三郎兼続の日記

趣味の写真で山登り・旅行を主体にした日記
最近は山登りが少なく、城郭・巨木へ

茨城の下妻市の関城に行って来ました。

2024-03-17 06:35:34 | 城郭茨城3

2024年3月14日(木)に茨城の下妻市の関城に行って来ました、騰波ノ江駅から歩きました。

下妻市界隈の図 左側の上が関城 騰波ノ江駅ー大宝駅(大宝城)とは密接な南朝方の関係でした、下妻神社・光明寺(下側)もあります。

関城と大宝城は大宝沼(明治時代まで存在)で繋がった南朝方の同盟国だったのです、康永2年/興国4年11月(1343)共に北朝方の攻撃の前に落城しました。

騰波ノ江駅から歩きました、高台が切れた向こう側に島みたいに見えるのが関城・・・此処が大宝沼なのですネ、近くに砂沼がありますが此れは人口の溜池、大宝沼は逆に用水の役目が低下、大正2-9年(1913-20)に干拓され水田になったのです、色々変わるものですね。

大宝城指定区域の看板が・・・・?、正面が関城、東・南(こちら側)・西の三方が大宝沼に囲まれ北側は台地続きなので防御が必要となりますね。

関城通り・・・・関城の台地を南北に通る路。

少し上ると関親子の墓の手前左側に広がるやや低地の広場・・・その先は大宝沼の岸辺・・・。

関城城主の墓 関宗裕・宗政。

関城の案内図・・・下側の図の通り(関城通り)から上に右側へ回り込み回り込んで真ん中にでて戻りました、左側は竹藪の中に入りましたが民家なので立入しませんでした・・・遺構がありそうですが?。

関城は鎌倉時代関氏が築城、南北朝時代小田城を追われた南朝方の重臣北畠親房がこの城に逃げ込んだので北朝方の攻撃に会い2年間にわた戦の末落城・・・親子は討ち死、北畠親房は神皇正統記をこの城で完成、吉野(南朝方)に脱出。

関宗裕・宗政親子の墓・・・隣が結城直朝の墓?。

ちなみに北朝方は高師冬・・・・足利尊氏は京都です。

土塁内側に入り見させて頂きました・・・。

もう少し奥に・・・。

此処が関城の主郭部分・・・奥の向こう側は大宝沼。

土塁外側の堀跡・・・・当時は水堀だったのでしょうね。

減から堀を回り込んでみますね・・・・。

もう少し・・・・人工的な遺構が見えるので・・・・正面奥の方は民家の為立ち入りしませんので・・・後程此処へ出てきます。

関城通り・・・右側の民家方面へは行かない、奥の木の辺りが土塁・空堀、少し先左側へ行きます。

この先に行きますね。

坑道跡・・・奥の木々がある場所は八幡神社の曲輪。

戦はなかなか攻められなかったので、関城の城内まで穴(坑道)を掘る計画を実行したみたいですね、結果的に失敗したみたいですが、その穴の一部が発見。

此処がそうです。

ジグザグに掘り進んだ穴。

大宝沼の東側・・・八幡神社の曲輪脇。

八幡さま。

八幡神社。

神社境内の曲輪跡。

神社前の通り。

右側は土塁跡・・・・この先に先程の空堀へ出ます、図ではこの土塁の向こう側が堀ですね・・・・これでもう少し外側を見て廻り戻りますね。

これは西側の竹藪中の一段低い広場?、左側が大宝沼側・・・正面奥が堀か?・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


大宝城に行って来ました。

2024-01-09 10:57:08 | 城郭茨城3

2024年1月6日(土)茨城県下妻市の大宝城に行って来ました、此処も平将門伝説がありますね、大宝元年(701)創設の関東最古の八幡宮があり、戦勝祈願の為、平将門が度々参拝。

関東鉄道常総線の大宝駅・・・・大宝八幡宮の最寄り駅。

駅裏は現在は田圃?・・・・・昔は大宝沼が広がっていたのです。

駅からもメイン道路を見れば道路が上がっているのが解りますね、微高地が丸々大宝城なのですね。

大宝元年(701)関東最古の八幡さま・・・・大宝八幡宮・・・まだお正月お参りに来ていました。

参道をお参りの人が・・・・。

大宝八幡宮・・・お参りしました、お参り後右側へ行きました(お城巡りですから・・・)。

神社の横の門・・・・この脇裏右側は保育園。

神社脇の保育園横辺りから・・・・何となく城跡の漂う雰囲気が・・・、大宝城は南北朝時代の南朝方のお城跡ですからね(古いのです)。

土塁跡とみなしてよいのでしょう・・・。

本丸(神社境内)を出て振り返りますね・・・・やはり何となく城壁らしく見えますね。

道路脇から見上げますね・・・・。

やはり城壁ですよね、良く残っていましたね・・・・・下妻城では削平したのに神社のお蔭でしょうね?。

土塀下はやはり空堀(今は)ですね。

史蹟の看板が。

今ここは北側です、駅が西側・・・・この後東側南側にも行きますが・・・・当時は南側が地続きなのですね、城主下妻政泰は公国4年・康永2年(1343)北朝方の高師冬の攻撃を受けて落城討死。

