2024年3月14日(木)に茨城の下妻市の関城に行って来ました、騰波ノ江駅から歩きました。
下妻市界隈の図 左側の上が関城 騰波ノ江駅ー大宝駅(大宝城)とは密接な南朝方の関係でした、下妻神社・光明寺(下側)もあります。
関城と大宝城は大宝沼(明治時代まで存在)で繋がった南朝方の同盟国だったのです、康永2年/興国4年11月(1343)共に北朝方の攻撃の前に落城しました。
騰波ノ江駅から歩きました、高台が切れた向こう側に島みたいに見えるのが関城・・・此処が大宝沼なのですネ、近くに砂沼がありますが此れは人口の溜池、大宝沼は逆に用水の役目が低下、大正2-9年(1913-20)に干拓され水田になったのです、色々変わるものですね。
大宝城指定区域の看板が・・・・?、正面が関城、東・南(こちら側)・西の三方が大宝沼に囲まれ北側は台地続きなので防御が必要となりますね。
関城通り・・・・関城の台地を南北に通る路。
少し上ると関親子の墓の手前左側に広がるやや低地の広場・・・その先は大宝沼の岸辺・・・。
関城城主の墓 関宗裕・宗政。
関城の案内図・・・下側の図の通り(関城通り)から上に右側へ回り込み回り込んで真ん中にでて戻りました、左側は竹藪の中に入りましたが民家なので立入しませんでした・・・遺構がありそうですが?。
関城は鎌倉時代関氏が築城、南北朝時代小田城を追われた南朝方の重臣北畠親房がこの城に逃げ込んだので北朝方の攻撃に会い2年間にわた戦の末落城・・・親子は討ち死、北畠親房は神皇正統記をこの城で完成、吉野(南朝方)に脱出。
関宗裕・宗政親子の墓・・・隣が結城直朝の墓?。
ちなみに北朝方は高師冬・・・・足利尊氏は京都です。
土塁内側に入り見させて頂きました・・・。
もう少し奥に・・・。
此処が関城の主郭部分・・・奥の向こう側は大宝沼。
土塁外側の堀跡・・・・当時は水堀だったのでしょうね。
減から堀を回り込んでみますね・・・・。
もう少し・・・・人工的な遺構が見えるので・・・・正面奥の方は民家の為立ち入りしませんので・・・後程此処へ出てきます。
関城通り・・・右側の民家方面へは行かない、奥の木の辺りが土塁・空堀、少し先左側へ行きます。
この先に行きますね。
坑道跡・・・奥の木々がある場所は八幡神社の曲輪。
戦はなかなか攻められなかったので、関城の城内まで穴(坑道)を掘る計画を実行したみたいですね、結果的に失敗したみたいですが、その穴の一部が発見。
此処がそうです。
ジグザグに掘り進んだ穴。
大宝沼の東側・・・八幡神社の曲輪脇。
八幡さま。
八幡神社。
神社境内の曲輪跡。
神社前の通り。
右側は土塁跡・・・・この先に先程の空堀へ出ます、図ではこの土塁の向こう側が堀ですね・・・・これでもう少し外側を見て廻り戻りますね。
これは西側の竹藪中の一段低い広場?、左側が大宝沼側・・・正面奥が堀か?・・・。