深かったのでしょう、正面奥が町で結構な高台が解りますね。

橋を渡ると本丸です。

本丸脇から見た現在の街並み、その外側に水堀で囲まれたお城なのです。

本丸です、本丸の先に北出丸が有ります。

此処も空堀で分断されていますが、規模はヤヤ小さいですね。

本丸から見た北出丸の端と空堀です。

北出丸の空堀への虎口が見られますね、回り込むように作られた馬出でしょうか、ワクワクしますね。

北出丸から見た城下町と左側の山並みは唐沢山に続く山でしょうか?、奥は冠雪した男体山をはじめ日光連山が目の前に見えましたね。

東側を望むと奇妙な山が見えました、多分岩舟山だと思いますが?如何でしょうか、次回は唐沢山城をまとめますネ、佐野城跡は初めてでしたが良かったですね、丘陵の下に降りて少し離れて見たかったですね。