北側・・・大宝沼が広がっていたのですね・・・・この対岸に関城(関宗裕(南朝方))がありますね。

駅前の道に行きますね・・・西方。

道路をふい帰ります、北側の端なのでしょう、右がアジサイ苑(アジサイがある広場・・・昔は船着き場でしょうかネ?)。

此処がアジサイ苑、右奥が神社・・・私は左側高台・・本丸から来ました。

多分・・・空堀(昔は沼地)・・・草が多くて解りずらいが・・・・窪地が・・。

窪地が切れた所から登りました・・・・台地の端。

見後な土塁が残っていますね、左側上が本丸・・・此処は犬走でしょうか?。

大宝城本丸・・・・正面向こうが八幡宮本殿の方。

東側から城外へ・・・・敵返不動尊へ。

左側が不動尊、右側が十一面観音堂、右横は古墳?との・・・今はお墓でしたが当時は物見台かな?。

不動尊から見た大宝城・・・沼地に浮かぶ軍艦みたいに見えたのでしょうね。

筑波山が目の前に・・・。

東側の横を歩き、搦め手(駅の反対側)を過ぎて南側の端へ出てきました、地続きな為、高い土塁での防御が今も見られますね。

大宝城大手門口・・・現在は大宝八幡宮への入り口。

結構な巨木が何本か見られました・・・・・下妻市周辺には巨木が見られるみたいなので今度は巨木巡りを・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


多賀谷城(下妻城)にいってきました。

2024-01-08 10:13:37 | 城郭茨城3

2024年1月6日(土)茨城県下妻市の多賀谷城に行って来ました、関東鉄道常総線の下妻駅そばです。

下妻駅の反対方向に渡るとある公園が多賀谷城址公園、この駅周辺は当時は沼地で周辺の微高地を連携した防御力のある、お城なのでしょう、後北条の猛攻にも耐えたのですからネ。

公園名も多賀谷城址公園・・・・昭和40年代の都市計画でそれまであった城郭の遺構を取り崩し埋め立てたそうなのです、わずかに遺構の欠片が周辺に?・・・・此処が多賀谷城本丸跡。

公園奥がわずかに高台に・・・・。

此処が本丸跡。

横の所に低地を埋め立てるために2m程高台は掘り下げた旨の説明が・・・。

多賀谷城(下妻城) 多賀谷氏家~7代147年間続いた豪族ですね、慶長5年(1600)7代の重経は佐竹氏と共に西軍に心を寄せて出陣しなかった為滅亡。

多賀谷城の縄張り図・・・沼地に囲まれた防御性の高いお城だったのですね、埼玉の忍城みたいだったのでしょうね・・・・これから行く大宝城も右上の方にありますね。

本丸から周りを見ます・・。

今は公園ですからネ・・。

忠魂碑。

公園の外側の道路を見ると廻が低地だったのが何となくわかりますネ。

本丸側から駅の反対側に戻り、側の高台へ・・・・・・。

城山稲荷神社・・・・。

神社脇が高台で保存?、この辺りは隠居曲輪の端っこだったのですかネ。

ほんの少しですが、土塁なのでしょうかネ・・・考えすぎかな。

城山稲荷神社。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


豊田城に行って来ました。

2024-01-07 11:29:09 | 城郭茨城3

2024年1月6日(土)に茨城県常総市の豊田城に行って来ました、併せて常総市地域交流センター(模擬天守)にも行って来ました。

関東鉄道常総線下館駅から南石下駅へ・・・この鉄道と真岡鉄道には昔の城跡が多数ありますからネ、利根川水系の川とそれに伴う河岸段丘の条件が城造りに適しているのでしょうね、駅から何となく斜めに進み常総バイパスへ・・・確かに団子屋さんの看板をありましたが、妙見八幡神社。

この櫓風の建物がその前に目に入りましたね・・・3個程目につきました、豊田城は古いお城で今は何もないのですが、常総市地域交流センター(豊田城・・模擬天守)があるので併せて櫓風建物を作っているのでしょうね。

バイパスの大通りを渡ると八間堀川・・・筑波山が・・・・。

八間堀川を渡り、しばらく小貝川方面へ進みますね、振り返ると見えました、此れが豊田城模擬天守。

大分進みます、本豊田八幡神社。

小貝川の土手に出てきました。

右下の道から土手に上がりました、豊田城の遺構は現在何もないのでしょうね、この辺り・・・もう一つ、この右下の方に農地開発の碑があり豊田城跡の碑がありますね。

これは小貝川の改修の碑、結局、豊田城は小貝川のこの辺りでしたが、川の氾濫にあい、今遺構は無いのでしょうね。

田圃脇にある土地改良の碑と豊田城址の碑、豊田氏は桓武平氏の流れをくむ520余年当地で栄えた名門ですが、12代善基の時この地に築城し栄えたが、21代政親・22代治親の代に至り、下妻城主多賀谷正経との攻防が繰り返され天正2年(1575)滅亡。

豊田城近くのお寺龍心寺。

少し離れた、長照寺。

長照寺の巨木?。

センダンの実がなっていましたね・・・。

常総市の看板 平将門と豊田城(センター)、歩いて豊田城を見ながら石下駅まで行きますね。

八間堀川の向妙見橋・・・この辺りは田圃で何もないので写真が撮りやすいですね。

段々ちかづきますね。

バイパスの大通りを渡り櫓風の脇から・・・・向こうにも櫓風建物が。

今日は当地では成人式みたいで当センターに若者が溢れかえっていました、近場からのお城?は撮れませんでしたね・・・少し歩いて石下駅へ・・・・そこから下妻駅まで行、天敵の多賀谷城を此れから散策しますね。