三郎兼続の日記

趣味の写真で山登り・旅行を主体にした日記
最近は山登りが少なく、城郭・巨木へ

山崎城に行って来ました(天目山)。

2021-04-17 12:48:29 | 城郭京都
2021年4月7日(水)にあの豊臣秀吉と明智光秀が戦った山崎の合戦部隊の山崎城(天王山270m)に行って来ました。

京都と大阪の境目京都府大山崎町、この地は桂川・宇治川・木津川が合流地点でしばし合戦の舞台になっている地点なのですね、最初明智光秀軍はこの山崎城と川の向こう側の男山城に陣を張っていたそうです、理由は解りませんが、上の方の淀古城・勝竜寺城へ撤退、すかさず秀吉軍が山崎城を奪ったとここと、天正10年(1582)本能寺の変直後秀吉中国大返しでの山崎の合戦です。

JR山崎駅から線路を渡ると山崎城登山口があります、宝積寺へ向かいますね。

山崎の合戦に勝利した秀吉はこの宝積寺を含む山崎城を築城、山崎城は詰めの城・・・平行して大阪城を築城天正12年(1584)には大阪城へ移り、城は廃城です・・・・天下を取るためのツナギの城ですね・・・まだ柴田勝家がいましたからネ。

これは宝積寺の豊臣秀吉が勝利記念に建てた一夜の塔、一夜城とか素早いのでしょうね?。

宝積寺です、この辺りでも高台ですからネお城は此処を中心に山崎城を詰めの城、境内右脇から山崎城本丸を目指しますね。

途中の見晴らし台です、大阪方面が見えます。

途中分岐点があります、帰りはこの路から下山しました・・・・急坂でしたね。

酒解神社鳥居と手前に旗立て松と脇に見晴らし台があります、旗は秀吉軍の千成ヒョウタンを立て味方の士気を高めたとか・・・神奈川県三増峠にもありますね・・・・・武田信玄が小田原攻めの時に行いましたね。

見晴らし台からみえる景色です、この見える場所で光秀対秀吉軍が激突したのです。

この図は当時の両軍の配置図・・・兵力差は圧倒的でしたからネ。

少し進むと分岐が左側へ17烈士の墓方面へ行きます、途中で合流します。

17烈士の墓です、元治元年(1864)幕末の長州藩による禁門の変で敗れた真木和泉守ら17名が最後を遂げたのです。

自玉手祭酒解神社(たまでよりまつりきたるさかとけ)と読みます・・・色々ある山ですね。

漸く、山頂下、お城らしき手前に来ました。

虎口から本丸を覗きます。

本丸です。

本丸から天守台方面・・・少し高い場所が天守台。

山頂本丸にある説明版。

山崎城縄張り図。

天守台・・・石垣がわずかに・・・天正12年(1584)廃城・・・利用されたくなかったのでしょうね。

本丸脇下の曲輪。

此れも本丸脇の腰曲輪から見た本丸天守方面・・・・・秀吉本気で築城?。

本丸脇下にある水の手井戸。

先程の分岐がわを下り此れから、勝竜寺城の長岡京へ。

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